トマトケチャップ
家出中の子供と、仲良しの少女がいましたとさ。
ジジジ、と蠟燭が声を上げる。オレンジが揺らめく。停電の夜。外は荒れ狂う風と雨。
「………川、大丈夫かな」
男が妻に携帯でそう話した。二人が暮らすマンションは大きな川の側にあった
「パパ、上の階なのだから、外に出ないでよね」
実家に帰省中の妻は、産まれたばかりの我が子をあやしながら、心配そうな声で答えていた。
「パパって、なんだか照れるな、そうかぁ、俺、パパなんだよなぁ、取り敢えず明日電車が、動いていたらそっちに行くわ」
不安そうな声を励ます様に、明るく返事をする。ベランダの窓に近づき、闇の外を見る。黒が渦を巻き、立ち上がり咆哮を上げ、そして地に己を叩きつけている。
「んー、それよりお部屋掃除してよ、もうすぐ帰るんだから、あ、佐奈が泣いちゃった、ごめん切るね」
妻が、電話を切った。男は少しホッとした。バッテリーの心配があったからだ。外から室内の大きなキャンドルに目をやる、結婚式で二人で灯したな、あれ以来押入れにしまい込んだままだったど、役にたったよ。懐かしくその時を思い出す男。
「………川の桜、大丈夫かな、この部屋から、あれが見えるからここを選んだのに」
普段は浅く歩いて渡れる川の中洲、雑草や灌木が茂り、小さな島のような場所。そこに立つ一本の桜、男と彼の妻のお気に入り。
ゴウ!ガダガダカダ………窓が揺れる。停電なので川端の遊歩道の街灯も見えない。手にしている携帯のライトを外に向けて見るが、彼の見たいモノは見えない、目に入るのは闇と水と共に、それをまとう風の姿だけ。耳に聞こえるのは、風の声、川のオト。
「無事に立ってれば良いのに、そういや、あの桜の下に、飼ってた猫だったかな、なんだっけ?埋めに行ったって話してたな、川を渡って埋める奴なんて、ヤバいと思ったけど」
穏やかな川の流れの中に、春に白くふくふくと咲く花を思い出す、それに重なる妻の笑顔。優しい彼女。声が耳に蘇る。
「ミイ君、あそこに埋めたの、浅いでしょう、ここの川、渡れるの。公園とかの桜の木の下は怒られるから………春になれば白く花が咲くの、寂しく無いわよね」
その声を思い出す、やっぱり言われた通りに、明日の休みは部屋を大掃除しようか、と男は思う。産後を実家で過ごしていた彼女が、娘と共に帰る日も、近くなっていたからだ。
ジジジ、蠟燭が声を上げている。男はブルーライトをスクロールで消す。
「佐奈、良い子ね、パパにそっくり、うふふ」
妻は白いカバーの寝具に、産まれたばかりの我が子を、そろりと寝かした。きゅっと手を握りしめて、眠っている赤子。優しく見る母親。
携帯を手にすると、数枚写メを撮った後、画面をスクロールをする。天気予報のアプリを開き、そこで台風情報を確認する妻。
「………、直撃してる、家大丈夫かなぁ。この辺は静かだけど、ミイ君あんなところに埋めて、可愛そうだったかな、でも、桜の木の下がいい、って言われたし」
やや不安気な顔を、ブルーライトが下から照らす。進路図をじっと眺めていたが、やがてスッとスクロールをして、光を閉じた。
「あれから、随分経ったな、はぁ、何回思い出しても、信じられない、いなくなってもホントに、どーって事なかったのが、信じられない、ホント、わけわかんない」
一人呟く妻、すやすやと眠る我が子をの、やわなこぶしをそろりと触る。甘い乳の香りが満ちる部屋は、幸せの時に包まれている中で、妻は昔よく遊んだミハルの事を思い出していた。
「あー、桜の木倒れちゃってる。なんか削られたのかな、中洲小さくなっちゃったね」
洗濯物をベランダで干しながら、傍らで子供を抱いてあやす男に話しかける。
「うん、次の日見たら倒れちゃってた、仕方ないよ、この先の下流は、氾濫した場所もあるのだから。パパでしゅよぉ、かわいいなぁ、ホント!」
「アハハ、良かったねえ、パパに抱っこしてもらって、あ!そのまま」
ポケットから、携帯を取り出すと父子の姿を撮る。笑顔がほんわりとベランダに広がる。ちちちち、と小鳥が青い空を渡っていく。
干し終わった妻は、殺風景になった川の景色に目を細めた。仕方ないよ、部屋に戻ろう、と男が優しく声をかけ、一足先に室内に戻る。
「ん、ミイ君、流れちゃった、だろうなって。ちょっと思い出しちゃったの、ちゃんと山の中とかに、埋めたほうが良かったかなって、でも………桜の木の下にしたかったから」
「あ、中学生の頃だっけ、うん、仕方ないよ、木の根元からえぐれてるし、バラケたかもね、それにしても最近の台風ってすごいよな、直撃ってどーよ、この辺そんなのなかったよな」
思うままな話をしながらベランダの窓を、静かに閉める妻、ベビーベッドにそろりと寝かす男。
「そういやミイ君、猫だっけ?」
ふと思い出したことを、一息つこうと、キッチンでコーヒーを入れる妻に問いかけた。
「…………小さい時からの大切なお友達、かわいいミハル、ミイ君、何でも言うこと聞いてあげたんだ」
「へえ、そうそう、煮干しくれ、とか鰹節欲しいっての、言うこと聞いちゃうよな、俺もジャーキーくれってのに弱かったんだ」
「まあ、何だか心配、激甘のパパの姿が見える」
マグカップを運びながら、くすくすと笑う妻。うぐ、き、気をつけるよと受け取ったそれを、飲みながらテレビのスイッチを入れた男。アナウンサーが、日曜日のお昼のニュースを喋っている。
「河口近くで、頭蓋骨発見だって、時々あるよな」
「ホントだ、それよりお昼何にする?パスタでも湯がこうか」
うん、何でもいいよ、とチャンネルを、バラエティに変える男。白い寝具の中で、すやすやと眠る我が子の様子を見てから、妻は食事の支度を始めた。
頭蓋骨か、妻は湯を沸かしながらそれは、誰だろうと思う。ミハルだとしても、今ではもう彼を知るものは、自分だけしかいない。
彼の母親も何か事件に巻き込まれて、この世を去ったと聞いていた。彼の父親は、どこにいるのかは、誰も知らない。思い出に耽りながら、料理をしている妻。
………若いお母さんだったな、『ママ』って呼んでなぁんて、ミイ君にも私にも命令する様に言ってたし、よくわからないオトナだった。
玉ねぎ、ピーマン、ベーコンを刻む、フライパンを温め、オリーブオイルにチューブのにんにくを少し、刻んだ材料を炒めて、茹で上がったパスタを入れる。
トマトケチャップをたっぷりと、チューブを押して回し入れる。絡める色、真夏の夕焼け色。
…………ミイ君、ミハル、私はお願いをちゃんと聞いたよ。できれば今も倒れた桜の木の下にいればいいな。
ミハルと仲良しの少女がいた。ミハルは、家はあったが、それから逃げたいとよく泣いていた。
『えー!ミイ君、家出なの?こんな所にいたの?探しちゃったよ』
『ママは知らない顔、だれもボクノコトいらない、ここで夜を過ごしてても、誰もオトナは知らないんだよ。探しになんか来ない、怒られない。変なシラナイオジサンも、ダイキライ、帰らないヨ!もう、帰んないんだ』
『そんなことできるの?あ、ワタシ塾だから帰る、ミハルも帰んなよ、そんな事言わないでさ』
『………うん、サヨナラ、ねえ、ボク、桜の木の下で眠りたいんだ、眠りたいから………』
パシャパシャと川を渡る少女の後ろ姿に、切ない声がかかった夏の夕暮れ。
ジリジリとした、真夏の夕焼け色が、空を染めるように広がっていた。
終




