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第22章〈遥かなる想い〉-2-

 エーツ・エマザー山脈の麓、広大な森の途切れる外門付近には他国からの万が一の侵略に備えて麓一帯を警備するために設けられた砦と堅固な石造りのノル・シュナイダー城がある。そして、その城内に後から建設された居城が今はアルクメーネの住する館でもあった。

 この城は今、はるばるエーツ山脈を越えてやってくる他国からの客人を出迎え、旅の疲れを癒してもらう迎賓の役割を担っている。

 その居城の庭園に立ち、アルクメーネは遥か頂上に雪を纏うエーツ山脈を見上げていた。

――兄上。

 耳朶に染み付いて離れない、自分を呼ぶ声。

 その声に静かに耳を傾ける。

 クロトでもアウシュダールでもない声。

 自分を「兄」と、そう呼ぶあの声の持ち主をアルクメーネは知らない。

 ただの幻聴かもしれない。

 それでも、自分を呼び続ける声が誰のものなのかを知りたかった。

 なのになぜだかナイアデス皇国から帰国してからは、こうして目を閉じ耳を澄ますと、浮かんでくるのは不思議とあの国で出会った銀色の髪の少女ジーンの笑顔だった。

(ジーンに頼んで、一度だけでもそう呼んでもらえば良かった……)

 ナイアデス皇国での出会い。

 父カルザキア王の夢。

 馬小屋の中で死に瀕していた二人の子供たち。

 腕に抱いたときの燃えるような熱い体温と、ぐったりとした意識のない幼い身体。

 胸騒ぎに目をさまし、逃げ出そうとしていたのを引き止めた朝のこと。

 あの時アルクメーネは、少女の声を聞いたときに、ふとこの子が「兄上」とあの言葉を発したならどんな感じになるのだろうかと、聞いてみたい衝動にかられたのだ。

 だが、結局それも出来ないまま別れを迎えた。

 やがてノストールに帰国し、時間が経過すれば薄れると思っていたあの日の出来事は、薄れるどころか、より強く鮮明に思い出されるのだった。

 ひとつひとつの場面が鮮やかに蘇えり、焼きつき、離れない。

 それだけではなかった。

 帰国の途中で起こった不思議な出来事が、ジーンとの思い出をさらに強く印象付けることになったのだ。




 エルナン国からノストールに向かう、ニュウズ海洋の航路での出来事だった。

 エルナンの港を出てから、アルクメーネの乗る船は穏やかな天候に恵まれ、途中何事もなく無事にノストール王国の港に入港した。

 しかし、港では、ここ連続して発生している海賊船に襲われた数々の船の話でもちきりだった。

 ここ数年間、ハーフノームの海賊集団の他に、単独行動の海賊らが横行し、海賊船とわからない船体で遭難や事故を装い助けを求めるそぶりをして、助けの手を差し伸べた船を襲うといった手口が増加しつつあった。

 外海に出るほどに被害は増大し、手におえない酷さだというのだ。

 アルクメーネら一行が護衛船をつけずに無事帰還したことを知った海軍の将軍たちは、海賊船にまったく出会わずにいた航路の話を知ると、一様に驚きの表情を浮べた。

 ふと、アルクメーネは船のマストにたなびいている赤い旗を見上げた。

 ジーンから手渡された砂時計の描かれた真っ赤な旗。

 そして思い出す。

 旗に描かれている砂時計にまつわる話をしてくれた、不思議な男のことを。



 途中で停泊したエルナン公国領地の港町。

 ノストールから迎えに来た数名の随行人たちと合流をし、旅人姿で宿の下の飯屋で食事をしていたときのことだった。

 談笑するアルクメーネの隣りのテーブルで、一人酒を飲んでいた若い男が声をかけてきたのだ。

「あんたらあのでかい船に乗ってんだろ。あの赤い旗、かっこいいな。譲ってくれないか?」

「それは出来ません」

 アルクメーネは、無視をしてもよさそうな男の不躾な質問に、なぜか答えてしまっていた。

「私の大切な友人が渡してくれたものです。あれは今度会えたときに返したいと考えていますから」

「へぇー。じゃあ、あんたあの旗の砂時計の意味を知っているのかい?」

 男はまるで意味を知らないものに旗をもつ資格はない、とからかうような、それでいてアルクメーネが無視できないような慎重な物腰で問い掛けてきた。

「砂時計の意味は知りませんが、あの旗を掲げていれば海の女神ドナが守ってくれると聞いています」

 男は軽く口笛を吹いた。

「旅のお守りというわけだ。なおさら欲しくなる」

「旗の持ち主が教えてくれた言葉です。私にとってはあの旗は大切な思い出の品。誰かに譲るとか売るとか、そういった類のものではありません」

 そこまで言って、アルクメーネは口を閉ざした。

 別れ際のジーンの寂しげな笑みが鮮明に脳裏に蘇る。

「どうしたんだ?」

「いいえ……。それより、砂時計の意味はどういうものなのですか?」

「ジーン」

「!」

 男の口から出たその名に、アルクメーネははっとし、大きく瞳を開いて男の顔を見つめた。

「太古にジーンという名の少年がいた」

 男は、アルクメーネの表情を見ながらひと呼吸おいた。

「不治の病で命のわずかとなった母親を助けるために、少年は女神ドナに願いを聞き届けてもらうために、ドナを守護する海の妖獣ファージルの棲家、海の底まで泳いだ。そして、自分の生命を生贄とするから母の命を自分の寿命と交換してほしいと訴えたんだ。ファージルはその蛇の長い身体で少年に巻きつくと、ドナの元へと運んでいったという」

 男は語り部のように、物語を語り始めた。


 妖獣ファージルは少年ジーンを、この世界で最も深い海の底に連れて行くと、光がまったく差すことのない、暗闇の中に少年を一人残して去ってしまった。

 恐怖に泣き叫び、大声で助けを求めたものは妖獣たちの餌となる。自分の目的を忘れなかったものだけがドナに会う資格を得るのだ。

 自分の手の平さえも見ることの出来ない暗闇の中で少年は身をすくませ、ひたすら次の「何か」を待った。

 時折、妖獣であるファージルや、ほかの生き物たちが自分の体をかすめて泳いでいく気配がする。

 ぬめりとした何かが頬や身体をなめるように触れていき、嫌悪感をもたらす呻き声のような音が耳の傍で聞こえることもあった。

 このままここで死ぬのかもしれない。

 ジーンは生きて帰ることが出来ないかもしれないという恐怖に襲われながらも、いちるの望みを託して長い時間闇の海底で立ち尽くしていた。母の命を助けられる方法はもうドナ神に会う以外にはない、と。その望みしがみつくように、ただひたすら深海に置き去りにされた身を震わせ耐え忍んでいた。

 その様子を静かに見続けていた海の女神ドナは、ファージルに命じて少年を自分のもとへと呼び寄せた。

 海の女神は、ひざまづく少年の手の平に小さな砂時計を乗せた。

 そしてささやいた。

『これは、母の生命の寿命を繋ぐことの出来る砂時計である』と。

 一日に四度、この砂時計はすべての砂を落としきる。その最後の一粒が落ちきった時、すぐに逆さにすれば母の寿命はまた砂の分だけ延びる。

 だが、この砂時計を受け取ったら最後、砂時計を常に見守り、落ちきった直後に逆さにする作業を延々と繰り返さなくてはいけない。

 もしも、それを忘れてしまったならその瞬間に母の生命は絶たれてしまう。

 落ちきる直前までは絶対に途中で逆さにしてもいけない。

 自分以外の者の手に触れさせてはいけない。

 また、その砂時計の意味を他人はもちろん、母親にさえも教えてもいけない。

 やがて砂時計が己の生活を支配し、ぐっすりと眠ることも、遊ぶこともままならなくなる。

『母親の生命の番人という役目を請け負うのだぞ。延命をすることも可能であるが、母の死も己が背負うことになる。はじめは良いがそのうちに辛くなり、苦しくなり、恨みさえ抱くであろう。己の楽しみはすべて奪われ奴隷のような生き方となる。一度でも怠れば母は死に、自分を恨むだろう。己の人生を犠牲にする覚悟がなければ止めておくがよい』

 女神はそう告げた。

 過去にその砂時計を手にして幸せになったものなどいなかったからだ。

 しかし、少年は瞳を輝かせて母の命を延命する砂時計をすすんで受け取り、母の待つ家へと帰っていった。

 やがて月日は流れ、少年は若者へと成長をとげていた。

 だが、その顔は砂時計を常に見張り続けなければいけないための極度の疲労と睡眠不足で実年齢よりもはるかに年老いて見えた。

 また皆と同じ仕事につくことが出来ないことから盗みに手をそめはじめた。

 友人をつくることもなく、全ての生活を砂時計を守ることに費やし、事情を知らない町の人々からは風変わり者と見られていた。

 彼の母親は砂時計の力で、ジーンの望どおり生きていたが、病が治ったわけではなく、この数年間奇跡的に長らえているだけの状態といえた。

 やがて、若者は自分が若くして母と同じ不治の病にかかっていることを知る。

 それに気がついた新月の夜、若者は病の体で幼い日にファージルに会うために飛び込んだ海岸の断崖にやってきた。

「海の女神ドナよ。妖獣ファージルよ。五歳でこの砂時計を受け取りし日より十二年。私は十二年もの歳月を母と過ごすことが出来ました。本当に感謝申し上げます」

 砂時計を通して若者の声に気付いた女神は、その声にじっと聞きいっていた。

「ですが、私の生命はもう長くはありません。ろくな生き方も出来ませんでしたが、最後の最後まで母とともに生きられそうです。ですが、死んでしまった後、この砂時計をどうやってお返しすればよいのでしょうか? 幸せに過ごせたお礼をどのようにお返しすればよいのでしょうか?」

 この十数年間、彼が砂時計のために、命を縮める不幸な生き方をしてきたことをドナはすべて知っていた。

 砂時計を――母の命を守るため――まともな仕事につけない若者は、少年時代から盗みを働きながら生活をし、一方で自分の命を削るようにドナとの約束を守り、砂時計を守り、母を守り続けてきた。

 その生き地獄にも似た生活の中に身をおき、身をやつしながら、苦しみながら、しかしドナの予想とは裏腹に、この若者はいつも不思議と誇らしげだった。

「ありがとう」

 砂時計を逆さにする時、ジーンは必ずそう砂時計と女神ドナに感謝の言葉を口にしていた。

 ドナは生命の砂時計を受け取ったものの不幸な末路をすべて知っていた。

 どれほど自ら望んだこととはいえ、その砂時計を背負ったものは一人としてドナを恨まずに息絶えたものはいなかった。

 多くは、途中で砂時計を逆さにすることを忘れてしまい、その自分を責めて命を絶つ者。恨み言を叫びながら狂死していく者など、時代が変わっても、人間が変わっていてもみな一様に同じ結果が待っていた。

 だがそのドナにとって、ジーンのように自らの人生を恨むことなく命を終えようとする人間ははじめてだった。

 役割を果たし終わった後の砂時計をどうやってドナの元に返せばいいのかということを考え、そしてドナへ感謝さえしていた。

 そんな人間は初めてだった。

 それから間もなく、若者は母の横たわる寝台の傍で息を引き取った。

 流れ落ちることのなくなった手元に転がった砂時計は、彼と母の死とともにドナの手元に返ってきた。

 その砂時計を手にした時、女神は何千年と流すことを忘れていた涙が自分の頬を伝わるのを知った。

『人間とは理解不能な不思議なものだな……』

 なにがそこまでジーンの生き方を支えたのか、女神ドナにはわからなかった。

 だが、それから間もなく、女神ドナは生命の砂時計を妖獣ファージルに託して封印した。


 人々は語り続ける。

 女神は、ジーンと母が亡くなった夜になるとその魂に寄り添い守るため、夜は地上の人間を守ることもなく海底にいるのだと。

 妖獣ファージルは、封印された砂時計をその身で守りながら、夜に船出する命をおろそかにする人間は情けをかけることなく襲いかかる。

 だから決して、夜の海に船出してはいけない――と。

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