2024年6月 日本-富山
村瀬綾香は、高志製薬株式会社の白い研究棟の一角で、新しい職場での初めての朝を迎えていた。
研究室には、電子音と培養装置の低い駆動音だけが静かに響いている。
白衣の袖に名札を留めながら、彼女はそっと息を整えた。
「おはようございます。村瀬綾香です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
周囲の研究員たちが、穏やかに挨拶を返してくれる。
誰も探るような目を向けず、誰も余計なことを聞かない。
それだけで、綾香の胸の奥に少しだけ安堵が広がった。
彼女に与えられたテーマは、抗ウイルス系新薬の基礎研究。
明確で、過不足のない任務だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、そんな彼女の人生は、今から三年前――2021年の春に、大きく軌道を外れていた。
当時、ウイルス研究分野で名が知られていた彼女は、群馬県にある国の感染症研究機関に所属し、SARSウイルスと新型コロナウイルスの遺伝情報を比較するプロジェクトに携わっていた。
その目的は、両ウイルスの共通点や相違点を明らかにし、感染力や発症メカニズムの理解を深めることだった。
ある日、新型コロナウイルスのゲノム配列を解析していた彼女は、どうしても説明のつかない“違和感”に突き当たった。
それは、ウイルスの表面を構成するスパイクタンパク質――特に「受容体結合部位」と呼ばれる領域に関するものだった。
SARSウイルスには見られない構造上の変化がそこにあり、それが新型コロナウイルスの感染効率を異常に高めている可能性があった。
もちろん、自然界の突然変異によって同様の変化が起こることは、理論上は否定できない。
だが彼女には、その変化があまりにも“都合がよすぎる”ように思えた。
塩基配列の並び方、変異の位置、アミノ酸の置換パターン……
どれを見ても、まるで誰かが目的を持って設計したかのような整合性があった。
「まさか、そんなはずは……」
彼女は何度もデータを見直し、別の解析ソフトでも検証を重ねた。
それでも結果は変わらなかった。
確証はない。
けれど、科学者として、この“違和感”を見過ごすことはできなかった。
彼女は、慎重に報告書をまとめ、解析過程を細かく記した。
そして、論文草稿を作成し、学会への投稿準備に入った。
——その数日後からだった。
同僚たちの態度が、どこかよそよそしくなった。
上司は目を合わせなくなり、海外の共同研究者からのメールも突然途絶えた。
上司からは「表現をもっと慎重に」と言われ、会議への出席依頼も減った。
更には、データベースのアクセス権が突然制限され、研究室の鍵も更新されていた。
事情を確認しても誰も理由を説明してくれなかった。
あからさまな研究の妨害。
だが、それでも、彼女は諦めなかった。
別の角度からデータを見直し、外部の研究者に匿名で意見を求めたりもした。
返信は少なかったが、いくつかの反応は、彼女の違和感が独りよがりではないことを示していた。
しかし、結局、その後も彼女を取り巻く状況は好転しなかった。
ある日、彼女の研究室にあったサンプルが「保管期限切れ」として処分され、次の日には予定されていた実験機器の使用枠が突然取り消された。
彼女はもう何も出来なくなった。
彼女は、大きな圧力が背後で動いていることを感じていた。
だが、その圧力がどこからのものなのか、何を恐れているものなのか、確かなことは何もわからなかった。
やがて、プロジェクトそのものが「予算の都合により終了」と発表された。
そして、その数ヶ月後には、研究所は組織再編の名のもとに閉鎖された。
その結果、彼女も退職を余儀なくされた。
積み重ねたデータも、築いた人脈も、すべてが一瞬で消えた。
“真実”という言葉が、急に遠く感じられた。
真実を探求する事が科学の目的であるはずなのに、真実よりも現実の方が勝る事を今回痛感した。
この一件以来、彼女はしばらく働く気になれなかった。
研究からも人間関係からも距離を置き、荷物を少なくして、各地を転々とした。
行き先は決めず、気の向くままに列車に乗り、海の近くの小さな町にたどり着いた。
そこでは、朝はゆっくり起きて、午後は浜辺を歩き、夜は静かな空を見上げた。
潮の香りと風の音だけが、彼女の時間を満たしていた。
本来の彼女は、明るくて、人と話すのが好きで、研究室でもよく笑っていた。
冗談を言っては周囲を和ませ、後輩の相談にも気軽に乗っていた。
けれどその頃は、笑うことすら怖かった。
誰かと目を合わせるたびに、過去の記憶がよぎった。
あの研究室で、何も言えずに立ち尽くしていた自分が蘇る。
それでも、海の光は優しく、星の瞬きは遠くて静かだった。
彼女は、少しずつ、元気を取り戻していった。
誰にも責められず、誰にも期待されない日々。
それは、少し寂しくもあったが、大きな救いでもあった。
そして今、民間の製薬会社で、彼女は再び白衣を着ている。
彼女は、試薬棚を開けながら、ふと口元に微かな笑みを浮かべた。
春の名残を感じさせる柔らかな光が、研究室に差し込んでいた。
あの暗い研究室の日々が、遠い昔のことのように思えた。




