23 浸透してくる
なんだか落ち着かない。
黒板をチョークで叩く単調な音と、数学の先生の低く抑揚のない声。
いつだって午後の授業はこの音で眠気に襲われるのに、今日はそれが押し寄せる気配が一切ない。
凛莉ちゃんのせいだ。
『あたしも考えがあるんだからねっ!』
それがどんな考えなのか、彼女は一切明かしてくれなかった。
昼休みは、ひたすらわたしにお弁当を食べさせるだけ。
ずっと目がギラギラしていて、何か行動を起こそうとしているのはよく分かった。
わたしはそれが不安だ。
何をしてくるのか気が気ではない。
授業には全然集中できなかった。
◇◇◇
授業が終わり、休み時間になる。
「涼奈ー?」
ビクンッとわたしは震える。
張りのある凛莉ちゃんの高い声。
少し遠目の位置からわざわざ声を掛けてくる。
何人かの耳には届いているだろう、そんな行動を凛莉ちゃんはクラス内でとったことはない。
「……」
わたしは聞こえないフリをして、顔をうつむかせて机の木目を眺める。
「涼奈ってばー」
「……」
な、なんだ。
なんのつもりなんだろう。
わざわざわたしを晒し上げて、何がしたいんだ。
「おい、涼奈。日奈星さんがお前を呼んでるぞ」
進藤くんがわざわざ知らせてくれる。
分かってる、さすがに聞こえてる。
無視しているのを察してくれ。
「わたしじゃない」
わたしは木目を見つめたまま言葉を返す。
「いや、明らかにお前を見て“涼奈”って呼んでるけど」
「……ちがう」
「違わないだろ。あ、こっち来るぞ」
「え」
な、なんだろう。
凛莉ちゃんがわたしに何の用があるんだ。
「涼奈、聞こえないの?」
真横に凛莉ちゃんの声が聞こえる。
視線だけ横に逸らすと、短いスカートの丈と太ももが目に入った。
まちがいなく、この足は凛莉ちゃんのものだ。
「……今、忙しいから」
「……机とにらめっこしてるようにしか見えないんだけど」
「だから、それやってるの」
「それは何もやってないって言わない?」
「言わない」
もう自分でも何言ってるのかよく分からないが、これは意地だ。
凛莉ちゃんとは目を合わさずに、早く帰ってもらうように素知らぬ態度を貫く。
「じゃあこれ見てよ」
目の前に数学の公式が広がる。
凛莉ちゃんが俯いているわたしと机の間に、教科書をスライドさせてきた。
「……見るのは木目でいい」
「どんな趣味なのさ。いいから、これ教えてよ」
すると凛莉ちゃんは人差し指で授業の後半に解いていた問題を指す。
そこは今日の授業で初めて習った公式を用いる問題だった。
「……教えるとは?」
「だからこの問題意味わかんなかったから、教えてって言ってんの」
……そんなこと言われたことない。
日奈星凛莉の成績に関してはよく知らないが、授業の分からない部分をすぐに聞くほど勉強熱心のキャラクターではなかったはずだ。
それなのに、どうして凛莉ちゃんはそんなことを聞いて来るのだろう。
「教えてくれないの?涼奈、勉強得意なんでしょ?」
別に勉強は得意ではないが、凛莉ちゃんが聞いてきた問題は答えられる。
ただ、それを教室にやることには抵抗がある。
「凛莉ちゃんの友達に聞けばいいじゃん」
どうしていつもいる中心部の位置から離れたわたしの場所へやって来たのか。
スクールカースト上位の方々に聞けばいい。
「だから涼奈に聞いてんじゃん」
「……」
凛莉ちゃんの声はいつもハキハキとしていて聞き取りやすい。
ボソボソと喋るわたしとは大違いだ。
でも、今はそれが億劫だ。
この会話がクラスの人に聞かれているのではないかと思うと、気が気ではない。
「ねえ。教えてよ」
「凛莉ちゃん、声大きい」
「小さくしたら教えてくれるの?」
「……放課後なら」
「ダメ、いま」
「なんで」
「今じゃないと忘れる」
凛莉ちゃんと勉強の話なんてしたことない。
だから絶対そんなに勉強熱心じゃないはずだ。
これが昼休みに言っていた“あたしの考え”なのだろうか。
「今教えてくれないとずっとここにいるからね」
それは困る。
ただでさえ視線を集める日奈星凛莉が、うつむいている雨月涼奈の隣にずっと立ってるなんて意味が分からない。
ていうか、“何で雨月涼奈は日奈星凛莉を立たせてるんだ?”という疑問が浮上する気しかしない。
「……わかったよ」
わたしは折れた。
ささっと説明して自分の場所に戻ってもらおう。
顔を上げて、教科書と向き合う。
「どこまで理解してるの」
「ん?最初からよく分かんなかったよ」
……おい。
それは最初から聞いてないってことじゃないか。
やっぱり勉強興味ないじゃん。
「だから、あたしにも分かるように丁寧に説明して?」
それって全部教えろってことか。
結構時間かかる気がするんだけど。
「……この公式を使えばオッケー」
わたしは説明書きされている隣のページを指差して、これを使えばいいだけということを教える。
秒で解決した。
さあ、帰ってちょうだい。
「いや、それで分かるなら学校も教師も必要ないし」
ぐうの音もない正論を返された。
「凛莉ちゃんには必要ないってことだね」
しかし、それでもわたしは押し通す。
「いや、いるし。じゃないと分かんないし」
「じゃあ授業ちゃんと聞きなよ。これ、聞いてたら分かったよ」
「眠いじゃん、午後の授業って」
寝てたのか……。
そりゃ分からないだろう。
「気持ちは分かるけど、それならちゃんと起きて聞いてなよ。また分からなくなるよ」
「別にいーよ。そしたら雨月先生に教えてもらうから」
「……わたし先生じゃないし」
「安心して、雨月先生の授業ならあたし寝ないから」
聞いてない。
わたしはそんな話は聞いていない。
凛莉ちゃんは勝手な事を言い始めている。
そしてこの会話が本題を一切進めずに、時間だけを徒に浪費していることに気付く。
「もういい、教えるからちゃんと聞いてよ」
「はーい。よろしくお願いします、雨月せんせっ」
そう言って凛莉ちゃんは膝を折って、しゃがみ込む。
顔を机の高さに合わせて、両手の指先は机の端を掴む。
にこやかな笑顔を浮かべて、わたしの説明を待っていた。
それは誰がどう見ても親しい間柄。
わたしは、心ここにあらずで凛莉ちゃんに説明する。
結局、彼女が理解する時間と、休み時間が終わるのはちょうどだった。
「ありがと涼奈、また分かんなくなったら教えてね」
「……やだ」
「むり、聞くから。じゃあね」
凛莉ちゃんは手をぱたぱた振って席に戻っていく。
わたしはそれを振り返すのは恥ずかしくて、頭を下げて一礼した。
そしてそのまま木目を見つめる。
結局、教えても教えなくても凛莉ちゃんは最後まで隣にいたんじゃないか。
いや、むしろ説明する方が他人からはずっと話しているように見える事だろう。
これなら横でお地蔵さんになってもらっていた方がよかったかもしれない。
「涼奈、やっぱり日奈星さんと仲良かったんだな?」
……ほら、さっそく進藤くんにそれが伝播してしまった。
人の噂は瞬く間に流れて行く。
その流れは一度始まれば止まらない。
だから流れる前に止めなければならない。
「仲良くない」
「いや、涼奈が俺以外にあんなに話してるの初めて見たけど」
「説明してただけ、仲良くはない」
「“凛莉ちゃん”って呼んでたのにか?」
「……別に、ここなちゃんだってちゃん付けだし」
「日奈星さんはお前のこと“涼奈”って呼んでたぞ。ちょっと前まで“雨月さん”だったよな?」
「……」
そうか。
呼び方一つで関係性をこんなに露わにしてしまうのか。
たったこれだけのことが、わたしの否定の言葉を容易く掻き消してしまう。
「友達なんだろ?なんで隠すんだよ、俺くらいには教えろよ」
「……いちおう」
白状してしまった。
ちょっとずつ凛莉ちゃんの思い通りになっている気がする。
わたしの殻はずぶずぶと凛莉ちゃんに侵されている。
まだ割れることも、亀裂も入っていないけれど。
彼女の気配がわたしの周りを埋め尽くし始めている。
そんな日奈星凛莉に抗える自信がわたしにはない。
それはちょっとしたショックだった。
自分の境界線を守るのに必死なわたしが、それを否定しきれないなんて――
「……まるで凛莉ちゃんに侵されるのを期待しているみたいじゃないか」
――そう思ってしまったのだ。




