独りよがりな善意のために、世界で一番大切な友達を失いかけた公爵令息の話[BL]
ルシウスはマーロン帝国一の貴族、アノルウス公爵家の嫡男だ。
代々宰相を輩出し、皇帝の信頼厚いアノルウス一族の彼は、貴族としての責務を寝物語に聞かされて育った。
物心つく頃から、上に立つものとしての心構えを教えこまれ、帝国一の貴族として恥じない振る舞いを叩き込まれている。
「アノルウス公爵家の者として……」
「マーロン帝国の未来を担う者として……」
耳にタコが出来そうなほど同じ台詞を言われ続けながら、ルシウスは育った。
並大抵の人間なら押し潰されそうな重圧と期待の中で、けれど根が真面目で素直で、そして極めて優秀だったことが幸いしたのか、ルシウス捻くれることも腐ることもなく成長した。
とても真面目で賢く美しく、アノルウス公爵家嫡子として相応しい少年に。
***
「クラウドよ。お前のところのルシウスは、まだ八歳なのに随分と立派と噂だな。羨ましいぞ」
「勿体無いお言葉で」
夜深い皇帝の執務室。
減らない書類の海の中、帝国の主たる皇帝陛下は、暫しの無言の後でぼんやりと呟いた。
「……うん、そうだ。お前の家なら安心だ、うちの末娘を嫁がせよう」
「…………それはまた、ずいぶんと気の早い。皇女殿下はまだ六歳では?」
絶句したルシウスの父であり、帝国の宰相を務めるクラウドに、皇帝はあっさりと「青田買いだ」と言い放った。
「次世代を担う人材は、早めに囲い込んでおきたい」
「はぁ。でも、流石に早すぎるのでは?他の殿下方は、たいてい十歳頃に婚約が内定され、十五歳の成人の儀とともに正式発表となり、十八で学園を卒業なさるのと同時に婚礼、の流れだったかと」
顎に手を当て、独り言のように呟きながら、疑問を呈するクラウドに、皇帝はカッと目を見開いて叫んだ。
「分かっておるわ!だが……うちの脳内花畑な次男坊の如く留学先で色仕掛けにあってよその国に居着かれたり、三男の筋肉馬鹿のように剣を片手にありもしない伝説を追いかけて城を飛び出したり、夢みがちな長女のように下級貴族の息子と駆け落ちを企てられたり、次女のように気づいたら勝手に修道女になった上に作家になられていたりしては敵わん!……うちで長男と末娘だけなんだ、まともなのは!今のうちに鎖をつけておかねば!」
帝国の主としてはあまりにも悲痛かつ痛々しい絶叫に、クラウドは思わずそっと袖で目元を隠した。
自らの仕える皇帝陛下のあまりにも気の毒な様に、クラウドは優しく労りの声をかけた。
「……お疲れなのですね、陛下」
「あぁ、とてもな。……同情するのならば、お前の秘蔵っ子を頼むからうちに寄越してくれ」
「くっ、おいたわしい……!」
己の不肖の子供たちの後始末に疲れ果てた皇帝のやつれた横顔に、クラウドは嗚咽を堪える。
幼い頃に皇帝の学友として選ばれ、かれこれ皇帝とは数十年の付き合いであるクラウドは、この皇帝が昔から厄介事を引き寄せてしまう哀れな苦労性であることを良く理解していた。
本人は至極真っ当で、良識的で、善政を敷く賢君であるのに、なかなか人に恵まれないのだ。
それは、この皇帝の唯一にして最大の弱みであった。
「御意にございます。我が息子はきっと皇女殿下のよき夫となり、そして、陛下と皇太子殿下の忠実な臣下となりましょう……」
「……ありがとう、我が友よ。これでちょっとは気が晴れそうだ……」
遠い目で皇帝が窓の外を眺めた。
細い月が、嫌味な女の笑みのように冷たく光っている。
「……よし、この山だけは片付けるぞ」
「はい、頑張りましょう、陛下」
今日の仕事はまだ終わりそうもなかった。
政務に疲れた皇帝が、勢いで末娘との婚約を決めてしまうくらい、ルシウスは大層素晴らしい少年だった。
そして皇帝の早急すぎるとも言える迅速な決断はおそらく非常に適切だった。
何しろ、娘を持つ帝国貴族は皆が皆、ルシウスを狙っていると言っても過言ではないほどであったから。
「えっ、アノルウスの後嗣が婚約!?」
ルシウス婚約、の噂は大きな衝撃とともに、一瞬で社交界を駆け巡った。
「なんてことだ、アノルウスと縁続きになるチャンスが……!」
「アノルウスに男児誕生を聞いてから、うちは娘を三人も作ったのに!」
「相手はどこの家だ……!」
「……皇帝陛下かっ、クラウド殿とこっそり決めたんだな!?」
「くそっ、相変わらず狡いぞ!」
ルシウスと皇帝の末娘との婚約が公表されると、多くの者がため息をついた。
そして、同時にこう言った。
「絶対にアノルウスはこれからも繁栄するに決まってる」
「あんな優秀な子が次の当主なのだからな!」
と。
……さて。
しかし、そんな完全無欠のルシウスであったが、実はひとつだけ、貴族社会ではとても口にできない秘密があった。
それは、下町に、大好きなお友達がいることだ。
***
ルシウスの婚約が決まる、少し前のこと。
「あら、ルシウス。そんな格好をして、今日はどちらにお出かけ?」
「あ、おばあさま」
公爵家の広々とした庭園を横切っていた途中、ルシウスは祖母に声をかけられた。
公爵家嫡男らしからぬ粗末な、けれど平民からすればそれなりに上質な服に身を包んだルシウスは、にっこりと笑顔を返す。
「今日は帝都の民の様子を、中から見て来ようと思うんです。屋敷の中にいては見えぬもの、分からぬものも多いだろうと思いまして」
そつのない返事をする孫を見ながら、祖母は意外そうに瞬いた後に、柔らかく相好を崩した。
「おやまぁ。ルシウスは子供なのにびっくりするほど真面目で、ちっとも面白みのない堅物だとばかり思っていたけれど、そうでもないのねぇ」
「え?えっと、従僕のノーメンと一緒ですから、ご心配なく。無茶なことはいたしません。父上にも許可は頂いておりますし」
褒められているのか貶されているのか、はたまた叱られているのか分からない祖母の言葉に、ルシウスは惑いながらも礼儀正しく説明を続ける。
しかし、祖母はルシウスの話を「はいはい」と聞き流すと、楽しげに含み笑った。
「いいのよ。分かっているわ。男の子には冒険が必要だもの」
「はぁ」
一人で何事か納得している様子の祖母に、ルシウスは反論を避ける。
年長者の言うことには頷いておくべきだと判断したのだ。
「ルシウスは、クラウドとよく似ているわねぇ。あの子もよく家を抜け出して、帝都を走り回っていたのよ。懐かしいわ」
おほほ、と上品に笑う祖母に、ルシウスはキョトンと首を傾げた。
「走り回る?お父様が?」
「ええ、そうよ。今のあなたくらいの頃かしら。下町でお友達を見つけてねぇ。楽しそうにしていたわ」
遠い昔を思い出すように話す祖母を、ルシウスは不思議な気持ちで眺めた。
「友達、とは、学友のことですか?それを、見つける……?」
友達を見つける、というのは、不思議な言い方だ。
学友というのは、身分と家にふさわしい相手が用意されているものではないのだろうか?
ルシウスは六歳の時に何人かの少年達と引き合わされた。
両親たちに引き合わされた彼らとは、十分良好な関係を築けていると思う。
二年後、十歳になったら、ルシウスは皇太子の学友になることも決まっている。
友達……学友というのは、そういうものではなかっただろうか?
混乱しているルシウスを見て、祖母は「うふふ」と悪戯っぽく唇を尖らせて、パチリとウインクをした。
「あなたも、互いの身分や背景が無関係に感じられるような、生涯のお友達が出来るといいわね。お父様にとっての、マルクスのように、ね」
「マルクス……?」
突然話の中に挙げられた、公爵家を取り仕切る辣腕執事の名に、ルシウスが戸惑っていると、祖母は少女のように瞳を輝かせて、晴れやかに笑った。
「おほほ、きっと運命の出会いがあなたを待っているわ。……はぁ、若いって素敵ねぇ!夢ぇ~のように~美しい~あの朝の出逢い~ラララ~」
陽気な祖母は、至極楽しげに大流行中の恋愛歌劇の劇中歌を口ずさみながら去っていった。
困惑したままのルシウスを残して。
「……え、何あれ?予言?」
いつもながら変わり者の祖母の言葉に当惑しつつも、ルシウスは一つ頭を振って気持ちを切り替えた。
今からルシウスは、帝国筆頭貴族の嫡男として、平民の暮らしを理解するための『勉強』に向かうのだ。
庭の片隅で祖母の謎かけに戸惑い、固まっているわけにはいかない。
「ふぅ……よし」
一つ大きく息を吐いて、気を引き締める。
貴族たるもの、たとえどれほど動揺しても、内面の感情は表に出してはならない。
感情を制御し、常に沈着冷静を保たねばならないのだから。
「何はともあれ、行くか」
ルシウスは、祖母の言葉を頭から追い払い、従僕とともに街に出かけた。
その日は、初めて帝都に出た子供とは思えぬ、弁えた態度で一帯を見て回り、平民たちの暮らしへに見識を深め、……そして、とりたてて印象深い出来事もなく屋敷に戻った。
夕食の席で、平然として落ち着いた様子のルシウスに、祖母は残念そうな顔をしていたので、それを見て「おばあさまのご期待には添えなかったらしい」と、ルシウスは少しだけ笑った。
「おばあさまは、何を仰っていたのか……結局よくわからないなぁ」
寝る前にあくび混じりで首を傾げてから、ルシウスは考えることをやめた。
「ま、いっか」
答えが出ないことをいくら考えても、時間の無駄なのだから。
しかし、その少し後。
ルシウスが、祖母の予言をすっかり忘れた頃。
下町の片隅の料理店のゴミ箱の横で、ルシウスは人生を変える運命の出会いを果たすのである。
己の身一つで厳しい世界を生き抜こうとする、人に懐かない野良猫のような、鮮やかな目をした少年と。
***
「君、そんなもの食べたらお腹を壊すよ?」
路地裏で生ゴミを漁っている少年を見つけ、ルシウスは思わず声をかけた。
自分と同じくらいの背丈の子供が、腐った生肉の切れ端を拾って食べようとしていたからだ。
腹を下してからでは遅いと忠告したが、少年は一瞬手を止めたものの、振り返りもせず、ルシウスの声を無視した。
(……聞こえていないのかな?)
耳が悪いのかもしれないと、もう一歩近づき、少し大きな声で話し掛けた。
「体に悪いから、食べない方がいいよ!」
「……チッ」
明らかな舌打ち。
敢えて無視しているらしい少年に、ルシウスは眉を顰めた。
(聴こえているのならば、返事くらいすればいいのに)
別に、謁見の場のように、平伏して話せというつもりはない。
平民の格好をしているルシウスを、貴族として敬わないからといって機嫌を損ねるつもりもない。
今のルシウスを見て、名門貴族の嫡子だと見抜くのはほとんど不可能だ。
誰もがルシウスを「ちょっと裕福な家の平民の子」だと思って対応するだろうし、そのようにして人々の実際の暮らしぶりを知ることが、ルシウスの目的でもある。
貴族として暮らしているだけでは見えないものを見るための、城下視察なのだから。
市場、料理屋、教会、学校、孤児院。
父親とともに視察に向かったことのある場所もあったが、「平民の少年」として訪れると違った印象を受けた。
何より人々の対応がまるで違うのだ。
気軽に話しかけてくる店主、注文を増やせと絡んでくる店員、ありふれた内容を自慢げに説教する若い神父、面倒くさそうに授業をする高圧的な教師、少額の寄付金でも目を輝かせて捧げ持つ孤児院長。
公爵家令息のルシウスの前で取り繕われていた素顔が晒け出され、ルシウスはこれまで経験のないような粗雑な、あるいは軽んじた対応をされた。
けれどルシウスが腹を立てることはなかった。
ただ「面白い」と思った。
ルシウスにとって平民達から受ける対応の全てが新鮮で、興味深く、愉快だったのだ。
けれど、身分など関係なく、少年の態度はよろしくないと感じられた。
彼は、声をかけた相手を振り返ることすらしていない。
それは非常に礼儀知らずな行動だと感じたのだ。
反論するならともかく、完全な無視、なのだから。
(なんて失礼なんだろう)
自分は心配して、教えてあげようとしているのに。
善意からの言葉を無視する少年に焦れて、ルシウスは悲しみと苛立ちを覚えた。
「……ねぇ、きみ」
けれど、更に言葉を重ねようを口を開いた時、ルシウスはそっと肩を叩かれた。
「……ルシウス様」
無言で横に控えていたノーメンが、ルシウスを嗜めるように名を呼んだ。
明らかに浮浪児とわかる風体の子供に、これ以上公爵家の大事な嫡男を近づけたくはなかったのだろう。
逆上した浮浪児が何をするか分からない。
ノーメンからすれば簡単に押さえ込める相手ではあったが、騒ぎを起こすのは避けた方が良いのだから。
「あの少年は、聞こえていないようです。もう行きましょう」
「でも、あんなお肉食べたら、絶対お腹を壊してしまうよ」
「ですが……」
眉を顰めて訴えるルシウスに、ノーメンは困ったように口籠もる。
ルシウスの言葉が純白の正義感から発されているものだからこそ、対応に悩んだ。
けれど、ノーメンがルシウスを説得するために口を開くよりも先に、うんざりした怒り混じりの声が投げ返された。
「けっ、うるっせぇな!」
振り向いた少年は、ルシウスと同じくらいの年齢と思われた。けれどその瞳は幼さを感じさせず、爛々と輝いて苛烈な光を浮かべている。
「善人面してうざってぇんだよ!」
「善人面なんて……」
「してるだろーがよ!……無視してやってるうちに、とっととどっかに消えやがれ!」
初めて浴びたむき出しの敵意。
それは、心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
「俺らはこういうモン食って生きてんだ、黙ってろ!」
汚らしい言葉でルドルフの心を撃ち抜き、凶暴な野良猫のような少年は威嚇するように吐き捨てた。
「でも、腐りかけの、生肉なんて……」
「うるせーよ」
少年の怒声にわずかばかりたじろぎながらも、ルシウスは言葉を重ねようとした。けれど少年は鬱陶しそうにルシウスを遮る。
「いつもイイモンばっかり食ってる、あんたみたいなお坊ちゃんなら、そうかもしんねぇけどな?泥とゴミの中で生きてる俺らはそんなヤワな腹してねぇんだよ」
うんざりとため息をついて、少年は再びルシウスに背を向ける。
もう話すことはないと言わんばかりの態度に、ルシウスはずきりと胸が痛んだ。
ルシウスなど、会話をする価値がないと宣言されたように感じたのだ。
もう一度こちらに振り向いて欲しくて、ルシウスは諦め悪く、同じような台詞を繰り返した。
「でも、お腹が悪くなってしまうよ……それに、ゴミ箱から、なんて……」
「意地汚い犬みたい、ってか?そんなもんだよ」
「犬って……君は、人間じゃないか」
卑下する意図すらなく、単なる事実のように少年が口にした言葉に、ルシウスは傷ついて唇を噛む。
国で最も栄えた帝都にすら、残飯を漁り飢えた犬のように暮らす臣民がいるということに。
これは貴族の怠慢だ、と感じたルシウスは、ひどく落ち込んだ。
「はぁー、食うのに困ったことのねぇ奴にはピンとこねぇのかもしれねーけどな、人間ってのは食わなきゃ死ぬんだ。黙ってろ。ヒトのことなんか放っとけよ」
「っ、だって……」
振り返り、ルシウスが悲しげな顔をしていることに気づいた少年は、舌打ちを一つして「ったく、めんどくせぇ坊ちゃんに捕まったぜ」と呟いた。
心底面倒臭そうな顔で、少年はゴミを漁りながらルシウスと会話を続ける。
物分かりの悪いルシウスが諦めるまで付き合うことにしたのだろう。
「なんであんたが泣きそうなんだよ」
「だって、なんだか申し訳ないし、恥ずかしくて。ごめんね」
「別にあんたが申し訳なく思う必要はねぇだろ。俺が浮浪児なのは、お前のせいじゃねぇし。ま、今現在、すげぇ邪魔ではあるけどな」
なぜか慰められるような形になり、ルシウスはますます恥ずかしさで居た堪れなくなる。
グッとジャケットの裾を握りしめると、拳大の塊の感触があり、ルシウスはポケットの中に入っていたものを思い出した。
「あ」
取り出したの、張りのある橙色の皮に包まれた、瑞々しい果実だ。
明るい表情になったルシウスは、弾かれたように少年に駆け寄った。
「あの!……オレンジ、食べない?さっき買ったんだ」
「は?今の流れで、なんでそうなるんだよ」
しばらく無言だったと思ったら、急に近づいてきて、オレンジを差し出したルシウスに、少年はいっそ気味が悪いと言いたげに顔を歪める。
けれどルシウスは気にせず、笑顔を浮かべて告げた。
「君に食べて欲しいんだ!」
***
(なに、こいつ)
おかしな奴に捕まってしまった、と少年は心の底から思った。
そもそも、小綺麗な格好をした裕福な坊ちゃんが、汚らしい浮浪児に近づこうとするの自体、おかしいのだ。
その証拠に、ルシウスが駆け出した瞬間、お付きの青年は、ギョッと顔をこわばらせていた。
「……ほんと、何なの、あんた」
「僕、ルシウスだよ。ただのルシウス。何も出来なくて、ごめんね」
「何がごめんなんだよ」
落ち込んでいる様子で謝罪を重ねるルシウスに、少年は面食らったまま、まじまじと見つめる。
綺麗な顔に、手入れの行き届いた髪と肌、皺ひとつない上等の服。
(変なやつ)
少年は心の中で呟いて、ルシウスをまじまじと観察した。
普通の感覚では、奇妙極まりないルシウスの行動に、少年はペースを崩されて困惑するしかなかった。
(意味わかんねぇ……けど、ちょっと面白いな)
思わず、くすりと笑みが溢れそうなる。
戸惑い混じりに唇を綻ばせる表情は、これまで見せてきたものと比べて、随分と年相応の子供の顔だった。
「今持ってるの、これだけだし。よかったら、食べて」
「……くれるってんなら、ありがたく貰うけどよぉ」
ルシウスが押し付けるオレンジを、少年は戸惑いつつも受け取った。
そして、思い切りくしゃりと顔を歪める。
「ははっ、あんた、変わりもんのお坊っちゃんだな」
肩をすくめながら告げ、その場でオレンジの皮を剥いてかぶりついた。
誰かに奪われる前に腹の中に入れるのが、浮浪児たちの生きる知恵だ。
「お、うめぇじゃん。高いオレンジだな」
ニカっと鮮やかに笑って、少年はルシウスにオレンジを持つ手をあげた。
「ありがとよ!あんた、身ぐるみ剥がれないうちに帰りなよ。まぁ、そっちのお兄さんがそこそこ強いんだろうけど、このへん治安わりぃからさ」
心ばかりの助言を口にすると、少年は話は終わりだと背を向けて、裏路地に足を進める。
もう会うこともないだろうけど、面白い奴だったな、などと心の中で思って。
まさか、暫く呆然と、……いや陶然と少年の笑みに見惚れていたルシウスが、目を輝かせて裏路地を駆け抜けてくるなどとは、思いもしないで。
***
トコトコトコ、ガタッ
「わっ」
「ルシウス様大丈夫ですか?」
「平気!」
トコトコトコトコトコトコ……
「……」
背後から聞こえて来る足音、物音、会話。
いやでも耳に入ってくるそれらに、少年は無言を貫く。
何故か先ほどの二人組が自分の後を追ってきたことも、そして一定の距離を保ってついてきていることも気がついていたが、振り向く気はなかった。
「あの子、歩くの早いねぇ。毎日歩き回って鍛えられてるんだろうねぇ」
「ルシウス様も鍛錬されてますし、ご年齢のわりにお早くていらっしゃいますよ」
「そうかなぁ?」
(……ほんと何なんだよ)
貧民街へと近づくにつれ、心なしか薄暗くなってくる街の様子などとは無関係な、呑気な会話が聞こえて来る。
「はぁ……」
少年は小さなため息をついた。
いっそ走って撒こうかとも思ったが、それではますますルシウスというお坊っちゃんの興味をひいてしまいそうだ。
それにお付きの青年は護衛も兼ねているようで、鍛えた大人の足で追われたら敵わないと諦めた。
面倒事に巻き込むのは勘弁して欲しい。
お坊ちゃんにとって、少年はさぞ物珍しい生き物なのだろうが、もういいだろう。
頼むからさっさと飽きてくれ。
心の中でそう願いつつ、少年はルシウスが自分から諦めてくれるように、後ろの二人には通り抜けられなさそうな道を選択することにした。
トコトコ、ガタッ、ゴトッ
「あぶないっ、割るところだった!」
少年が危うげなく通っているのは、地面には砕けたガラスや陶器の欠片、壊れた家具などが散乱した細い路地裏だ。
ルシウス達のように不慣れな人間にとっては、たいそう歩きにくいだろう。
そのうち諦めてくれることを信じて、少年は振り返ることなく足を進める。
トコトコトコ、ガリッ、ガチャ、トコトコ
「この道、危ないね。転んだら大怪我だ」
「お気をつけ下さいませ」
今にも崩れ落ちそうな薪の山、ひび割れた謎の壺、壊れかけたいくつもの木箱など雑多な物が道を塞ぐ、猫の通り道のような隙間を少年がすり抜けようとした時。
「なんだこの棒……わわっ、あぶな」
「って、めぇ!」
屋根のつっかえ棒を無造作に移動させて通ろうとしたルシウスの気配を察し、少年は大慌てで止めに入った。
「いい加減にしろよお坊っちゃん!」
片手で棒を支え、もう片方の手でルシウスの腕を掴む。
「よく見ろ!その棒を外すと屋根が落ちるぞ!他人の家を壊す気か!?」
「……そうなんだ。ごめんなさい」
突然握られた手に目を丸くした後、ルシウスは満面の笑みを浮かべた。
「気づかなかったよ。止めてくれてありがとうね」
「……まぁ、止められたから良かったけどよ。あんた、本当に迷惑だからさっさと帰れよ」
素直な謝罪と感謝に毒気が抜けた少年は、はぁ、と大きくため息をついて肩を落とす。
再度背中を向けて歩き出すが、やはり足音は平然とついてくる。
「……帰れって言っただろ!?なんで着いてくるだよ!」
苛立ちのままに大声で怒鳴りつけても、ルシウスはニコニコと笑うだけだ。
「だって、君とお話ししたいのだもの」
「なんでだよ!?」
「君、とっても優しいしカッコいいし。ねぇ、名前教えてよ」
「何言ってんだお前」
話の通じないお坊ちゃんが怖くなってきて、少年はまともそうな大人に視線で助けを求めた。
「おい、そこの人。早くこの坊ちゃんを、連れて帰れよ」
「私は、基本的にルシウス様のご意志に任せるようにと言われておりますので」
けれど縋った相手は微笑を浮かべたままで、あっさりと言い切る。
頼みの綱が断ち切られ、この場にまともな奴はいないのか、と、思わず少年は頭を抱えた。
「なんでだよ!変な真似したら止めるべきだろ!」
「別に変じゃないよ、君とお話ししたいと思っているだけだよ」
「十分変だよ馬鹿!普通、あんたたちみたいなのは、俺みたいなやつらに近づかないもんなんだよ!」
「え?どうして?」
不思議そうに首を傾げている、純真無垢なお坊ちゃんに、少年は諦めた。
疲労感を押し出すように、肺の中の空気を吐き出す。
そして、死んだ魚の目をしながらも、ルシウスを見返した。
「わかった。話をすれば、あんたの気は済むんだな?話したら帰るな?」
「うん。ねぇ、名前は?」
「……ネロだ」
ため息混じりに短く名乗れば、ルシウスは整った顔を崩して、心底嬉しげに笑った。
「僕はルシウスだよ」
「さっき聞いたよ」
バッサリ切り捨てても、ルシウスは堪える様子もなく笑顔のままだ。
「よろしく、ネロ!僕と友達になってほしいな!」
「何でだよ」
本当におかしなお坊ちゃんに捕まってしまった、と。
ネロ少年は今日何度目かの深いため息をついた。
***
「君、何で浮浪児なの?」
「親が死んだからだよ」
ズケズケと踏み入った質問をするルシウスに、後ろに控えていたノーメンが一瞬慌てたが、思いの外にネロは気にした様子もなく答えた。
ルシウスとネロの子供二人は、路地を抜けた先にあった広場で並んで座っている。
「これうめぇな」
「あ、よかったぁ」
「食い終わるまでは相手してやるよ」
上機嫌で言うネロの手には、ノーメンが常備しているルシウスのためのクッキーが握られている。
ネロは遠慮なくクッキーをつまみながら答えた。
「俺だって、六年前に疫病で親が死ぬまでは家に住んでたぜ。三歳くらいだったし、まぁ、もう記憶もないけどさ」
「君、いくつ?」
「多分九歳くらいじゃねぇか?」
「多分、なの?」
「誕生日とか覚えてねぇからな」
ぱくぱくとクッキーを口に放り込みながら、ネロはあっけらかんと答える。
継ぎ接ぎすることもされていない、破れかけのボロボロの衣服。
薄汚れた肌と、鎖骨の浮き出た痩せた体。
明らかに苦しい生活をしているはずなのに、ネロに弱さは感じられず、そして悲壮感もなかった。
瞳は生気に煌めき、声には力がある。
暖かな部屋で栄養ある食事を摂っているはずの深窓の令嬢たちの方が、よほど弱々しく感じられるほどだ。
ルシウスには、それが不思議だった。
そして、もう一つ疑問だったのが。
「どうして孤児院には入ってないの?あそこに行けば、食事も服も、寝る場所もあるのに」
孤児院とは、孤児のための施設だ。
帝都の孤児院は教会の隣に併設されており、国の補助金と、信心深い者たちからの寄付金で運営されている。
先日ルシウスも平民として寄付金を納めに行ったが、十分に清潔で、気持ちの良いところだった。
神の名の下に孤児を救うためにつくられた施設であり、救いを求めて訪れる者を拒まないはずだ。
けれど。
「飯がもらえる孤児院?ハッ、んな場所、どこにあるんだよ」
「えっ、知らないの!?教会の隣にあるじゃない!」
「あはははははははっ」
馬鹿にしたように鼻で笑うネロに衝撃を受ける。
街の真ん中にあるあの施設を知らないのか、と。
だがルシウスの言葉に、ネロは皮肉げな顔でわざとらしく大笑いをした。
「あぁ、あのコドモ地獄か」
「え?」
思いがけない単語に、ルシウスの思考が止まる。
困惑のままに目の前の顔を見ると、ネロが嘲笑を浮かべながら説明してくれた。
「そう呼ばれてるんだよ、あそこは。一日に与えられるのは、ほんの少しのミルクと、カビの生えたパンが一欠片。一度入ったら十二歳まで出られない。出ていく先は女は売春宿に決まっている。そして男は、馬や牛と同じように家畜として二束三文で売られていくって話だ」
「う、そだよ!そんなバカな!」
「嘘なもんか」
「でも、僕が見た時は……」
平民として訪れた時は応接間と幼い孤児たちが遊ぶ庭までしか見ることができなかったが、全く悪い場所ではなかった。
昨年父親と一緒に、査察に行った時には、施設の中も見学した。
孤児院に住まう子供たちは、新品ではなくとも清潔な衣服に身を包み、慎ましくても三度の食事を摂り、教師役の神父のもとで読み書きや計算を学んでいた。
孤児たちは痩せてはいたが、それなりに健康そうで、穏やかに笑っていたのに。
「ははっ、馬鹿だな。細い枝みたいに痩せ細った醜いガキを、外の人間に見せるわけないだろ?貰い手がつきそうな小綺麗ななガキだけだよ、あの見世物小屋にいるのは」
目を見開いて固まるルシウスに、ネロは薄笑いを浮かべながら言葉を続ける。
「残りは町外れの、雨漏り上等のおんぼろな建物と、ちょっとした畑しかない『分院』とやらに詰め込まれてるぜ?多分、外の人間が思っている数の、三倍はいるはずだ。死んでる数は、報告の何倍なのか考えたくもねぇな」
「そんなこと許されるわけがない!それが真実なら院長は裁きを受けるべきだよ、きちんと訴えるべきだ!」
衝撃と義憤に駆られて立ち上がって声を上げたルシウスに、ネロはますますおかしげに、ケラケラと笑う。
「はは、誰に訴えるんだよ?孤児なんて、野良猫や野良犬と同じ扱いだぜ?そんな奴らのために、国が何かしてくれるわけねぇだろ?院長は貴族の出だとかで、皇帝の信任も厚いんだとさ。時々えらいお貴族様が見にくるけど、さらっと上っ面を見てるだけで、何も気づきやしねぇし、意味ねぇよ」
「そ、んな……」
あまりの衝撃にルシウスはその場に座り込み、凍りついた。
その顔を冷ややかに眺めて、少年は嘲笑うように鼻を鳴らした。
「ここ数年、あそこに放り込まれたやつで、幸せになったやつなんかいねぇよ。……いや、売られた後で、娼婦としてそこそこイイ暮らししてるやつはいるかもしれねぇけどさ。ま、俺はあんなところ、行く気がしないね」
片膝をたてて座るネロは、呆然とするルシウスを見下ろして唇を歪める。
「まぁ、あんたみたいな奴らには、知ったこっちゃねぇだろうけどな。……さて、クッキーも食べ切っちまったし、オハナシはおしまいだ」
後ろにいたノーメンに「ありがとな、兄さん。うまかったぜ」と告げると、ネロは立ち上がる。
そして、座ったまま泣きそうに顔を歪めているルシウスを見下ろして笑った。
「じゃあな、ルシウス。……何も知らねぇ甘ったれ坊やは、さっさとお家に帰りやがれ」
***
ネロが立ち去った後。
衝撃から立ち直ったルシウスは、すぐさま公爵邸に帰った。
ノーメンにはルシウスを送り届けた後、ネロの言葉が真実かどうかの確認に、もう一度街へ出てもらう。
ルシウスは屋敷内の資料室に閉じこもり、孤児院と院長について過去に遡って調べた。
「はぁ……僕って本当に表面的なことしか知らないんだなぁ」
記録を調べると、事件の大小はあれ、過去の不祥事や不正が次々に出てきて、ルシウスは眉を落とした。
何十年か前の記録からは、ネロが言っていた現院長の悪事が可愛らしく思えるほどの悪行も出てきて、うんざりする。
もしやクラウドは現状を知っていながらも、まだ手を入れるべきではないと考えて口を閉ざしているのだろうか。
ルシウスは自分がどうするべきか悩み、頭を抱えた。
「とりあえず、できる事をしよう」
ルシウスはひたすらに資料室で過去の記録を漁り、孤児院について可能な限りを調べあげ、そして父であるクラウドの帰宅を待った。
「ほぉ、なるほど。一日でよく調べたな、ルシウスよ。それで、お前はどうしたい?」
「もし噂が真実ならば、一刻も早く子供達を助けださねばなりません」
深夜近くに帰宅した父を待ち構えていたルシウスは、遅い夕食に同席しながら今日の出来事を伝えた。
そしてネロの言葉を受けてルシウスが調査した内容を訴える。
「私とそう歳の変わらぬ者たちが、今も苦しんでいるのです!弱く力ない民草を守り救うことは、貴族としての責務だと考えます。アノルウス公爵家の人間として、見過ごすことはできません」
「ふむ、なるほどな」
熱弁を振るうルシウスを興味深そうに見つめて、父親の顔で一つ小さく頷く。
クラウドは、綺麗な所作でナイフとフォークを操りながら、そっと考え深げに目を伏せた。
「……」
「……」
両者ともに無言の時間が続く。
ルシウスはクラウドの言葉を緊張とともに待った。
「ルシウスが自分の意思で行動を起こすのは初めてだな」
ぽそりと呟くと、クラウドはニヤリと笑って、緊張した面持ちのルシウスを見た。
「よし。まぁ、相手も小物だし、手始めとしてはちょうどいいだろう。……ルシウス。お前がこの件、片付けてみろ」
「っ、はい!」
思いがけない指示に驚きながらも、ルシウスは目を輝かせて頷いた。
この翌日から、ルシウスは寝る間もないほど走り回った。
一ヶ月後、帝国騎士団による教会・孤児院・分院への一斉立ち入り調査が行われ、教会幹部と孤児院長の癒着、横領が発覚した。
院長については、殆どの寄付金を着服していたことや、孤児たちへの極悪非道な仕打ちが白日の元に晒された。
その上、奴隷の売買が禁止されている隣国に子供を売り払っていたことが発覚したため、院長は貴族籍を剥奪され、国外追放となった。
新しい孤児院長には、アノルウス家ともゆかりのある、敬虔な人物が任命され、孤児院にはひとまずの平和が訪れたのだった。
***
さて。
何十人もの孤児たちを救い出し、孤児院を正真正銘『暮らして心地良く、学ぶことが許され、身の安全が保障された神の家』とすることに成功した後。
ルシウスは、頻繁にネロの元を訪れていた。
「ひさしぶり!」
「……先週も会わなかったか?お前何してんの?暇なの?」
「うん!」
「はぁ、まぁいいけど」
朗らかな声とともに、ゴミ捨て場へ現れたルシウスに、ネロは胡乱げな眼差しを向けた。
軽くため息をつくと、慣れた仕草でゴミをひっくり返し、ルシウスは目の前の山の中から錆びた鉄や、壊れた貴金属を探していく。
微々たるものではあるが、買い取ってもらえることがあるからだ。
ルシウスは邪魔をしないように遠巻きに立ちながら、ネロにあれこれと声をかける。
適当にあしらわれながらも、ネロにとっては暇潰しとしてちょうどいいのだろう。
ゴミの山に来ている時が、会話は一番弾んだ。
「なぁ、なんでお前、俺のいるところに現れるの?一応毎日違う場所にいるんだけど」
「ん?運命かな?」
「……お前、運が強そうだしなぁ」
ふざけた返答にも、何となく納得した顔をするネロに、ルシウスは苦笑する。
実はルシウスが、密かにネロの動向を調査しており、逐一報告が上がってきているとは、とても言えない。
そして行動の法則性を掴んでいるからネロの行動は簡単に予測できる、とも。
「ったく、食うもんに困らねぇボンボンは気楽でいいねぇ」
「へへっ、今日はりんご持ってきたよ」
「お、こりゃどーも」
一仕事を終えたネロに真っ赤な果実を差し出せば、ネロは戯けた仕草で道化師のように頭を下げて見せる。
「施しありがとうごぜーます」
「施しじゃなくて、プレゼントだよ!」
りんごを恭しく捧げ持つネロに不貞腐れながら、ルシウスは自分もりんごを齧る。
「いや、施しだろ、これ。だって、なんで俺がお前にプレゼントなんぞ貰うんだよ」
「え、だって」
ネロの言葉に、ルシウスは動揺して視線を逸らした。
なんでプレゼントをあげるか、なんて、そんなのは決まっている。
だって。
「そりゃあ……と、とととと」
「とととと?」
「と、もだち、だから」
「は?」
言葉の出てこないルシウスを面白そうに見ていたネロは、続いた言葉にぽかんと口を開けて目を見開いた。
「初対面から『友達になれ』って言ってきたくせに、何で今更そんなことで口籠ってるんだよ」
「だって、友達って僕、いなかったから……照れちゃって」
「照れるって……、お前、本当に変なやつだな」
困ったように眉を下げて、ネロは「くくく」と小さく笑う。
「ゴミ漁って生きてる、親のない浮浪児だぜ?俺なんかと友達になっても、いいことねぇだろうに」
諦め切ったような顔で、独り言のように呟かれた内容に、ルシウスは柳眉を逆立てて声を荒げた。
「そんなことないよ!ネロ、物知りだし、色々教えてくれるし、話してると楽しいし!この間教えてくれた『ヤバイ仕事してる』ひとたちの話のおかげで、うちの商売も救われたんだ。僕、褒められたよ」
「ははっ、そりゃよかった。でも、物知りってわけじゃねぇよ。裏通りに暮らしてると、ドロドロ汚ねぇ噂も、きな臭い噂も、血生臭い噂も聞こえてくるんだ。そんなイイもんじゃねぇさ」
ルシウスも驚いたのだが、ネロの口から聞く『黒い噂』は大概が真実であり、非常に有用なのだ。
おそらくは数多の玉石混淆な情報からネロ自身が取捨選択し、推測し、練り上げているのだろう。
ルシウスは、時折垣間見られるネロの利発さにも惹かれているのだ。
「それに、植物にも詳しいし」
「食べられる花とか草とか知ってんのは、必要に迫られて、体で覚えてったからだよ。あと、薬になる草は、薬なんか買えない人間の常識だよ。俺らだって痛いのは嫌だし、死にたくねぇからな」
ああ言えばこう言う、とばかりに返ってくる言葉に、ルシウスは「むむむ」と唸る。
美辞麗句ならいくらでも出てくるし、婉曲な皮肉への対応もお手の物だが、ネロとの会話ではいつもルシウスが口籠ることになる。
ルシウスにとっては言い負かされてしまうことも珍しく、そんなやりとりも、また楽しかった。
「ったく、自分の店から果物を勝手にかっぱらって来て、浮浪児に『トモダチにプレゼントぉ』なんて抜かして施してるって知ったら、おめぇの親は泣いて悲しむぞ」
「そんなことないよ。きっと『楽しそうでいいな』って言うよ」
苦笑しながらりんごの芯に齧り付いているネロは、まるで出来の悪い弟でも見るかのようにルシウスを眺めている。
その表情は大人びていて、人生や、命すらも達観しているようにすら思われた。
刹那的で、まるで未来には何も期待していないかのように。
(そんな顔しないで……ネロは、こんなところにいるべき人間じゃないのに)
ルシウスの中で、強い思いがむくむくと膨らむ。
「ねぇ、最近、孤児院がまともになったらしいよ」
突然転換された話題に、ネロが首を傾げる。
しかし、ルシウスが唐突なのはいつものことなので、あまり気にすることもなく頷いた。
「ん?あぁ、あそこの院長、派手に悪事に手を染めてたみたいだからなぁ。貴族の出だからなんだか知らねぇが、首切られちまえばいいのに、国を追い出されただけだって?」
「さすがネロ、よく知ってるね」
既にほとんど把握しているネロに、ルシウスは感嘆とともに手を叩いた。
ネロは本当に情報に強い。
「はは、有名だったからな、あのジーサン。……甘いよなぁ。何人のガキが、あいつのせいで死んだと思ってんだろ」
「……地位と権力にあぐらをかく貴族が、一文なしで国外追放されたら生きていけやしないよ。きっと、あっさり死刑になるよりも酷い目にあって死ぬさ」
「ルシウス?」
淡々と告げるルシウスに、ネロは意外そうな顔をした。
これまでは子供っぽい顔しか見せたことのなかったルシウスが、冷酷な一面を垣間見せたような気がしたのだ。
けれど、その顔を見せたのも一瞬で、瞬きの後にはもう、いつも通りの天真爛漫な笑顔が現れていた。
「だから、……ネロも、孤児院、入らない?」
「は?なんでだよ」
「だって、そうしたら文字を学んだり、算術を学んだり出来るよ。将来働く時にも、その方が良いよ!知識は力だって、お父様が言ってた」
熱心に勧誘し、教育の重要性に熱弁を振るうルシウスに、ネロは一歩引き気味で、うろうろと視線を彷徨わせた。
「俺、たぶんそろそろ十歳だぞ?あとほんの二年しか居られねぇのに、入っても仕方ないだろ」
「そんなことないよ!簡単な読み書きと計算を覚えるだけでも、ずっと違うよ!ネロならすぐ習得すると思うし、いろいろ学んだ方がいいよ!」
「施設って、イロイロとくちうるせぇんだろうし、ずっと野良でやってきて、管理される暮らしってのもなぁ」
「ダメだよ!人間らしい暮らしをしよう?ネロは色々と器用だし、頭も良いんだから、もっと良い生活があるよ。君にはもっと相応しい人生があるんだ!」
延々と必死に説得を試みるルシウスに、結局はネロが折れた。
「あーもー、わかった!わかったよ!行けばいいんだろ、行けば!門前払いされたら俺のせいじゃねぇからな!」
「やったぁ!ありがとうネロ!よし、善は急げだ。その金属を売ったらすぐに行こう!どうせ君の持ち物、その袋の中身だけなんでしょ?」
「うるせーよ」
金属を売った足で、渋々ながらもそのまま孤児院へ向かったネロは、温かい笑みを浮かべた新しい院長に、当然のごとく迎え入れられた。
ただ、ついてきたルシウスの姿を見た院長が、一瞬固まった後にぎょっと顔を引き攣らせたのは、ネロには内緒の話だ。
「……ルシウス様、ですよね」
「ふふ、うん」
真っ先に浴場へと連れて行かれたネロを見送っていると、院長がルシウスに小声で話しかけた。
「まったく、一体何をなさっているのです?髪を染めて、庶民の格好をして。護衛とて、たったの一人ですか?」
「街で遊んでいるだけだよ。護衛は陰に何人かいるから平気さ。街のナカに入らないと分からないことも多いからね」
どこか咎めるような声に、飄々と笑みを浮かべながら嘯いて、ルシウスはにっこりと笑った。
「ネロは僕の友達なんだ。彼に僕のことは内緒なんだけどね。だから……いろいろと、よろしくね!」
「……承知いたしました」
「あははは!」
ため息とともに告げられた了承の言葉に、ルシウスは悪戯が成功した子供のように、満足げに笑った。
***
シュッ、シュッ、シュッ
うららかな春の日差しの中。
孤児院の畑の隅の木陰では、小刀が木を削る音がかすかに聞こえていた。
そこへ。
「ネローーーーっ!」
「っ、うわぁッ!飛びつくな馬鹿!危ないだろ!」
ネロが小刀から手を離した瞬間を狙い澄ましたように、ルシウスが飛びついてくる。ヒヤリとしながら慌てて小刀を片付けたネロが、眉を顰めて叱りつけるが、ルシウスは気にせずポケットから奇妙な色合いの物体を取り出した。
「はいっ、今日のプレゼント!南から入ってきた謎の果物!」
「気色悪りぃモン出すな!なんだその色!」
「ちょっとグロテスクだけど、おいしいから!」
「う、わ、なんか臭っ、臭い!やめろ!」
「高級品なのにぃ!」
唇を尖らせながらも、ルシウスは手を引っ込める。
皮を剥くために内ポケットから取り出した果物ナイフも、そのまましまった。
今回のプレゼントは、ネロのお気に召さなかったようだ。
嫌がるものを贈っても仕方ないと諦めて、ルシウスはネロの隣に腰掛けた。
「いい日差しだねぇ」
「何を呑気な顔してんだよ!お前から変な匂いするんだよ!さっきの気色悪い果物どっか置いてこい!」
「えー」
鼻を押さえて顔を顰めるネロに、ルシウスは頬を膨らませながらも、少し離れた木の下に向かった。
ポケットから取り出した袋に果物を入れて口を結び、そっと地面に置いた。
もしかしたら蟻に食われてしまうかもしれないが、それよりもネロとの心地良い時間が大切だ。
「まったくもう、珍しい果物なのに、食わず嫌いだなぁ」
「……おい、アレ、そんなに高級品なのか?お前、店の商品をそんなにポンポン持ち出して怒られねぇのか?」
珍しく食い下がるルシウスに、ネロは眉を寄せて考え込み、そして恐る恐る尋ねた。
「ん?商品というか、うん、まぁ、これは僕のおやつだから平気だよ」
「ほほぉ、金持ちの家は違うなぁ」
ネロは感心したような顔でため息をついた。
ルシウスが自分の店から持って来ていると思っているのだ。
まさかルシウスが、いつも帝都で一番有名な青果店で、ネロへのお土産を購入して来ているとは思うはずもない。
平民の格好で街に降りている時のルシウスは、一応仮の身分がある。
帝都で五番目に大きい商会の会長の息子、という設定だ。
会長は驚くほど子沢山で、正妻の子が十人、妾腹の子が二十六人いるという。噂では、正式に認知していない子も含めると、もっと多いらしい。
若い女に目がない好色家だが、商売のうまい剛毅な男で、アノルウス公爵家とも縁が深い。
正妻の長男、つまり次期商会長は、ルシウスの乳母の娘の嫁ぎ先でもある。
そのため、ルシウスの「勉強」および「街遊び」に協力してくれているのだ。
「ねぇ、ネロ、来月には十二歳でしょ?どこへ奉公に行くか決まった?」
再び小刀を取り出して木を削り始めたネロに、ルシウスは何気ない様子で尋ねた。
視線は、ネロの手元に釘付けだ。
いつもながら迷いのない手つきは、まるで木の中に埋まっているモノを掘り出しているかのようだ。
「あぁ、彫刻とか、陶磁器とか、あと宝飾品の金具とか、色んなモンを扱ってるでっかい工房に下働きとして、住み込みで雇ってもらえることになったよ。めちゃくちゃ有名なところだぜ?やっぱ孤児院の院長センセの口利きって大きいんだな、ビックリしたよ」
「ふふ、それはよかった!」
ネロを、アノルウス公爵家に所縁のある工房に斡旋するよう、密かに院長に働きかけていたルシウスはにんまりと笑った。
「僕、ネロの作る作品、とっても素敵だと思ってたもの。前にもらった獅子の彫刻も、まるで生きているみたいだったし。立派な職人さんになってね!」
「えぇー?小刀使って作ってたアレのこと言ってんのか?」
いつものお土産のお礼にと、ネロが作ってくれた木彫りの獅子は、ルシウスの寝室の一番目立つところに置いてある。
生気漲る顔つきの、今にも動き出しそうな躍動感のある獅子だ。
家族や使用人には、邪気を祓うお守りだ、と嘯いて、大切に飾っている。
なにせ人生で初めてもらった、友達がくれてプレゼント、だ。
「あんなんオモチャだろ。一流になるには、目を肥してないとダメなんだってさ。浮浪児出身の俺なんかには、土台無理な話さ」
肩を竦め、斜に構えて笑ってみせるネロだが、かつてとは違い、その声に諦めの色は濃くない。
未来への希望を抱いているのだ。
「なんにせよ、手に職つけておいて悪いことはないからな」
「ふふ、本当は、物を作るの好きなくせに」
「へへっ、まぁな!」
珍しくルシウスの言葉に素直な返事を返して、ネロはニコリと無邪気に笑う。
そしてルシウスの目を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「二年前、孤児院に連れてきてくれてありがとうな、ルシウス」
「え!ど、どうしたの急に、改まって」
「いや、言ったことなかったなぁと思ってさ」
唐突な言葉にルシウスが驚くと、ネロは困ったように苦笑して、視線を逸らす。
そして、しばらく口籠った後で、ゆっくりと考えながら感謝を紡いだ。
どこか照れ臭そうに、けれど、とても嬉しそうに。
「生ごみを漁ってた俺に、お前が声をかけてくれてから、俺の人生わりとイイカンジだからさ。この孤児院にも来れて、色々勉強できて、仕事も見つかって……マトモに生きていけそうで嬉しいよ」
「えへへ、僕、大したことしてないんだけどね」
ルシウスはずっと、ただ自分の望みを叶えるためだけに行動している。
ネロと友達になりたい。
ネロの一番になりたい。
ネロを幸せにしたい。
そして、ネロとずっと一緒にいたい。
それが、苛烈な瞳の輝きに一瞬で目を奪われたあの時から変わらない、ルシウスの願いだ。
「ネロが嬉しいなら、僕もとても嬉しい」
ふわふわと幸せな気分で、ルシウスは言葉を続けた。
「僕だってネロと友達になれて、とてもとても嬉しいよ。これまでもこれから、こんなに大好きな友達なんて、絶対に持てそうにないもの」
「ははっ、そりゃお前、大袈裟だよ。他の友達に失礼だろ」
嬉しそうにはにかみながらも、ネロがルシウスの言葉を嗜める。
ネロの表情を見つめながら、ルシウスはクスリと笑って目を細めた。
「ふふ、ちっとも大袈裟じゃないよ!……オトモダチなんて、君以外にいないんだから」
「へ?」
「ううん、なんでも!」
風に紛れさせた囁きを聞き落としたネロが、不思議そうな顔を向けるが、ルシウスはいつもの顔で笑って首を振った。
「……これからも仲良くしてね、ネロ。もし有名になっても、君の作品の最初のファンは僕だし、一番のファンも僕だからね」
まるで祈るような気持ちで、ルシウスはネロのじっと目を見つめた。
けれど、ネロはちっとも本気にせずに、ルシウスの不安を笑い飛ばした。
「はははっ、んなわけねぇのに……でも、ありがとよ!お前が褒めてくれたから、この道に進みたいなぁと思ったんだしさ。感謝してるよ」
「君の最初の作品は、僕が買うからね!予約だよ!」
「気が早いっつぅの……でも、ありがとな」
嬉しそうに綻んだネロの柔らかい表情が美しくて、ルシウスは忘れまいと瞳に焼き付けた。
***
「ネロ、久しぶり」
帝都随一の規模を誇る工房の隣にある、弟子や奉公人たちの住み込み寮。
その中庭で小刀を遊ばせていたネロは、耳に馴染んだ声に顔を上げた。
「ルシウスじゃんか。本当に久しぶりだな」
「そうだよー、ずっと勉強でさ」
「お前、でっかい商家の子なんだろ?勉強すんのは当たり前じゃん」
「うーん、まぁねぇ」
ルシウスは、本当はでっかい領地を持つ、この国で一番でっかい貴族の子だ。
この三ヶ月は領地へ視察に行っていたために来られなかったのだが、ルシウスは苦笑いで誤魔化した。
ルシウスの身分について、出会ってから五年経ってもネロはまだ勘違いしたままだ。
騙している、という罪悪感は常に胸の奥底にあった。
「あ、そうだ。ルシウス、お前そろそろ誕生日なんだろ?」
「え?うん、そうだけど」
不意に告げられた言葉に、ルシウスはコテンと首を傾げる。
「はい、これ」
「へ?」
ポン、と渡されたのは、精密に彫られた美しい人魚だ。
まるで今にも尾鰭をしならせて、水面に登っていきそうな、生き生きとした架空の生物。
「誕生日プレゼント」
「うわぁ!ありがとう!これまでの人生で貰った誕生日プレゼントで、一番嬉しいよ!」
「お前は人生で一番、が多すぎて言葉が軽いよ」
笑ってルシウスの額を軽く弾き、ネロは静かな笑みで自分の生み出した人魚を見つめる。
「これさ、前にルシウスがくれた画集を見て思いついたんだ。あの本、めちゃくちゃ良かったよ、ありがとな」
ルシウスの贈った画集を見て、ネロの手から生み出された美しい生き物。
(これはもう、僕たちの子供ということでいいんじゃないか?)
あまりの嬉しさに思考を極端な方向に走らせているルシウスのことなど知らず、ネロは更なる喜ばしい情報を告げた。
「あと、実はさ。今度、俺の作った作品が、店に出るんだ」
「え!すごいじゃないか!」
「へへ、まぁ、買ってもらえるのか分からないけどさ」
照れ臭そうに鼻をかきながら、自分に言い聞かせるように話すネロに、ルシウスは自信満々に胸を張って言い切る。
「大丈夫だよ!ネロの作品は世界一だもの!……っていうか、最初の作品は僕が買うからね!前に約束したもんね!?」
「えー、お前、あれマジだったのかよ」
「当たり前じゃん!ずっと待ってたんだから!」
「うーん、まぁ、いいけど……」
照れて少しばかり赤くなり、鼻の頭を掻く仕草が可愛らしい。
「よかったねぇ」
「へへ、あぁ。やっと親方に認めてもらえたんだ。……頑張るよ、俺、彫刻が好きだからさ」
澄んだ瞳で、ネロは手の中の小刀を見つめる。
何種類もある小刀は使い込まれ、けれどとても丁寧に手入れされており、ネロの心が感じられた。
「ま、立派な職人になれるのはまだ先だろうけどな」
浮かれそうになる自分を嗜めるようなネロの言葉に、ルシウスは笑って首を振る。
真面目で、熱心で、そして神からの贈り物のような才能に恵まれたネロならば、きっとその未来はそんなに遠くはない。
「そんなことはないさ。ネロならすぐだよ。……すぐに、みんなが君の……君の作品の素晴らしさに気がついてしまうね」
笑って祝福をしながら、ルシウスは湧き上がってくる苦い悲しみを、喉の奥に飲み込んだ。
(あぁ、遠くなってしまう)
素直に友人を祝いたいのに、ドロドロとした汚い感情が胸の中で煮えている。
(君も、君の生み出すモノも、僕だけのものだったのに。
僕だけのネロだったのに)
ネロと別れてからも、ルシウスの心はちっとも穏やかにならなかった。
ぐわんぐわんと視界が回り、頭が痛くなる。
(あぁ、誰にも渡したくない)
これまでの人生で、何かをこれほど激しく欲したことはなかった。
ルシウスはたいていのものを、生まれた時から手にしていた。
望むものも望まぬものも、いつだって、意識するより前に目の前に供されていたのだから。
ルシウスは、ネロの全てを独り占めしたくて仕方がなかった。
ネロの無骨で繊細な手から生み出された美しい作品が、他の誰かの手に行くなんて許せなかった。
(よし、決めた)
ルシウスは、ネロの作品を買い占めることに決めた。
全て購入したところで、ルシウスの下着一枚ほどの値段でしかなかったのだから。
***
ネロの最初の作品が店頭に並んだ日。
宣言通りルシウスが買いに行き、ちょうど店番をしていたネロに大笑いされた。
そして、ネロ自身の手で丁寧にラッピングされた作品を、ルシウスは大喜びで持ち帰ったのだった。
その翌日も、ネロの作品は店頭に並べられた。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
ネロの作品は順調に、とても自然に、売れていった。
購入者は多種多様だった。
子供への土産を探していた紳士、玄関の置物を探していた上品な老婆、友達への贈り物を探していた少年、実家の菓子店の飾りを探していた少女。
「今日も売れたんだ。生まれたばかりの子供に贈るんだってさ、へへ」
「わぁ、良かったねぇ!さすがネロだ」
自慢げに胸を張るネロは幸せそうで、ルシウスもとても幸せな気分になった。
いま、ルシウスの私室は、ネロの作品で満ちている。
ネロの作り出した美の中で寝起きし、疲れた時にはネロの作り出す美に見惚れ、うっとりとネロの気配の中で暮らす日々。
ルシウスはいつも幸福で、なんとも言えず満ち足りた気分だった。
「あ、それで、売り上げがよくなってきたから、俺の給料もちょっと上がったんだ」
「嬉しいね!これで、ネロがおいしい物を食べて、温かい服を着て暮らせると思うと、僕は本当に満足だし幸せだよ」
「あはは!お前、何言ってんだよ」
ネロは冗談だと思って笑ったけれども、ちっとも冗談ではない。
なにせルシウスは、もっとネロの暮らしを良くしたいと、昔から願っていたのだ。
その一助となれたのならば、あらゆる手を使ってネロの作品を買い占め、そして値段を釣り上げるべく努力してきたルシウスの苦労が報われたというものである。
(あぁ、よかった。長かった)
ネロはとてもプライドが高いから、友人からの施しなど受けてはくれない。
一度、寒さの厳しい年の冬に、風雪をしのぐにはあまりに心許ない衣服を纏っていたネロに、ルシウスは金銭の援助を申し出たことがあった。
けれど。
「施しなんか、やめてくれ……なぁ、ルシウス。俺はもう、物乞いじゃないんだ」
怒りを含んだ苛烈な眼差しに射抜かれて、ルシウスは我に返って恥じ入った。
「ご、めん」
その年は、暖かい毛布を差し入れた。
困った顔をしながらも、ネロは苦笑して受け取ってくれた。
物ならば、ネロは受け取る。
友人への贈り物として、常識の範囲内ならば。
(本当に、よかった)
ネロの幸せがルシウスの幸せなのだ。
いや、もっと正確に言えば、ルシウスの手でネロを幸せにすることが、ルシウスの幸せなのだ。
(ネロが幸せそうで嬉しい)
満足そうに笑うネロを見つめながら、ルシウスはふわふわとした幸福感を噛み締めた。
***
「これ、プレゼント」
「え、また?どうしたの?」
久々にネロに会いに行くと、随分と大きめの彫刻を渡された。
蝶のような羽根を持つ美しい女性が、薔薇の花の上に腰掛けている。
公爵邸の客室に置いてもおかしくないような、見事な力作だった。
「すっごい……これは、芸術作品だよ。これほどに美しい彫刻、僕は見たことがないよ……」
陶然と呟いたルシウスの言葉に、ネロはいつも通りに「大袈裟だな」と笑って返す。
「俺、いつもルシウスに貰ってばっかりだからさ。……実は親方から、売り場に一区画貰えることになって。自分の名前で作品を売ってみるか?て言われたんだ」
「え!すごいじゃない!それ、職人として認められたってことでしょう?」
「まだ、どうなるか分からないんだけどさ」
綻ぶ顔を隠そうとしてか、少し唇を尖らせながら、ネロは話した。
「でも、頑張るよ。俺、早く一人前になって、ルシウスと対等になりたいんだ」
「何言ってるの?ネロは自分の力で生きているんだよ?親の力で生きてる僕と比べたら、君の方がずっと立派さ!」
「ははっ、そう言ってくれて嬉しいよ」
過剰なほどに力強い、本心からのルシウスの言葉に、ネロも嬉しそうに笑う。
「ふふ!ネロ、なんだか今日は素直だねぇ」
「だってさぁ、昔はごみの中に埋もれて、野良犬みたいにさ?暮らしてたのに俺なんかにも、こんな未来があるんだなぁと思って」
バタン、と地面に寝転がって空を見上げてながら、ネロはしみじみとため息をつくように言った。
「親方にも『こんな短い間にこれほど成長した奴は見たことねぇ、よく頑張ったな』って言ってもらえて、すげぇ嬉しくて、……ちょっと感傷的になってんだよ」
「……ふふ、そっかぁ」
よく見れば僅かに潤んでいる瞳に、ルシウスはどきりと心臓を鳴らした。
ギュッと胸が絞られるように痛くなり、誤魔化すために、ルシウスも隣に寝転んだ。
きっと赤くなっているであろう顔が、ネロに見られないように。
「なぁ。俺、孤児だけどさ、……ちゃんと俺たち、友達だよな?」
「ああ、もちろん!」
かすかに揺れるネロの言葉に、ルシウスは力強く肯定を返した。
「君は僕にとって、唯一無二の友達だよ!」
ルシウスは幸福感に満たされていた。
(あぁ良かった!僕の努力が報われた!)
ネロはルシウスにとって、この世でひとりの友達だ。
唯一無二の存在なのだ。
だから、ルシウスはネロを助け出したいと願うのだ。
寒風の吹き込む住処での暮らしから。
くだらない悩みに疲弊し、苦しむような生活から。
客に怒鳴られ、人の目を気にしながら過ごす日々から。
これほどに美しい人間が、こんなにも素晴らしい才能を持ちながら、街の片隅で雑事に追われ、苦痛を感じ、疲弊しながら生きていくなんて間違っている。
(あぁ、もっとネロを幸せにしたい)
ルシウスは物狂おしいほどにそう願った。
ネロの生活を、ネロの幸福を、そしてネロの全てを。
ルシウスは自分の手で守りたいと願ってやまないのだ。
(もっと、もっと、もっと!もっと上までネロを連れて行きたい。……そして早く、僕の隣まで来て欲しい)
ルシウスがネロと一緒にいることは難しい。
爵位を継いだら、もっと困難になるだろう。
だから、ネロをルシウスの近くまで、引っ張り上げないといけないのだ。
そのためにはどうすればいいのか、ルシウスはずっと考え続けていた。
(あぁ、手を打たなければ。もっと確実に、もっと迅速に)
僕の手で。
僕の力で。
僕の愛、で。
(君を帝国で一番の芸術家にしてあげる)
***
アノルウス公爵邸で、三番目に広いルシウスの私室には、実在の動植物から想像上の生き物まで、ありとあらゆる美しい彫刻作品が飾られている。
初めて訪れた人の多くは、入り口でギョッと立ち止まる。
けれど、すぐに作品の不思議な魅力に囚われて、魅入られることになるのだ。
「素晴らしい作品ですね、ルシウス様。全て同じ作家のものですか?」
感嘆と共に尋ねられる問いかけに、ルシウスはいつも満足そうにに頷き、そして自慢げに告げるのだ。
「ええ。私が今、最も注目している彫刻家、ネロの作品です。……彼は天才ですよ。間違いなく、この国で一番の芸術家でしょう」
と。
「あぁ、なんて美しいんだ」
ネロに生命の息吹を吹き込まれた作品の中で、ルシウスは今夜もうっとりと幸福感に浸っていた。
ルシウスの今のお気に入りは、最近ネロが手を出し始めた、石膏を使った作品だ。
刃によって木の中から生み出される作品も素晴らしかった。
けれどこの作品は、まろやかな肌の質感まで感じさせ、まるで生きた人間のようだ、とルシウスはいつも思う。
「本当に、ネロは天才だ……」
一端の彫刻家として名が知られるようになったネロは、最近小さな工房を構えた。
木と小刀くらいしか使えなかった貧しい頃と違って、豊富な材料を手に入れられるようになったネロは、あらゆる素材を組み合わせて作品を制作している。
指導者や周りの目を気にする必要がなく、材料の制限もなくなったことで、のびのびと制作できるようになったのだろう。
ここ数年で、ネロは一気に才能を開花させた。
ネロの作品は、まるで生きているようで、魂が込められているとも噂され、その名前は街で知らない者はいないほど有名なものになっていた。
ネロの作品には、ずっと不思議な噂があった。
いつ店頭に並べても作品はすぐに売れるのに、なぜか街でネロの作品を所有していると言う者は見かけないのだ。
評判がたち、作品の評価も上がってきているため、街の有力者が手に入れようとするのだが、なぜかいつも手に入らない。
ネロ本人もその理由は分からなかった。
そのため、噂は聞こえるのに何故か作品はなかなか目にかかれない作家としても、有名になっていった。
そんな時、アノルウス公爵家のルシウスが、ネロを評価して、作品を集めているという噂が立ち始めた。
噂好きな人々によって「ネロの作品に惚れ込んだルシウスが、金に糸目をつけず、ネロの作品を手当たり次第に蒐集しているのではないか」「だから街には所有者がいないのではないか」という真実にとても近い憶測が、一気に広まった。
そして、帝国一の貴族が認めた作家ということで、ネロの名声はますます高まることになったのだ。
「ふふ、良い感じ」
ルシウスの計画は、非常に順調である。
学園卒業後は公爵家の家督を継ぐために、眠る暇すらないほど多忙であるため、なかなかネロ本人の元へ会いにはいけないけれど、仕方ない。
ネロの人生が順調であることに、ルシウスは満足していた。
今日もネロは元気に、そして情熱的に、よりリアルな彫刻作品の作製に励んでいることだろう。
うっとりと作品たちを眺める。
己の手でネロを幸福へ導いているという実感が、ルシウスを恍惚とさせるのだ。
***
「……ん?」
ルシウスがハーブティー片手に、ネロについての報告書に微笑みながら目を通していると、廊下で人の気配がした。
コン、コン、コン
淑やかなノックの音に来訪者を察して、ルシウスは自らドアを開けた。
「夜分に失礼致しますわ、ルシウス兄様」
「構わないけれど、こんな時間にどうしたんだい、ユリア」
現れたのは、室内着姿の妹、ユリアだった。
二歳年下のユリアは、ルシウスの碧眼よりも淡い冴え冴えとした薄青の瞳に、ルシウスと同じ陽光のような金髪を持つ、美しい娘だ。
十五歳と、そろそろ相手を決めねばならない年頃だが、あまりに引く手数多なために決めきれず、まだ婚約者が定まっていない。
ユリア本人も、婚約者の選定にあまり気が乗らないようで、なかなか話が進まないようだ。
貴族社会において、八歳の時から決まっていたルシウスは早すぎたが、ユリアは少し遅すぎると言えるだろう。
だが、娘を手放したくない公爵本人も乗り気ではないため、特に問題にもされず、今に至っている。
ルシウスも、王家以外には頭を下げる必要のないほどに高貴なアノルウス公爵家の血を引く妹が、望まない者の元へ嫁ぐ必要はないと考えているため、無理強いをすることもない。
そのため、比較的兄妹の仲は良好であると言える。
だからルシウスは、夜分に突然現れた妹に眉を顰めることもなく、微笑を浮かべて部屋に招き入れた。
「まぁ、とりあえず座りなさい。膝掛けはいるかい?」
「どうぞお構いなく、ありがとうございます」
兄のエスコートでふわりとソファへ腰掛けたユリアは、ルシウスの部屋を見回して、「いつもながら……幻想的なお部屋ですこと」と呟いた。
ユリアは芸術に疎いのか、あまりネロの作品に興味を示さない。
ルシウスにとっては少々物足りない気持ちもあるが、兄の世界に立ち入りすぎないという一歩引いた態度は、好ましいものであるとも言えた。
「ハーブティーでも飲むかい?」
「あら、頂けるのでしたら、嬉しゅうございますわ」
麗しい美貌を綻ばせて喜ぶ妹に、ルシウスは席を立ち茶器を手に取った。
「ありがとうございます……ところで、ルシウス兄様」
「ん?なんだいユリア」
手ずから淹れたハーブティーを差し出したルシウスへ、ユリアは一言お礼を述べてから、柔らかい笑みと共に問いかけた。
「コルネリア様への贈り物はもうお決めになったの?」
「え?」
思いがけない言葉に、ルシウスは首を傾げた。
コルネリアというのは、ルシウスの婚約者の名前だ。
皇帝の溺愛する、末の皇女殿下。
ルシウスの二歳年下で、ユリアの学友でもあり、仲が良い。
だが、贈り物とは何の話だろうか。
突然の話に全くついていけなかった。
「え、じゃありませんわ。来週はコルネリア様のお誕生日ですのよ」
察しの悪いルシウスの反応に、ユリアは柳眉を顰めてため息をついた。
「早くご準備なさいませ」
「だが、それはユリアに任せただろう?コルネリア様と仲の良いユリアなら、きっと一番お喜びになるものを選んで差し上げられるだろうからね」
「はぁ、……まったく、もう」
物分かりの悪い兄を諭すように告げるユリアに、ルシウスは首を傾げる。
困惑顔のルシウスに、ユリアは深いため息をついてから、兄の顔を見つめた。
「我が家からのプレゼントでしたら、とうの昔に私が選んでおりますわ。でも……コルネリア様は、お兄様の婚約者ですのよ」
「あぁ、もちろん。僕からも、コルネリア様にお似合いの首飾りと花束を用意しているさ」
「……あら。選んだのは従僕のキケではなくて?」
細く美しい眉を片方だけ上げて、どこか冷たい眼差しで尋ねてくる妹に、ルシウスはあっさりと頷いた。
「ん?よく知っているな。キケは僕と違ってセンスが良いんだ。信頼していいぞ」
「それはお兄様からのプレゼントではなく、お兄様の名前で贈られるプレゼント、ですわ」
ユリアの意図が掴めず、ルシウスは眉間に皺を寄せる。
「それは同じものだろう?」
「全く違いますわ。不死の妙薬と致死性の劇薬のように。もしくは、真実の愛と偽りの恋ほどに」
「ユリアの比喩は、分かりにくいよ」
読書と詩歌をこよなく愛する妹の言葉は、貴族の会話に慣れたルシウスですら、時に難解だった。
思考を放棄したルシウスに、ユリアは根気強く「プレゼントを選べ」と説得する。
おとなしく聞いていれば終わるだろう、とルシウスは穏やかに傾聴しながら、逆らわずに頷くことにした。
けれど。
「……たとえばお兄様がご執心の、彫刻家の方の作品で、あの方に似合いのものを差し上げる、とかはいかがですの?あちらの蝶や花のモチーフなど、コルネリア様はお好きだと思いますわ」
「あぁ、それはいけないよ、ユリア」
ユリアの提案に、思わずルシウスは声をあげる。
ネロの作品が、他人の手に渡るなど、想像するだけで怖気がした。
たとえそれが、この国で至高の身分にある女人の、白魚のような美しい手であっても。
「彼の作品は、すべて僕のものなのだから」
激しい執着を瞳に宿し、強い声で言い切る。
「決して誰にも譲らないよ」
互いに視線を逸らさぬまま、睨み合いにも似た、緊迫した空気が部屋を満たす。
しばらくの無言の後で、ユリアの薄桃色の唇から、細い吐息が漏れた。
「……なるほど。よく、分かりましたわ」
静かな言葉に、ルシウスもホッと息を吐いた。
「分かってくれたのなら、嬉しいよ。お茶を淹れなおそうか」
「いえ、結構ですわ」
いつもの柔和な表情に戻ったルシウスが朗らかに口を開くと、ユリアはすっと立ち上がり、冷え冷えとした眼差しをルシウスに向けた。
「ええ。よく分かりましたわ……お兄様が、コルネリア様のことを何とも思っていらっしゃらないってことが」
「……何を言っているんだい?」
愛らしい唇から落とされるのは、怒りに満ちた淡々とした言葉。
ユリアの豹変が理解できず、戸惑うばかりのルシウスに、ユリアはさも悔しげに言い捨てた。
「愚かで、頭でっかちのお兄様。貴方はとても優秀でいらっしゃるけれど、どこまでもお子様ですわ。女の幸せが男の方に依存するこの国で、夫に顧みられない妻がどれほど不幸か……そんなことも、お分かりにならないなんて」
淑女の嗜みを放り捨てたかのように、ユリアはいっそ憎々しげにルシウスを睨みつけた。
「あなたには、お任せできませんわね……私の大切な、コルネリア様を」
***
ネロが工房から独り立ちをして数年。
ルシウス以外の貴族たちの間でも、ネロの作品は評判となっていた。
そのきっかけは、ルシウスと親交の深い一人の侯爵だった。
ルシウスのコレクションに魅了された彼は、ネロの元へ自ら出向いて、愛犬をモデルとして製作を依頼した。
数ヶ月後、自分の希望した通りの、これまで見たことのないほどに繊細で、そして生き生きとした愛犬の像を手に入れた侯爵は、それを玄関に飾り、訪れる人々に自慢した。
「ルシウス殿の仰っていた通り、あの若き彫刻家は、天才だ。まるで生きているかのようなのだから!」
頻繁に夜会を催す社交的な侯爵の元には、日夜多くの人が訪れるため、評判はあっという間に広まった。
そして、貴族社会ではネロの人気に火がついたのだ。
堂々たる若き芸術家としての名声を、ついにネロは手に入れた。
「そろそろ、頃合いかなぁ」
多くの貴族達からの製作依頼で、ネロが多忙を極めているという報告を受け、ルシウスは天井を仰いだ。
めっきり会えていない友達の顔を思い出しながら、腕を組んで思考に沈む。
「……会いたいなぁ」
早く、ネロに会いたい。
最近のルシウスは、それしか考えられなくなっていた。
ネロを見出した人間として、ルシウスの審美眼は高く評価されており、貴族社会での名前も高まっている。
今はまだルシウスに遠慮してか、ネロに手を出そうとする人間はいないが、それも時間の問題だ。
ネロの名声が高まれば高まるほど、彼自身の価値も高まる。
そのうち、悪どい商売人に捕まったり、好色な勘違い貴族に囲い込まれたり、してしまうかもしれない。
ネロ本人に言えば鼻で笑われそうな心配だったが、ルシウスは本気で憂慮していた。
他の人間がネロの作品を所有していることすら面白くないのに、ネロ自身が他の人間に奪われることなど我慢できるはずがないのだ。
「もう、限界だ」
これほど有名になったからには、いつまでも街の彫刻家ではいられない。
貴族や有力者との関わりも増えてくる。
いずれ、ネロは社交界にも出て来なければならなくなるだろう。
そうなった時に、彫刻のことしか考えずに生きてきたネロが、やっていけるだろうか?
利用され、使い潰されることなく、ただ作品と向き合う濃密で穏やかな日々を維持できるだろうか。
無理に決まっている。
「早く、ここに連れてこなくちゃ」
自分の手で、自分の名で、ネロを守りたい。
ルシウスは強くそう思っていた。
金と欲に塗れた醜い人間達によって、ネロが傷つけられるよりも早く。
薄汚い誰かによって、ネロが奪われるよりも早く。
「急がなくちゃ、いけないな」
彼を支援するのも、彼の生活を守るのも、彼をすぐ近くで見つめるのも、ルシウスは自分でありたい。いや、自分でなければ嫌だった。絶対に。
***
「え、ア、アノルウス公爵家の方、ですか!?」
「はい、さようでございます」
いつも通り作業をしていると、現れた来客は、国で最も有名な貴族家の名前を告げた。
ネロは目を白黒させながら、慌てて作業着の乱れを正し、礼をする。
「失礼いたしました。ネロと申します。初めてお目にかかります」
「ご丁寧にありがとう存じます、ネロ様。私はただの使いでございますので、どうか楽になさって下さいませ」
孤児院時代にしつけられた貴族への礼を取ると、白髪の紳士はおかしげに笑って、にこやかに首を傾げた。
「ご立派になられましたねぇ、ネロ様」
「え?」
「もうお忘れでいらっしゃるでしょうね。前にいらした工房で、あなたの作品が売られ始めた時に、あなたの作られた、二匹の猫の作品を買いに参った者です」
その言葉にピンときて、ネロは目を見開いた。
「あっ、お孫さんへのプレゼントだと仰っていて方ですか?」
「おや、よく覚えておいでですね」
「はい、作った作品は全て覚えておりますので。その節はありがとうございました」
礼儀正しく礼を告げながも、さも嬉しそうに、若者らしい溌剌とした笑みを浮かべるネロを、紳士は我が子を見るような目で見つめる。
「私の仕え先の御子息が、ネロ様の作品の大ファンでしてね。この度は、ぜひ屋敷にお招きしたいとのことでして……いかがでございましょう?」
穏やかに尋ねられた内容は願ってもないことで、ネロは即座に頷いた。
「もちろんです!アノルウス公爵家で私の作品を見たと仰る貴族の方が、何名も興味を持って下さって……本当にありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ我が主人の我儘にお付き合い下さいまして、誠に感謝申し上げます。さて、ところで本日のご都合は?どなたかとお約束があったり、ご予定があったりなどはなさいませんか?」
「今日、ですか?」
悪戯めいた顔で首を傾げてみせる紳士に、ネロは不思議そうに首を傾げた。
「いつも通り、製作をするつもりでした。特に予定や約束などはございませんが……え、まさか、今からですか!?」
あまりにも急な話に、思わず大声をあげてしまい、口を押さえて「すみません」と謝った。
紳士はネロの無礼を気にする様子もなく、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「はい、もし可能であれば、なのですが。我が主人は大変お忙しい方……なのもあるのですが、どうやら、もう限界と見えまして。一刻も早くネロ様にお会いしたいご様子なもので」
「え?」
どこか呆れ混じりの口調に違和感を抱きながらも、ネロは慌てて首を横に振った。
「で、でも、私は、公爵家のお屋敷に伺えるような服装を持っておりません。ほとんど作業着しか……」
「構いません。そのままの姿で良い、とのことでございますので」
「で、すが……」
困惑するネロに、紳士は優しく微笑んだ。
「ぜひ、いらして下さいませ。我が主人は、さぞやお喜びになるかと」
せめて着替えを、と頼み込んだネロは、手持ちのものの中で一番新しく清潔な服を纏い、迎えの馬車に乗り込んだ。
乗合馬車と比べて驚くほど座り心地の良い座席に感動しながら、ネロはずっと気になっていたことを、目の前に座る紳士に問いかけた。
「あの、もしかして、……あなたが公爵家の皆様に、私の作品をご紹介下さったのですか?」
「え?」
「だって、私みたいな平民の彫刻家の作品を、アノルウス公爵の方が見つけて頂けるなんて、どなたかがきっかけを作ってくださらないと、ありえないと思いまして」
そうであればお礼を言いたい、とネロが熱心に言い募ると、紳士はクスクスと笑って、クシャリと目尻に皺を寄せた。
「ふふ、違います。きっかけを作られたのはネロ様ご自身です」
「へ?」
言葉の意図を読みきれず困惑するネロに、紳士は意味ありげに微笑んだ。
「お会いになれば、分かりますよ」
***
皇帝の住まう城を除けば、帝都で最も大きな屋敷。
門から玄関が見えないほどに広大な、アノルウス公爵邸。
庭園も邸宅も、まるで芸術品のような美しさで、ネロはほとんど夢の中にいるような気分だった。
応接間に案内されたネロは、興奮に頬を染めながら、キョロキョロと室内に目をやった。
豪奢な部屋に飾られているのは、ネロの作品ばかりだ。
少しばかり気恥ずかしい思いで、見回していると、ふと、気になるものがあった。
「え?あれ、は」
部屋の目立つ場所に飾られているのは、ネロの作品だ。
一番最初の作品。
友達、に売ったはずの。
「あいつ、……ルシウスのやつ、俺の作品売ったのか?」
呆然と呟き、ネロは凍りついた。
「最近は俺も有名になったし、それなりにイイ値がついたのか?でも、売ったなんて……なんで?」
作品を見つめながら、ポロポロと悲しみが溢れ落ちる。
あれほど喜んでくれたのに、とネロは胸に鋭い痛みを覚えた。
けれど。
「……あ、そういえば」
ふと思いついた事実に、ネロはごくりと唾を飲んだ。
ルシウスと会っていないのだ。
おそらくは、もう一年近く。
「あいつ、今、どうしてるんだ?」
頭の中がぐるぐると混乱し、考えがまとまらない。
ソファに腰掛けたまま、両手で頭を抱えた。
「いつから会っていないんだ?くそ、覚えてねぇ。いつもルシウスから来てくれてたから、俺、あいつの家に行ったことなんか……もしかして最近、生活が苦しかったのか?」
考えれば考えるほど、自分がルシウスのことを何も知らないことに気がつき、思い知らされる。
自分たちの関係が、どれほどルシウスに依存していたのかを。
「なんだよ、苦しかったのなら、言ってくれれば助けてやれたかも、しれねぇのに。俺、最近昔よりは豊かな暮らししてるんだからさ。あいつにお菓子とか野菜とかもらってきた恩は、返すのに。……早く一人前になりたい、いつかお前と対等になりたいと思って、頑張ってきたのに」
悶々として、泣き言のようにひとりごちながら、涙が溢れそうになる。
自分はルシウスに頼ってもらえなかったのだ、信頼されていなかったのだ、とネロは感じた。
「でも、何か理由があるのかも、しれないし」
公爵邸から帰ったら、一度ルシウスの実家だという商会の屋敷に訪ねてみよう。
門前払いされるかもしれないけれど、伝言くらいは頼めるかもしれない。
そう考え、必死に心を落ち着かせていると、廊下に人の気配がした。
皺ひとつない黒衣をきっちりと着込んだ執事が現れ、待ち人がそろそろ到着することを告げた。
アノルウス公爵家の子息は、聞いていた通り多忙なようで、急用で外出していたが今戻ってきたらしい。
ネロは慌てて立ち上がり、居住まいを正した。
緊張して待ちながら、もし可能だったら、あの最初の作品についても聞けたら聞こうと心に決めた。
もっとも、それは無駄な決意だったのだけれど。
「………え」
「やぁ、久しぶり!」
現れたのは、ネロが今考えていた、まさにその人だった。
「る、しうす」
ネロの友達。
大事な、初めての友達。
初めての作品を売った相手。
初めてのお客さん。
初めての……。
「る、しう、す?」
「うん、そうだよ。フルネームは、ルシウス・アノルウス。アノルウス公爵家の長男で、君の作品に魅入られたファン、そして……君の友達さ!」
ネロは呆然としながら、堰を切ったように語るルシウスの話を聞いていた。
正直、何を言っているのか分からなかった。
(嘘だろ。俺の作品を素晴らしいと言ってくれてたっていう貴族がこいつ?)
状況に思考がついていかず、ネロは壊れた人形のように、ただ「うそだ」「信じられない」と繰り返す。
「本当だよ」
凍りつくネロに、辛抱強く言い聞かせるのは、これまでに見慣れた友人。
髪の色だけ少し違うけれど、幼い頃から変わらない、端麗な顔と、美しい碧眼。
(考えてみれば、ただの平民が、こんなに美しい訳がなかったのか)
ふわふわと纏まらない思考で、昔の記憶を手繰り寄せながら、ネロはぼんやりと考えた。
目の前の、照れた様子で頬を掻く仕草は、見慣れた昔馴染みの友達のものだ。
けれど、一目で最上級とわかる生地の服を着こなし、家が一軒建ちそうな値段の茶器を慣れた様子で扱うのは、見知らぬ貴族の青年だ。
ネロの知らない、ルシウスの本来の姿。
「ねぇ、ネロ。提案なんだけれども、……アノルウス公爵家に、来ない?」
「え?」
あまりにも思いがけない言葉に、ネロは我に帰った。
冗談かと思ってルシウスを正面から見つめるが、とても冗談など言う気のないような真面目な顔だ。
理由を問うネロに、ルシウスは待ち構えていたかのように、饒舌に告げた。
「僕の見えない場所で君が苦しんでいるのなんか、耐えられないんだよ!
あの粗末な家で嵐の夜を過ごすのかと思うと恐ろしいし、有名になった君を狙って家に泥棒が入ってもすぐには助けに向かえないし、これからは、きっと名声を得た君を利用しようとする人間がたくさん現れるだろうし。それに、君が欲しい素材だって僕が表立って行動すれば良質なものがすぐに手に入るよ!……離れたままでは、君のために僕ができることは、限られてしまうんだ、ネロ」
「ルシウス……」
次々と吐き出される言葉から予測される真実が、ネロの心を串刺しにする。
(あぁ、そうか。わかった)
「ルシウス、お前は俺をずっと助けてくれていたんだな?……アリガ、トウ」
「ふふ、気にしないで。僕がしたくて、したことなんだからさ」
嬉しそうに輝く笑みから正解を知る。
ネロの心にひたひたと絶望が迫り来て、深い闇の中に引き摺り込まれそうだった。
「ねぇ、ネロ。僕のそばにおいでよ。これからは僕が、直接君を守ってあげる。君はアノルウス公爵家の……ううん、僕のお抱えの芸術家になればいい。そうすれば、君を利用できる人間なんて、この国には存在しないよ」
「……そうか」
「迷惑になるとかは考えなくていいからね。だって僕、君も、君の作品も、大好きなんだ」
「それは、ありがたい、申し出だな」
(でもな、ルシウス。俺は、……そんなこと、望んでいなかった)
必死で強張った笑みを浮かべ、ネロはいつものようにルシウスへ言葉を返す。
友達としての、言葉を。
「……色々とありがとうな、ルシウス」
自分のものとは思えないような声が、やけに快活な調子で唇から飛び出てくる。
「俺は創作に没頭できる。けど、あんまりにも、お前に旨味がなくないか?」
「そんなことないさ。君と一緒に暮らせるなんて、とても幸せだ。君は僕にとって特別な、唯一の友達なんだ!だから、これからも君のためになることは、なんでもしてあげたいんだ」
「ははっ……そっか」
悪気など欠片もない、ただひたすらにネロのためにと紡ぎ出される言葉と約束が、着実にネロの心臓を締め上げた。
「これからは、僕の側で創作を続けて。作品はこの屋敷に飾り、欲しい人が現れたら、君が売りたければ売ってやってもいい。衣食住は心配しないで。君の生活は僕が保障する。君は作品を作っていればいいんだ。そして、時々、僕の相手をしてくれると嬉しいな」
「ははっ、そっか」
ルシウスの優しさが、苦しかった。
ネロの気持ちも願いも、ちっとも理解していない目の前の友達が、ひどく、憎かった。
「一度家に帰っていいか?作りかけの作品も、工房に、たくさんあるんだ」
「うん、全部持ってくるといい。明日また、迎えを寄越すよ」
まるでルシウスの申し出をありがたく受け入れるかのように、ネロはルシウスへ明るく笑いかける。
ズタズタに引き裂かれた心は、悲鳴をあげることすら出来ないほどだったけれども。
「楽しみだね、ネロ」
「あぁ、……そうだな」
(なぁ、ルシウス。俺は、お前の助けなんて、欲しくなかった。自分の力で身を立てて、そして……お前と対等になりたかったんだ)
「アリガトウ、ルシウス」
ルシウスの無邪気な笑みが、ネロは悲しくて、悔しくて、虚しくて、そして憎くて、仕方なかった。
ルシウスは、自分の申し出が素晴らしいものだと信じていた。
だから、受け入れられると信じて疑わなかった。
ワクワクしながら、公爵家へネロが戻ってくるのを待っていたのだ。
けれど。
「ルシウス様!」
翌日、ネロを迎えに行ったはずの部下が、青い顔をして戻ってきた。
報告を聞いたルシウスは、部下よりも更に血の気をなくし、その顔は紙のように真っ白になった。
慌てた足でネロの工房へ駆けつけたルシウスは、恐ろしいものを見た。
「……ネ、ロ」
綺麗に整えられた家。
力任せに壊された作品たち。
そして。
「うそ」
そこに人の気配はなく、どれほど探しても、置き手紙ひとつ、見つけることは出来なかった。
***
ルシウスは茫然自失の中で過ごしていた。
世界は色彩を失い、常に濁って見える。
どんな豪華な食事も味がしない。
けれどそんな日々の中でも、ルシウスは若き公爵令息としての務めは果たしていた。
生まれてからずっと叩き込まれ、骨の髄まで染み込んだ貴族としての責務が、ルシウスに常に次期アノルウス公爵として相応しい行動を取らせていたのだ。
夜会でも、会議でも、視察でも、そして婚約者である皇女とのお茶会でも、ルシウスは全てをそつなくこなしていた。
美しい微笑みを浮かべながら、貴婦人に甘い言葉を囁き、紳士達と洒脱な会話を交わした。
地方からの報告を熟考し、過去の記録を調べ上げ、各所へ適切な指示を飛ばした。
何もかも今まで通りで、問題は何一つ生じていなかった。
だから、ルシウスの心は完全に死んでいたけれど、彼の異変に気付いた者はほとんど存在しなかった。
アノルウス公爵邸の外では。
「ルシウス兄様は、本当に愚かね」
「……ユリア」
開かれた扉にも視線を向けず、ネロの作品に囲まれながらぼうっとしているルシウスを見て、ユリア忌々しそうにため息を吐いた。
「お兄様の部下から、話を聞きました。本当に、思い上がりも甚だしい言動だと思いましたわ。思っていた以上に、お兄様は救いようのない方ですのね」
容赦なく突き刺す言葉に、ルシウスは目を伏せる。
「ユリア、君には分かるのかい?ネロが僕の元を去った理由が。もしも分かるのならば教えておくれよ、僕にはさっぱり分からないんだ」
「お断りいたしますわ」
年下の妹に縋るようなルシウスの弱々しい願いを、ユリアは躊躇いもなく断った。
「だって、お兄様がご自分で気付き、悔やんでこそ意味があるものですから」
深いため息を吐きながら、ユリアは下を向いてばかりのルシウスをまっすぐに見つめて叱咤する。
「相手の心を思いやるとか、配慮するという点に欠けていらっしゃるのよ。相手がどういう人で、どのようなことを喜び、悲しみ、怒るのか。さっぱり分かっていないのですもの。だから、お兄様のお友達は去っていったのですわ。おそらくはとても傷ついて」
どんどんと項垂れていくルシウスの姿に、ユリアは少し声音を和らげた。
「ねぇお兄様。お兄様はどうなさりたいの?」
「僕は……僕は、ネロに戻ってきて欲しいんだ。僕のそばに」
「……私が伺ったのは、お兄様がどうなさりたいのか、なのですけれども」
ユリアの問いかけに、子供のような答えを返すルシウスに、ユリアは何度目かの大きなため息を吐き出した。
成人もとうに過ぎたはずなのに、まるで幼な子に退行してしまったかのような兄を見つめる。
そして、なにか覚悟を決めるかのように閉眼した。
「ねぇ、お兄様」
強い意志を宿した瞳で、ユリアは強い言葉を吐き出す。
「お兄様みたいな役立たずに、コルネリア様を任せられません。まったく、こんな人形みたいな方、我がアノルウス公爵家に、居てもいなくても同じですわ。さっさと消えてくださればよろしいのに」
「あぁ、まったく……その通りだね」
あまりにも手厳しいユリアの言葉にも、ルシウスはただ、ぼんやりと頷き返すのみだ。
何も感じ取っていないかのようなルシウスに、ユリアは頭が痛いと言いたげに額を押さえた。
「……本当に、察しの悪い方」
うんざりと吐き捨てられた言葉に、ルシウスが首を傾げる。
今度は何がいけなかったのだろうか、と。
「アノルウス公爵家には私がいるのですもの。お兄様なんかいなくてもよろしいのよ。……まぁ、行動する気合もお持ちじゃないようですけれど」
呆れ果てたような、けれどどこか温かい声が、ルシウスの思考をゆらりと揺らす。
「本当に、どうしようもない愚兄ね」
諦め混じりの言葉をのこして、ユリアはルシウスの部屋を去っていった。
***
「なぁ、ルシウスよ」
夜、ルシウスは父の部屋に呼ばれていた。
向き合って座るクラウドは、困りきったように眉を顰めている。
暫くの無言の後、重々しく口を開いた。
「最近のお前は目にあまる。特に問題を起こしているわけでもないが、……その生気のない様子。まるで死人のようだぞ」
「ご心配をおかけし、申し訳ありません、父上」
心配げな父の言葉へ、ルシウスは言葉少なに謝罪を述べる。
「そのようなお前に、アノルウス公爵家を任せることができるのか、私は非常に不安だよ」
「……申し訳ありません」
未来を憂う父の言葉に、ルシウスは短く謝罪を繰り返した。
他に言える言葉がなかったのだ。
「私はアノルウスの子として生まれた責務を放り出すことはなく、日々務めを果たして参ることを、お約束申し上げます」
台詞を刷り込まれた小鳥のように、無感動に誓いを述べるルシウスに、クラウドはため息をついて目を閉じた。
痛む眉間を右手で揉みながら、「はぁ」と再び大きな息を吐く。
「皇女殿下を妻として迎え、アノルウス公爵を継ぎ、そしていずれは宰相としてこの国を支えていく。それがお前の道だ。決して簡単な道ではない。非常に険しく、危険で、困難な道だ。……お前はその道を、己の意思で進めるか」
「……私は、それが己の運命と思っております」
淡々と答えるルシウスをじっと見つめ、クラウドはゆっくりと大きく息を吐いた。
目を閉じて腕を組むクラウドの眉間には、深い皺が刻まれている。
「……はぁ。致し方ない、か」
何かを諦め、何かを受け入れるかのように、クラウドは小さく呟いた。
「なぁ、ルシウスよ。……そんなに生きていることが辛いのならば、いっそ死ぬか?」
***
「おい、聞いたかよ。新しいアノルウス公爵様の話」
「あー、酷い話だよなぁ」
「つい最近爵位を継いで、別嬪な皇女様と結婚したばっかりだったのになぁ」
「お可哀想に。遺された奥方様もお気の毒だ」
「妖精のようだって噂の、末の皇女様だろ?よく孤児院に慰問に来てくださる、お優しい方だって噂だ」
「まだお二人ともお若いのになぁ」
「家族みんなで新婚旅行に行って、そこで山賊が出たらしい」
「なんだそりゃ」
「そんなの、物語でも聞きゃあしねぇぞ」
「勇敢に奥方と妹御をお守りになり、力尽きて湖に沈んだらしいぞ」
「すぐ引き揚げられたからお体は生前のままお美しかったって話だ」
「そりゃあ唯一の救いだな」
「皇女様は泣き暮らしていらっしゃるってよ」
「そりゃそうだ。夫婦になったばっかりだってのに」
「妹御の御令嬢は、気丈に振舞っていらっしゃるようだが、兄上が死ぬのを目の前で見ちまったなんて、なぁ」
「おめでたい話だったのにねぇ。今じゃお二人とも真っ黒なお召し物ばかり身に纏って、ずっと喪に服していらっしゃるらしいよ」
「……へぇ。喪服の美少女二人かぁ。そそられるねぇ」
「最低な感想だな、ゲス野郎」
「だが気持ちは分かるぞ」
「きっと俺らには想像もできねーような、色っぽい美女だろうなぁ」
「面白がってるじゃねぇかよ、お前ら」
「ふははははっ、まぁな」
「なにせ、俺たちみたいな平民には、あんまり関係ねぇ話だからなぁ」
***
マーロン帝国の南、ドレウ公国。
繊細な細工を施された貴金属が有名なこの国で、「若いのに良い仕事をする」と最近話題の細工師がいた。
「細工師のネルザン様のいらっしゃる工房はこちらでよろしかったでしょうか」
「はい、私がネルザンですが」
夕暮れ時の工房に、下町には不釣り合いな貴婦人がひとり、訪ねてきた。
留守番をしていたネルザン……ネルザンと名乗り、細工師として働いていたネロが名乗ると、貴婦人は上品に笑った。
「あら。では、あなたがネロ殿でいらっしゃいますか?」
「っ、な」
突然、捨てたはずの名前を呼ばれ、ネロは言葉を詰まらせて凍りつく。
けれど数回、深く呼吸を繰り返し、腹に力をいれた。
逸らした視線を目の前の貴婦人に戻して、口を開く。
「……はい。かつて、そう名乗っていたこともございます。……失礼ですが、あなた様は」
ネロの問いかけに、さらりとフードを脱いで顔を見せた女性の顔は驚くほどに秀麗だった。
瞳は冬の湖面のように青く、一つにまとめられた髪は太陽のような輝く金色をしている。
どこか痛みをもたらす色彩に、ネロは困惑しながら立ち尽くす。固まってしまったネロを前に、女性は柔らかな笑みを浮かべて、美しい淑女の礼をした。
「私は、ルシウス・アノルウスの妹、ユリアと申します。この度は兄が多大なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。アノルウスを代表してお詫び申し上げます」
「えっ!?ルシウス、様の……!?」
聞きたくはなかった、けれどどこか予想していた名前に、ネロは唇を噛んで視線を彷徨わせる。
複雑な顔で黙り込むネロに、麗しい貴婦人、ユリアは申し訳なさそうに眉を落とした。
「はい。こちらの国でもご立派に暮らしていらっしゃるようで、安心いたしましたわ。兄のせいで苦しい生活をされていたらと思っておりましたの」
「いえ、そんな……!それに帝国で俺……いや、私があれほどの評価を得て、分不相応な暮らしを出来ていたのも、ルシウス、さま、のおかげなのですから」
「あら、そんなことございませんわ」
ユリアの言葉に、慌ててネロは弁明する。
そもそもマーロン帝国でのネロの評価は、ルシウスの助力があってのものなのだから、と。
けれど、ユリアは当然のような顔で否定し、あっさりと首を振った。
「兄が何もしなくても、あなたはきっと成功していらっしゃったと思いますわ」
「え?」
驚くネロに、ユリアはまるで確信を抱いているかのように語る。
「兄の功績は、せいぜいあなたを孤児院に連れて行ったことくらいかと。ドレウ公国でも十分認められていらっしゃいますし、ネロ様のご実力ですわ。兄の助力などなくとも、時間をかければ十分に認められたでしょうし、名声を得られたかと存じますわ。兄の行いは、まさしく余計なお世話以外の何物でもございません」
軽やかな声で紡がれるのは、己の兄への糾弾だ。
ネロは何も言えず、天使のような顔をした少女の酷評を聞いていた。
「ご安心くださいませ。兄にあなたの居場所を告げたりは致しませんわ。あの愚兄の所業には、私も腹に据えかねておりますので」
「愚兄……」
「兄は、頭が回るだけの愚者ですわ」
思わず言葉を繰り返してしまった。
ツンと口を尖らせ、眉を寄せた不満げに語る顔は愛らしいのに、薄桃色の小さな唇から紡ぎ出される言葉は驚くほど手厳しい。
「ネロ様、兄にはね、婚約者がおりますの。ご存知でした?」
「え?いえ」
突然変えられた話題に、ネロは戸惑った。
ルシウスの婚約と自分に、一体何の関係があるのかと困惑するネロを見つめ、ユリアは優しい微笑みを浮かべる。
「兄の婚約者は、コルネリア様とおっしゃって、私たちの帝国の第三皇女様ですわ。お美しく、お優しく、聡明で、嫋やかで、まるで地に舞い降りた天女のような、至上のお方です。私にとって、この世の誰よりも大切なお方ですわ。……けれど、兄は」
歌うように皇女を称えるユリアの目には、これまでにない温かな光が浮かんでいた。
しかし、ルシウスのことに話が及ぶと、忌々しそうに眉を顰める。
「コルネリア様に、ちっとも関心を示しませんのよ。ご自分の婚約者だというのに」
「……」
柔らかな声には、不似合いなほどの怒りが込められている。
憤懣やる方ないというように、薄青の瞳に白い炎を燃やすユリアを見ながら、ネロは返答に困り、無言を通した。
「…… まぁ、それはもう良いのですけれど」
暫くして怒りがおさまったのか、ユリアは少し気まずげに、落ち着きを取り戻して話し始めた。
「ネロ様が居なくなってから、兄は完全に腑抜けで、使い物になりませんのよ。一応最低限の働きはしておりますが、将来アノルウス公爵として国を担うことなど、とても出来そうにありませんの」
わざとらしく頬に手を当てて、困った表情を作ったユリアは、ネロに「どう思われます?」と言わんばかりの目を向けた。
「今の兄は、友が一人消えたくらいで、己のなすべきことをちっとも出来なくなっている、貴族の風上に置けぬ屑ですの。それも己の考えなしの愚行のせいで、なのに。あのような者は、アノルウスの名に相応しくありませんわ」
あっさりと兄の未来を切り捨てて、ユリアは無邪気ににっこりと笑った。
「だから、私、お兄様を殺してしまおうと思って」
「なっ、何を」
優しげな美貌のわりに豪胆な少女は、あっさりと冷酷な台詞を口にする。
そして、動揺してパクパクと無意味に口を開閉しているネロを見て、ころころと笑った。
「だって、あんな男が夫じゃあコルネリア様もお幸せにはなれないし、領民も不幸ですし、我が国の行く末も心配ですわ。アノルウス公爵を継ぐ者は、宰相となることがほぼ決まっているようなものですのに。……それにこの事は、父も納得しておりますわ」
「で、ですが」
ネロの声が、恐怖で掠れる。
十年以上の付き合いのある、唯一の、大切な友達なのだ。
どれほど腹が立っても、いっそ憎いと思った時があったとしても、それでも。
死んで欲しいなんて、思ったことはなかった。
自分が姿を消したことがきっかけで、ルシウスが身内に殺されるなんて、考えたくもない
「でも、そんな、……そうだ、公爵家の世継ぎはどうなるのです?ルシウスに、男の兄弟はいないはずでしょう?」
「あら」
必死に止めようとするネロを嘲笑うように、ユリアは妖艶な笑みを浮かべる。
「頭が弱くて精神も弱い兄のような男よりも、何十年も先を見通し、緻密に大胆な計画を立て、実行に移すことのできる、度胸が座った私のような女が公爵になった方が、よほど皆が幸せになれると思いませんこと?」
ユリアの浮かべる優しげな笑みは、とんでもなく美しいのに、ネロの目にはいっそ魔王のように邪悪に映った。
「我が国は、嫡出の男児がいない場合、女でも家督を継げるのですよ。いかが?素敵でしょう?」
「そ、んな……」
心臓が嫌な音で早鐘を打ち、胸が苦しくなる。
笑みを浮かべたまま、残酷な言葉を紡ぐユリアに、ネロは酸素を求めて喘ぐように自分の胸を掴んだ。
「そんなこと、なぜ、おれに」
聞かせるのか、と切れ切れの声で詰ろうとした、その時。
「だからあなたには、お兄様の死体を作って頂きたいの。お兄様は、コルネリア様を庇って、湖に落ちて亡くなってしまうから」
「…………え?」
悪戯が成功したような顔で笑うユリアには、先程までの邪悪な気配は見つけられない。
唖然とするネロに、ユリアは瞳を和らげて優しい顔を向けた。
「ふふ、あなたと兄のせいで、これから大変な目に遭うのは私ですから。少し意地悪をしてしまいましたけれど、許してくださいませ」
「は、ぁ、……よかった、です。本当に殺されるのかと」
へなへなと、その場に座り込んだネロに、ユリアはあっけらかんと笑った。
「あら、ルシウス・アノルウスという男は死にますわ。残るのは、少しばかりのお金を持って母国から放り出された、ただのルシウスという名の男です」
「……はは、なるほど。まるで、俺の昔からの友達のようですね」
「ええ」
力の抜けた顔で笑うネロに、ユリアは困った顔で笑った。
「友達が困っていたら、助けてやりたいという気持ちはありますよ。まぁ、もちろん、相手が望めば、ですけれど」
「……そこが大切なのに、あの兄は分かっておりませんのよ。よく躾けてやって下さいませ」
はぁ、とため息をつき、眉を落としたユリアは、座り込んだままのネロに「お立ちになれますか?」と尋ねて手を差し出した。
流石に淑女の手を借りるわけには、と、ネロは力の抜けた足を叱咤して立ち上がる。
「どうやら俺の……いや、俺たちの喧嘩のせいで、随分ご迷惑をおかけするみたいで。申し訳ありません」
「全ては我が兄のせいですから。ネロ様がお気になさることはありませんわ」
美しい顔に大人びた微笑みを浮かべて、ユリアは体を深く折り、淑女の礼をする。
もう二度と会うことのない、兄の友達に。
「……どうしようもない愚か者でありますけれど、兄は悪い人ではありませんのよ。さぞご迷惑をおかけするでしょうけれど、死んだ兄の世話は、どうかよろしくお願い致しますわ」
***
「いやぁ、本当にネロが僕を許してくれて良かったよ」
あっけらかんとした顔で、テーブルの上のパンケーキを切り分けるルシウスは、とても幸せそうだ。
話しながらも、長い指先がナイフとフォークを操って、美しく動いている。
「ネロが迎え入れてくれなかったら、僕、きっと行き倒れていたと思う」
「……そうだな」
ルシウスの正確な自己評価に頷きながら、ネロは自分の皿の上にケーキとフルーツが美しく盛り付けられていく様をぼんやりと見る。
「お前にこんな特技あったんだな」
「ふふ、貴族としては、美しく食べるのも大事だったから、その影響かなぁ」
褒められて嬉しそうにはにかむルシウスの顔は、驚くような美形だ。
よく見れば、まるで芸術品のような容姿の友達の姿に、ネロは今更ながら何故この男がただの平民だと信じ込んでいたのだろう、と首を傾げた。
まぁ、今はもうただの平民なのだが。
「っていうかルシウス、お前、どうなってるんだよ?この間、朝起きたら家の前にお前が転がってて、ビックリしたんだけど」
「いや、僕もビックリしたよ。襲われて、気を失って、目が覚めたら手首縛られて違う国の地べたに転がされていたからさ」
「……そうか」
あまりに扱いが雑だが、随分と手際が良い。
ユリアはもしかして、裏世界の仕事にも長けているのかもしれない。
これはルシウスでは敵わないなぁと思いながら、ネロはルシウスの話に耳を傾けた。
「どうしようと地面の上で途方に暮れていたら、ドアが開いて君が現れて、この世の全てに感謝したよね!」
「お気楽だなぁ。俺は心臓が止まるかと思ったぞ」
呑気な台詞にツッコミを入れつつ、ネロは苦笑する。
ルシウスは随分と生き生きとしていて、まるで子供のように楽しそうだった。
「ふふ、僕ねぇ、地べたに寝転がりながら、死にたいと願っていたはずなのに、『あぁ、お金も何も持っていない、これからどうしよう』なんて思っていたんだ。おかしいよね」
「まぁな。でも、生きてたら当たり前の感情だろ」
情けない顔をして自嘲するルシウスに、ネロは軽い言葉を返し、笑って首を振った。
「それに、ルシウスの場合、着の身着のままでもひと財産だったし、よかったじゃねぇか」
「わりとお金になったみたいで、よかったよ。早く仕事見つけないとなぁ」
「随分と積極的だな」
「君がいるからね。幸せな予感に満ちているし、生きる気力しかないもの。本当に、家族には感謝するしかないよ」
明るく告げるルシウスを、ネロも表情を緩めながら見守る。
友達が楽しそうな様子を見るのは嬉しい。
きっとルシウスも、そうだったのだろう。
だからネロを喜ばせたくて、ついやりすぎてしまったのだ。
そう考えると、過去の怒りも少しずつ和らいでくる。
まぁ、ネロの気持ちというものに考えが及ばなかったというのは、幼稚というほかなく、お粗末なものであったけれども。
「ネロがいなくなってから、僕、本当に生きる気力がなくなっちゃってね。抜け殻みたいになっちゃって」
パンケーキを口に運びながら、無言で物思いに耽るネロを気にすることもなく、ルシウスは軽い口調でネロがいなくなってからのことを話した。
「全部投げ捨てたくても公爵家に生まれた以上は不可能じゃない?僕、なんだかんだ優秀だったから、廃嫡される理由はないし。でも、結婚して幸せな家庭とやらを築いて、君のいない家で毎日息をして、君のいない国のために仕えて生きていくのかと思うと目の前が真っ暗になって。でも自暴自棄になる気力すらなくて、呆然と惰性で過ごしていたんだけどね」
なんと言って良いのか分からず、ネロは黙々とパンケーキを口に運ぶ。
(……うまいな)
料理本を見ながら初めて作ったと言っていたわりに、随分と美味しい。
作ったのはルシウスだ。
家に置いてもらうからには何かしなければ、と言って、服や宝飾品を売ったお金で料理本を買ってきたのだ。
やはり舌が肥えていると、料理も上手なものなのだろうか。
思考が逸れていたネロは、続いて耳に飛び込んできた言葉のインパクトの強さに、思わず現実に引き戻された。
「そうしたら、妹に『消えてくださらない?』て言われたんだよね」
「……ぅお」
「その後、父上にも『お前、そんなに辛いなら死ぬか?』って言われて」
「……お、おぅ」
相変わらず過激な言葉を使うな、とユリアに一瞬引いたネロは、父である前公爵もなかなか凄い、と考えを改めた。
こう考えると、アノルウスの家では、むしろルシウスが少し変わり者なのかもしれない。
「びっくりしたんだけど、まぁそれもいいかなと思って『はい』って言ったんだよ」
「いや、抗えよ」
「ネロがいないのに、生きてても仕方ないかなって」
さらりととんでもなく重い台詞を吐いたルシウスは、簡単に食前の祈りを唱えると、自分もパンケーキを食べ始める。
話す内容の深刻さに比べて、口調と態度が平然としすぎていて、重さを感じさせない。
「毒でもくれるのかなと思ったら、そういうわけでもなくてさ。結局そのままで、予定通りにコルネリア様と教会で結婚式挙げることになってね」
「結婚式……」
「うん。僕って死ぬ予定じゃなかったのか?と思って、思わずちょっとボヤいたら、妹に『コルネリア様の麗しい花嫁姿を見るチャンスをふいにしろと?そもそも皇族の結婚は、国としても一大イベントなのだから中止できるわけないでしょう?お兄様の脳味噌は腐ってしまったの?』って軽蔑の目で見られるしさ。なんかもうどうでもいいやって」
「うあー」
あまりに想像がつく情景に、ネロは何一つ言葉が出てこなかった。
一度しか会っていないはずなのに、天使の美貌に魔王のような笑みを浮かべたユリアがはっきりと瞼の裏に浮かぶ。
さぞ美しく、恐ろしかったことだろう。
「で、ぼんやりしている間に、皇女殿下の夫として相応しい地位をってことで、爵位を継いでね。新婚旅行だって言われて、湖畔近くの城に連れ出されて。そうしたら急に、父上から『言い遺すことがあれば聴くぞ』って言われて、あ、ここで死ぬ感じか、と」
「あっさり納得しすきだろ」
「いや、やっぱ公爵家と皇族の繋がりくらい作ってからにしろってことだったのかなぁと思ったんだよねぇ」
あっさりと言いながら、ルシウスは「イチゴが甘くない。選び方失敗したかなぁ?」と首を傾げている。
ルシウスにとっては、イチゴ選びの方が重要な関心事のようだ。
「で、まぁ、父上に『不肖の息子で申し訳ありませんでした』って言ったら、心底呆れ果てた顔で『まったくな』って言われて」
「お、おぉ」
遠慮ない言葉に、ネロはただ話を促すために頷くだけだ。
父親の気持ちと苦労も分からなくはない。
それに、息子の幸せのために、彼らが犠牲にしたものは大きいのだ。
いろいろと文句を言っては罰が当たるだろう。
……たぶん。
「湖畔でコルネリア様がユリアとお茶会している横で、どうしたらいいのかなぁ、湖に飛び込めってことかなぁとか思いながらボンヤリしていたら、変な盗賊みたいな奴らが現れて、捕まって」
「は!?あの噂ってマジだったのか!」
「袋の中に押し込められて。外でドボンってすごい音がして」
「はぁ!?」
「担がれて運ばれて、袋の外が大騒ぎになってる気配が次第に遠のいて、そのうち僕も気を失って」
「は……」
「気づいたらここにいた」
「そう言う感じかよ!!」
凄まじい勢いで話が一気に急展開し、現在の状況に繋がった。
「いやぁ、びっくりしたよね。そうくるかぁ、と思って。家族の愛を感じたよ」
「……そうか」
アノルウス家の独特な価値観の片鱗を感じ、ネロはコメントを差し控えた。
そして、今日自分が聞いてきた話をルシウスに伝える。
「……酒場で旅人に聞いた噂では、隣国の若き公爵ルシウスは、うら若き妻コルネリアを山賊から守り、湖に散ったことになっているらしいぞ」
「無様に溺れた僕の名誉のためだとか言って、盗賊から守るために散ったことになってるのかな?でも、死体もないのに、どうやったんだろうね?」
「……さぁな」
思い当たる節があるネロは、視線を逸らして食事に集中する。
ネロの人生における最高傑作は、ユリアの手によって上手く使われたらしい。
色をつけるのが大変だったなぁと思い返しながら、ネロは思わず遠い目をする。
本当に、とんでもない話だ。
死体をつくる、なんて。
「ユリアがコルネリア様を言いくるめてくれたのかなぁ?」
「あー、たぶん、きっと、もっと上手いことやってると思うぜ。俺たちが思いもつかないような方法で。コルネリア様の幸せと、領地の発展と国の繁栄と、あとご自身の幸せと、全部叶うような上手い手でさ」
「そうだね。考えてみれば、ユリアは昔から悪魔のように賢い子だったし」
ネロの言葉に、誇らしげに目を細めたルシウスは、力強く頷いて同意する。
そして嬉しそうに付け足した。
「僕の幸せも、どうにかしてくれたし」
「……全部失って、俺みたいなやつのヒモになるのが、幸せってか」
「あはは!でも、失くしたものって、よく考えたら僕が欲しかったものは、一つもなかったしね」
照れ臭さと居た堪れなさで、皮肉を口にするネロに、ルシウスは気にした様子もなく笑い飛ばす。
「まぁ、とりあえず仕事見つけなきゃねぇ。あ、今日は、シチューに挑戦するから、期待しててね!僕、舌だけは肥えてるから」
自信満々に言うルシウスに、ネロは苦笑混じりに頷いた。
「おう、楽しみにしてるわ」
「なんだかこの会話、庶民の新婚さんみたいだね!」
「馬鹿言ってろ。じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい!」
そして、全てを手放した二人の平穏な一日が、今日もゆったりと始まったのだった。
長めの短編でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。