代理教師
初投稿です。夢特有の前後矛盾する時間軸をテーマに扱っています。
生徒が一人遅れていた。
新任教師として赴任した私は教室の前で待っている。
始業式の際はちゃんと全員揃っていたのだから、教室が分からず迷っているか最初のホームルームすら出る気がしないと考えてサボったのかもしれない。どちらにしても前途多難の問題児だ。
ため息をつきドアの窓から教室を覗いてみると、入学したての生徒たちはお互いまだ何を話していいか分からず妙な空気の中、沈黙している。
いや、よく見るとほとんどの生徒が小声で何か話しているようだ。他人の視線を意識しキョロキョロ周囲を窺いながら話をしている様子は、昼下がりの公園に集まった主婦のようである。
ドアを少し開けると廊下側の生徒の声が途切れ途切れに聞こえる。
「・・・でさ。・・・・が・・・・したらしいよ。」
「でも・・・・。・・・・屋上なら。普通・・・・ない?」
なぜか妙に緊張している生徒はお互い知った仲ではないだろうが、彼女たちは共通の何かに怯えているようだ。その不安を紛らわせるかのようにヒソヒソ話は続く。
「その前田先生は結局死んじゃったらしいよ。でも自殺じゃないって。」
前田先生?そんな名前の教師、うちの学校にいたかな。しかし学生はいつの時代もこういう話が好きだなぁ。
「事件性がないから警察は捜査を打ち切ったんでしょ。ニュースでやってた。自殺かどうかの判断って誰がしたんだろ。」
前の学校で起きた教師の自殺について話しているのだろうか。そんな話は聞かないが。
ネットやテレビで見た話にしてはやけに鬼気迫っている感じだ。高校生の彼女らがよくあるホラ話にここまで影響されるだろうか。
「妙だよね。屋上には鍵がかかっていた。今大体の学校がそうだと思うけど。鍵はずっと職員室にあったって当直の先生が。」
B級ミステリーっぽくなってきたな・・・。
「それもそうだけど。屋上から落ちたなら死体がグラウンドの真ん中にあった理由が・・・。それとは別の・・・。」
そうだ。思い出した。そうか。前田というのは私の前任の教師だ。校長によれば何かとても不幸なことがあったので代理として自分が充てられたという話だった。なぜ今まで忘れていたのだろう。
私はその時初めて背筋にムズムズするような寒気を感じた。彼女たちの他愛ない世間話に突然自分が関係してきそうな気がしたから。
「この話は自殺としても他殺としても矛盾してるんだよ。自殺を装いたいならわざわざ鍵を職員室に戻す必要はないし、本当に自殺なら遺体を動かす理由がない。警察が現場検証して他殺の証拠も見つからなかったわけだから・・・。」
その時、始業チャイムが鳴った。結局遅れた生徒は現れなかったなと思って階段の方を見ると、壮年の男性がこちらに向かって歩いてくる。
その壮年男性は私を見ることなく後ろのドアから私の担当する教室に入っていった。
男は一つ空いていた生徒の席に座ると顔を正面に向けた。その顔は学校の卒業名簿で一度だけ見たことがある。前任の前田先生だった。
私は始業チャイムが鳴り終わるまで、一歩も動くことが出来なかった。
「人違いだろう。」
私はそうつぶやき、壮年男性が生徒の席に座っているという事実がなかったかのように、勢いよく教室のドアを開ける。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
教壇に立って教室を見回すとヒソヒソ話に夢中になっていた生徒たちの視線が、今、私に集中したことが分かる。教師になったという実感より先ほどから続く違和感の方が強いが、生徒たちから見れば新米教師が緊張してるように見えているのだろう。
視界の端で先ほど話をしていた生徒の顔を確認する。あれはたしか秋山ひとみと犬飼ほたるだったか。出席番号の最初の方の生徒は顔と名前を覚えていたのだ。
窓際の席に座った壮年の男は正面から見てもやはり前田先生だ。そしてなぜか誰も周囲の生徒たちは前田先生の存在気づいていないようなのだ。とうとう自分はおかしくなったのか。それともこの学校には死んだはずの前任教師が生徒の席に着席して新学期を迎える慣習でもあるのか。
遠くで聞こえていたサイレンが近い場所で止まった。
「えー、みなさん。まず入学おめでとう。私はこれから君たちの担任を務める○○です。担当科目は英語。HR以外でも頻繁にこの顔を見るようになると思うので、よく覚えておいてください。」
一人の生徒が間違えて拍手しそうになるのを見てから、学生生活を送る上での注意事項や心得を話し始める。
そして、今日の段取りなど事務的な話をしながらも頭は別の事を考えていた。
これが正常性バイアスなんだ。今の自分がまさにそうだ。状況に頭がついていかないから普段通りの自分を装っている。仮に秋山たちの話が嘘で前田先生が健在だったとしてもなぜこの教室にいて、しかも生徒の席に座っているのか。校長は「不幸なこと」としか言わなかった。
私は話を終えると生徒たちに一人ずつ自己紹介するように促した。
出席番号一番の秋山が立ち上がって、自分の名前と入部希望の部活を言ってからよろしくと言って着席する。次の生徒も同じやり方を踏襲して、無個性的な自己紹介が続く。
教壇から一人一人の顔を見ていると、自分が完全に時機を逸したことに気づく。最初に前田先生に声をかけておかなかったためにホームルームを中断することが出来ないのだ。私は最初、生徒たちが前田先生の存在に気づいていないと思っていたが、普段通りを装っている自分のように周囲の生徒たちも異質な存在に気づいていながら普段通り振る舞っていたのではないか。
生徒たちの真意を疑い始めた時、クラスがワッと騒がしくなる。
どうやら一人の生徒が前の生徒の口調をそのまま真似して、クラスの笑いを誘ったらしい。それまでの沈鬱な雰囲気から一転、和やかなムードが生まれた。
私は少しホッとしながらお調子者の生徒を注意して、前田先生の方を見てみると、彼は相変わらず無表情で正面を見ている。
少なくとも生徒は異常を感知していない。だから今笑ったのだ。
私は次の生徒に自己紹介を再開するように言ってから、再び考え始める。
これはテストなのかな。新任教師である自分を学校側が試すために、監視役として前任の前田先生を教室に送ったのかもしれない。そんなこと面倒な事をやってる学校は聞いたことないが、生徒たちは予め聞いていたのだろう。自分への連絡体制に不備があったのかもしれない。そう考えると最初のクラスの異様な雰囲気も、秋山たちが話していた自殺でも他殺でもない前田先生の「死」もとても馬鹿馬鹿しいな。
自分は念願の教師になったのだ。そのことで少しナーバスになっていただけだ。
そして気づくと次は前田先生の番だ。
私は少し戸惑いながら「次の人、自己紹介をお願いします」と言った。
前田先生がジョークとともに真相を明かしてくれると願って。
「○○○先生、最初に廊下で会った時に注意してくれないと困りますよ。私が校内に侵入した不審者だったらどうするんですか。」
とは言わず、前田先生はおもむろに立ち上がり、何も言わずに窓から飛び降りた。周囲の生徒たちの視線は教室からいなくなった前田先生から私に移った。3階から落ちると人体はどうなるのだろう。そんなことを考えながら、私はずっと動けずにいた。
公南警察署から解放されたのは次の日の早朝だった。
夜通し取り調べを受けていたせいか、まだ自分に何が起きたのか現実感がなく、まだ取調室にいるような気分だ。
ボンヤリした頭でタクシーを探しつつ、駅に向かって歩いていると前に秋山ひとみが信号待ちをしていた。
アイツもこんな時間まで引き留められていたのか。
「おはよう秋山さん。お互い大変な目にあったね。」
声をかけてから、秋山が昨日のHR前にしていた気味悪い話をふと思い出した。取り調べを受けているときは忘れていたが・・・。
「あ、どうも。先生も今お帰りですか?」
秋山はただ信号待ちをしていたわけではなく、向かいの道路でタクシーが通りかかるのを待つつもりだったらしい。家の方向が同じらしいのでタクシーに相乗りすることになった。こんな早朝なら変な噂になることもないだろう。
「桜町銀座まで」
タクシーに乗りこむと、昨日秋山がしていた話の真意を確かめたい気がしてきた。
「昨日、ホームルームの前に後ろの人と何か話してたよね。偶然教室の外で聞いちゃったんだけど。」
秋山は神妙そうな顔をすると
「前田先生の話ですか。まさかあんなに思い詰めていたとは思いませんでした。」
何かが妙にかみ合わない。
「いや。君たちの話だと前田先生は死んだことになってたんじゃなかった?実際その後にあんなことになったわけだけど。どういう意図があったのかなと思って。」
なぜか秋山は嬉しそうだった。
「先生。噂に人間の意図なんて関係無いですよ。事実そのものではないですから。だから今わたしたちがこうして話している時点で、昨日先生が見た光景ももう事実そのものではないんです。」
私は少し失望した。彼女たちの話が荒唐無稽なデタラメだったためではなく、秋山がその嘘に開き直っていることに。
「つまりあの時話してたことはすべて嘘ってことか。」
「伝説や噂には元となった不思議な体験があるはずなんです。しかし人は元の体験を忘れてその上におぞましい怪談話や荒唐無稽な神話を上書きしてしまう。行逢坂が元々の共同神事を忘れた時に成り立つ神話であるようにですね。」
秋山は路地裏にタクシーを止めさせて、私が口をはさむ間もなくありがとうございましたと言って降りてしまった。
タクシーが発進してから後ろを振り返ってみると、秋山の姿はもう路地裏に消えていた。
すでに私は教師になったことを後悔しつつある。
「前田先生、無事でよかったですね」
同僚の杉村には突然話しかけてくる癖がある。彼は私と同じ今年就任したばかりの新米教師だ。
「ええ。まぁ全治2か月の骨折で済んだのが奇跡だとか。むしろ飛び降りを目撃した生徒たちも気の毒ですよ。」
「元々去年退職してから不安定だったみたいですね。生徒たちに関してはまぁ大丈夫じゃないですか。人の噂も75日と言いますし。」
夕暮れ時の職員室は新米の私と杉村、そして指導係の武内の3人しかもう残っていない。
早く残業を終えて帰りたいが、鬼教官と化した武内の手前そうもいかない。武内は学年主任でもあるので今日中に提出する書類に孤軍奮闘している。最初は手伝いを申し出たが、それより自分の仕事をしろと言われてから、手持無沙汰だった。
「それはそうと何見てるんです?生徒の調査書ですか。秋山・・・ですか。彼女に何か問題でも?」
脇から手元を覗かれて内心不愉快に思うが、短い期間を通じて杉村には悪意がない事が分かっている。
「いえ。特には。ただ警察で取り調べを受けた時、帰り際にちょっと話をしまして・・・。彼女は今年入学の新入生なんですよね?」
「ええ、もちろん。前田先生の件でショックを受けてるんですか。」
「というよりも前田先生の事を以前から知っているようだったので。」
「彼女の姉がOBですからね。お姉さんから聞いてたんじゃないですか。」
「へえ。良く知ってますね。」
「自分の弟がクラスメートだったんですよ。2年前まで在校生だったんです。前田先生がお辞めになったのは去年らしいですから。2人のクラス担任だったかどうかまでは知りませんが。」
姉から聞いただけであのようなでたらめな話をするだろうか。いくら手持無沙汰とはいえ秋山の家族構成まで調べている自分が悪趣味すぎるだけなのか。
私は新任教師の義務感からこの疑念を否定した。
「秋山の姉は2年の修学旅行の時に問題というか、ちょっとした騒ぎを起こしてますね。弟の話によれば、彼らは京都に行ったんですが、途中で彼女だけがはぐれてしまったそうです。2日間くらい行方不明で最後は東京とはまったく逆の方向に向かう電車の中で発見されたとか。」
「警察まで動いてますから、修学旅行自体が継続できないという話で、その後は彼女はしばらく入院したんですが、退院して通学するようになってもあまり思わしくなかったみたいです。」
不思議な体験を上書きすると言った時の秋山の顔が浮かぶ。あの時、彼女はどんな表情をしていたっけ?
「いじめ、ですか?」
杉村は眼を細める。
「いえ。知る限りでは表立ったいじめではなかったそうです。ただグループ行動でも常に一人だけあぶれていたと。弟は同じ弓道部だったので彼女と話したりもしていたらしいですが。最終的に不登校みたいになってしまいましたが、なんとか卒業はさせたみたいですね。」
大分はっきりしてきたな。しかし自分は秋山の真実や目的を知って何をしたいのだろう。
「ちょっとクラス名簿を見てきます。」
私は怪訝な顔をする杉村を残して職員室を出た。後ろから武内の声が聞こえたような気がしたが振り返らなかった。
使われなくなった視聴覚室が今は資料室として使われている。2年前のクラス名簿は比較的簡単に見つかった。前田はやはり秋山咲江の担任だった。写真に写る過去の前田はこの間の無表情な前田とは別人のように生き生きしている。
そして写真の秋山咲江は驚くほど秋山ひとみに似ている。同じ人間と思える程に。
私は名簿をコピーして埃っぽい資料室を出ると、目の前を女子生徒が横切った。
あれは秋山と噂話をしていた犬飼ほたるだ。丁度いい。
「犬飼さん。こんな時間まで残ってたんだね。」
秋山と犬飼はどういう関係なのだろう。振り返った犬飼は少し驚いたように目を丸めると先生と言って近づいてきた。美術部の後片付けで居残っていたらしい。
「私美術部員ではないんですが、顧問の先生に今度のコンクールに作品出すように言われてるんです。」
誇らしげに話す彼女はなぜ美術部に入らないのだろうか。
「そういえば、入学式の日、秋山さんと話してたよね。前田先生がどうとか。今も彼女とは話をする?」
あれ以来、私は二人が一緒にいるところを見ていない。
「先生も聞いていたんですね。まさかあんなことになるなんて。」
そして彼女はなぜか楽しいそうに笑った。
「人の言葉には不思議な力があるって言いますよね。言霊信仰でしたっけ。あれ元々は言葉自体ではなくて言葉を通じて神の力が顕れるって意味だったらしいです。神なんて信じない今の人たちが言葉の力だけは過剰に恐れるってなんか滑稽ですよね。わたしこれは皆が迷信深いとかではなく、言葉そのものによって復讐されてるだけだと思います。言葉は単なる意思伝達の道具ではないですよ。動物の方が群れの意思疎通なんかできてるじゃないですか。人間はたった40人程度のクラスすらいじめなしには維持できないと思います。ね、先生。社会全体ならもっとそうでしょう?秋山さんとは話しますよ。家が近所なので。」
事実の次は言葉か。不入斗高校の生徒はみんなこう持って回った言い方しかできないのか。
「あの噂話は単なる言葉で、自分たちは関係ないと。でも秋山さんのお姉さんは前田先生と無関係ではないよね。」
犬飼はうなずく。
「ミステリーだったら、動機がはっきりしてきたって感じですね。でもこれは現実ですからね。秋山さんだったら事実と言うんでしょうけど、動機ってそんなにはっきりと割り切れるものでしょうか。憎しみだけで人を屋上から突き落とすことができるとは思いません。やはり言葉だと思いますね。憎いと言った瞬間に憎さと別の感情が言葉の裏に張り付いてるんです。陰陽和合ってやつです。」
前田先生と秋山咲江に恋愛関係があったとでもいうのか。いかにも高校生らしい言い分だが、そんな事で前田先生が教室の窓から落ちる事態にはならないだろう。恋愛経験が乏しい私にはこの手のロマンはまったく分からなかった。
「探偵ごっこをするつもりはないけどね。君たちの担任として一応忠告はしておくよ。学校や大人を甘く見ないように。」
まだ何か言いたそうな犬飼を残して私は職員室に戻った。
その後、武内にレポートを何度も修正され、学校を後にしたのはもう日が沈んで大分経ってからだった。残業をした後の終わりのない疲労感に襲われたので、しばらく公園のベンチに休んでいくことにした。
テニスコート脇の自販機でコーヒーを買い、ベンチに腰掛ける。ネクタイを緩めると呼吸が少し楽になった。
こうしてみると、通勤途中にありながら一度も入ったことない公園の内部は外から見るよりも広々としていた。近所の人が朝方などはランニングしていそうな林道や、中心には短距離の競技トラックがある。しかしこの時間は街灯がほとんどないせいか、まったく人はいない。
あの日以来続くこの心労はいつ終わるのだろうか。前田や秋山の姉に過去何があって、その妹たちが学校で何をしようとしているのかはまったく見当もつかないし、興味もない。自分としてはせっかく教師の職を得たのに、秋山たちがやろうとしている復讐らしき何かのせいで、ささやかな人生が危うくなるのを避けたいだけだ。
そう思うと何か言いようのない怒りがこみあげてきて、もうどうにでもなれとあいつらに言いたくなる。
夜の闇に沈んだ公園のベンチに座っていると奇妙な考えに捉われる。誰も使うことがない遊具や競技トラックはジッとこちらを窺う動物ようだ。昔の人間が川を見て蛇を連想した時も、夜の闇がそういう着想を助けた事だろう。わずかな照明は神秘的な月明りしかないのだから、どんな幽霊や化物を枯れ柳に見てもおかしくない。
そういえば、来たことのない公園なのに、いつだったか、遠い昔に誰かと来たような感じだ。あれは親父だったかな。母が入院してからの父は、父なりに自分たち兄弟の面倒をみてくれた。もっとも家事のほとんどは祖母がやっていたんだろうが。多分この公園と似た公園が地元にもあった。都営プールに行った帰りに、父か祖母に負ぶってもらい、その時もなぜか今と同じように不安だった。
その後都営プールには何度もいったが、誰と行って何をしたのか、よく覚えていない。何か悪戯をしに行った気がするが、目的もなく放浪するためだったかもしれない。とにかく昔の記憶が曖昧で、いつしか一人でいることが多くなったのだ。多分、頻繁に思い出を語るような機会でもあれば、いろんな思い出をでっち上げることもできるんだろうが、そういう必要はなかった。
「やっぱり、秋山の姉はいじめられていたのかな・・・。」
杉村は修学旅行「前」にいじめはなかったとは言わなかった。問題は失踪の原因なのに。復学した後はむしろいじめの対象から外されたのかもしれない。修学旅行からはぐれたあの2日間に、秋山咲江に何があったんだろう。
生徒が猟銃で教師を撃つ夢をみた。生徒の顔ははっきりしなかったが、撃たれた教師は自分だった。場所は今勤務している不入斗高校ではなく、私の出身高の敷地だった。生徒は今の新しい校舎ではなく古い校舎を背にグラウンドから校門に向かって逃げていく私に冷静に標準を合わせた。
その日の朝は昨日の夜とは打って変わって、体調が良かった。あの日、前田先生が落ちたのを見てから、ここまで体が軽い事はなかった。夜の悪夢も自分の問題を分かりやすくしてくれたようだ。
その日の勤務後、前田先生へのお見舞いのために、彼が入院するS病院に向かった。武内や杉村も一緒に来る予定だったが、急な会議が入ってしまったため、彼と会うのは私一人だった。
病院のカウンターで来客者の氏名と書き、しばらくするとエントランスに杖を突いた前田先生が現れた。急いで脇から支えるようとすると、前田先生は朗らかに笑った。あの日の無表情が嘘であったかのように。
看護師に車いすを持ってきてもらい、2階のレストランに入った。
「どうですか?教師という職業は。」
前田先生は年齢的にはそこまでいってないはずなのに、定年後のような事を言う。
「いえ。忙しさでまだ教師になった実感がないですね。」
前田は感じ入ったような表情でうなだれた。
「・・・貴方をはじめ学校のみなさんに本当にご迷惑おかけしました。」
深く頭を下げた前田先生をなだめ、顔を上げてもらうと、涙を流す前田の表情は異様に歪んでいる。
周囲の客が怪訝そうにこちらを見ているので、頭を下げる。
来るんじゃなかったかもしれない。
「前田先生がご無事で何よりです。もっとも全治2か月はお辛いでしょうが、ゆっくり養生なさって下さい。」
その瞬間、フッと彼の顔があの日の無表情に戻ったようだった。
「新任の貴方がおひとりで来られたと言う事は、もう私たちの過去についてはある程度お調べになったようですね。お二人は会議?まぁその方が貴方に二度も来ていただく手間が省けたというものです。意識を回復した日から、私はあなたをずっと待っていたんですよ。」
それはどうも、と言い、私は今まで杉村から聞いてきたことを手短に話した。秋山たちの噂話については伏せて。
「もう教職を降りられた前田先生にこのようなご相談をするのも酷ですが、秋山ひとみがちょっと動揺しているようで、今は登校していますが授業態度を見る限り、成績も思わしくないようですね。」
秋山という名前を聞いて前田先生はびくっとした。
「同僚の杉村も武内主任も、3年前のことについては詳しく知らないのです。今回の件に関係があるのでしょうか。」
「あの女は悪魔です。」
教え子を悪魔呼ばわりとは尋常な怯え方ではない。
「はぁ。あの女とは秋山咲江の事ですか? 私は面識がないんですがどういう意味で「悪魔」なんでしょうか。」
「あなたには秋山ひとみに見えているのかもしれませんが、あれは咲江だったものの一部でもあるのです。悪魔というのは比喩です。私にはいまだにあれが何でどこから来たのか知りません。ただ私たちのクラスではあの修学旅行の日以来、特別な決まりがありました。咲江に代わってやってきたものを受け入れるという暗黙のルールです。この老人は頭がおかしくなったのかと貴方は思っているでしょう。だったら杉村君にでも聞いてみると良いです。2日後に彼女が帰ってくるはずがないのです。だから私は・・・私が・・・。」
いきなりB級ホラーのオカルト話になってきたな・・・。このまま悪化させては看護師を呼ばれてしまうぞ・・・。
「落ち着いてください。それでなぜあなたが「今」飛び降りるのですか。何かがあったのは3年前でしょう。」
前田老人の沈黙。そしてゆっくりと口を開いた。
「先ほどご自身で仰ったように、あなたはまだ教師という仕事を知らない。「今」と仰ったが教師に今は存在しないのです。3年ごとに担当した生徒たちが卒業し、私たち教師は学校に留まる。これを定年まで続けていくのです。卒業した生徒たちにとって私たちは常に過去の存在になってしまう。未来が閉ざされた教師たちにとって咲江君は光でした。教師の人望も厚く学業優秀、全校生徒の憧れの的でした。彼女の前では過去も未来も現在も同じ永遠としか思えないのです。しかし問題なのは咲江君の光が強すぎたことです。眩い光の背後には必ず深い闇があることを私たちは知らなかった。いじめが始まったのは2年の2学期が始まった辺りからです。」
2年の2学期か。随分遅いな。
「光であるはずの彼女がいじめのターゲットになったきっかけは今はもう分かりません。意思疎通のわずかな齟齬が原因だったと思いますが、それも私たち人間の側が浅はかだったために、彼女の真意を理解できなかったせいでしょう。とにかく教師も生徒も誰もがいじめの加害者を探しましたが、結局見つけることができなかったのです。まずは悪口や卑猥な噂、彼女の持ち物がなくなる、そして最後には彼女の肉体と精神に対する言語に絶する暴力が繰り返されました。誰よりも神々しかった彼女は最終的になによりもおぞましい欲望の犠牲になってしまったんです。今思えば、誰も加害者を見つけることができなかったのではなく、誰もが加害者だったために見つけ出す必要が初めからなかったのですね。恥ずかしながら私もこの世で最も美しいものを壊す快楽に酔いしれていた一人でした・・・。そして修学旅行の晩、彼女は自殺したのです。」
信じがたい話だが、杉村のように無邪気な人間がいじめの存在を隠している時点で、爺さんの凄惨ないじめがあったという話にはまだ信憑性があるな。光やら神云々の罪悪感の表現を割引いて考えれば。しかしこの咲江は秋山咲江その人なのか?
「なるほど。もう一つお聞かせください。秋山ひとみがあなたや学校を恨みながら入学してきたのはなぜでしょうか。」
「私や当時の人間にたいする復讐のためですよ。咲江さんの写真を見ましたか?そっくりでしょう。私が教師を辞めるに至ったのも咲江さんの妹と称する悪魔が不入斗高校を受験すると聞いたからです。」
校長が前田先生に「不幸なこと」が起きたと辞職理由を曖昧にしたのは、かなり強引な手段で解雇したからだろう。まぁ確かに常軌を逸してるな。
次の日は休日だったが、昨日早めに退勤したこともあったので出勤すると意外な来客があった。
「先生、いつも妹がお世話になっています。」
職員室に現れた大学生風の女性は、クラス名簿で見た秋山咲江その人だった。
「どうも。えーと、秋山ひとみさんのご家族の方ですか。」
咲江は小さくハイと返事をすると一瞬懐かしそうに職員室から見える外の風景を見渡した。
「実は妹の学校生活の事で、先生にお話しがあって・・・。」
職員室の隅に併設された応接ブースで咲江と向かい合った。
私は咳払いした後に要件を尋ねた。
「入学式の日に不審者が侵入して窓から逃走しようとしてケガをしたという説明でしたね。母からはそう聞いています。」
「はい。その通りです。」
咲江は少し呆れたように私を見た。
「○○○先生にわざわざこんな事言うのも失礼かもしれませんが、3階の窓から飛び降りて逃げ出す不審者がいますか。それも前任の前田先生がその犯人らしいではありませんか。」
神経質そうな声だ。
「ええ。まぁ犯人と言っても生徒に実害はありませんでした。学校側の説明に嘘偽りはありません。詳細について伏せたのは、生徒の進路を考えていたずらに騒ぎを大きくしないための処置とご理解いただければと思います。二度とこういった事が起きないようにするため、幾重にもチェック体制を敷いています。ご覧になっていきますか?」
咲江は何のために母親の代理としてここまで来たのだろうか。
防犯対策について説明する警備員の話を聞きながら、咲江は一通り校内を回っている。その後ろから私は不安を感じながらついて行く。
今回の事件については保護者会でも大きな問題になった。しかし前田が元職員だった点が考慮され、最終的には新しい警備体制を敷くことで納得してもらった。
しかし明らかに過剰な警備、例えば塀の上に忍び返しを置くなどの措置は、まるで刑務所だ。
「外界からここまで隔絶されてるのは、中にいる人たちがとても脆弱だからという事になりますね。」
突然前を歩く咲江が話しかけてきた。まるで心の声を読んだかのように。
「ええ。まさに刑務所です。しかしこれも生徒の安全のためです。」
先導する警備員は不満そうな顔をしている。
「受刑者も脆弱な人間ですか。女の私から見ると彼らは脆弱どころか十二分に屈強ですので、多分この学校とは逆ですね。刑務所は屈強な受刑者からか弱い一般人を守るために作られた檻です。一般人はこの世のあらゆる悪を刑務所に封じ込めたつもりでいるんです。実は自分たちの方が逆に檻に閉じ込められたことも知らず。」
この女性は本当に学生時代いじめを受けていたのだろうか。受けたようでもあるし、受けていないようにも見える。少なくともこういう考えは友達が多い人のものではなさそうではある。
「まぁ、最近は小学校のグラウンドを覗いてるだけで職質を受けるらしいですね。でも今回の事があって私は逆に安心しました。」
咲江は突然振り返った。
「正常性バイアスってありますよね。」
あの日私が前田先生の現れた教室で感じた。
「地下鉄で火事になったとき、みんな車内で座ったまま口を押えて結果亡くなったそうです。なんでドアを破ってでも外に出ようとしなかったんでしょうね。」
「そんな体力もなかったから、ですかね?」
「なら床に倒れたりするでしょう。私はいつかドアが自動的に開くと信じていたからだと思いますね。だから電車に乗ったつもりで座ったまま。電車に乗った通常時と同じ行動をとっても非常時にドアが開くわけないのにね。でもその気持ちはなんとなく分かる気がします。」
秋山咲江は落ちているテニスボールをフェンスを越えてコートに投げ入れた。女性でこれをやった人間を初めて見た。
「この学校も同じですか?」
「それはこれからの先生次第じゃないですか。」
そう言うと咲江はそのまま校門から出て行った。警備員と私はそれを見送るしかない。
その日の帰宅途中、駅のホームで秋山ひとみから声をかけられた。
「今日秋山さんのお姉さんに会ったよ。今は大学生?学校の防犯が見たいって校内を案内したんだ。」
秋山はラクロス用の大きなバッグを背負っている。
「はい。今就活中で大変みたいですね。多分手続きかなにかで学校に来る用事があったんじゃないですか。」
電車に乗り込むとこの時間にしては空いていたので、秋山に座るように勧めたが、すぐ降りるから座らないらしい。
ドアを挟んで向かい合っていると、秋山は確かに姉にそっくりだ。それも昔の咲江より今の垢ぬけた咲江に似ているのは不思議だ。前田老人が間違えるのも無理ないかもしれない。
「そういえばS病院に行ったみたいですね。前田先生は私の事で何か言ってましたか。」
姉妹揃って読心術が使えるらしい。
「秋山さんは悪魔らしい。」
秋山はいつかのように嬉しそうに笑ったが、目は笑っていないことに気づいた。でも、彼女が笑うところは初めて見た。
「先生、この前言ったこと覚えてますか。」
「えーと、噂や伝説は不思議な体験が元になってるだっけ。」
「そうですね。あ、この駅で降りますよ。」
古参堂という駅で降りた私たちは、何もない駅前のロータリーに面する道をどこかに向かって歩き続けた。
教え子に何も聞かず言われるがまま降りてしまった事を後悔しはじめたとき、前方に小さな林が見えた。
「見えました。あれが行逢坂です。あの林の中にあります。」
私は立ち止まる。それに合わせるように前を歩いていた秋山も止まる。
「秋山さんがこの前話してたやつか。なんで俺をこんなところに連れてきたの?」
「実際に見てほしいと思ったからです。伝説や噂には元となった事や物があるって。この前先生はすべて嘘だって言いましたよね。私やほたるが話していたことや、私と先生が早朝のタクシーの中で話していた事。」
宗教にしつこく勧誘された時に感じる徒労感。苛立ち。
「いや、申し訳ないけどそういう秋山さんの事実や犬飼さんの言葉の価値を信じることが出来ない。事実や言葉はそんな理想化できるもんじゃない。そして結局、嘘は嘘だよ。優しい嘘が人の慰めになるのも知ってるけど、でもそれ以上にそういう善意の嘘が他人や自分を裏切ってることだってある。勿論信じたい人間は信じればいいと思う。」
「別に信じなくていいです。ただ覚えておいてほしいんです。」
え?
「今まで経験したすべてが嘘だったとしても。」
・・・・秋山?
「私たちの他に、もう一人生徒がいたんです。」
そうか。俺はその生徒を待って・・・。
周囲に夜の帳が下りてきた。
「前田さん!聞こえますか!」
前田って俺の事か・・・。咲江?
「早く救急車!」
杉村か。やけに慌ててるな。今、実習どうなってるんだ・・・。
「・・・・」
すぐそばで誰かの息遣いと嗚咽が聞こえる。苦しそうにしているのは秋山で、泣いてるのは犬飼だろうか。みんなの声が遠くなる・・・。
「おかえり」
もう体の感覚はないはずなのに、近くに温かいものを感じた・・・。
・・・ただいま。
同じ舞台でまた似たような話をするかもしれません。