act3 料理と先生2
「どうだ。俺の名前、覚えたか?」
廊下に出て、どこだかわからない目的地に向かうあいだに、担任が既に十回は繰り返した質問をまたしてきた。
「えぇと。確か、西田啓二とか、そんな感じだったような」
「仁科恵一な。ちょっと近かったけど、完璧に別人だぞ、それは」
そうだ。仁科恵一教諭だった。どうやら俺は名前を覚えるのは下手だが、渾名を覚えるのは得意らしい。アイドルや陸上女はその最たる例であり、仁科教諭の場合は、渾名以前に担任という解りやすい言葉がある。逆に周防や大塩は、特に渾名がなかったものだから、無理矢理名前を覚えたわけで。勿論、ユウコは別格だ。
「それで、どこ行くんスか?」
「ああ。俺、料理部の顧問になったんだがな。ちょいと今日のメニューは量が多そうで、よく食いそうな男子生徒を拉致してこようと思ったわけだ」
初耳である。料理部の顧問なんて、普通は家庭科の教師がするものだろう。担任は確か、社会科の教師だったはずだ。
「これでも料理は得意なんだぞ。今でも彼女に三食作ってるしな」
担任は少し得意そうに言った。いや、それ以前に。
「彼女、いるんスね」
「ああ。言ってなかったか。美人だぞ」
そんなことを教え子に嬉しそうに語るのもどうかと思うが、このフレンドリーさが持ち味のようなものなのだろう。しかし、三食作ってるとは、料理好きも甚だしい。
「昼飯も作ってるんスか?」
「弁当を持たせてある。今日は竜田揚げをメインに、自家製のぬか漬けとひじきの佃煮を添えた。どれも味が染みてて、冷えても美味い仕上がりだぞ」
「先生、主婦っすね」
いい加減な感じの人物だと思っていたので、飯と言っても、いわゆる男の料理という手合いかと思っていたが、なんともお母さんじみたメニューである。
「まあ、主夫みたいな生活してたからな。料理はちゃんと習ったさ。まさかそれで顧問に任命されるとは思っちゃいなかったが」
主夫とはこれ如何に。案外、どこぞの大富豪の令嬢のメイドでもやっていたのかもしれない。いや、執事か。
俺が不思議そうな顔をしているのを見て、担任は苦笑した。そうこうしているうちに目的地である家庭科教室に到着する。
数人の女子がいそいそと調理の準備に取りかかっているところだった。材料を見るからに、ハンバーグというところだろうか。好きなメニューである。
「ようし。準備はあらかた終わってるな。余ったり失敗したりしても、この金池が全部食ってくれる。けどまあ、どうせなら美味い飯にしようぜ。じゃ、始めようか」
一斉に「はーい」という元気な声が聞こえて、女子連中が調理に取りかかる。飯を食わせてくれるのは有り難いが、今から作るとなると、けっこう時間がかかるだろう。さて、どうしたものか。
「待っているのも暇だろう。ちょいと手伝ってこいよ」
担任がエプロンを身につけながら、軽い調子で言う。飯を食わせてくれるから付いてきたのに、何故手伝わなければならないのか、甚だ意味が不明である。
「んー、なんで俺が手伝わないといけねえんだよ、ってツラだな」
「まったくもってその通りっスね」
「別にいいじゃねーか。料理だって多少できといたほうが、女の子にモテるぞ」
そう言われると、つい想い人を脳裏に浮かべ、俄然やる気になってしまうのが恋する男の悲しい性である。気付けば担任のエプロンをひったくり、やる気満々になってしまっていた。
「さぁってと。んー、あそこの連中が人が足りてないみたいだし、手伝ってきます」
「……ああ。いいけどさ」
俺は早速、二人で調理を進めているところに向かった。二人とも知らない女であるが、先ほどのやりとりを聞いていたらしい。笑顔で迎え入れてくれた。
「料理したことある?」
「んー。まあ、それなりだな」
手を洗いながら答える。机の上にある食材を見ると、玉葱と人参に合い挽きミンチ。そこに大根があるのは、大根おろしでも作って、ポン酢で食べる算段というところか。御丁寧にシナモンまで揃えている。
「えっと。とりあえずまだ野菜洗ったところだな。適当にみじん切りにしておく」
並べてあった包丁を手に取り、玉葱を水にさらしてから、細かく刻んでいく。
「え……?」
隣で見ていた女が、不思議そうに俺の手元を見つめていた。何故、手伝いの俺が始めているのに、こいつは呆然と見ているだけなのだ。もしかして、俺が何か間違えていたのだろうか。
「手順とか、間違えてたか?」
「ううん。そうじゃなくて、随分と手馴れてるなぁって思っただけ」
「あー。まあ、料理ぐらいできねえと、モテねえみたいだしな」
伊達にファミレスでバイトをしていたわけではない。ファミレスの割に随分本格的な料理ばかりを並べるところだったもので、皿洗いでもさせられるだろうと思っていたのだが、気付けば魚の三枚おろしを教え込まれるわ。野菜の切り方を数時間も練習させられるわと、散々だった。
おかげさまで、担任ほどではないのだろうが、それなりに料理はできるようになってしまった。ハンバーグなんて定番メニューだ。仕込みから焼きまで、全部一人で出来るぐらいだ。バイトは春休み限定だったので辞めたが、夜中に小腹が空くと、自分で料理ができるものだから、今でも割と包丁を握っている。
「すごい……私たちより、早いよ?」
「一日で百食ぐらい、作ってたからな」
喋っている間に、玉葱を刻み終わり、人参に取りかかる。そこで、ようやく他の二人も思い出したように調理に取りかかった。しかし。
「あー、シナモンの量、もうちょっと多くしたほうがいい。大根おろしはもっと優しくおろしてやれ」
気付けば、俺が指導するという不思議な展開になっていた。料理部の面々も妙なことに、真面目な顔をして頷き、俺の言葉に従っている。俺は本来、小腹が空いたからここまで来て、暇だから手伝っているだけに過ぎない存在だったはずだ。
「なんで俺、陣頭指揮とかやってんだ?」
「楽でいい」
沸々と湧き出た疑問を口にしたら、背後から不意に言葉が返ってきた。
淡々とした調子と、ぶっきらぼうな口調。振り返らずとも、その言葉の主が誰だかわかってしまい、一瞬心臓が止まった。
「ユ、ユウ……?」
「やー。カナブン」
しゅたっと手を挙げて――そんな気軽な様子とは裏腹に無表情なユウコがそこに立っていた。何故だ。
「おう、高山。遅いぞー」
担任がひらひらと手を振り、ユウコもそれに応えて手を挙げる。
そう言えば、ユウコは料理部に所属しているとか、新学期早々の自己紹介で言っていたような気がする。なんということだ。この俺が、ユウコに関することで何かを失念するなんて。これでは未来の旦那失格である。俺は結婚記念日を忘れるような夫にならないと固く決意しているのだ。
「この失敗は……料理で取り返す」
人間、失敗の一つや二つ、やってしまうのは仕方のないことだ。落ち込んでいても始まらない。要は、その失敗をどう穴埋めするか。どのようにプラスにまで引き上げるかである。
見るに、俺の料理の腕はこの中でもかなり上位のようだ。ならば、ここでビシっと料理の腕前を披露すれば、ユウコのハートも俺に戻ってくるに違いない。
いや、待て。別に失敗したと思ってるのは俺だけで、ユウコのハートはどこにも行ってないし、それ以前にまだ俺のところにも来ていない。結婚記念日を忘れないユウコの夫になる日は、まだ先の話だ。
まあ、それでもここで料理の腕をアピールして悪い結果になることはないだろう。素早い微塵切りでもよし。丁寧な焼きでもよし。さあ、ユウコ。俺の料理魂をとくと見てくれ。
「少し用事で遅れたが、もう大丈夫だ。カナブン、代わるよ」
嗚呼、せめて鮮やかな手ごねでもいいから、見せたかった。