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2025年8月 日本-宮城

青嶺台キャンパス近くのアパートの一室。

窓の外では、遠く蝉の声がかすかに波打っていた。

午後の陽がカーテンの隙間から射し込み、薄い光の帯が畳の上をゆっくりと移動している。


ユキは、佐藤の布団の脇に横たわっていた。

呼吸は浅く、目は閉じたまま。白い毛並みはところどころ黄ばみ、細い胸がわずかに上下していた。

16歳のラブラドールにしては、それでも穏やかな顔だった。


佐藤は、床に膝をついてその顔を覗き込んだ。


「ユキ……大丈夫か? ユキ……」


震える声に応えるように、ユキの尻尾が一度だけ、かすかに動いた。

その動きが、佐藤の胸の奥に一瞬小さな希望を灯した。


だが、それきりだった。

尻尾は静止し、胸の動きも止まった。

佐藤は耳を近づけ、鼻先に手をかざす。

……息は、ない。

心臓の鼓動も、もう感じられなかった。


「……ユキ……っ」


佐藤は両手をユキの胸に添え、心臓マッサージを始めた。

肋骨の下に伝わる硬さと、押し返すようなわずかな弾力。

その感触が、時間と共に失われていくのがわかった。

一定のリズムで、焦りを押し殺すように圧をかける。


「ユキ、……頼む……」


声は掠れ、手のひらが汗で滑る。

それでも、押す。

けれどユキの身体は、ただ静かに重く、戻ることのない温もりだけを残して沈んでいった。


佐藤は手を止めた。

額に汗が滲み、肩が小刻みに震えていた。

ユキの顔を両手で包み込み、そのまま動けずにいた。


静けさの中で、時間だけがゆっくりと流れていく。

そして、頬を伝って涙がこぼれた。

一粒、また一粒。

白い毛並みに落ち、跡を残すように染みていった。


「……ありがとう、ユキ」


掠れた声は、かろうじて言葉の形を保っていた。

崩れそうな想いを、どうにか結んだような声だった。


「お前がいてくれたから……僕は、ここまで来られた」


震災で母と兄を失い、何もかもが途切れたあの日。

瓦礫の向こうで、同じように飼い主を探していたユキを見つけた。

互いに居場所を失って、ただ立ち尽くすしかなかった二つの影。


それからの年月、ユキはずっと寄り添ってくれた。

寂しくて泣いた夜も、隣に座って手を舐めてくれた。

どれほど救われたか分からない。


「お前も、寂しかったはずなのにな……」


佐藤はユキの頭を撫でた。

指先に伝わる毛並みは、昔より細く、柔らかい。


「ほんとに……ありがとう」


夏の光がカーテンの隙間から差し込み、

ユキの毛に淡く反射している。


その光景が、どこか懐かしい夏の日の記憶と重なって見えた。

あの日からずっと、二人は一緒にここまで生きてきた。


しばらく経ってから、佐藤はスマートフォンを手に取り、画面を見つめた。

なかなか番号を押せずにいたが、やがて通話を開始する。


「……はい、あの……犬の火葬をお願いしたくて……」


「ラブラドールで、十六歳です。今日の正午過ぎに亡くなりました」


「……はい、佐藤と申します。明日、伺えます」


通話を終えると、佐藤は一度だけ目を閉じた。


動物霊園に事情を話すと、明日の午後の火葬に空きがあるという。佐藤は、霊園が提携しているペットの搬送業者を紹介され、その日の夕方にはユキの遺体を預けることとなった。


佐藤は続けて大学の研究室にも電話をした。


「……佐藤です。すみません、急で……」


「ユキが……今日、亡くなりました」


「はい……すいません。明日、火葬の予定で……お休みをいただきます」


電話を切ると、佐藤はスマートフォンを机の上に置いた。


ユキは、夕方、搬送車に乗せられていった。

毛布に包まれたまま、静かに運ばれていく姿を、佐藤は玄関先で見送った。

車のドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。

その音が消えたあと、部屋の中は、音のない空気で満たされた。


最近、ユキは体調を崩していた。

食欲が落ち、歩くのもゆっくりになっていた。

獣医には「年齢的にはいつ何があってもおかしくありません」と言われていた。

佐藤も、頭では分かっていた。

十六歳。ラブラドールとしては、十分すぎるほど長く生きてくれた。

それでも、目の前からいなくなるということは、想像よりずっと重かった。


食事を作る気になれず、冷蔵庫の前に立って、何も取り出さないまま扉を閉じた。

テレビもつけなかった。

スマートフォンの通知は、何度か鳴ったが、見なかった。


夜になって、布団に入る。

目を閉じても、元気だった頃のユキの姿が自然と頭に浮かんでくる。


佐藤は、何度も寝返りを打った。

時計の針が進む音だけが、耳に残った。


結局その夜、佐藤はほとんど眠れなかった。


翌日、佐藤は、予定より少し早く動物霊園に着いた。

霊園の受付棟は、木の香りが残る静かな建物だった。

空は薄曇りで、風が少しだけ吹いている。


受付に声をかけると、奥から職員が現れた。

五十代ほどの男性で、制服のポロシャツの上に薄いカーディガンを羽織っていた。


佐藤の顔を見て、職員は一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと頭を下げた。


「ご準備できてます。……よければ、最後に、会ってあげてください」


佐藤は黙って頷いた。

職員はそれ以上何も言わず、控室の方へと案内した。


廊下を歩く間、足音だけが響いていた。

控室の扉が開くと、低い台の上に、毛布に包まれたユキが静かに横たわっていた。


佐藤は、ゆっくりと歩み寄る。

そして、リュックから折りたたんだタオルを取り出す。


「ほら、ユキ、お前がいつも使ってた枕、持ってきたぞ」


佐藤は、タオルをそっとユキの頭の横に添えた。

それから、ユキの身体に手を伸ばし、毛布越しに優しく撫でた。

頭から背中へ、ゆっくりと、何度か。


やがて佐藤は手を合わせ、目を閉じた。


「ありがとう、ユキ。……おやすみ。……さようなら」


言葉は小さく、空気に溶けるようだった。


佐藤は静かに立ち上がり、控えていた職員の方へ向き直る。


「お願いします」


職員は黙って頷き、ゆっくりとユキの方へ歩み寄った。そして、静かに言った。


「火葬には、だいたい一時間ほどかかります。このまま控え室の方でお待ちください」


佐藤は頷き、窓際の椅子に腰を下ろした。目の前には庭の植え込みと、その向こうに火葬棟の煙突が見えた。


時間の感覚は、あまりなかった。

時計も確認しなかった。

ただ、ぼんやりと外を眺めていた。


風が少し吹いて、木の葉が揺れた。

やがて、煙突から細く白い煙が立ち上がるのが見えた。


佐藤は、無言でそれを見つめた。

ユキが、天国に向かっている。

そんな感覚が、ふと胸に浮かんだ。


しばらくして、控え室の扉がノックされた。

職員が静かに頭を下げる。


「……お待たせしました。ご案内します」


佐藤は立ち上がり、職員のあとに続いて火葬棟の奥へと歩いた。

台の上には、白い骨壺が布に包まれて置かれていた。


そっと両手で抱き上げる。

驚くほど軽かった。けれど、その軽さが胸にずしりと響いた。


佐藤は、深く頭を下げた。

職員も静かに礼を返した。


佐藤は、白い布に包まれた骨壷をリュックの底にそっと収めた。

そして、揺れないように、タオルで周囲を固定する。


霊園を出て、最寄りの駅まで歩く。

午後の光は傾きかけていて、風が少し冷たく感じられた。


駅のホームは、通学帰りの学生たちで賑わっている。

佐藤は端のベンチに腰を下ろし、リュックを膝の上に置いた。


しばらくすると隣のベンチに、制服姿の女子高生が二人座った。

スマートフォンを見ながら、声をひそめて話している。


「ねえねえ、またクマだってよ」


「ほんと? 毎日誰か襲われてるニュース流れてるよね」


「山だけじゃなくて、住宅街にも出てきてるって」


佐藤は、彼女たちの会話をぼんやりと聞いていた。

耳に入ってくる言葉が、頭の中にゆっくり沈んでいく。


そういえば、確かに今年はクマに襲われたって話が、やたらと多い気がする。

なんでだろう。


そういえば、生物資源学部の三枝教授は動物行動学に精通してるんだったっけ。

今度、出会ったら理由を聞いてみようかな....


佐藤がぼんやりと考えていると電車がホームに滑り込んできた。

佐藤は、ゆっくりと立ち上がり、電車に乗った。

バッグを大事に抱え、空いていた座席に腰を下ろす。


動き始めた電車の窓の外を流れる景色は、夕暮れの色に染まり始めていた。住宅街の屋根、コンビニの灯り、歩道を急ぐ人々。佐藤はそれを目で追いながら、長い一日の終わりを感じていた。


最寄り駅に着くと改札を抜け、歩き慣れたアパートまでの道を歩く。

部屋に戻ると、灯りをつけて靴を脱ぎ、リュックをそっと床に置いた。

中から骨壺を取り出し、ユキがいつも寝ていた場所にタオルを敷いて、その上に置く。


佐藤はしばらく黙って立っていた。


ユキは、もういない。


けれど、ここにいる。

骨壷を見ながらそう自分に言い聞かせ、灯りを落とした。


こうして佐藤の長い一日がやっと終わった。

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