act2 ラヴコメ論 4
かくして、俺は二日間の山籠もりで、ユウコと相対するための精神力を手に入れなければならなくなった。熊を眼光だけで倒すのが指標ではあったが、よくよく考えてみると、熊を倒したところで、ユウコと楽しく会話をできることにはならない。
「……仕方ない」
俺は早々に山籠もりを諦めて、より良い方法を探すことにした。熊を倒すのは楽しそうだが、この辺りの山に熊はいない。わざわざ熊のいるところまで出かけるのも面倒臭いので、ポチと庭先でたわむれるだけで満足した。
しかし、熊を倒さないでユウコと向き合う強さを手に入れるとなると、はたしてどうすればいいのだろうか。決して女性全般に苦手意識を持っているわけではない。つまり、好きな人間と相対したときにだけ、俺は異様なほど緊張してしまうのだ。
「つまり、ユウコと向き合うことに慣れればいいわけだな」
結論は出た。残念な結論だったと言わざるを得ないが。
ユウコと向き合うために強くなりたいのに、ユウコと向き合わねば強くなれない。ユウコと向き合うためには、俺が強くなければいけなくて、そのためにはユウコと向き合う必要があるわけで。
完全に取っかかりを失った。ニワトリが先かタマゴが先かという論争をする生物学者の話と同じだ。どちらかを先に持っていこうとすると、もう片方と矛盾する。
完全にお手上げ状態で、俺は自室のベッドに腰を降ろした。
ユウコの笑顔が脳裏に蘇る。それだけで俺の心臓は物凄い勢いでポンプ運動を繰り返し、頭がぼんやりとしてくるほどだ。胸だけといわず、身体中が熱くなる。こんなに好きなのに。せっかく同じクラスになれたのに。どうして俺は何もできないのだろう。せめて、もう少し恋愛に免疫があるならば、こんな苦しい思いなどせずに済んだかもしれないのに。
「……それだッ!」
突如として、俺の灰色の脳細胞が進化の兆しを見せた。恋愛経験がないのであるならば、恋愛経験をすればいいだけの話である。それだとさっきと変わらないが、違うのは、ユウコは一人しかいないが、恋愛というものはそこら辺に転がっているというところだ。たとえば小説やマンガ。ドラマや映画。ゲームにだって恋愛モノがある。実際に別の女に惚れて、恋愛を経験した後にユウコに相対するわけにはいかないが、恋愛映画を観て、いわゆる疑似恋愛をするぐらいならば道徳的にも倫理的にも咎められるおそれはない。
早速俺は財布を引っ掴み、映画館へと出かけた。ドラマの恋愛モノは時間がかかる上に、なんだか安っぽい感じがする。映画ならば二時間ほどで終わる上に、なんともこだわってそうだ。スクリーン一杯に広がる大恋愛を真正面から観て、恋愛に対する免疫を高めるのだ。
映画館の前に立ち、俺は唸っていた。果たしてどの映画を観るべきなのだろうか。
恋愛を主題に据えた作品は三つもあり、一つがハリウッド謹製のスケールの大きそうな話。もう一つが、イギリスのコメディ色の強いもの。最後が邦画で、昭和中期の日本を舞台にした、しっとりと落ち着いた雰囲気の作品。都合良く高校生男女の恋愛映画というものはなかった。
何も考えずに家を出たが、上映開始の時間までは後十分という好都合。しかし、観る映画を決めていない俺にしてみれば、タイミングが悪かった。
俺は日本人なのだから日本の映画を、と思っても、時代がかった昭和の話を果たして受け入れられるかどうかは怪しい。ハリウッド謹製の作品は大恋愛の様子だが、舞台があまりにも大きすぎる。タイタニック並だ。俺とユウコのあまりにも普通すぎる状態とは違いすぎて参考になりそうもない。かといって、別に俺はコメディのようなお気楽な人間関係について悩んでいるわけでもない。
「うぁ……やっぱ熊を倒しときゃよかった」
思わず一人ごちて、空を仰ぎ見る。そんな折であった。
「カナブン」
ふと、随分と庶民的な渾名で呼ばれ、俺をそう呼ぶ人間が一人しかいないことに気付き、俺は驚きのあまり思いきり後ずさった。
「ユ、ユ、ユウ……」
「奇遇だな。何をしてる?」
学校帰りであろうか。ユウコは制服姿であった。俺は一度家で着替えているので私服である。
「えっと……ああ、えと、その。え、映画を、だな……」
まったくの予想外の遭遇に、俺はひたすらに焦った。全然まともに喋れていなかったが、映画館の前で、映画と口に出したので、おおよその見当はついたのだろう。ユウコは頷き、とんでもないことを聞いてきた。
「今から観るのか。どれ?」
ここで質問だ。高校生の男が一人で恋愛映画を観る。これに対する女性の感想はどうであろうか。答えなくても良い。俺ならそんなヤツと口をききたくない。
「あー、まあ、そう、だなぁ。と、特に決めずに、きたから」
「ん。そういうのは、面白そうだな。一人でか?」
「あ、ああ。うん、一人だ」
ユウコは少し考える仕草をして、次に腕時計を確認した。その様子を眺めるだけで俺の心臓は秒間三十回は脈打っている。早死にしそうだ。
「少し、時間に余裕がある。よければ、付き合ってもいいか?」
「へ……?」
淡泊な様子で、俺に提案してきたユウコの顔を、普段ではあり得ないほどにまじまじと見つめてしまう。ユウコが、俺と、映画を観たいだと?
「ああ、嫌ならいい。一人で観るのが好きなら、邪魔するつもりはない。本屋で時間を潰すだけだ」
「や、や、まさか。全然いいぞっ!」
「そうか。じゃあ、どれにしようか。何も決めていないのはいいが、もうすぐ上映時間だろう?」
「そ、そそそ、そうだな。えぇと、ああ、うん。ユウが決めてくれないか。迷ってて、決められそうもない」
俺は完璧に舞い上がってしまい、もはや真っ当な判断ができなかった。気付けば、ユウコに問題を丸投げしてしまっていた。
「私の好みに合わせなくてもいいんだけど……カナブンは紳士だな。では、英国紳士というほどだから、イギリスの映画にするか」
ユウコは実にアッサリと、イギリスのラヴコメディを選んだ。なんと。疑似恋愛でユウコと向き合う力を得ようと思って、まさかユウコ本人と恋愛映画を観ることになろうとは。
「この手の映画は、普段観ないし。男女の連れなら、変な目で見られることもないだろう。嫌なら別のにするが?」
「や、や、嫌じゃない。そ、そろそろ入ろうぜ」
ユウコのさりげなく呟いた「男女の連れ」という言葉に、俺は内心で身体が爆発するほどの感動を噛みしめながら、映画館に歩を進めた。