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第15章〈導き〉-5-

「テセウス様はお元気ですか?」

「兄ですか?」

 突然シーラの口から出てテセウスの名に、アルクメーネは戸惑ったが、以前リンセンテートス王の結婚式へ参列したテセウスが、ラシル王の花嫁となるハリア国のシーラ姫を暴徒たちの手から助け出したしいう話をしてくれたことを思い出す。

「ええ、元気ですよ。リンセンテートスでお会いした時の話は聞いています」

「あの時、危険な中を助けていだきましたいたのに気が動転してしまい、お礼をテセウス様に申し上げられなかったことがずっと悔やまれておりました。どうか帰国されましたら、よろしくお伝えください」

 シーラはアルクメーネのナイアデス皇国入りを知ったときから待っていたのだ。

 もし機会があるものならば、自分の口から直接伝えたいと。

 しかし、身分を伏せているアルクメーネの立場もあり、うかつな場所で口にすればどんな噂になるかわからず、今まで心の中に押し留めていたのだ。

 今日の舞踏会も、アルクメーネと会話が出来る絶好の機会があるかもしれないと思ってはいたものの、その為に見知らぬ男性と踊る勇気もなく、けれど舞踏会には参加しなければならず、アインに相談した結果、男装して舞踏会に参加しそのまま終わるのをただ待ち続けていたのだ。

 シーラは、アルクメーネと期せずして出会えたことに心から感謝していた。

「あなたは幸せになってくださいね」

 アルクメーネの慈しむような言葉に、シーラはハッとしてアルクメーネを見上げた。

「お辛いこともあったと聞いています。でも、この大国の皇妃として、お幸せになられることを願っています」

 シーラは一瞬自分の心の中を見透かされたのではないかと思った。

 だが、アルクメーネの瞳は別のだれかを思い浮かべるような遠い目をしていて、シーラはそれがテセウスの身に起きたなにを語っているように思えて、つい問いを発していた。

「テセウス様に何かあったのですか?」

 シーラの言葉にアルクメーネは、大きく目を見張った。

 自分の言葉が迂闊にも兄の身に起きた異変を悟らせてしまったのではないかと一瞬危うんだのだ。

 しかし、そのシーラの揺れる心配そうな眼差しを間近で見て、それが見当違いだと気がつく。

 彼女が、命の恩人であるテセウスを心配して心から発した言葉なのだと気がついたからだ。

「ご安心ください」

 アルクメーネはほほ笑む。

「兄は元気です。それに、私が帰郷しました折りには、兄にもあなたのようなすばらしい后を迎える用意致します。シーラ様がとても心配していらっしゃったことも伝えておきます」

「そんな……」

 シーラは、その言葉にこれ以上伝える言葉を無くして唇を閉ざした。

 アルクメーネの脳裏に、兄の厳しい横顔が浮かぶ。

 苦悩の理由を語らぬまま、王としてのすべてを捨てようとしている兄の後ろ姿。

 あの背中が出立するときから今も尚、焼きついて離れないのだ。

――わたしはこの先、結婚はしない。子もつくらない。そして、王の座を退いて後は、民にこの身を捧げ尽くし続ける。それがわたしに出来る許された償いだからだ。

 苦悩を一人で背負っていくことを決意したに違いないテセウスの厳しく悲しみに満ちた瞳を、アルクメーネは片時も忘れることが出来ない。

 あの時、兄の痛みの激しさは、理由はわからなかったがそのままアルクメーネの痛みとなった。

 やさしい兄の明るく逞しい笑顔をどうしたら取り戻せるのだろうかと、願わずにはいられない。

 その日が来るまで、きっと自分自身も心から笑うことは出来ないだろうと、アルクメーネは思う。

 だからこそ、兄の優しさに触れたことで、ノストールから遠く離れたこの地に、兄のことを心配してくれる人間が一人でもいることが、嬉しかった。

 曲が終わり、集団舞踏から再びワルツに変わろうとしていた。

 今日は主催者の立場であり、ワルツに自分がいなければ逆に目立つだろう。

 このままここにいては、シーラに迷惑がかかってしまうかもしれないことにアルクメーネは気がつく。

「そろそろ戻ります。今日は女性の手をとらないで隠れているとフェリエス陛下にお叱りを受けるらしいので」

 空になったグラスを給仕に渡すと、軽く左胸に右手をあてシーラに一礼をする。

「…………」

 シーラは止めるすべもなく、ただその後姿を見送るしかない自分に唇をかむ。

 するとアルクメーネが、途中でなにかを思い出したようにシーラの元に引き返して来た。

「そういえば兄が、あなたをリサの花のようだと言っていたのを思い出しました」

「リサの花?」

 シーラはテセウスが自分のことをそのようにアルクメーネに話していたと知り、驚いて息をのんだ。

「厳冬の季節を越えて咲く美しい花です。エーツ山脈の麓の一帯で木に咲く、ノストールの民から愛されている花。兄がとても好きな花です」

 アルクメーネは、冒険談を話すように楽しそうに目を細めて話していたテセウスを思い浮かべる。

――美しく可憐な花嫁だったよ。なぜかリサの花と重なってしまうそんな人だった。

 数えるほどしかない自然な笑顔がこぼれていたひと時。

「リンセンテートスで花嫁を助け出した話をしてくれたときに、あなたのことをそう言っていました。今日、あなたとこうしてお話しが出来て、その意味がおぼろげに分かったような気がします」

 儚げで、すぐに散ってしまいそうな美しい花。だが、リサの花は厳寒を越えて優しく咲き香る。

 ハリアからリンセンテートス、そしてナイアデス皇国へと翻弄され皇太子妃となったシーラの中に、アルクメーネもまたリサの花を思い浮かべる。

 どんなに厳しい雪や風雨にさらされても、耐え続けて咲く淡紅色の花に似ている微笑に。

「では」

 アルクメーネはそう言ってほほ笑むと、身をひるがえし、彼を探してざわめいて女性たちの待つ華やかな空間へ流れるように吸い込まれて行った。

「あ……」

 シーラはアルクメーネの言葉に何も返事を返せないまま、その背中を目で追っていた。と、その視線が踊っているアインの姿をとらえる。

 その手をとって踊っている相手は、仮面をつけていてもシーラにはそれがフェリエスだとすぐにわかった。

 シーラは二人から視線をそらせた。

 結婚式を終えた夫婦としての初めての寝所で、フェリエスはとてもさりげなくではあったが、アインの処遇に関してこう言った。

――彼女は君の大切な友人だ。ハリア国への帰国は当分先に延ばさせ、皇妃の客人として、このラシュール城に居室を与えることにした。どのような場所へでも皇妃と共に出入りができるよう、すでに通達はすんでいる。

 この言葉は、自分の運命をフェリエスに託して生きていこうと結婚式までの準備の間、自らに言い聞かせていた心を瞬時に冷やす言葉となった。

(この方は、私を見てはいない……)

 それは直感だった。

 すると、アインといる時のフェリエスの態度の違いや、彼女をなんとかハリアに帰してあげたいと願い出るたびに様々な理由をつけては延期させる理由が、ある独特の意味を含んでいたことに思い当たる。

 あの言葉を聞くまで、すべてはシーラの寂しさを考えての思いやりだと素直に信じていたのだ。

 しかし、今こうして二人の踊っている姿を見ていると、それは疑いようのない確信へと変わっていく。

 アインの手をとり踊っているフェリエスからは、シーラや、ほかの誰にも見せないような優しさが満ちあふれていた。

 皇帝は一人の男としてアインと踊るために、この仮面舞踏会を開催させたのではないかという憶測まで沸き出して、シーラは考えるのを止める。

 自分の心が醜く思えて苦しくなったのだ。そして、耐え切れずに舞踏の間を後にした。

 フェリエスに対して、まだ愛情という感情を抱いてはいなかったが、信じるべき相手に裏切られた思いは、頼るべき人もいない場所で置き去りにされたような孤独感で、シーラの心を傷つけた。

『シーラ、月を見に行こうよ』

 ふわりと温かな感触がシーラを包み込み、子供のような声がすぐそばで聞こえた。

(ハティ……)

『シーラは一人じゃないよ』

 それはシーラの守護妖獣ハティの声だった。

(そうね……)

 その言葉に従うように、シーラは城の庭に出る通路に向かって歩きだした。

 シーラにとり、ナイアデスへ来て心から良かったと思えることがたったひとつだけあった。

 それは守護妖獣ハティを得たことだった。

 皇妃となってからは、どんなに辛くとも、悲しくとも決して絶望的な孤独に襲われることはなかった。

 つねにハティがそばに付き従い、守り、そして声をかけてくれる。

 実体の姿は、シーラの部屋の中でしか現れないものの、こうして男装しているとはいえ夜の園庭を一人で歩くとこができるのも、ハティの存在があるからだった。

(私はハティと出会えたから、ナイアデス皇国に感謝し、皇妃として精一杯の努力しなくてはいけないわね)

 シーラは心の中で守護妖獣に呼びかけ、フェリエスとアインのことも許してしまいたいと思った。

 アインがフェリエスに対して、どんな思いを抱いているのかわからなかったが、ハティを与えてくれたことを考えれば、例えフェリエスの愛情が皇妃の自分に向けられなくとも、あきらめられるような気がした。

 なにも望まずに生きていくことには、慣れているはずだった。

 だが、毎夜いとおしむようにシーラに口づけ、ほほ笑み、やさしく抱き締めるフェリエスに対して心を開きかけていただけに、今日の二人の楽しげな様子は耐えられない光景だったのだ。

 シーラは、時折ハリア国の異母妹であるミレーゼやその弟のエリルのことを想う。

 三人で城を抜け出して森の中でいろいろな話をしたことなどが、たまらなく懐かしかった。

 あの時はそう思うことはなかったが、いまでは幸せな思い出として蘇るのだ。

 そしてハリアを離れる最後の時さえ、重病を理由に会うことも許されなかった大好きな父は元気だろうかと、思いを馳せる。

「帰りたい……」

 出来ないことはわかっていた。

 だが、言葉に出した瞬間に涙があふれ出て止まらなくなり、自分がどれだけハリア国に帰りたがっていたのか、シーラは初めて知った。 

『シーラは一人じゃないからね』

 夜気がシーラを包む。が、ハティの力がシーラを守り、冷たい空気が肌に触れることはなかった。

『ずっとそばにいるからね。だから、大丈夫だよ。それにもうすぐ、時が来る』

「時……?」

「大丈夫」

 ハティは見えないものを見ているかのように時折、『時が来るよ』と囁いた。

 その言葉に戸惑いながらも、シーラはうなずき、涙を拭いながら闇の中に輝く三日月を見上げた。

 月は、不思議な存在だとシーラは思う。

 神々の物語りの伝承はいまではわずかな数しか伝え残されていないが、そのなかの月の物語があったのを思い出す。


 世界の起こりのはじめの時。

 昼の世界と夜の世界とを行き来していた月の神アル神に対し、闇の神エボル神はその輝きを愛しみ、夜の世界に留まるように願ったという。

 しかし、昼の世界では夜の世界に行ったままのアル神の姿を求めて、光の神リーフィス神があらゆる世界を強烈な光で照らし出し、多くの神を困らせた。

 そのために、エボル神はアル神がほんの一時、昼の世界へ行くことを許すことにしたのだという。

 ただし、突然夜の世界から消すことだけはやめて欲しいと悲しむエボル神のために、アル神は昼の世界へ行く日を知らせることを誓った。

 月の光を徐々に細くしてその日が近づくことを。

 だから、月は夜の世界で輝きその姿を変え、時折昼の世界を訪ねてはまた戻って来るのだと。


 シーラは闇の神のもとから、光の神に会いに行く時が近づいたことを示す月の神が、二つの国を行き来する自由な姿に見えて、羨ましく思えた。

 シーラの祖国ハリア公国の守護神、夜と闇を司りし安らぎの神・エボル神。 

 一度は嫁いだはずのリンセンテートスの守護神、旅人の守り神・ビアン神。

 ナイアデス皇国の守護神光を司りし神、リーフィス神。

 自分は三つの国を渡ったが、月のように帰ることは出来ないのだ。

 そして、その月に、月の女神アル神を守護神とするノストール国のテセウスを想い重ねる。

――兄が、あなたをリサの花のようだと言っていましたよ。

 先程のアルクメーネの声が蘇り、シーラは目を閉じてその声に、テセウスの声と顔を重ね繰り返し思い出す。

 テセウスが自分のことを覚えていてくれた。

 好きな花にたとえてくれた。

 その言葉だけで、シーラは痛みに満ちた心が癒されるような気がした。

 その言葉だけで、寂しさを紛らわせることができるような気がした。

 シーラは月に祈るような気持ちで、もう一度だけでもいいから、あの時のようにテセウスに会いたいと心から思った。

 馬の背の上で二人きり、あの腕の中で守られ、言葉を交わすことができたならと儚く夢見る。

 ナイアデス皇国の皇妃となった身では叶わない夢であることはわかっていた。

 それでも、エボル神がアル神を求めたように、シーラは願う。

 こうして一人きりの夜だけは、テセウスの記憶が薄れるまで思い起こすことを許されたいと。

 月の神アル神を守護神とするノストールのテセウスが、この夜の月を共に見上げていてくれはしないかと、シーラは知らず知らずのうちに祈りながら、ただ月に見入っていた。




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