第二話 ヘクセという魔女
「なんておぞましい子! この年でもう男を誘惑するなんて。穢らわしい! 母親そっくりだわ!」
母譲りのこの黒髪を憎んで、継母は度々鞭で打つ。
おろした髪というのは、男に媚び誘う意味がある。だから娼婦は髪を結わない。だから髪を結わずに手入れもされず、油でベトついた黒髪を垂らしている継子は穢らわしい。そういう論法だ。
別に好き好んで髪をおろしているわけじゃない。
不器用で髪を結うのが苦手だということもあるけれど、髪をくくるリボンも紐も、何もないのだ。それらはどんなにみすぼらしいものであっても、全て異母姉が奪って捨ててしまうから。「いやだ。公爵家の嫡出子様が、こんなにみすぼらしいリボンをつけているなんて、とても恥ずかしくて身につけさせられないわね?」と。
「どうしてこんなにみっともないの? 痩せこけてくちびるは乾いているし、髪は艶もない。ねえあなた、ちゃんと体は洗っていて? 孤児のように臭うわ。おお嫌だ。これが公爵家を継ぐだなんて。お父様にお考え直していただかなくては」
「本当ねぇ。そうよ。あなたが公爵家を継ぐべきなのよ。美しく気高いあなたこそが。ねぇ、だってそうでしょう?あなたは公爵様の尊い血を引くのだもの」
継母と異母姉はそれは愉しそうに笑う。
無言で無表情で、身動ぎもせず。そうして無為に時間の過ぎるのを待つ。
継母か異母姉は時に気まぐれを起こして食事の残りを恵んでくれることもあるし、癇癪でいたぶることもある。
公爵家に相応しい装いも出来ない嫡出子の存在が恥ずかしくてたまらないから「あなたのためなのよ」と笑いながら、継母が。異母姉が。代わる代わる地下牢に閉じ込める。
黴臭く湿った冷たい匂い。
運が良ければ翌朝、誰かが地下牢から連れ出してくれる。
三日ほど忘れられ、父公爵がわたくしの不在を指摘し、連れ出されたこともある。そのときはさすがの父公爵も眉を顰めていたように思う。
衰弱していたこともあり、父公爵がどのような指示をしたのかは知らない。
厩舎に押し込められ、馬とともに藁の上で寝たこともある。
踏まれないように出来るだけ端に寄って身を縮めて一晩を過ごす。
馬糞に藁、馬の油、躍動感溢れる命の匂い。
翌朝厩舎に馬の世話をしにきた馬丁が気がつき、屋敷に戻って報告に行く。面倒くさそうな顔をした使用人が迎えに来る。屋敷へ戻る途中、足を蹴られたり髪を引っ張られたり頬を打たれたり、継母、異母姉、侍女長や他使用人への愚痴を聞かされる。
それはまだいい方で、すぐに屋敷に知らせに戻ってくれる馬丁ばかりではない。
厩舎の隅で身を縮めるわたくしを見つけ、下卑て厭らしい笑みに口を歪める男がいた。飼葉や馬糞で汚れたブーツで強かに腹を蹴り上げられ、藁の上に寝転がされる。べっとりとこびりつく苦くて酸っぱい匂い。
最初は男は自らの下履きを脱いで見せつけるだけだった。その次は手を無理やり引かれた。その次は頬に擦りつけられた。その次は。その次は――。
純潔までは散らされなかった。
そこまではたとえ蔑んでよいと許された相手だとて、仮にも公爵令嬢だと踏みとどまったのかもしれない。単純にわたくしがまだ幼すぎたからかもしれない。
けれど劣情を発散できぬ代わりにと散々打たれ、蹴られ、嬲られた。継母や異母姉への恨みを口にしながら。
それでも彼等彼女達らは、決して父公爵への不平は口にしない。なぜなら生粋の貴族であるのは父公爵だけだから。継母は元はそこそこ裕福な商家の娘。父公爵の後妻に入ったことで継母の名は公爵家の家系図に加えられたが、異母姉は庶子で、その名が貴族名簿に載ることはない。
父公爵の亡くなった正妻との子である嫡出子は、わたくしだけだ。
亡くなった母は伯爵令嬢だったそうだ。母の生家はこの国が近年推し進める議会制に反発する旧体制派の貴族の一つで、派閥を同じくする父公爵との縁はそこで繋がったそうだ。完全なる政略結婚。
継母曰く、母が父公爵の美貌と権力に惹かれ、強引に結んだ婚姻だったらしい。真実は知らない。母はわたくしを生んですぐに亡くなってしまったし、母の生家は立憲君主制の確立化を阻止せんとクーデターを企ててしまった。母の生家は今はない。
だからわたくしは貴族であり叛逆者の子孫でもある。使用人がわたくしを軽んじる理由の一つ。
「薄汚い国賊め」
「生きていて恥ずかしくないのか」
「その名の通り、魔女そのものだ」
魔女。この国では重罪を犯した女囚人の隠喩になる。重罪人の子孫だから魔女。
わたくしの名はヘクセ。ヘクセとは魔女を意する。生まれながら魔女と呼ばれる重罪人。
そんな魔女を父公爵は一度だけ、抱き上げてくれたことがある。
優しく温かいオリーブ色の瞳を細め、そこに浮かぶ確かな慈しみを見た。父公爵の頭に手を伸ばし、お日様の匂いのする亜麻色の髪を小さな手で撫でると、父公爵は頬を緩ませた。そして父親らしい言葉をかけ、わたくしの額に口づけてくれた。
よく晴れた日だった。青い空と白い雲と、夏の訪れを知らせる緑の匂いと、茉莉花 の甘い匂い。
父公爵の亜麻色の髪とわたくしの黒い髪が風になびいて、きらきらと光っていた。




