第9章〈禁忌の指輪〉-9-
イルダーグの思念が直接ルナに届く。
緊張が走った。
ルナは武器になるものがないかと、着ている服をまさぐった。
その手に、何かが触れる。
(これは……)
鞘に収まったこぶりの短剣。
それはアルティナ城の城内で、父を殺めたに違いない少年とぶつかったとき、その子供が落としていったものだった。
ルナを見たときの驚いた表情がはっきりと浮かぶ。
――……あの者は、禁忌となった指輪を所持しておる……あの子どもは、闇の力に振り回されておる……
父の言葉が蘇る。
ルナは、父を殺した顔を絶対に忘れまいと、決めた。
『……私の血の臭いを嗅ぎつけたのでしょう……お逃げ下さい』
イルダーグはゆっくりと大きな体を起こすと、攻撃の態勢をとった。と、まさにその瞬間、大きな黒い影が突然イルダーグに襲いかかった。
二つの影は、暗闇の中でからまりあうように濃い一つの影となり、ルナの視野から消えた。
それは、目の前の空間から突然現れたような唐突さだった。
「イルダーグ?!」
ルナは叫びながら立ち上がり、手にした短剣の鞘を抜きながらイルダーグと影が消えた方向へ追うように走りだす。
『お逃げ下さい……!』
イルダーグの思念が弱々しくも、ルナを逃がすことのみを願って響く。
「いやだ!」
ルナは走った。
イルダーグと影は思った以上に遠くに移動していて追いつくことができない。
ルナが懸命に走り続け、やっと追いついた瞬間、目の前でその影は二つにわかれた。
ルナの前の影がふらつきながら立ち上がる。
「イルダーグ……」
そのイルダーグに、再び影が襲いかかる気配を感じたとき、ルナは咄嗟にイルダーグの前に飛び出し、突進してくる影めがけて剣を突き出していた。
息が止まるほどの激しい衝撃がルナの全身を打ちつけた。
体はそのまま弾き飛ばされ、地面に叩きつける。
鋭い痛みが全身を突き刺し、痛みと苦しさで声すら出ない。
さらに、倒れたと同時に鋭い空気を切る音が耳元をかすめた。
ルナは無意識のうちに体をのけぞらせて、後ろに飛びのく。
一瞬、影の気配が消える。
だが、それは一時的に身を潜めただけで、次の攻撃の機会をうかがっているのはあきらかだった。
ルナは、手にした短剣の刃先から生ぬるいものがしたたり落ちる感触を得てはいたが、手ごたえがまるで感じられなかった。
張り詰めた神経が、ルナの首筋を走り抜ける。
闇の中での争いは、海賊暮らしのなかで慣れてはいたが、突然あらわれた正体不明の妖獣は闇そのものであるかのようにまったくつかみどころがない。
(でも……父上の仇だ……! イルダーグを殺そうとしてる……敵だ……)
ルナの心の中に、純粋な怒りが沸き上がる。
その怒りが千々に乱れた心がひとつにして、守護妖獣イルダーグに致命傷を与えた得たいの知れない妖獣に対する恐怖心をさえ消し去っていく。
(死ぬかもしれない……)
ルナは血まみれになって横たわり、死んでいく自分を思い浮かべた。
(でも、こいつだけは)
悲しみも、痛みも、恐怖心も怒りがすべてを消し去り、全身を満たしていく。
これまでに味わったことのない凄まじい怒りの感情が、ルナ自身の中で荒れ狂い、解き放たれるようと膨らみ続ける。
(許さない……)
やっと母と父に再会し、あたたかい家族のもとに帰れるはずだった。
両親は、自分のことを忘れないでいてくれた。
きらいになったわけではなかった。
見放されたわけでも、見捨てられたのでもなかった。
父は、自分が城に帰って来たことをわかってくれていたのだ。
だから、イルダーグの守護の結界を解き、待っていてくれた。
(それを……その父上を……。絶対に許さない!)
怒りに満ちた心は、ただ父の仇の命を断つことのみ願い、突き進む。
ルナは全力で走ると、高く跳躍した。
暗闇の森の中、揺れる高い草むらの中、なぜそこだとわかったのか理由はなかった。
ただ、体が引き寄せられたのだ。
ルナは剣を高くかかげると、着地する闇に向かって剣を突き刺した。
闇の中のさらに深い闇の影を。
――オモシロイ……
ふいに、イルダーグのものではない思念がルナの中に飛び込んでくる。
「え?」
ルナは思わず、その声に気をとられた。
――モット……怒れ……
(何だ……?)
剣で突き刺した物体は、まるでその剣を飲み込む様に吸い込んでいく。
両手で剣の柄を握り締めていた手は、剣と一体化してしまったようにピタリとくっついて離れなくなっていた。
「くっ……」
片足を立てて、剣を引き抜こうと力いっぱい引くが、反対にグイグイと正体不明の妖獣の中に引きこまれていく。
――憎イノダロウ……コノ程度ノ傷ハカスリ傷……ソノ程度の怒リデハ倒サレハシナイ
「うるさい!!」
ルナは大声で叫んだ。
「許さないって、言っただろう!」
怒りが頂点に達し、目の前が真っ白になる。
まさにその瞬間、矢のような雷が二つの体を直撃した。
ルナの体は激しい衝撃とともに、手にした剣ごと吹き飛び空へ弾き飛ばされた。
大地に叩きつけられようとしたその体は、飛び込んできた影に直前で受け止められる。
イルダーグの姿がそこにあった。
『お逃げ……くだ……さい……』
雷獣の名をもつ守護妖獣は、文字通り最後の力を振り絞ってルナをかばったのだ。
イルダーグの放った雷の衝撃はルナに傷ひとつ負わせてはいなかった。
「いやだ!! もうこれ以上、目の前で誰かが死ぬのを見るのは、もういやだ!」
ルナは、涙を浮べ怒りを込めて叫んだ。
――ソウダ……殺サレタノダカラナ……
ルナは同調する声があることに気づいたが、怒りはその声に苛立つようにさらに膨らんでいく。
「父上を殺した奴を、やっつけてやるんだ!」
――ソウダ……人間ハ簡単ニ死ヌ……。
父、カルザキア王の死の瞬間がまざまざと蘇る。
再び、ルナの頭の中が怒りで染まりかけたその時……。
――ばかやろうが!
突然、聞き慣れた声が耳元で響き、ルナはハッとした。
ジルの恐ろしい顔が眼前にあらわれたのだ。
ハーフノームの海賊の頭領であり、ジーンとして暮らした歳月の中で、父のような存在だったジルの怒りに満ちた顔。
何度か海賊船同士の戦いがあった。
仲間たちにも多くの死人がでるほどの死闘を繰り広げた戦いのとき、ルナも目の前で仲間が次々と殺されていく姿に我慢できずに飛び出し、仲間を助けるために、何人の男たちを手に掛けた。
それは海賊たちから見ても、仲間の窮地を救った英雄的行為であり、一人前の海賊として認められる出来事だったはずだ。
だが、死闘のあと、ルナを待っていたのはジルの罵声と、強烈な平手打ちだった。
小さな体は吹き飛び、甲板に打ちつけられてルナは気を失った。
なぜぶたれたのか、それは今もわからない。
しかし今、ルナは頭から冷水をかけられたように冷静さを取り戻していた。
「イルダーグ……ごめん……」
『お謝りくださるな……』
イルダーグは用心深く周囲を見回していたが、ふと困惑したようにつぶやく。
『……消えました……』
「あいつが? どうして……?」
ルナも驚いて辺りを見回す。
『わかりません……直前まで殺気が満ちておりましたが、たちどころに消えて……しまいました』
そうこたえた後、イルダーグの大きな体がどうと、草むらの中に崩れるように倒れた。




