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第6章〈失われし誓約〉-4-

 シーラとミレーゼ、二人の王女は少年に近づくと、馬から降りて手近な木に手綱を結んだ。

「うまくいきましたね」

「あたりまえよ。それにしても臭くってよ。馬小屋の臭いがするわ、エリル」

 ミレーゼは辛辣な言葉を放ちながらも、弟王子のしばらくぶりに見る明るい笑顔にホッとした気分になる。

 ここにいるのは狂態を演じるエリル王子ではなかった。

 青みがかった髪は風にそよぎ、その澄んだ碧い瞳は知性さえも映し出していた。

「これは失礼。姉上様も気になりますか?」

 エリルは、五つ離れた美しい姉に遠慮気味に聞いたが、シーラはゆっくりと首をふった。

「とんでもないわ。あなたこそ、おつらいでしょう。よく辛抱なされて……」

 エリルはあわててその言葉を遮った。

「こうして生きていられるのも、姉上様方のおかげです。わたしはこれでも結構楽しんでいますから」

 エリルは笑った。

 四年前に、実の母から命を狙われたことなどみじんも感じさせない笑顔で。

「それでどうなの、エリル」

 ミレーゼの問いかけに、弟王子は真顔に戻ると、深いため息をついた。

「父上は……以前の父上とは違います。なんというのか……たまに……わたしのことを知らない人間のように見るかと思えば、突然いつもの父上に戻られるのです。でも、またすぐに、そのご自身の言われた言葉を忘れられてしまって……」

 三人は岩場に腰をおろすと、頭上から降り注いでくる力強い滝の流れに視線を注ぐ。

「ご病気なのかしら」

 ミレーゼはポツリとつぶやいた。


 五年前、エリルは七歳のとき、宮殿の大階段から落ちて十日間も意識不明の重体となったことがあった。

 人々は王子が階段を踏み外した不幸な事故だと認識していた。

 だが、真実は違った。そして、それを知っている者がいたのだ。

 自分の背を突き飛ばした者がいた。エリルは、はっきりと覚えていた。

 階段の最上階から転がり落ち、全身を強打して痛みと苦痛で意識を失いかけている自分の姿を、薄笑いを浮かべながら見ている男の顔を。

 エリルは意識がもどり、死線を越えた自分をみて喜びに涙ぐむ人々をみても、男の薄笑いと背中に残る手の感触が今にも蘇り襲いかかってくるようで、自分が突き落とされたことを知らせたくても、思うように声が出せなかった。

 治療にあたっていた術士や侍従に問いかけられても、うなずいてみせるだけの状態が続いた。

 そんな時に、仲のよい姉のミレーゼが心配して見舞いに訪れたのだ。

 ミレーゼは、エリルの寝所からお付きの人々をすべて隣の部屋に追い払った。

 そして、涙をポロポロとこぼしながら、弟の手を両手で握りしめて笑顔をつくり、何度も「よかったね、よかったね」と繰り返し言った。

 エリルの心にミレーゼの優しい心が伝わって来て温かなものが全身に広がった。

 そういえば、母ミディール妃はこんなふうに自分を見舞ってくれただろうか……とエリルはぼんやとして意識の中で感じていた。

 回復を祝う人々の中、ひとり脅えたような瞳をエリルに向けていた母。

 それを思い出したとき、エリルは姉に自分が階段から落ちたときの話をなにげなく喋りはじめていた。

 最初は、エリルが話せるようになったのを見て喜んでいたミレーゼだったが、話を聞くにつれ今度ははひどく動揺しだした。

 エリルの話をひととおり聞き終わったミレーゼは弟王子にあることを約束をさせた。

 ひとつは、階段から突き落とされたことを、だれにも話さないこと。ふたつめは、しばらくの間、言葉が話せないふりをして過ごすことだった。

 そして三日後に再び見舞いに訪れたミレーゼは、理解不能な難題をエリルに持ちかけた。

 すなわち、「これからは気が触れた王子を演じるのよ」というものだった。

 まだ当時七歳のエリルには、それがどういうことなのか全くわからなかった。

 しかし、それをしなければ再び命を狙われるかもしれないこと、それがハリアの未来に役立つことなのだと、涙ながらに訴えられ、姉の気持ちに応えるかたちで、教えられたとおりに、食事の最中に大声をだして歌ったり、笑ったり、奇声を発したりして見せるようになった。

 奇態を演じはじめたころは、多少ぎこちなかったものの、徐々に侍女や臣下たちが驚く顔をみるのが楽しくなり、エリルの演技には磨きがかかっていった。

 宮中の人々はエリルの姿や奇行を見るたびに、階段から落ちて頭を打ったの原因で、王子の病が悪化している、王家の王子には不幸がつきまとっているのでは、といった不吉な噂をするようになった。

 第一、第二王子を事故で亡くし、第三王子までがひん死の重症をおったとなっては、無理からぬことでもあった。

 重臣たちも、式典などの公の行事にはそれとなく理由をつけては、エリルの出席を控えさせるようにしていた。

 これ以上噂が広まり、国民や、しいては他国にまでそのことが届くことを恐れたためである。

 日を追うにつれエリル王子に対する人々の反応が変化を見せはじめた。腫れ物に触るのを恐れるように近づくのを避ける者、エリルの存在に気づいても礼さえしなくなる者、病いが良くなると信じて以前と変わらず接してくる者。

 幼いエリルは、孤独を味わうとともに人間の本性をいやというほど知ることになった。

 何度か見舞いに来た母のミディール妃さえも、三歳になった弟のグリトニル王子へ関心を向け、日に日に対面に来る日が減っていった。

 そうした生活を送りながらエリルは時々城からふらりと姿を消しては、姉たちと密かに会い、悲しいことやつらいこと、見聞きしたこと、廷臣の人柄などを話してきた。

 自分を突き落とし、そして発見者をよそおって王から厚く遇せられた男がガーゼフ伯爵だということも、しばらくしてミレーゼから聞き知ったのだ。


「この四年間、姉上様方から言われた通りにして来たおかげで、わたしがどんな場所に出入りしても、怪しむ者はいなくなりましたからね。父上の部屋や、合議の間へもふらふら入っていけます。よほどのことがなければ、ミレーゼ姉上の次に手がかかる王子ですからね、誰も相手にしたがりませんよ」

 ミレーゼの眉がピクリと動いたが、エリルは気づかないのか自嘲気味に笑って見せる。

 エリルに、十五歳の王太子認証を正式に受ける日まで気が触れた王子を演じるように、という案を出したのは、ミレーゼに相談を受けたシーラだった。

 ハリアでは第一王位継承者が成人と認められる十五歳になると、王太子として国の政治に対しても王に次ぐ発言力を持つことが許されるのだ。シーラは「兄たちのような運命を、歩ませたくはない」と言って、この案をミレーゼとともに考えたのだった。

「でも、父上だけはずっと変わらないで接してくださいました。執務中に部屋へ入れば厳しく叱られましたし、中庭でお会いすれば王としての大切なことを真剣に話してくださいました。それが……最近は時折、わたしに向かって、『レイアはどこだ』『そこの小姓、レイアを呼んで来なさい』と他人を見るような目で、激しく訴えられるのです。姉上、レイアという名の方はあの亡くなられた……?」

 エリルから見つめられたシーラは、「そう」と小さくつぶやいてから、静かに応えた。

「レイア王妃のことだわ。十九歳の時、病いで亡くなられたこの国の正妃だった方。父上のお部屋の奥の書斎、書棚机の横に壁飾り布があるでしょう。その布に隠すように、ある女性の肖像画がかけてあるの。母上が亡くなった後、『なぜ、正妃をとられないのですか』とちょっぴり意地悪な質問をしてしまったとき、一度だけ見せてくださったことがあるの。とても愛らしくて美しい若い女性だったわ。それがレイア王妃。『自分が生涯愛し続ける妃は彼女だけだ』と言ってられたわ。レイア王妃の肖像画をじっとご覧になりながら……」

 それを聞いたミレーゼとエリルは、複雑な面持ちで川の水面に映る自分たちの姿を見つめた。

 シーラには、二人の胸の中の思いが自分のもののように感じとれた。

――お父様は母上を愛しては下さらなかったの?

 ヘルモーズ王に聞きたくて、聞けなかったもうひとつの質問。

 あのとき浮かんだ同じ疑問を、今この二人の王女と王子は感じているに違いなかった。たとえ、実の母をうとましく思っていても、母を愛していない父との間に、自分たちが生まれたとは考えたくない。自分は愛されて生まれたと、そう信じたいのだ。

「大丈夫よ。父上は、わたしたちをとても愛して下さっているわ。わたしたちの母上以上にね」

 シーラは、ほほ笑んでふたりを見つめた。

「本当に?」

 ミレーゼが心配そうに問いかける。

「ええ」

 二人の姉はにこやかにほほ笑んだ。

 ヘルモーズ王のレイア王妃の肖像画を見つめる瞳と、そのあとで自分を見つめた瞳は確かに違った。だがそれは愛情の種類が違うからなのだということをシーラはその時、なぜだかわかってしまったのだ。

 父の瞳がそう語っていたように覚えている。

「それも、平等に」

「でも、ならどうして、姉上様をリンセンテートスなんて、侵略を仕掛けた国にお嫁に行かせようとするの? せめてナイアデスのフェリエス王なら許せるのに。あそこなら国としてもまあまあだし、王だって二十三歳にもなるのにまだ后をめとっていないのでしょう。姉上様となら、きっとお似合いだわ」

 ミレーゼは、納得いかないといった顔で怒ったように言う。

「そのことなんですけど」

 話がシーラの婚約のことにおよんだ時、エリルが、二人の姉に真剣な視線をなげかけた。

「さきほど話した、父上の様子が最近変だということと関係あるように思うのです。その亡くなられた正妃を探されたり、わたしのことを忘れてしまうようなご病気になられているとしたら……だとしたら、政務をなにごともなくされているのは、逆に不自然ではないでしょうか」

「奇妙なわが子に普通に接する……っていうのも、変といえば変よ」

 ミレーゼは、さきほど何気なくエリルに言われた言葉を根にもっていたのか、厭味をこめて空に向かってボソリと口にした。が、エリルはハッとしたようにミレーゼを振り返った。

「そういわれると……そうなのかもしれない……父上が普通に接して下さるのがとても嬉しくて……やはり、父上だけはわかって下さっているんだと思いたくて……。気がつかなかった…」

 その顔があまりに思い詰めたものだったので、ミレーゼとシーラはなんとか弟王子を元気づけようと、おもしろい話をたくさんしてみせたが、その日エリルは考えこんだまま笑顔をみせることはなかった。


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