秘湯で過ごした出来事。
宿の一角にはソファーセット、自販機、古びたブラウン管テレビ。当然映らないそれは上に観葉植物の鉢が置かれ、昭和レトロのインテリアとして使われている。
「外で食べたいと我儘言ってすみません。おにぎりを作って頂きありがとうございます。女将さん」
「構いませんよ、よくありますし、ただ沢の水は綺麗ですが、生水はお腹下しますから飲まないで下さい。病院も麓まで出ないとありません」
「「なら、お茶はここで買って行きます。深山の秘湯と言うだけありますね」
「おほほ、それが売りです。で何かいいネタを思いつきまして?先生」
「せ、しがない物書きの端くれです」
「まあ、ご謙遜。先生のお作の『名探偵、雪風 都』シリーズ、今度映画化されるとか」
「ありがとうございます」
「お電話を頂いた時は嘘かと思いました。宿の雰囲気を取材したいとか。何にも無い宿ですのに」
「あはは、何にもないのが魅力です。イメージにあう秘湯をずっと探していたんです。ネットでこの宿を見つけ、嬉しかったなぁ。取材させて頂きありがとうございます、他のお客様の迷惑になってませんか?」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。他のお客様、今は先生の貸し切りですよ、渓流釣りも終わり、紅葉も終わり、雪が降りぼたん鍋の時期までは開店休業みたいなものです」
「ご夫婦二人で切り盛りされてると、旦那さんからお聞きしてますが」
「ええ、忙しい時だけ麓から親戚の若嫁さんや高校生にアルバイトで来てもらってるんです」
他愛の無い会話。それから冬枯れの山をほろほろと歩いた。
昼食を済ませ宿に戻る。部屋に戻りパソコンでつらつらと書き、夜が来る。何時ものように食事を済ませ、露天風呂に入り星空を堪能した。
布団に潜り寝た。夜中にふと目が覚めた。
「午前2時か」
携帯で確認。月夜なのか、カーテンの隙間から明りが差している。冷たい物でも買おうと、玄関に置かれている自販機に向かう。何時もなら常夜灯の灯りがひとつのそこが、ジワリと明るい。
「あれ?」
ソファーに座りテレビを見ているお客の後ろ姿。
時々笑い声、古い映画の音声。
自販機に行きにくく、そろりと部屋に戻る。
ゾクリと気がつく。
あのテレビ映らない、客は自分だけの筈。
ペタペタと足音が戸から聴こえた。
慌てて布団に潜る。
部屋の前で止まる。
くっ。息を殺した。
「気のせい、我 見タナラ 喰エタノニ、ヨ オシイ」
声。ペタペタと離れる。
明日、帰ろう。そう思い過ごした夜の話。