15.シュリンと王子の攻防
席を居間に改め、主客ともにソファにくつろいで、それぞれ好みの酒を美しいグラスでサーブされている。ようやくシュリンと話すことができる王子の気持ちは蕩けたようになっており、目はシュリンにくぎ付けだ。
一体シュリンの何がこんなにもこの王子を引き付けているのか、部屋にいる全員が首を傾げている。同席しているのは立会人として伯爵、その後継ぎとして責任を引き継ぐアラシュミー、父であるオーサー。王子の斜め後ろには、この日は席を与えられてメーム子爵。
王子が口を切らないので、伯爵がグラスを持って感謝の意を述べた。
「お招きに感謝します」
と、グラスを軽く上げて口をつけた。それぞれが目礼をして、場が始まった。
オーサーが言わねばならない礼を言う。
「メーム卿、孫が世話になりました。お気遣いに感謝します」
「いえ、誰にも覚えのあることです。私も落としました、庇ってくれたのはこちらの殿下で」
王子がメーム卿を見る。
「そうだったかな?」
「はい、今も感謝しております」
長く一緒に居て、王宮の困難を共に乗り越えてきた乳兄弟とは有り難いものだ。
「オクタビアさまのこと、こちらの不手際をお詫びいたします」
メーム卿が改めて詫びる。今夜エレとタビーの瞳を確認したメーム卿は、一つのトラブルが解決した喜びと、この先に待っている正嫡直しがふたりになりそうな、次のトラブルの予感に複雑な心境を抱えていた。だが、ここで関係者に改めて詫びておくことが大切だということはわかっていた。
王子がいきなり話し始める。
「シュリン、すまなかった。俺のために双子を生んでくれていたのだな。
報告を上げた者から直接事情を聴きとろう。そなたの気が済まぬなら罰してもよい」
シュリンの目が驚きに見開かれる。この王子は何を言っているのだろう。
「殿下……」
シュリンはしっかりと気を取り直して、王子に対面することにした。この男を頼って王宮に住むなど危険すぎる。
「殿下、わたくしの気持ちと、立会人の仕事の間には何の関係もございません。公正に聞き取りを行い、法と前例に従った扱いをお願いいたします」
「そうか、シュリンは優しいな」
「優しさの問題ではありません、殿下、これは王子殿下が護っておいでの王国の法にございます。
たとえ王子殿下であろうとも、法の支配の下にあることはご存じのはず」
「うむ、よかろう、シュリンの言うとおりである」
よかろうではない~。悲鳴のような心の声が部屋に満ちる。この王子、大丈夫なのか?
王子にはシュリン以外何も見えていないようだ。伯爵家の重鎮たちが同席しているのを気にすることもなく、席を立ってシュリンの前に片膝をつきその手を取った。
「シュリン、長く待たせてしまった。今度こそ私の妃に」
そう言って、手の甲に口づける。
メーム卿は天を仰ぐ、いや、天井を見上げる。伯爵はあまりのことに言葉を失い、オーサーからは殺気が立ち上る。この場で落ち着いているのは、シュリンだけだ。
「殿下、待つとは? わたくしは何を待っておりましたのでしょうか」
「もちろん、私の妃として共に王宮に住む日だ、そうだろう?」
「つまり?」
「この日だ、もちろん」
「殿下はマリアニ妃殿下がお亡くなりになるのをお待ちになっていたとおっしゃるのですか?
いえ、わたくしが妃殿下の死を待っていたと?」
「いや、何を言っておる、そんなことは思いも」
シュリンが王子の言葉を遮った。
「思いもよらぬとの仰せですか? でもわたくしが殿下の妃となって王宮に上がるには」
「あ、いや、そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
王子は言葉に詰まるが、怯みはしない。
「そうではない。私もそなたも人の死を待ったりはしない。
だが、私がそなたを妃に迎える日を待ち続けていたことに違いはない、もちろんそなたもそうであろう」
「いえ、殿下、そんなことはありません」
シュリンはにっこり笑うが、目は笑っていない。心の声はもちろん、“ふざけんなよ、コノヤロウ!”だ。
「わたくしは、殿下が妃殿下とともに幾久しくお幸せであることだけを祈っておりました。
妃殿下がお健やかで、王女殿下、王子殿下と寄り添うご家族であると信じておりました」
「シュリン、なんという。
そなたは私に黙って王宮を離れ、あのような隠れ里で16年、どんなに寂しい日々であろうかと思わぬ日はなかった」
「わたくしは幸せでした」
シュリンはきっぱりと言った。
「殿下はお考えになったことがおありでしょうか。
もし、マリアニ姫を退け、妃に上がりましたならば、わたくしと娘たちに平安の日は一日とてございませんでしたでしょう」
「え、何故だ」
「想像してみていただけますか、殿下。立場を変えて考えてみていただきたいのですが」
「うむ、言うてみよ」
「仮に、でございますよ、あくまで仮にですので、お怒りなきよう」
「うむ」
「殿下と妃殿下の間の最初のお子さま、王女さまが隣国の王太子殿下の婚約者に決まったと思し召されてくださいませ」
「ああ、ないことではない」
「お輿入れの日も決まり、お支度も終わり、輿入れのお行列を整える作業をしております折に、隣国の子爵令嬢が皇太子のお子を授かり、王女殿下へ婚約をなかったことにと申し入れがありましたら、殿下はどうなさいますか」
「うむ」
「うむではございません」
「ああ」
「殿下、今、戦争だと思いあそばしました?」
「うむ、ないことはない」
「同じことにございますよ。
メリア侯爵家のマリアニ姫が殿下のご婚約者でした。その姫君を退けて、子爵の娘が子を得たから婚約をなかったことにしてくれ、となさいましたら? 殿下」
「ああ」
「メリア侯爵家をなんと思し召しで? モンスコンデ伯爵家とメリア侯爵家に武器を取らせるということにございましょう?」
「いや、そんなつもりは」
「なかったのでしょう、そうではありましょうが、結果はそうなるに違いありませんでした」
「ああ、そうかもしれん」
「殿下、そうかもしれんではございません」
シュリンの口調は静かだがきっぱりしていた。
伯爵とオーサーは、王子がシュリンに執着する理由がわかったような気がしていた。
シュリンは、王子にわかる言葉で話しかけることができるのだ。シュリンは賢く、また心のどこかで王子を愛しくもまた哀れにすら思っており、王子が不勉強からではなく対人関係における推定を苦手とすることから起こるトラブルを解決することができるのだった。
王子はシュリンを一種の「人間関係と雰囲気を読んで伝えることのできる通訳」として傍に置けば、王宮でのトラブルを避けられることがわかっている。この役割は、王子がシュリンを信じ切っているからこそできるのであり、替わりはいないだろう。
これはもう、シュリンを王子の傍に上げることだけはやむを得ないと、ふたりは納得していた。
「シュリン、そなたの言葉はいつも心に響く。
頼む、私の妃に。王宮の私の傍にいてくれ。愛している、シュリン」
王子の両手は、シュリンの手を上下から挟んだままだ。
シュリンは、それは愛でないかもしれないことを知っていた。仮に、シュリンが恋人や夫から真に愛されることを知っていたなら、または愛する人がいる幸せを知っていたら、この王子の為に王宮に上がって難しい立場に立とうなどとは決して思わなかっただろう。
しかし、もうすべてが今更だ。この男の娘を生んで15年。この男の健康と平安を祈って生きてきた。最後までこの役目を勤め上げることになるのだろう。