月夜のクライシス
中天にかかる細月を見上げる。今日は満月のはずだ。しかし、厚い雲がその姿をほとんど覆い隠している。弓なりになった月は不吉の象徴とも言い伝えられているが、果たして本当なのだろうか。
『創世記』にも「三日月は本物の弓と化し、裏切り者の王妃の胸を貫く」と言った記述がある。
「……うらぎり…か」
裏切りとは一体何を示す言葉なのか。人を欺き、謀ることがそうなのだとしたら、自分はもうとっくに国民を裏切っている事になる。
冷たい窓に額を預け、メリルはまぶたを閉じた。暦はもう初夏だと言うのに、相変わらずこの国の気温は低い。足元をすり抜けていく風に身震いをした。
そして、緩慢な動作で壁に目をやると、不規則につけられたひっかき傷が目に入る。ここに連れて来られてから、メリルが毎日欠かさずつけていた印だ。
それを、数えるともなしに数えてみる。
…30と1。
あと数時間もすればまた一本、線が追加される。
……32日。
それが、この城に監禁され始めてからの日数だった。
短いようで長いこの時間をどう過ごしていたのか、メリルはよく覚えていない。ただ、日に日に失われていく日付感覚が恐ろしく、最近は陽が昇るのを見届けてからでないと眠れなくなっていた。
どうせまだ夜明けまでは時間がある。
腰を上げたメリルは、わずかな月明かりを頼りに部屋の中央まで進み、先程まで自分がいた場所を振り返った。この部屋で唯一の窓。備え付けのベンチがあり、素材は壁や床と同じ黒い石レンガ。窓の外には鉄格子がはめられており、脱出は容易ではない。反対側を向くと、伝統柄の刺繍がなされたカーペットの上に、木製の質素なテーブルとソファが置かれている。暖炉に火は入っておらず、この夜の寒さをしのぐにはあてがわれた薄着一枚では何とも心許なかった。
一瞬の逡巡のち、メリルは部屋の隅に設置されているベッドへ向かう。マットも固く、枕も慣れないものなので辛かったが、シーツにくるまり膝を抱えているとそれだけで安心感を得られた。
「………」
静寂が耳に痛い。
枕元のベルを鳴らせば恐らく使用人が姿を現すのだろうが、使った事はない。食事も豪勢とは言えないまでもそれなりに与えられているし、不足分は言えばすぐに用意された。今すぐにこの身に危険が迫っているわけではないけれど、スタンリーがどう考えているか分からないので、先行きが不透明で宙ぶらりんなのが嫌だった。
シャノンは今頃どうしているだろうか。隣にメリオットがいるだろうから業務面での心配はしていないが、自分の不在に官僚のおっさんたちはさぞうるさくしている事だろう。
膝頭に額を埋めぎゅっと体を抱きすくめる。自分がこんなにもちっぽけな存在だとは思わなかった。玉座を追われ、身体の自由を奪われていると、まるでただの女に成り下がったような気がする。いや、初めからそうだったのだ。
王と名のつく冠を戴き、権力のマントを羽織って生活している内に忘れ去られていた、本来の自分が顔をもたげてくる。無力で何も持たない人間──それが自分だ。
『あなたは部屋の隅に置かれた花瓶です』
かつての乳母の言葉がはっきりと蘇ってくる。
それはまだ皇位継承者争いが本格的になる前の話。メリオットの乳母も務めていたその人はメリオットを実の子のように可愛がっていた。そのためか、庶子である彼の継承順位が低いのをとても気にしていた。
メリルへの風当たりが強かったのも、きっとそのせいだろう。
女は男より出しゃばってはいけない。部屋の隅に置かれた花瓶のように静かに控え、男性の手で華を添えられるのを待つものだ、と。
毎朝、メリルの身支度が終わる度に言い添えられた呪いの言葉は、しかし本格化する後継者争いを前には効力を発さなかった。当時の王は、愛する妃の子であるメリルを後釜に据えたく、近しい家臣達にメリルを男として扱うように指示をした。
男として振る舞う事を強要してくる周囲と、女としての意識を植え付けようとしてくる乳母。その板挟みで壊れそうだった心を支えてくれたのが、他でもないメリオットだった。
使用人と言う立場から嫉妬によるいじめで、日に日に痩せ衰えていく母親を見かねたメリオットは自らの権利を放棄すると主張してきた。だったら、王になった方が母親を救えるのではないかと提案したメリルに、メリオットは首を横に振った。自分が王になれば母への風当たりが強くなるだけ。それよりも、もっと実権支配出来る役職がいい──そう、例えば宰相のような。
そうしてハリボテの王ではなく、議会の中枢に入り込む事で、周りのうるさい奴らを黙らせる。
打算的に光る瞳に一瞬たじろぎはしたものの、メリルはすぐに首肯した。
ならば、自分がそのハリボテの王となろう。どうせ最初から空蝉のようなこの身の上だ。せっかくなら、この器を最大限に利用してくれる人がいい。
諦めにも似た気持ちだったのだろう。
父王は優しかったが……メリルにしてくれた事と言えば、男として生きる道を与えたこと。もちろん、愛する王妃の忘れ形見である子に王位を譲りたいと言うのも、父王なりの愛情だったのかもしれない。それでもメリルはメリオットのように、父に対しそんな感情は抱けなかった。肖像画でしか顔を見たことのない母にはもちろんのこと……だから、メリオットのその思惑に乗る事で、自分の欠けている部分も埋められる気がしたのだ。
「おやすみのところ、失礼します」
ノックの音に、メリルはハッと顔を上げた。いつの間にかうたた寝をしていたようだ。室内の暗さに変化はなかったので、さほど時間は経っていないのだろう。扉の外からかけられた声はいつもの使用人のものだったが、こんな時間に来訪してくるなんて何かあったに違いない。
「はい、どうかしましたか?」
「…………申し訳ありません。どうしてもと仰られたので」
「え?」
訝しんだメリルがベッドを下りるよりも早く、扉が開かれる。差し込んでくるカンテラの光に目を細めながら、素早く着衣の乱れを整えた。暗闇を切り取るように浮かんだシルエットが、ゆっくりと近付いてくる。その表情は深い陰影で読み取れなかった。
男の歩調に合わせて後退るも膝裏がベッドフレームに当たり、あと一歩で手が届くという距離にまで接近を許してしまう。見上げた身長はメリルの頭二つ分高かった。
「変わりはなさそうだな」
低く、深みのある声が耳朶を打つ。
互いの顔もよく見えぬ薄闇で、その黒曜石の瞳だけは獲物を認めた獣のように爛々と輝いていた。急に喉の渇きを覚えたメリルは、何度か口を開け閉めしたあと掠れた声で呟いた。
「スタンリー……様……?」
「随分と遅くなってしまったな」
夜気の匂いが染みついた外套を脱ぎさり、目にかかる髪を煩わしそうにかきあげたスタンリーは少しくたびれているようにも見えた。その頬には黒い泥のようなものが付着していて、メリルの視線に気付いたスタンリーはそれを無造作に腕で拭った。いや、それはもしかしたら乾いた血かもしれなかった。
確信に変わったのは、続くスタンリーの言葉だった。
「あなたを城に送り届けた後、内戦が起こったと報告を受けましてね。鎮圧に時間がかかりました」
「では……今の今までずっと前戦に?」
戦場帰りと聞いて納得がいった。うっすら出来た目の下のくまも、乱れた髪型も、泥だらけになったブーツも、そのどれもが戦いの激しさを物語っていた。と同時に、自分が1ヶ月も放っておかれた理由がわかりメリルはホッとする。もしかしたら、己には人質の価値がないのではと危惧していただけに、安堵もひとしおだ。
だがそうすると、今度はまた別の問題が噴出してくる。彼は一体、何のために、戦場の血を落としもせずに真っ直ぐに自分の元へ来たのだろうか。戦いで昂ぶった血は女を求めると言う。メリルの国は比較的平和で戦などほとんどないが、たまに国境付近で小競り合いが起こった際に派遣された兵士達は、帰還後にまず真っ先に向かうのが女のいる場所だとメリルも知っている。
抑えきれない闘気を落ち着かせるように大きく息を吐き出したスタンリーに、メリルは混乱する頭を整理しようと努めた。もし仮に彼がメリルの貞操を奪ったところで何のメリットがあるだろうか。貞操を奪われたメリルは人質としての価値がなくなり、国同士の交渉の余地はなくなる。果たして彼はそんな短絡的な事をする人間だろうか。そんな衝動的な目的のためにわざわざあそこまで計画を練ってメリルを誘拐したのか?
疑念は山積みとなり、その答えは今目の前にいる彼が全て持っていた。
「少し散歩に出かけようか」
「散歩?」
こんな時間に?思いもかけなかった言葉にメリルは当惑した。カンテラを持った使用人がずっと戸口に立っていたので、どこか別の部屋に連れ出されるのではと思っていたが、まさか散歩に誘われるとは予想外だった。
それでも1ヶ月ぶりに外の空気を吸えるとあって、心は踊った。だが、それを気取られぬようにつんと顎をそらす。
「どちらへ?こんな真夜中では何も見えませんでしょうに」
「暗闇の中でも全てを見渡せる場所がある」
それだけ言うと、スタンリーは踵をかえしさっさと部屋を出て行ってしまう。ついて来ても来なくても、どちらでもいいと言った様子だ。迷っている暇などなかった。スタンリーが退出すると同時に扉が閉められそうになったので、メリルは慌てて後を追った。
「お待ちください!せめて何か羽織るものを……」
言い終える前に顔に何か当たり、メリルはそれを両手で受け止めた。ゴワゴワとした手触りで、厚い生地。先程スタンリーが脱ぎ捨てた外套だった。礼を言う前にそれを急いで着る。寝間着の薄いワンピース姿だったメリルに、廊下の寒さは堪えた。外套は上背のあるスタンリーに合わせて作られているため、メリルが羽織ると引きずるほどだったが、足元の心細さをカバーするにはちょうど良かった。
使用人からカンテラを受け取ったスタンリーは、メリルのことを顧みることなく暗い廊下の先を進んでいく。つややかな黒い石を積み上げて出来たこの城は、ほんのわずかな光源さえも奪い取ってしまいそうだ。それ程に、黒く、暗く、昏い。
「あの者は灯りがなくて平気なのですか?」
同じ場所に佇んだまま二人を見送る使用人の姿が遠ざかり、闇に溶けていく。廊下に常時灯されている火はなく、手元の炎を失えば真の暗闇だ。問いかけたメリルの声もいびつに反響し不協和音となった。
「この城の者は、灯りがなくても行動できるように躾けてある」
「……そうですか」
それきり互いに黙り込んだまま、黙々と歩いて行く。スタンリーはこちらに一瞥すらくれなかったが、その後ろ姿に隙はなかった。少しでもおかしな動きをすれば、すぐに取り押さえられるに違いない。漆黒の黒壁は二人の影さえも呑み込んでいた。
程なくして廊下の端に突き当たり、スタンリーは左手にある螺旋階段の方へ向きを変えた。
「”見渡せる”場所……ですか」
先程の言葉を思い出し、メリルは口の中で静かにごちた。この城に連れて来られた時は気を失っていたため、国の雰囲気などを窺い知る事は出来なかった。だけど、屋上から全景を臨めれば、確かにその全容が掴めるかもしれない。
はやる気持ちで一歩踏み出したメリルの目の前に、スタンリーのたくましい二の腕が差し出された。ゆっくりと視線が交差する。外套を投げて寄越したり、非常識な時間に部屋を訪れたりする割には、こう言った時にエスコートするくらいの気遣いは残っているらしい。確かに階段の段差は急だったし、カンテラの灯り一つで二人分の足元を照らすには心許なかったのでありがたかった。
目線だけで礼を伝え、スタンリーの肘に黙って腕を回す。本来なら、ここで互いの緊張を解きほぐすために軽口の一つでも叩いてみせるものなのだろうが、そんなものを求めていないのは互いに百も承知だったので黙したままだった。
体は寄り添い合いながらも、二人の間を通り抜けていく風は冷え切っていた。こんな時にシャノンが居たらな、とメリルは思う。その場をほぐし、温めてくれていただろう。急にシャノンが恋しくなり、メリルは呼吸の苦しさを覚えた。あの柔らかな微笑みを持って優しく抱きしめて欲しかった。
「婚約者を思い出しておいでか?」
「………いいえ、と言ったところで嘘になりますね」
「会いたいか?」
「会わせて頂けるのですか?」
「さて」
肝心なところははぐらかされて、メリルは失笑した。スタンリーと上る階段の道のりが急に長く思えてきた。もう20段近くは上っただろうか。
「あとどのくらいありますか?」
「思ったより音をあげるのが早いな」
含み笑いをされ、メリルはむっとした表情を隠さずに抗議した。
「あんな狭い部屋に1ヶ月も閉じ込められていれば体もなまります」
なまじ自分でも運動不足を痛感していただけに悔しかった。思わずスタンリーの腕を掴んでいた手に力が入る。スタンリーはそれ以上何も言わなかったが、ただ単に面倒くさくなっただけかもしれない。
ただでさえ息があがっているのに、これ以上鼻息を荒くするべきではないとメリルは前を見据えた。階段はまだ続いていた。
やっと半分まであがったところで、急に体が宙に浮く。スタンリーに抱きかかえられていると気付いたのは、彼が数段飛ばしで階段を上り始めた時だった。下を見ると、底はもう奈落の闇に沈んでいて、振り落とされないように彼の首にしがみつくしかなかった。自然と顔の距離が近くなる。至近距離で見る彼の顔には毛穴一つなく、その中で一点だけ墨を置いたような目元のほくろが、彼を至高の芸術作品たらしめていた。
実際、彼に抱えられていた方が到着は早かった。だけどそれは、脚の長さや歩幅が違うせいだとメリルは自分に言い聞かせた。最後の一段を上り終えると、スタンリーはメリルを地面に下ろした。小さく礼を言うも、反応はない。気遣いからと言うよりは、その方が合理的だったというところか。
小さな踊り場の壁に頑丈そうな鉄の扉がついていた。メリルが軟禁されていた部屋の年季の入った木製扉も、一人で開けるにはなかなか大変そうだったが、この扉はそれ以上に重そうだ。だが、そんな扉をスタンリーは片手でやすやすと開けてしまう。嫌なきしみ音と共に、扉がゆっくりと開いていく。
途端に、刺すような冷たい風が吹きつけてきて、メリルは慌てて外套の前を合わせた。ぽっかりと穴の空いたような空間がそこにはあった。かがり火も何も焚かれていない屋上は本当に真っ暗で、よもやその先は存在しないのではとさえ思った。
「下がっていいぞ」
「は」
その答えで、初めてそこに人がいることがわかった。暗闇の中からするりと抜け出してきた男は、無言で二人に道を譲ると、闇に沈んだ螺旋階段を灯りも持たずに下りていく。
「言ったろう。配下たちは夜目がきく」
疑問が顔に表れていたのだろう。男が去った先をじっと見つめていたメリルに、スタンリーは無感情に言った。カンテラの光が必要だったのは、どうやら自分だけだったらしい。そう気付いたメリルは、ゆっくりとスタンリーの方に手を伸ばした。
「己の命運を人に委ねるのは趣味ではありません」
「だろうな」
特に頓着した様子もなく、スタンリーはメリルにカンテラを手渡した。これを奪われて困るのは、現在この城では自分だけ──持ち手にはまだ彼の温もりが残っていて、一応彼も生きている人間なんだと実感する。そうでも思わなければ、この得体のしれない城の住人たちの空恐ろしさに尻込みしてしまいそうだった。
扉をくぐった先の世界は、城内とは比べ物にならないほど寒かった。吐く息が白く舞う。屋上から見る景色は想像していたそれと違っていた。
「街は……どこですか?」
「君の斜め後ろの方角にある」
「夜間は灯りをつけない決まりなのですか?」
「いいや」
「人々はどのような暮らしを?」
矢継ぎ早に問いかけ、メリルは感情とは裏腹に舌先が寒さで強張ってくるのを感じた。カンテラを持つ手が早くもかじかみ始めている。メリルの国より少しばかり北に位置しているだけなのに、こうも気候が違うとは予想外だった。それに、大きく違っている点がもう一つあった。
メリルの城は、下界からの攻撃を防ぐためにのこぎり状になった防御壁がついているのだが、この城にそんな物はなく、360度遮る物がなく国土を見渡せた。もちろん、今は黒い暗幕が垂れ込めていて、何一つ見通せないのだが。
スタスタと前を歩くスタンリーに置いて行かれないように、メリルは慎重に足を運ぶ。屋上の横幅は十分にあったが、万が一足を踏み外しでもして落下死したら不名誉極まりない。感覚で覚えているのか、それとも本当に見えているのか。屋上の中程まで来るとスタンリーはピタリと足を止め、流れるような動作でそこに腰を下ろした。
「君も座るかい?」
「………」
カンテラを掲げそこに何があるか見極めようとしたが、黒光りする大きな台座のような物としかわからなかった。小さく首を振り断ると、メリルは改めて”街”のある方角へと首を巡らせた。
「あそこに……街があると?」
「ああ」
「この国で一番賑わいのある大きな街ですよね?」
「ああ」
「市民達はどこに?」
「あそこにいるさ」
そう言われても、メリルは容易に信じることが出来なかった。何故なら、人々の営みから生じるはずの匂い、音、光……それらが一切感じられなかったからだ。そこにあったのは、闇。無。もしくは、ただの漆黒。
「石油が足りないのさ」
「石油……?」
メリルは手元のカンテラに目をやった。カンテラの燃料となるのは石油だ。メリルの国でも主たる光源の一つとして使用されているが、その原料はほぼ輸入に頼っている。だが、この国は土地も広く自然も豊かで、資源も豊富だと聞き及んでいた。
「いつから、ですか……?」
「いつから?」
「いつから……採れなくなったんですか?」
核心を突いたと見えて、スタンリーは少しの間押し黙っていた。返答を待つ間、メリルは街の輪郭だけでも掴もうと必死に目を凝らした。いくらランプが使えないからと言ったって、たいまつや蝋燭など火を灯す方法ならいくらでもあるのに、何故こうまでして徹底して灯りが消されているのか。
耳を澄ますと、方々から狼の遠吠えが聞こえてくる。さらわれる際に見たあの鋭い牙と無慈悲な瞳を思い出し、メリルは身震いした。
「寒いか?君の所とは、だいぶ気候が違うだろう」
「……ええ。まさかここまで差があるとは……正直思いませんでした」
「不思議だろう?こんなに隣り合っていても、その内情には天と地ほどの差がある。君の国は資源に恵まれなかった代わりに、多くの交易国に恵まれた。だが、我が国は……その豊富な資源をものの数十年で枯渇させた」
急に本題を振られ、メリルはハッとしてスタンリーに向き直った。
「資源とは……具体的に、石油以外にも何かあったのですか?」
「金やエメラルド………鉄や銅、鉱物に限らず鉱石もたくさん採れた」
「その全てが枯渇したと……?」
「盗掘も多くてな。そのせいで、日に日に国庫は痩せ衰えていき、やがてはそれまで重要な交易相手だった海向こうの国とも連絡が途絶えた」
気怠そうに投げ出していた足を組み替え、スタンリーは夜空でせせら笑う三日月をその瞳に映した。
「国が悪くなるのは一瞬だな。先代からこの国を引き継いだ時には、もう手遅れだったよ。活力を失った国民達に蔓延したのは、暴力と略奪、そして無気力だった。人々は日中でも戸や窓を閉め切り、やがて子供の産声も聞こえなくなった。今じゃ、人の数より狼の方が多いだろう」
「では、国民たちがたいまつの火も灯さないのは……?」
「火を焚くと、狼たちに人の生活場所を知らせることになる。そうすると食べ物を探して群れで襲ってくるかもしれないから、恐れているのさ」
「そんなに……数が多いのですか?」
メリルの問いに、何が面白いのかスタンリーがハッと息を吐いた。
「狼は基本、少数の群れで生活をする。だが、時にそれがより合わさって100匹以上で襲ってくる時もある」
「そんなに……」
息を吞んだメリルをあざ笑うかのように、足元で狼が吠えた。城で飼われている狼だ。小さい時から育て飼い慣らし、人の言う事を聞くようにすると言っていた。雑談を装って、口数の少ない使用人から聞き出した数少ない情報だ。
その証拠に、狼たちはスタンリーの気配を嗅ぎ取って来ているようだった。彼がヒュッと口笛のような音を出すと、小さく吠えてまた闇の中へ走り去って行った。
「不審な者はいなかったようだな」
「狼たちに見回りをさせているのですか?」
「奴らの方が夜目がきくからな。これ以上の適任はないだろう。それに、どんな豆粒大の灯りであろうとも、ここからならすぐに分かる」
上下とも黒の衣服を身にまとい、漆黒の髪を風になびかせるその姿は、まさに闇の支配者と言った風情だった。よもや闇夜が最大の防御となろうとは、どこの国の王も考えつくまい。
「…逆転の発想、ですね」
「褒めているのか?」
「いいえ。でも、貶しているわけではないです」
そのあけすけな物言いが気に入ったのか、スタンリーはわずかに口角をあげた。
「その方が君らしくていい」
「ネコをかぶっていない方がお好みですか?」
「庭園にいた時も言ったろう?そうだ。その方が君らしくて好きだ」
言質を得て大きく息を吐き出したメリルは背筋を伸ばし、すぐさま気持ちを切り替えた。今更、彼の前で無垢な乙女を演じたところで何にもなるまい。この1ヶ月で伸びた毛先が鬱陶しく、雑に手で払う。
「私に人質の価値があると?」
スタンリーが自分にどれ程の価値があると思っているのか、メリルはかまをかけた。
「国王の婚約者なのだろう?未来の女王陛下だ」
「妃候補なら他にもいます」
「君が一番有力と聞いたが?」
誰から、と言う言葉は辛うじて飲み込んだ。そんな簡単な誘導に引っかかるタマではないだろう。素知らぬふりをして突っ込むという選択肢もあったが、それさえも彼の手中だったらと思うと、怖くて聞けなかった。向こうも、餌をまいてこちらが食いつくのを待っているかもしれないからだ。どの手札を見せるかの心理戦でもあり、情報戦でもある。より多くの有益な情報を手にした方が、盤上の駒を有利に進める事が出来る。
「そう見えますか?」
「少なくとも……俺が見た限りでは、彼の方にイニシアチブがあるように見えた」
スタンリーの正直な返答にメリルは苦笑した。その通りだ。立場はメリルの方が強いのに、いつだって心の主導権はシャノンに握られている。今だって会えないのがこんなにも辛くて叫びだしてしまいそうなのに。いつの間にこんなに弱くなってしまったのかと、情けない自分に嫌気が差す。
「では、見たままの通りなのでは?決定権は向こうにあります」
「その割に、あの宰相どのは君に気を遣っていた」
「そう、でしょうか……?」
ぎくりとした。もちろんメリオットにはよく言い聞かせていたが、日頃の意識はそう簡単に変えられるものではない。何より、不意打ち過ぎたスタンリーの来訪に対応しただけでもよくやったと自分たちを褒めたいくらいなのだ。
とにかく、今ここで隙を見せるわけにはいかなかった。
「私がスタンリー様の前で粗相をしないか心配だったのでは?」
「ふむ……」
納得したとは言い難い表情で、スタンリーはゆっくりと立ち上がった。後退ろうにも、暗闇で足を踏み外すのが怖く、メリルは警戒しながら相手の次の行動を待った。
「あれが見えるか?」
「……どれですか?」
スタンリーが指差した方向に目を向けるも何も見えず、怪訝な表情をしたメリルの隙を突きスタンリーはカンテラの灯りを消す。
「何を……!」
「しっ、闇に目を慣らせばきっと見えてくる」
「………っ」
急に光を失った視界は黒く塗りつぶされ、不安が足元からせり上がってくる。わずかな衣擦れの音、互いの息遣い、その全てに神経を尖らせ、彼の些細な動きにも敏感に反応できるようにした。
心を落ち着かせるために、頭の中で時を刻む。
1,2,3……しっかり10秒を数えた後、改めて目を凝らす。そこに何があるか見極めるために、目を見開く。暗闇の中で瞳孔は拡大し、水晶体がピントを合うものを探して動く。果たして、それは本当に時間を掛けて目が暗闇に慣れてきた頃に現れた。
「あれは……?」
「故郷の火は懐かしいだろう」
その言葉にハッとする。
「君の国の首都の灯りだ」
「あんなに遠く……」
「他にも色々と小都市があると思うが……この距離からだとやはり一番大きな所のものしか見えないな」
本当に針の穴程度の小さな光が、メリルの目には何よりも明るく大きく見えた。あれはメリルにとって救済の光だ。食い入るように見つめるメリルの横顔を覗き込み、スタンリーはくすぐるように問いかけた。
「帰りたいか?」
あまりにも意地の悪い質問に、メリルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「酷い質問ですね。自分がさらってきたくせに」
「それについては詫びよう。ただ、率直に聞きたかっただけだ。君はあの国にどれくらいの思い入れがある?」
「生まれ育った国ですよ。思い入れがあるに決まっているじゃないですか」
「そうか……では、聞き方を変えよう。もし、あそこに自分が大切にする人間が一人もいなくなったとしたら……どうする?」
「どうって………」
咄嗟に答えようとするも、言葉に詰まる。そんなこと考えた事もなかった。自分が大切に思う人間の顔を一人一人思い浮かべてみる。シャノン、メリオット………それから、いつも世話になっている親衛隊長や健康を気遣っておいしい料理を出してくれるシェフたち……他にもメリルの全てを知っている主治医や、口うるさいが国のことを思っている大臣達……その誰もが、時には煩わしく、それでいてメリルの人生に彩りをくわえてきた人たちだ。その人間たちが全ていなくなった時、自分はあの国に価値を感じるだろうか?
「なぜ……そんな事を聞くんですか……?」
「私にとってこの国がそうだからさ」
「え……?」
再びカンテラの灯りを灯され、メリルは眩しさに目を閉じた。暗闇になれた瞳にはわずかな光さえ刺激が強い。ゆっくり目を開けるも、あの街の光はもう見えなかった。しかし、網膜の裏に焼き付いたあの小さな点は、メリルの大きな目標となった。あの国に、もう一度帰りたい。大切な人たちがいる場所へ。
「俺には、15歳年の離れた姉がいた」
「……いきなり何ですか?」
「我が子に興味を持てない母親の代わりに、何くれとなく世話を焼いてくれたよ」
唐突に始まった回想話に、メリルは困惑する。
「おかげで俺も、姉を母親代わりのような存在と思うようになり、唯一心を開ける相手でもあった」
「………」
「だが、姉はその純粋な心につけ込まれ、20も年の違う男に騙されて異国に行ってしまった」
「………」
雲行きが怪しくなってきた事を感じ、メリルは謎の焦燥を感じた。何故だか、この先は聞いてはいけないような気がした。
いつの間にかカンテラは彼の手中にあり、運命も同じだと暗示しているようであった。悲しみを湛えた黒曜石の瞳とぶつかる。
「それじゃあ……私をさらった目的は………彼女と人身交換をするため……?」
「そんな回りくどい事はしない」
単に探し出すだけなら、間者を送り出せば簡単にできる。と言われ、メリルは聞き捨てならないと思いながらも、この身がどう扱われるか危惧を高めていった。彼の姉とやらが渡った異国とは、十中八九メリルの国に違いない。そうでなければ、わざわざ話題に出すはずはなかろうし、口ぶりからすると簡単に連れ戻せない状況にあるのだろう。
「姉上様は………」
「君は、これが未だに何か気付いていないようだね」
他人がその話題に触れるのを嫌うように、スタンリーは話題を変えた。そして、彼が触れているそれは、先刻まで彼が座っていたためイスかただの置物だと思っていたが、よく見てみると先端が筒状の形に伸びていた。シルエットを縁取るように、スタンリーはカンテラの光を掲げながら、ゆっくりとその周りを歩く。
今まで濃い闇に紛れ気付かなかったが、それはとてつもなく大きかった。何故今まで気が付かなかったのだろうと不思議に思うくらいだった。
「分からないか?」
揺さぶるように問いかけられ、メリルはそれを穴が空くほどじっと見つめた。いかんせん光源が弱く、やはり全体像が掴みにくい。
「分からないなら、触れてみるといい」
「………」
スタンリーに手を引かれ、触れる。金属特有の冷たさと無機質な手触り、それに皮膚越しに伝わってくる重厚感が、それがただの置物ではない事を物語っていた。触れながら、ゆっくりと筒の先端へ移動する。小さな凹凸、なめらかな曲線、また凹凸………メリルに付き従い、彼もカンテラの光を持ちながら移動する。そして、正面に周り、ポッカリと空いた大きな穴を見て、メリルは立ち止まった。人の頭ほどもあるその空洞の奥に何があるのか、カンテラからわずかに匂う焦げ臭さが連想させてくれた。
「まさか………大砲?」
「こんなに大きい物は見たことがないだろう?鉄の産出量が多い我が国でしか作れなかったものだろうな」
確かに、これ程大仰な物をメリルは見たことがなかった。自国で使われている迫撃砲は持ち運べる小型の物が多く、設置型と言っても場所を移動できる前提で作られていた。そもそも資源国ではない場合、武器は輸入に頼るしかなく、必然的に持ち運べる大きさになるのだ。だが、目の前にそびえているそれは、10人がかりでも動かせるかどうかと言った代物で、そのスケールの違いに圧倒される。
「ハリボテ………ではないよな?」
思わず素の喋りが出てしまい、ハッと口を噤む。正直な所、この100年近く戦争がない平和な国を治めてきたメリルにとって、武器はあくまでも儀礼用と言う認識が強く、この筒から本当に鉛の弾が発射されるのか疑念さえある。
そして、その砲弾の先がどこに向かうかなんて想像もつかなかった。
「射程距離はどのくらいなんですか……?」
「ここから見える範囲ならどこでも」
「ここから……」
と言う事は、メリルの国も射程圏内に入るわけだ。彼が自分をここに連れてきた理由がわかり、メリルは足元からうすら寒いものが這い上がってくるのを感じた。
「脅し……ですか?」
「事実を述べたけだ」
「………」
それは、いつだってメリルの国に銃弾の雨を降らせてやるぞと言う宣言にも聞こえた。本当に人質にされていたのは、メリルではなく国そのものだったのか。
なまじ、自国にそれを迎え撃つだけの設備がないことを知っているので、メリルの危機感は相当なものだった。国境を挟んでの打ち合いなど想定した事はないし、この国に比べるとあまりにも無防備すぎて勝ち目どころの話ではない。最善策は戦闘を避けることだが、彼の様子を見る限り、何が引き金になるかわからなかった。
己の一挙一動に国の命運がかかっている事を自覚し、震え、メリルは生まれて初めて自分の死以上に恐ろしいものに出会った。
「怖いか?」
メリルの怯えを見抜いたのか、スタンリーはほの暗い感情を湛えた瞳でこちらをじっと見つめていた。
「……あなたは……怖くない、のか……?」
これから自分が行おうとしている、この世で最も恐ろしく、残虐的な行為が──。
いや、もしかしたら、これは彼の復讐劇なのかもしれない。
ままならない世の中に対する。自分の大切な姉を奪った国に。誰かに。世界に。自分に。
国の始まりである『創国記』のやり直し。そのために全てを壊すと、彼はあの時言っていたのではなかったか?始めるために、終わらすと。
「メアリーナ=ヴァイシュツルン=ヒートリッヒ」
いにしえの記憶に刻まれたその響きが耳朶を打ち、メリルはセピアの風景に導かれるように目を見開いた。
「…………今、何と……?」
「メアリーナ。私の姉の名だ」
それは、メリルが久方ぶりに聞く母の名だった。




