黒髪とラベンダー
印象に残っていたのは綺麗になびく長い黒髪だった。
光の当たる角度によって茶色に光った。
いかにも煩わしいといった様子で顔の横に垂れた髪を退ける仕草が何故だか僕の目をひいた。いや、もしかしたら周りの男たちだってそうだったかもしれない。
細くて艶やかで、すぐに絡まってしまうに違いない。
けれどいつも見るのは完璧な彼女だった。
初めて言葉を交わしたのは図書館の中だった。
眩しそうに本棚を眺めている彼女を見つけて、声をかけることに躊躇いは感じなかった。
「何を探しているんですか。」
彼女は少し驚いているようだった。
けれど、すぐに表情を緩めて(自惚れかもしれないが、彼女の口角が少しばかり上がった気がした)また本棚に目線を戻した。
「少しね。調べ物をしているんです。」
並んでいる本の背表紙を撫でながら、悪戯っぽい、どこか幼げな響きを含ませてまた彼女は言った。
「随分唐突なんですね。」
しまったと思った。
衝動のまま声をかけてしまったことを悔やんだ。
何も言えずにいると、彼女は目を細くして小さく吹き出した。
「そんな顔をしないで。からかっただけですよ。」
鈴が鳴るような、涼し気な笑い声だった。
やっぱり何を言っていいかわからなくて、曖昧に笑うことしかできなかった。
彼女の愛読書であろう本を書店で買った。
真新しい表紙が気恥ずかしくて、わざと古いブックカバーでそれを隠した。
読み進めてみると小難しい。
いつも涼しい顔をしてこれを読んでいるのだ。
もっと彼女を知りたいと思った。
本からの情報がすべて彼女の情報に変換されて体内に入ってくるようだった。
偶然立ち寄った喫茶店で彼女を見つけた。
気付かれないように彼女の斜め後方、少し離れたところに腰を落とした。
例によって、読んでいるのはあの小難しい本だった。
すぐさま鞄から本を取り出し、同じように涼しい顔を装って読みはじめてみる。
彼女とリンクしてるみたいで心拍数が少し上がった気がした。
彼女の正面に座ったのは男だった。
優しい目をした男だった。
ひと目で、彼が彼女に想いを寄せているのだとわかった。
彼女の目はどうなのだろう。同じように優しい目をしているのだろうか。
斜め後方からでは見えない。それが少しの救いだった。
手に持っていた本を読んで、読んで、読んで、頭の中を活字で満たそうとした。
けれどどうしたって少しトーンの上がった彼女の声が活字を押し退けて脳内を侵した。
彼は彼女よりも早く席を立った。
あまり時間がとれなくて申し訳ないと謝っている様子だった。
彼が帰って、まだしばらく彼女は本を読み続けるようだった。
不意に彼女が振り返る。咄嗟に目線を本に戻すと、紛れもない彼女の足音が近づいてきた。
「ここ、いいですか?」
正面の席だった。
どうぞ、と、恐る恐る目を合わせながら答えた。
「また、そんな顔をして。貴方は私と話すといつも困ってしまうんですね。」
そういう彼女は、僕を困らせることを楽しんでいるようだった。
「あの人は、好きな人ですか。」
彼女の目が少し大きさを増した。と、同時に、顔に赤みがさしたようだった。
「また、唐突なのね。」
いかにも幸せそうに笑った。
その表情をさせているのは彼なのだと、否が応でも確信できた。
ぽつぽつとさして意味もない言葉を交わすと、それじゃあ、と言って、彼女は店を出て行った。
外に出ると風になびいて光に反射する彼女の髪が綺麗だった。
顔にかかる髪を退けながら角に消えていく彼女を、何を考えるでもなくただ眺めていた。
ああ、つまるところ僕は、君が、好きだった。