距離 □━━□ 行き過ぎた果てに。
ソーシャルディスタンス、娘が生まれた時に、決められた他者と対する距離。なので5歳、年長さんのヒロミはまだ、お友達と手を繋いだ事はない。それどころか、手袋が無ければ親とつなぐのも嫌う。
こども園の室内でも、園庭で遊ぶ時も先生方が、目を配って下さり、距離を保つ様に教えられて育っている。遠足もバスが蜜になるという、保護者の心配により無くなっている。
近所の公園にお散歩も無いという。詰まって並び歩くのが、いけないと。何時もマスクをかけているヒロミ達。お遊戯はあるけれど手遊び、お歌も無いという。
何時もマスクをかけている、ヒロミ。
何時も大人しく独りで遊んでしまう。
何時も距離を保っている幼い女の子。
何時も私達になぜなぜと聞く我が娘。
所得が少なくなった私達。郊外の少しばかり、広いマンションに引っ越す予定は無に消えた。新婚から住んでいるそこにいまでも暮らしている。
通勤の利便だけで選んだ事を悔やんでいる。小さくていい、もう一部屋有れば……と思ってしまうのは、贅沢なのだろうか。貯金を取り崩した為、引っ越す資金が無い、なので今は我慢のしどころ。
ヒロミが、こども園に通うようになり、増えたジャンル、教育費、無料と言われているが、制服や、教材費、諸々の積み立て、がある。そして、成長に伴う被服費、直ぐ買い換える靴、食費も増えている今、引っ越す事など夢。
入る子供手当は、来年度に来る、小学校の入学の為に、置いておきたい。ランドセルも、またまた来る制服に体操服、今度は文具も揃えないといけない。幾らでもお金が必要。
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「どうしてなの」
ヒロミが、こども園に通うようになり、年少さんから年長さんに上がった頃、私達の生活は一変してしまった。彼女の一声から始まった。
「どうしてママは、マスク、してないの?どうしてママは、おりょうりするとき、おめん、かぶってないの。どうしてママは、しゅっしゅっと、だけしかしないの、てぶくろは?せんせえ、きゅうしょくのときには、してるよ」
「ああ、ごめんなさい、気になるの?マスクするわね」
取り外していたので、新しいソレを装着した。これで良い?お家だしと問いかけると、生真面目にふるふる頭を動かす。
「てぶくろとおめん」
――、せんせえ、つけてるもん、せんせえ、でんしゃできてるから、たくさんのなかくるから、うつしたらいけないからねって、ママもでんしゃにのってる。
ヒロミの言い分であった。返す言葉は出てこなかった。私は娘に従う。手袋をし、何かあった時の様にしまい込んでいた、フェイスガードを出してくると装着をする。
「これでいい?」
「うん、ママだいすき、ごはんなに?はんばーぐ?」
目が笑ってくれた。悲しくなる。いい子ねと言うだけしか出来ないことに。
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「ちかずいちゃだめ」
5歳と半年。それなりにお着替えも出来る年齢。夫がパジャマのボタンでモタモタとしているヒロミに、手伝おうと近づくと、顔をしかめて拒否を示してきた。こども園に通うようになってから、シャンプーの手助けだけ、私達に頼むようになり、一人で入浴するようになったヒロミ。
「くるときは、おめんと、マスクと、てぶくろ」
シャンプーのときに、一緒に入ろうは出来ない。なので脱衣場で様子を見守ることにしている。ほかほかと頬を赤らめてる幼い娘、風呂上がりにも関わらず、手袋こそは無いが、きちんとマスクを嵌めている。暑くないのか?と、夫が呆れたように聞けば、
「なんで?」
――、ほいいいくえん、ずぅっとはめてるもん、なんでパパはおうちにかえる、とはずしちゃうの?でんしゃにのってるんでしょ、うつしちゃいけないんだよ。
生真面目にそう言ってきた。ボタンをなんとか嵌め終わると、おやすみなさいと頭を下げる。そして彼女は聞いてくる。
「どうしてなの、ママとパパは、いっしょのおへや、だめなんだよ、せまいおへやにいるの、ちゃんと、はなれてなくちゃ、みんなのおうち、みんなべつべつに、してるんだって、いっしょの、こは、あぶないから、ちかずいたらだめっていわれるの」
富裕層の子達も通っている。そういう話を、子供同士でいつするのだろう。ちかずいちゃだめって、親がそう教えているのだろうか。私達は顔を見合わせ困り果てた
そして、少しばかり話し合い、娘の事を考えて夫はそのまま寝室を、私はリビングに置いてある、来客用に使っていたソファーベッドで眠る事にした。
もう少し大きくなれば、融通がきくようになると思って。
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あの夜から、私達は別々に夜を過ごす。
あの夜から、ヒロミは満足している。
あの夜から、一人ひとりの時を過ごす。
本を読み聞かせたい、との夢は消えた。
線香花火を側近くで、との夢も消えた。
一緒にお風呂に入ろ、との夢も消えた。
マスクを嵌めているヒロミ、
マスクを嵌めているわたし、
マスクを嵌めている夫。
今日、夫は少しばかり遅くなるらしい、
二人で、精一杯距離を取る。食卓の端と端に座り、正面を向き黙々と食べる夕食。テレビの教育番組、そこから流れる歌の賑やかさが彩り。
美味しい?と聞きたい。ニンジン食べれる様になったね、と言いたい。目を向けて確認する。
おいしいよと少しばかりこちらを見る娘、目が笑んでいる。きゅうしょくは、しゃべっちゃいけないんだよ、どうして、おはなし、しながらたべるの。と言われてしまったら誤りうなずくしなかい。
離れている、離れている。
とても息苦しい。
小さなあの頃の様に、
ほんの数年前の様に、
側近く寄り添いたい。
『新しいせいかつのおやくそく、ソーシャルディスタンスをまもろう!みんな!おにいさんとのおやくそくだよ、バイ、バアイ』
テレビの画面に手を振るヒロミ。
そんな事言わないで、そんなお約束させないで。どうしてなのこうなったのかしら、何故こんなに、行き過ぎたのかしら。私達は、キャリアでは無い。だから大丈夫と教えたのに。
「でも、あとで、でるかもしんない」
そう答えたヒロミ。甘えん坊だったのに、すっかり変わってしまった。宣言が出る前の暮らしは壊れてしまったのかしら、欠片を繋ぎ合わすことは、もう出来ないのかしら。
過ぎた歳月は取り戻せないのかしら。
私の箸が止まっている間に、さっさと食べ終えたのか、ヒロミは、柔らかく小さな手を合わせて、無言で頭を下げていた。
ごちそうさまでした。のあいさつに変えて。
食卓の端と端。2メートル無いのに、
それはとてもとても、遠くて寂しい距離。
終。




