この手を放して
この手を放して、私からは出来そうもないから。
この手を放して、多くを望みたくなるから。
この手を放して……。
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人は何故見たくもないものに限って見てしまうのだろう。
人は何故聞きたくもないものに限って聞こえてしまうのだろう。
その日柱の陰に震えながら私は隠れた。
まだ駄目だ、頑張って動くのよ私の足……。
やっとここまで逃げてきた。そう逃げてきたのだ。
それまでは当たり前にあった自信が音を立てて崩れていく。
足が途端に力を失ってみっともなくもその場にしゃがみ込む。
淑女らしからぬ振る舞い、私が一番嫌悪するもの。
何故か冷たく感じて頬を触ると涙が風であおられて胸元に落ちる。
人の気配がする、こんな姿を見せる訳にはいかない。
人は噂を流す、それが人の不幸だとあっという間に広がるだろう。
立ち上がって、頑張れ私……そう思った所で意識が反転する。
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私が目を覚ますとそこは医務室だった。
白いカーテンが揺れている、その向こう側に影。
暫く白いカーテンが織りなす陰影を見ていた。
ただぼんやりと。
すると影が動きこちらにやって来る。
白いカーテンをそっと音もなく少しだけ開けて男性が顔を出す。
「起きていらしたのですね、寒かったですか?空気の入れ替えをしていたので」
「お手数お掛けして済みません、どの位眠っていたのですか?」
「あぁ、まだ起き上がらないで。そうですね、ほんの一時間位ですよ」
「もう大丈夫ですから」
「眠っている間に女性教師立ち合いで診察しましたが貧血でしょう」
「そうですか、有難うございます」
「もう暫く休まれて下校時間に帰宅されますか?それともすぐにお宅にお送りしましょうか?」
「出来れば下校時間に宜しいですか?母が心配しますので」
「構いませんよ。それとこちらに見つけて運んでくれたのはワインバード伯爵家のご兄弟です」
「男性なのですか!」
「妹さんもご一緒でしたから醜聞にはなりませんよ。ご心配無く」
「そうですか、済みません取り乱しました」
「無理もありません、足の引っ張り合いですからね」
「……」
「ではもう暫くありますのでお休みください。時間より少し早く起こして差し上げますから」
「宜しくお願いします」
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放課後少し早めに用意を整えて馬車へ戻ろうとしていると元凶が慌てて走って来る。
その少し後ろをもう一人の元凶の姿が。
仲良く二人揃ってのご登場。
「大丈夫かい。貧血で倒れたらしいな、心配したよ」
「もう大丈夫ですわ」
「もう。水臭い。頼ってくれたらいいのに」
「心配ありがとう、今まで眠っていたのよ」
「そう?それなら良いけど」
「僕が送って行こう。さぁ、乗って」
「一人で大丈夫ですわ。家には知らせていませんの、母の体調が思わしくないので」
「でも、心配だよ」
「近いですから。何かあったら頼りますわ。シェリーナも有難う」
そう言って二人から離れる。
知らなかったらどんなに嬉しかった事か。
知らなかったらどんなに心強かった事か。
でももう時間は戻せない。
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私はその夜、父の書斎を訪ねた。
最近の事、そして今日見た事、婚約破棄をしたい旨を話す為。
私からは手が離せない、だからこそ父の力を借りるしかない。
気持ちは嫌だと叫んでいる。
でもこのままだと私は狂ってしまうだろう。
知らなければよかった?知らなければ……。
父親からは色よい返事が貰えなかった。
結婚前の浮気位目をつぶればいいと。
でも……と私は思う、母があんなに不安定なのは父のせい。
父が結婚前からの女性を他所に囲っているから。
目をつぶって結婚した結果がここに有る。
其れが幸せなの?お母様。
お父様は私にも同じ道を歩めと仰るの?
自分ではどうしても諦められないから手を貸して欲しいと願うのは間違っているの?
答えは出ない、道は続く生きている限り。
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父からは協力が得られないから考えた末に彼に告白する事にする。
彼から私の手を振り払って。
私だけの恋人じゃないなら。
私は彼を誘って季節外れのピクニックに来ていた。
シェリーナには言ってもいないのに自分も連れて行けと駄々を捏ねられた。
やんわりとでもきっぱりと断ると膨れっ面で何で、何でと彼女は言った。
「少し寒くはないかい。時季外れだから誰も居ないし」
彼は何が気になるのかキョロキョロと落ち着きが無い。
「誰も居ないからいいのよ。聞かれたくない話だから」
「聞かれたくない話って、家で何かあったの?」
自分の事とは露ほども思わないのね。
「家じゃ無いの」
「どうした。長年の付き合いだろう」
「思い切って言うわ。あなたを深く愛しているの」
「あ、当たり前の事をどうしたんだ?」
私が真面目に言うものだから彼は顔を背けた。
「とてもとても大事に、愛していたわ」
私はにっこりと笑った。
「……いた?」
「えぇ、そうよ」
「それはどういう意味なんだい?」
「そのままの意味よ、だから……あなたから手を放して頂戴」
「手を放すって、分からないよ何が言いたいんだ!」
少し声が大きくなる、彼にしては珍しい事だ。
「私からは難しくて出来ないの。あなたは知っているでしょう、お母様の状態を」
「……」
「このままだと私も母と同じになってしまう、だから手を放して頂戴、お願いよ」
「何か知っているのか?」
「あなたは昔から私の家の状態を知っていていつも慰めてくれた。どんなに心強く嬉しかったか」
「……」
「でもね、気持ちはきっと永遠じゃない。だから私が壊れてしまう前に終わらせて頂戴」
「……」
「私は大丈夫、とても強くなったのよ。もう子供の頃の私じゃないの」
「……」
「あなたの事も理解出来る年齢になったの、ようやくね」
「……」
「幸せになってね」
私は其れだけ伝えると静かに立ち上がり去ろうとした。
「ごめん、本気じゃない。僕が愛しているのは君だけなんだ」
「……」
「ただちょっとだけだったんだ、許してくれ。頼む」
「……」
「婚約破棄なんてしないよ。僕は君を愛しているしこれからは浮気もしない」
「本気と言われたらどれだけ良かったでしょう。あなたは父と同じだわ」
「直ぐに別れる、君のお父さんと僕は違う。だから別れるなんて言わないでくれ」
「チョット、それどういう事よ。私を好きだって言ったじゃないの」
いつの間にかつけて来たのだろうか、シェリーナが凄い形相でそこに居た。
「シェリーナ、幸せになってね。差し上げるわ」
其れだけ言って私はその場を後にした。
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