1.異世界に行きませんか
坂下こよりは、ボーっとしたまま目覚めた。無菌テントの袋状になっている個所から、母が手を入れて来て、そっとこよりの頬を撫でる。
「こより」
母が涙を見せないように必死でこらえているのがわかるが、酸素マスクを着けられているのでおかあさんと呼び返すこともできない。母は看護師に肩を叩かれ、名残惜しそうに部屋を出ていく。そのあとは、電子機器のピ・ピ・ピ、という無機質な音が残るだけだ。
少し前までは電子書籍を読むことが許されていた。自分で寝返りを打つこともできた。だがもうわずかに身じろぎをすることしかできない。
ああ、このあとどうなっちゃうのかな。まるで他人事のように考える。
浅い眠りの中に漂い、再び目を開くと、酸素テントの中にヒト(?)がふよふよと浮かんでいた。胡坐を組み、左の膝に肘をついて顎をのせている。真っ白の髪の毛が長く垂れ下がり、毛先はこよりのシーツの上で踊っている。
「やあ、坂下こよりさん」
え、なに?
薬で痛みを除去されているこよりの反応は鈍い。
「ああ、意識が薄いのね、すこし話がしたいから、薬の効果を弱めちゃうけど、痛みはないからね」
うん?
すーっと意識が明瞭になる。
「あ、声を出さなくていいよ、話したいことを思うだけでいいから」
あの、だれ?
「君たちの知っている概念だと、異世界の神、ってやつさ」
は、は、はじめまして。
「驚いた?」
もちろんです。お迎えがいらしたと思いました。
「うん、同じ反応だねぇ」
同じ?
「あのさ、ちょっと前、高坂真由さんって女性をリクルートしたんだよね、マユも、お迎えですか、って言ったよ。この世界の普通なのかな?」
はあ……
「というわけで、坂下こよりさん、リクルートに来たんだけど、ボクの星に来ない?」
はぁ……
「異世界転移のテンプレっていうらしいけどね、全言語理解、鑑定、無限収納、ステータスボードにマップ機能も付いてるよ」
あの、異世界に行くんですか?
「まあ、勧誘に来たんだけど。どうかな?」
どうかな、と言われても……
「そうだよね、坂下さんはもう一度元気になりたくてがんばってんだもんね、異世界に行きませんかとか言われても、返事に困っちゃうよね。
今日はとりあえずお誘いだけにしておくかな、また来るよ、考えてみてね」
はぁ、どうも。
異世界の神と名乗った幻影は、美しく微笑んで消えてしまった。
こよりに、明瞭な意識を残してくれたのは、「考えてみる」チャンスを与えてくれたのだろう。
2日ほどして、再び異世界の神があらわれた。やはりふよふよと浮いている。
「坂下さん、こんばんは」
あ、神さま、こんばんは。
「どう?考えてみてくれた?」
はい。いろいろと考えられるようにしてくれてありがとうございます。ようやく自分の状態がわかるようになりました。これは延命措置なんですね。
「あ、うん。そうとも言うかな」
それで、このまま死んでしまうよりも、神さまの世界に行って、歩いたり走ったり、本を読んだり、お料理したり、もう一回できたらいいなって、思うようになりました。
「うん、うん、いいね。すぐにでも行けるよ?」
はい、でも、異世界とか初めていく場所なので、ちょっと説明してもらっていいですか?
「もちろんだよ。何が聞きたい?」
えーっと、私の前に行った人がいるって。こうさかまゆさん?その人のことを教えてください。
「高坂真由は、ボクがリクルートしたんだよね。テンプレ装備以外に、魔法をてんこ盛りで付けたんだけど、あまり使わなかったよ。ボクが用意したセーフハウスの中で、じっくり考えて道を選んでいたね。
今は、魔の森ってところで、神獣とS級冒険者と一緒に、錬金術師として生活しているね」
そうなんですね。もう長いんですか?
「そうだね、ボクの星は、きみたちのイメージだと、剣と魔法の中世世界なんだよね。
マユは清潔な生活にこだわってね、お風呂と水洗トイレがないところには行かない、って頑張ったんだよ。いまさら中世なんてお断りです、このまま死なせてください、って言われてねぇ」
こよりの唇から笑い声が漏れた。それはもう数カ月ぶりのことだ。
「強引に引っ張っていったんだけど、本当にいい仕事をしてくれて。ボクは大当たりだったと思ってんだよ。
もう2年ほど前になるかな」
マユさん、ですか。そちらに行ったら会えますか?
「同じ世界だもの、会えるかもしれないよ。ただ、坂下さんに行ってほしい場所はちょっと離れているんだよ」
行ってほしいところがあるのですね。
「そう。第一候補は、公爵令嬢なんだけど、どうかな」
どうかな、って言われても。
公爵とか最近だとイギリスの皇太子の子どもしか知らないんだけど。ケンブリッジ公爵?
娘がひとりいて、名前は確かパトリシア?まだ幼稚園児くらいだったかなぁ。女王さまのひ孫?かな?その子が公爵令嬢かなぁ、多分。
「ボクが頼みたい公爵令嬢は15歳なんだよ。皇太子と婚約していてね」
あ、そのパターン知ってるかも。お話の中だけど。
「どんなお話?」
えっとね、色々あるんだけど。すっごく色々あるんだけど。
5,6歳の時から婚約してて、まあまあうまくいってて、皇太子妃教育とかもまじめに受けるんだよね。でも、14歳くらいの時に主に貴族が行く学園に通って、そこで、皇太子が婚約者以外の女性を好きになっちゃうの。
それで、よくあるパターンだと、学園の卒業記念パーティーで婚約破棄されるんだよね。
「ふーん、そんなことあるのかねぇ。公爵令嬢と言えば別格だよ?容姿、能力、公爵家の権力、個人資産。比べるのもばかばかしいよね」
う~ん、それがね、実例があるんだよ、こっちの世界に。まあ、伯爵令嬢だけど。
皇太子が伯爵令嬢と結婚したんだよ。国民みんな大喜び。
でも、う~~んとイロイロあって、離婚して、伯爵令嬢はそのあと事故で亡くなったの。
皇太子はもともとの恋人ってか、皇太子妃との結婚前からの愛人だった人と再婚してハッピー、って話が実話であるんだよねぇ。
容姿、人脈、家柄、客観的には皇太子妃の方がはるかに勝っているように見えるのに、愛人の方が、皇太子にとって”やすらげる”相手だったとか何とか。
まあ、結婚して王子をふたりも生んだ後で、
“もともと愛人いました、知らなかった?真実の愛なんでスマンネ。
離婚はしないけど、愛人と暮らしてるから、普段は。公務だけ付き合ってね“
とか言われるより、婚約破棄の方がまだ良心的かも。
「ふーん、あるんだ。そうか、うーん」
ムリかな~、皇太子。顔見たら成層圏の彼方まで蹴り飛ばしちゃいそう。
「う~ん、そうか~」
あ、そうだ。中身入れ替わるとかなら、いっそ男の子に代わってもらえば?男同士とか、気持ち悪いから近寄らないでとか、婚約は白紙に戻してとか、いや、逃げる?
「いや~、すごいねぇ、こよりちゃん。
そうか、公爵令嬢を入れ替える手もあったか。あのさ、侍女として来てほしかったんだよね」
あ、ごめん。じゃ、思い切って令嬢を侍女にして、令嬢の中身を男の子にして、ファイティング・レディとかどうかな。
「振り切ってるよねぇ」
えへへ、ラノベ大好きっ子なんだ~
ねえ、他にもある?転移先。
「あ、うん。いまのでちょっと考えが変わった気がするよ。一応ボク神さまなんだけどね~」
あ、ごめんなさい、ハジけ過ぎ?
「いやいや、おもしろいからいいかも。
もう一つあるんだけど、こっちは込み入っているんだよ。
まずね、王宮騎士団副団長って人がいるの」
うんうん、テンプレ?イイ男なの?
「伯爵家の次男だけど。腕よし、顔よし、性格まる。
結婚してて、娘もいるけど」
う~ん、略奪愛はちょっと~
「いや、最後まで聞いて?
副団長は、奥さんがいたんだけど、娘をひとり産んで亡くなってしまったんだ。
その娘が、王宮の侍女に上がって、第二王子のお手付きになった。王子は溺愛状態で、妃に迎えようとしたけど、王子には小さい時からの婚約者がいたんだねぇ~、この説得に失敗してね。
娘は妊娠したことに気が付いて、王宮から下った。
副団長は娘のために隊を辞めて、娘を連れて自分の領地に帰ったのね。
伯爵家の次男だったから、家に頼って、国境近くの飛び地を預からせてもらって、娘と一緒に孫を育てながら郷士の生活を楽しんでいたんだね」
こよりはもうワクワクがとまらない。
これだけで1本書けるに違いない。誰か書いて~、と、心で叫びながらお目々キラキラで聞き入っている。
う~ん、異世界ドキドキ実話~
「それでね、第二王子妃が亡くなったんだよ」
え?第二王子、結局日和って婚約者と結婚したの?
「まあね」
ありがちかな~、もう~~
「この後どうなったかわかる?」
勿論だよ、第二王子が結婚しろって言ってるんでしょ?
「あたり」
それで、おじいちゃんもおかあさんも、孫娘も全員嫌がっている。
「大当たり~」
う~ん、イイかも。ちょっと時間貰えるかなぁ、神さま。
異世界の神は、とても美人に微笑んでフェイドアウトしていった。