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第17章〈国境を越える時〉-9-

 遥か頭上から轟音とともに流れ落ちてくる滝を見上げながら、乗馬服に身を包んだミレーゼは目を閉じて大きく深呼吸をした。

 瑠璃色の長い巻き毛が風になびき、勝ち気な性格がすべて現れてしまう意志の強い碧い瞳をゆっくりと閉じる。

 美しく成長しながら、その表情に微笑を浮かぶことは極めて稀だった。

『黙っていてくださればお美しいのですから』とメイヴは言うが、冗談ではないと思う。

――姉上のように優しい性格でも、エリルのように芝居上手でもないもの。嫌いな人間にも微笑んで、面白くもないのに笑って接するなんて私には不可能よ。

 日々目まぐるしく変わる複雑な人間模様と権力闘争、隣国との領土問題や民族紛争、領地争い、農作地の争い、複雑な訴訟の最終判断と、激務を来ないしてる人間に微笑んでいればいいなんて、本当に冗談ではなかった。

 いくらメイヴが表向きはかばってくれていても、背負うものの巨大さにつぶされそうになる。

 そんな時、ミレーゼは王宮を抜け出して秘密の場所を訪れるのだ。

 いつもこの壮大な風景と激しい水音の中に身を置くと、すべての嫌なことから解放された。

 緑の木々に囲まれ、小鳥がさえずる静かな風景。

 そして、その中でただ上流から流れ落ちる巨大な水の流れと轟音に身を浸していると、自分自身が無になる気がする。

 なによりも、ここには大好きな人達との思い出だけがあった。

 目をゆっくりと開け、上空の青空を見上げると、ミレーゼは、シーラもエリルもいなくなった王宮で、傀儡王としての治世を行いながら、つくづく自分はくじ運が悪いと振り返る。

 この自分が、我慢して我慢して女王陛下を演じ、国務、政務をこなし、会いたくもないおべっかをつかう人間とも我慢をして謁見もしているのに、日々増えていくのは悪評ばかりだった。

「あーあー」

 思わず大きく息を吸って大きな声と吐き出す。

 すると突然背後から、滝の音をもかき消すような大きな笑い声が聞こえてきた。

 ミレーゼの片方の眉がピクリと動く。

「さすがの陛下も、ため息にございますか」

「失礼ね。これは深呼吸というのよ。物知らず」

 ミレーゼは横顔を向けて、その人物を軽く睨む。

 現れたのは、一見貴族には見えないほど、地味ない装いをしたダルクス大臣だった。

 今日の午後のお茶の時間の接見をすっぽかされたはずの老伯爵は、「これは失礼致しました」と頭を下げながら、ミレーゼの座る岩場に腰を下ろした。

「レイドリアンが泣いておりましたぞ。陛下はご自身の身に迫っている危機を寸分も感じておられない。このままでは評判どおり、メイヴ妃の操り人形として大変なことになってしまう、と」

「ずうたいのでかい割りには素直ないい子で、本人に悪気はないのはわかってるわよ。けど、あからさますぎるのよね。なにもメイヴやその他大勢の噂大好き人間のいる前で、馬鹿みたいに泣きそうな顔して懇願しなくたっていいじゃない」

 ミレーゼはつまらなさそうにつぶやく。

「ですが、そういう人間こそ大事にすることです。本当に耳に痛いことを告げる人間を遠ざけてはなりません」

 手厳しいダルクスの言葉にも、ミレーゼは肩を竦めて苦笑いを浮べる。

「おかげで、私の周りは減らず口の老人ばかりだらけよ。あっちは耳が遠くて何も聞こえないんでしょうけど、こっちは耳が痛くて聞こえなくなりそうだわ」

 両耳を塞ぎ、両目を閉じ、ミレーゼはダルクスに舌をつき出す。

「王宮でも亡霊扱いですからな。おかげで関心さえ向けられなくなってしまった」

 ダルクスはカッカと笑う。

 ミレーゼが、ダルクスにこの秘密の場所を教えたのは、王位について三年余り過ぎてのことだった。

 その間、女王となった自分に対し人々は腫れ物を触るようにミレーゼに接し、また裏ではメイヴ妃のご機嫌をとることに終始していた。

 特に、姉シーラの結婚、失踪の際にはどこからも情報がまったくはいらず、ミレーゼが直接命じても、何が起きたのか調査中であり、居場所さえつかめない、わからないの一点張りで本当に調査を行っているのかさえ怪しかった。

 また諸公との謁見でも揉め事は不思議なほどなく、メイヴ妃は「陛下にご負担をかけることはほとんどございません。あくまでも形だけのものですから気をお楽になさって下さい」との言葉にしたがって求められる執政をしてきたつもりだった。

 その言葉通り、誰もがミレーゼの言葉に従い、逆らうものなどなかった。

 ミレーゼ自身「どうせ、エリルが帰って来れば自由になれるんだから」という思いもあって、さほど深く考えずに日々を過ごしていた。

 ただ、その中にあってダルクス大臣だけが、煩わしい存在だった。

 メイヴがそばにいないのを見つけてはミレーゼの前に現れ、うるさいことを言っては去って行くのだ。

 メイヴから「ヘルモーズ陛下の若き時代からの忠臣ですが、お年もお年ですので隠居の話を進めましょう」と勧められたときも、これでうるさいのがいなくなると内心ほっとしていたものだった。

 だが、メイヴが遠出するのを見計らって、こっそりと一年ぶりに宮殿奥で病気療養をしている父ヘルモーズをたずねたとき、意識が混濁している状態の中で父は「ダルクスを側におけ」とミレーゼにしか聞こえない声で囁いたのだ。

 その一瞬の瞳は、狂人ではなく正気のものだったのをミレーゼは確かに知った。

 ミレーゼは、ひょっとして、父が正気でもあるにかかわらずこの部屋に閉じ込められているのではないかとの大きな疑念が、大きく浮上したのだ。

 それを確かめようとしても、その時間もきっかけも得られなかった。

 この時になって、ミレーゼは、自分は最高権力者の立場にいながら、父の見舞いさえ自由にいけないことに初めて気がついたのだ。

――誰が本当の家臣なの? 誰が一番父上のお心を知っている人間なの?

 ミレーゼのそばにはいつもメイヴが背を向けて守ってくれている。面倒くさいことは全部メイヴが取り仕切り、必要なことをミレーゼに求めた。

 また各国要人や国内貴族達との謁見の求めも、重要な事案以外はメイヴが代行を行なってきた。

 メイヴのおかげで、ミレーゼは最低限必要なことは務め、本当に必要な人物とだけ会うことで、面倒な宮中の権力闘争の渦中に身を置くことから逃れられていたのだ。

 すべては父の元側妃が、母の非業な死の後も、狂人と化した父の後を継いだ、自分を守ってくれているおかげだと信じていた。

 だが、父の見舞いをしたあの時から、ミレーゼはすべてを疑うことに決めたのだ。

 誰が味方で、誰が敵か、を。

 父の言葉を確かめるため、真に自分の味方に値する人物かどうかを見極めるため、ミレーゼはあらゆる手段を講じてダルクスを試し始めた。

 人前で暴言を吐き、ダルクスに恥をかかせたことは数え切れないほどあった。

 見かねたメイヴが、ミレーゼに苦言を呈することもあるほどだった。

 だが、ダルクスはそれでもあきらめなかった。機会を見つけてはミレーゼに国の窮状を訴え続けたのだ。

「王印を押される前に書面にかならず目をお通し下さいますよう」

「側近の者の言葉を鵜呑みにせずにご自身でご確認ください」

「おだてられたままドレスで暴れ馬にのれば、大ケガを致します。たとえどのような名手とて、自らの手には手綱がなければさばけませぬ」

 その言葉が、自分にとって必要なのかどうか計り兼ねたことも多々あった。

 意地と意地との張り合いのようなやり取りが、二人の間にはいつも漂いで、ピリピリとした緊張感を周囲に与えた。

 そして、ある時、ミレーゼはダルクスと接見したときに、突然癇癪を起こし、大臣であるダルクスに自分の私室のしかも寝所の掃除を一人で行うように命じたのだ。

 これにはさすがのダルクスも、顔を真っ赤にしてミレーゼを睨みつけ、屈辱に身を震わせた。

 しかし、それはミレーゼの賭けだった。

 寝室の燭台の下に、ダルクスに宛てた最初となる手紙を忍ばせておいたのだ。

「陛下……やりすぎにございます」

 後日、手紙に指定した時間通りに、さびれた礼拝室に感激の面持ちをたたえ涙ぐむダルクスが現れた時、ミレーゼは心から安堵のため息をこぼしていた。

「私と父上の側につく人間なんだから、頑固者が必要なのよ。でも、よく耐えたわね。ほんとうにあきれるわ」

「陛下は常に私の言葉に耳を傾け、言葉を返して下さいました。どんな時も、無視されたことは一度たりともございませんでしたから」

「身分を卑しめられても?」

「さすがに寝所の掃除を命じられたときは、これまでかと。下男下女のごとき扱いを受け生き恥をさらすぐらいならば、隠居をしようと一度は決めました。しかし」

「?」

「ヘルモーズ陛下に命じられたなら、と考えました。それだけでございます」

 ダルクスは、ミレーゼの信頼を得た。

 ミレーゼが、エリルやシーラと密会していたこの秘密の場所を教えたのは、さらに二年が経過してからのことだった。

 ミレーゼはダルクスを通じて、さまざまな国の状況やメイヴ妃がミレーゼに内密で行っていること等、次々と知ることとなった。

 特に衝撃を受けたのは、メイヴが行方不明となっていたシーラをリンセンテートスの古城で保護していたという話だった。

 しかも、失踪したはずのガーゼフが一枚も二枚もこの動きに噛んでいると言う話を聞いたとき、ミレーゼはあまりの怒りと驚きに失神寸前となった。

 そして自分が愚かにも、母ミディール妃を死に追いやったも同然のメイヴ妃と、弟を殺そうとしたガーゼフの意のままに動いていたと知って、激しい動揺と自己嫌悪にさいなまれた。

「我がハリアの神、エボル神に誓って、絶対に許さない」

 そう誓ったミレーゼは、ダルクスに対しては王宮では相変わらず罵倒の言葉を浴びせながら、真に自分の味方となる人間を選別し、情報を得続けていたのだ。

「レイドリアンは、陛下のお目にはかないませぬか?」

 ダルクスに問われてミレーゼは、しばし考える。

「私が聞きたくない嫌なことばかり正義感ぶって言ってくる点では、第一段階は通過なんでしょう。でも、気配りがなさ過ぎて、鈍いし、メイヴの前でわざわざ目立つようなことをするのは問題外。見ていてこっちがヒヤヒヤするわ」

 つんとすまして答えるミレーゼにダルクスは、目を細めて二十歳を迎えた気位の高く美しい女王を眩しそうに見つめる。

 亜麻色の美しい長い髪、強い意志を示す碧い瞳。陶器のように美しい横顔。

 わがまますぎて、慣れているダルクスも辟易することも多いが、なによりもヘルモーズ前王の言葉に耳を貸し、老体の自分を切り捨てずにこうして心を開いてくれた若き女王を心から称賛し、敬愛していた。

「レイの話はいいのよ。それよりも、例の話はその後どうなっているの?」

 ミレーゼは厳しい顔をしてダルクスを睨みつける。

「グリトニル王子擁立の企て、水面下で動いているのは確実」

 つい癖でダルクスが声をひそめた為に、滝の音に消されてしまいそうになる。

「そう……やはり次は、自分の意のままになるグリトニルをかつぎ出そうって魂胆ね」

 ミレーゼは、感情をぶつけるように怒りに満ちた大きな瞳でダルクスを睨みつけた。

 ミレーゼは目の前にいる相手に感情の矛先を向ける傾向が多々あり、ダルクスから再三指摘をされても、簡単にはなおりそうになかった。

「あの女、ハリアを自分のものにする気だわ」

 あまりに強い視線に耐え切れなくなったダルクスは、思わず立ち上がって滝壺の方へと足を向けた。

 ミレーゼの弟グリトニル王子は、来年で十五歳の誕生式を迎え、王太子としての認証を受けることが可能となる。

 そうなれば暫定王の名称が外れないままのミレーゼは、王冠をグリトニルに譲り渡さなくてはいけなくなるかもしれない。

 たとえそれがミレーゼの意志ではなくとも、メイヴ妃が仕組めばその思惑のまま事態が進んで行くのは予測できた。

 そのグリトニル擁立を容易にするために、メイヴ妃はミレーゼ女王の悪評を国民に撒き散らせているに違いないのだ。

「誕生式を迎えなければ、まだ時間はあるのでしょう?」

 立ちあがったミレーゼは、ダルクスの隣に並んで立つ。

「それが……時間は余りないかもしれません」

「どういうこと?」

 ミレーゼは、詰問するようにダルクスを見る。

「はっきり確認したわけではないのですが」

「いいから、答えて!」

「グリトニル殿下がごく最近、《エボルの指輪》を手に入れられたという噂が……。そのようなことはありえぬのですが」

「!」

 ミレーゼの顔からみるみるうちに血の気が引いていった。

「まだ、噂の段階ですが」

 ダルクスはミレーゼの背に手を添え、その細いからだが倒れてしまわないようにと支える。

「《エボルの指輪》なんて、この国にはもう存在しないってお父様は言ってたわ。ないはずのものが、どうして現れるの?」

 《エボルの指輪》は王の後継の証しだった。もしも、本当にグリトニルがその指輪を手にしたのだとしたら、ミレーゼはもとより、エリルが帰って来たとしても、王位はグリトニルのものになってしまう。

「そんなこと……」

 ミレーゼは、自分の声から急速に力が失われて行くのを感じていた。  




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