2023年10月 UAE-ドバイ
ドバイ、パーム・ジュメイラの沖合。
人工島の最先端に、海上に浮かぶガラスのドームがあった。
その夜、限られた者だけが招かれる秘密の晩餐会が、静かに幕を開けようとしていた。
招待状は存在しない。
参加するには、誰かからの紹介か、顔の見えない仲介人から来る一通の連絡のみ。
ここでは、倫理などは何の意味も持たない。
主催者に選ばれるのは、顔と財力、そして沈黙を守れる者だけ。
出席者の多くは、名誉ではなく、己の欲望に仕える者たちだった。
ドームの内側は、金と硝子で作られた檻のようになっていた。
海面を照らす無数のライトが、波の反射で天井に揺れ、シャンパンの泡が微かに光を散らす。
絹のドレスが床を滑り、低く笑う声がガラスにこだました。
この夜、取引の対象となったのは――
ウクライナ出身の兄妹だった。
戦火の中で家も親も失い、流浪の果てに中東へと辿り着いた彼らは、いま、この海上のオークションの舞台に立たされている。
兄の名はミハイル・コルネンコ、十三歳。
妹の名はアリーナ・コルネンコ、八歳。
アリーナは兄の背に身を隠し、小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめていた。
借り物のドレスは肩が合わず、靴は大人用を詰めて履かされている。
恐怖で震え、声にならない嗚咽だけが、喉の奥でこぼれた。
ミハイルは微動だにせず、妹の前に立ちはだかっていた。
その瞳は氷のように冷たく、光を拒んでいた。
戦争が奪ったものは家族や故郷だけではない――彼の魂さえも。
けれど、たった一つ残った妹だけはもう誰にも渡さない。
そんな覚悟だけが、彼の中にまだ生きているようだった。
周囲では、買い手たちがすでに値踏みを始めていた。
男たちは言葉少なに札を掲げ、
数字が、血肉の代わりに飛び交う。
その合間に、笑い声も混じる。
値札の裏に、貼りついたようなねっとりとした笑い。
誰かが妹の涙を見て「これは希少だ」と囁き、
それに応じて、別の男が喉の奥で笑った。
ある者は「素材」として兄を見、
ある者は「飾り」として妹を見た。
目に映るのは人ではなく、価値の単位だけ。
誰一人として彼らを“人間”として見ていなかった。
笑い声だけが、場の温度を歪ませる。
彼らの視線は、まるで冷たい測量器のようだった。
その喧騒の隙間に、ひときわ静かな男がいた。
ノア・グリフィン。
アメリカ政府内の一部有力者たちが密かに資金を投じて運用する、非公式の傭兵部隊――《セクション・ダグラス》。
ノアはその部隊の隊長である。
今回は新たな隊員のスカウト役としてこの場に密かに派遣されていた。
身寄りのない者、国籍を持たない者。
そうした存在から優秀な人材を探しだし、優秀な兵士として育てあげる。
彼に任された大事な仕事の一つだった。
誰をスカウトするかはノアに一任されている。
その信頼に値するだけの実績も待ち合わせている男であった。
彼はかつて、国家直属の特殊部隊に所属していた。
感情を排した冷静な判断力と、極限状況下での鋭い観察眼――それが彼の最大の武器だった。
だがその彼が、目の前のミハイルの冷たい瞳を見た瞬間、底知れぬ深淵に引き込まれるような感覚に襲われた。
⸻
競りが始まる。
通訳が各国語でささやき、数字が飛び交う。
札は無言で掲げられ、値が跳ね上がるたびに、買い手たちの目が光った。
兄妹の身体を舐めるように見ながら、彼らは短く笑い、隣の者と値踏みを囁き合う。
競り合う相手は三人いた。
東欧の臓器ルートを持つ男。
中東の娯楽施設を運営する富豪。
アジアの密輸組織の幹部。
それぞれが、兄妹を別々に引き離すつもりで札を上げていた。
ノアは、最初の数手を見送った。
札が上がるたびに、彼の瞳だけが動いた。
冷静に、静かに、値の流れを測っていた。
やがて、兄妹の価格が分岐しかけた瞬間、ノアが札を掲げた。
一度。
そして、もう一度。
競り合う相手が食いつくたびに、ノアは静かに応じた。
通訳が何度も数字を確認し、場がざわめく。
兄妹“セット”での落札。
しかも、最終的な札は、他の誰よりも高かった。
ノアは、その日、ミハイルとアリーナ――二人だけに、依頼主から託された資金のすべてを使い切った。
他の候補には一切目もくれず、ただ、兄妹にすべてを賭けた。
理由を問う者はいなかった。
そして、この夜の取引は、いかなる記録にも残らない。
翌朝には、兄妹は砂漠にいた。
アメリカ西部、地図に載らない訓練施設。
無機質なコンクリートの建物が、荒れた大地の上に並んでいる。
ノア・グリフィンは、無言で兄妹を施設に案内した。
廊下には空調の音だけが流れ、消毒液の匂いがした。
アリーナは兄の手を強く握り、ミハイルは前だけを見て歩いた。
ノアは立ち止まり、ミハイルの前に向き直る。
「お前は、いずれ銃を持って戦場で戦うことになる。
それはもう決まってる。
だが――何のために戦うかは、お前自身が決めろ」
ミハイルは何も答えなかった。
冷たい瞳は揺らぐ事がなく、ただ、妹の手を握り続けていた。
ノアは短く息を吐き、視線を横へ向けた。
「当面、お前たちの面倒は俺が見る。
それと言っておくが、この付近はピューマやコヨーテが出る。勝手に施設外に出るのは危ないからな。
あと、身の回りのことは――彼女がやってくれる」
そこに立っていたのは、一人の女性。
白いシャツに淡いグレーのカーディガン。
肩までの髪が光を受けて柔らかく揺れる。
エリザ・グリフィン。ノアの姉。
彼女はしゃがみ、アリーナの手を包む。
そして、ミハイルの目をまっすぐ見つめて言った。
「怖かったよね。でももう大丈夫。
今日からは、私が一緒にいるから。」
その声は、兄妹が初めて聞いた“優しい英語”だった。
アリーナは小さく頷き、ミハイルは沈黙のまま目を伏せた。
外では、砂嵐が音を立てていた。
兄妹の新しい人生は、この砂漠の中の施設で静かに始まった。
「くまがあばれてテラフォーミング!」をもっと上手く書きたかったなと前からずっと思ってて、この度セルフリメイクする事に決めました。
ただ、並行して「40光年」も書いてますので、リメイクの方は、更新頻度が遅いかもしれません。ご了承願います。
あと、もし各作品、ブックマークや、コメント等頂けると当方としても大変励みになります。よろしくお願いいたします。




