下の下の部屋
同じマンションで、わんこと女の子がいましたとさ。
ぼくは、かわいいのでち。お兄しゃんとお母しゃんと、お父しゃんと、お外出るのに、えれべえたぁ、ぴんほーんでがー、のるところにすんでるでち。ワンワン。
お母しゃんが美味しそうな匂いを、作ってるでち~、ぼくはピッピで遊んでまってるでち。ピュイピュイ、新しいのは、噛み心地がサイコー、お兄しゃんのお土産でちよ。
冷蔵こに入れるバタンって聞こえた、そろそろでちねー。
「よし!晩御飯の支度も完了!夕方になって、涼しくなったね、お散歩行こうか、エリイ」
はうんー!嬉しすぎてわんわん!しっぽフリフリ、お部屋くるくる走り回っていたら、ワシっと捕まえられて、カラーとお散歩のリードを装着。ふっ、完璧でち。
きょーゆー部分は、ぼくは抱っこでち。歩きたいでちよー、でもお母しゃんがもふもふ抱っこをしたいらしく、親孝行してるでち。お外に出れば歩くでちよ。
お散歩かばんに、お水とピー袋(トイレの袋)と、おやつとトイレットペーパー入れて出発でち、今日はどこまでいくでちー?道が熱くないと公園!今日は、お友達に会えるかな。
「開けちゃだめよ、わかった?」
女が肩にかけていたブランケットを、ソファーにふわりと投げ置きながら、幼い我が子に、ひゅるりと風が吹くように話す。
こくんと女の子が頷いた。
「ママは今晩はお出かけよ。明日は日曜日だから。ご飯は袋の中にあるの食べときなさい、ビニールと分けておくのよ、ゴミはちゃんとして、散らかさない、ここのマンション厳しいの」
こくんと女の子が頷いた。
「トイレに行ってから寝なさい」
こくんと女の子が頷いた。
流行りの服を着込み、髪を染め内巻きに巻いた彼女は、5才の娘がいるとは思えない若さをまとっている。フローリングに敷かれた丸いラグの上で、女の子はペタンと座っている。くたんとなった、ぬいぐるみを抱いている。
2LDKのファミリタイプの一室、寝室で身なりを整えた母親は、遮光カーテンをシャッと閉める。外は夕暮れだが、部屋には一足先に夜が訪れた。
「………そのこ汚いくま、新しいの買ってくるから、捨てなさい、わかったわね」
甘いコロンの香りを漂わせて、幼い娘に冷たく言う。きゅっと固まる幼い女の子。上から見下ろす母親。
「………、絵里が産まれる迄は、良かったの、ママは幸せで、パパと二人っきりでここで暮らしていたの、それなのに………、絵里がイケナイのよ」
こくんと絵里が頷いた。彼女の目の前を、リネンのスリッパが滑るように横切る。リビングのドアが開いた。パタパタと玄関に向かう音。ガチャ、ギィ、バタン。ガチャン。コツコツ…………、遠ざかる足音。
薄暗い部屋の中、コォォとかすかなエアコンの音。女の子はテーブルの上に置かれていた、テレビのリモコンに手を伸ばした。パッ、と画面が明るくなる。
母親は灯りはつけていなかった。玄関に続く廊下の灯りは、自分の為につけている。外が黒になれば室内は、真っ暗となる。
ぎゅと、クマを抱きしめる。それは離婚して、この家を出た父親の母から、彼女が産まれた時に贈られたもの。その時から一年後、両親は少しずつ違う未来を見るようになった。
親子3人の暮らしを求める妻と、絵里の祖父母と、時折行き来をする生活を求める夫と、その家族。やがてきしみは隙間になり、狭間となり、若い夫婦の世界を違えた。
ガサガサとコンビニの袋から、おにぎりを取り出すと、包装をめくり、はぐ、と口に運ぶ。野菜ジュースの紙パックに、プスンと、ストローを挿して飲む。あとはお菓子が数種、菓子パン、ジュース、おにぎりが、もう一つ。
きょうは、帰ってこない。少し多い袋の中身を漁ると、クマを持ったまま立ち上がり、ソファーの上からブランケットを持ってくる。ラグの上に座り込み、テレビに目を向けた。白く明るい画面、明るいテンポの歌、黄昏時の寂しさなど打ち消す世界が流れている。
はうう。つかれたでちー。帰りは抱っこは必須でち。ポメラニアンのリオン君と、ハッスル追いかけっこを、したでちー、まんぞくでち。
「帰り道もお外は、歩いてほしいなぁ、もう!ブーになるわよ」
失礼でち!お母しゃんと一緒にしないでほしい、スレンダーなお腹のラインを、ちゃんと見てほしいでち。ぷにぷに触らなくていいでち!
「あら、こんばんわ、お出かけですか?」
だれでち?きょーゆー部分で、時々出会うお姉しゃんでちね。ふんふん、お風呂上がりの匂いでち?フンフンフン。お母しゃんに声をかけられたら、ハイ、と頭を下げて、お姉さんはさっさと歩いて行ったでち。
「…………まえーに、赤ちゃん抱いてなかったかな?そういや、離婚したって噂を聞いたわね。旦那さんが連れてでたのかな?私なら、絶対に!旦那なんかにやらん、ねー、エリイちゃん」
お母しゃんがぼくにモフモフしてきたでち、なので手をぺろぺろしたでち。きょうは、お父しゃんとお兄しゃんが早く帰ってくるでちー。お膝の上で、おねだりするでちよ。
キューリか、トマト、キャベツがいいでちよ。カリカリをさっさと食べて、抱っこしてもらうでち。あ、この前食べた緑のえだまめって言ってたでち、それないかなぁ、食べたいでち。
「足を拭いてから………と、よし、そろそろみんな帰って来るね」
お家に入って、足の裏を拭いてもらったでち。カラーを外してもらったら、ヒヤッホゥ!お家の中をダッシュでちー、お母しゃんは台所に行ったでち。
ただいまー!ピッピー!
お気に入りの場所で、アヒルのおもちゃを、ピュイピュイ鳴らす小型犬がいる。ほら、お水、と飼い主が器に冷たい水を入れて運んできた、フローリングにラグが敷いてあるリビング。
お気に入りの場所で、くたんとしたぬいぐるみを抱き、ブランケットにくるまりただ独りで、ぼんやりとテレビに目を向ける女の子がいる。フローリングにラグが敷いてあるリビング。
あるマンションの同じ間取りの部屋、同じ広さのリビング、一匹の小型犬が家族に囲まれ暮らす、下の下の部屋では女の子が、ママの香りをよすがに、独り夜を過ごしていく………。
終。