17ゲス おしまい
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教室棟への渡り廊下を走る。突き当たりで上履きの底が滑り、壁にぶち当たる。
顔面を強か打ち付けて、よろけて、しかし俺はまた走った。
――バカヤロー!
俺は取り返しの付かない事をしてしまった。俺は、俺に思いを寄せてくれている人を、俺なんかを好きになってくれた人を、切り刻んだのだ。
俺はとんだバカヤローだ。
教室棟中央の階段を駆け上がってゆく。
――牧原。
1段飛ばしで踏み込むたびに、体が重くなってゆく。膝から力が抜けてゆく。
――俺はお前が嫌いだ。
それでも階段を走る。踏み外して脛を打っても、手摺りを掴んで這い上がる。
――牧原。お前は俺に似ているから、俺は俺を嫌う様に、お前を嫌ったんだ。
目の奥が暗くなり、脇腹が鋭く痛み、手首と足首を捻り、体中の骨が軋んだ。
――牧原。
――恭子!
呼吸さえ出来なくなって、漸く辿り着いた最上階の半開きの戸を押すと、陽の光が視界を真っ白に焼き尽くした。
その中に恭子の後ろ髪とスカートを見付けた。ブラウスの輪郭が見え始め、その背中に緑の格子柄が描かれていく。
恭子はフェンスの向こう側に居た。
俺は喉を絞り上げて叫んだ――。
待ってくれ。ごめん。死なないでくれ。ごめん。
叫ぼうとした。けれど喉が灼け付いてしまって、声が出ない。
千切れそうな手脚を引き摺って、恭子を捕まえようと、体を前へ突き動かす。
恭子が後ろ手にフェンスを掴み、体を前のめらせた。
駄目だ――。
「大好きだ!」
叫び声がした。
その声は耳をつんざく金切り声で、けれどもはっきりと響いた。
恭子の声だ。
「わたしは、牧原恭子は! 斉藤大地くんが、大好きだ!」
フェンスの向こう側で、恭子は絶叫した。
「誰よりも、大好きなんだッ!」
声は俺の背後の階段に反響した。学校中にこだました。グラウンドにも、プールにも、彼女の住む団地にまできっと届いた。
恭子は肩で息をしている。たぶん今までに出した事も無いがなり声だったろう。
俺は――脱力した。
いつの間にやら満身創痍の体が力を失って、膝から折れた。ずるっと足が擦れて手を突く。
その音に気付いたのか、恭子が振り返った。その顔は――酷く不細工だった。
涙だか汗だかでぐちゃぐちゃだ。そこに髪の毛が貼り付いている。眉間や口元に深々と皺が刻まれていて、動物が威嚇する様なアンモニアの臭いでも嗅いだ様な、泣き顔なのか何なのか、もう何が何だか解らない酷い顔をしている。
何でぇ――と恭子はか細く呻いた。
「何で斉藤君が居るのぉ……折角、折角プールまで聞こえる様に叫んだのに」
さっきの吠え声で力尽きたらしく、にごってかすれて抑揚も滅茶苦茶な声だ。
「バ、バカヤロー。お前、何そんな事、馬鹿でかい声でぶっちゃけてんだよ」
俺はどうにかこうにか立ち上がり、よろよろと恭子に歩み寄った。フェンス越しの恭子は逆に、力なくへたり込む。
「お前な、俺はお前が死ぬんじゃないかって」
「死なないよ。死ぬ訳無い」
頭をぶんぶん振る。するとあたかも嵐にでもやられたかの様な風貌になった。
「だって、だって……好きなんだもん」
「それはもう解ったから」
溜息が出た。それはそれは深い嘆息だ。呆れ返ってしまった。
「どうやってそっち出たんだよ」
尋ねると、恭子が目線を送る。フェンスには扉が付いていた。そしてロックしていただろう南京錠がぶら下がっている。何の事や無い。
俺もそっちに行って良いかと訊くと、恭子は黙って肯いた。
難無く扉を潜り抜けて、フェンスの向こう側に出る。思っていたよりも、随分とスペースがあった。下を見れば結構な高さだし、ひゅっと煽り風を受けるけれど、縁に段差もあるしフェンス伝いに行けば、全く苦も無く恭子の傍まで行けた。
それで。俺は恭子の隣に座り込んだ。
言いたい事は沢山ある。心配させんじゃねえとか、奇天烈な事をしでかすんじゃねえとか、色々あった。けれど言わないでおく事にした。代わりに。
「バカヤロー」
とまたチャチなセリフを吐くのだ。
ごめんなさい、と恭子は力無く詫びた。
「で。どうするつもりだったのよ? 俺に恥かかせて園崎との仲を引き裂くつもりだったとか?」
「違うんですぅ」
と情けない声で否定して、顔を覆った。そして何やらもごもごと言う。聞き取りにくいからやめろと言うと、素直に従って顔を上げた。
「解んないの。もう解んなくて、もう滅茶苦茶で」
「はあ、まあ……確かに滅茶苦茶だ」
破茶滅茶とも言う。ぐちゃぐちゃだし、ごちゃごちゃでもある。
――はあ。
まさかこんな素っ頓狂な奴とは思わなかった。いやしかし、まあ――良かった。
素っ頓狂な考えで良かった。まともな考えでなくて良かった。ほっとした。
死なれたら嫌だ。いいや、死んで欲しくなかった。
と――いう訳だから。
俺は立ち上がった。足下がちょっとふらついたところを、恭子がすぐ手を掴んでくれた。
「俺は、その、あれだよな。罰を受けなくちゃなんねえよな」
「え?」
罰ゲームだ、と俺は言った。
「お前の事、何つーか、おかしくしちゃったからさ。1人だけおかしくさせるのも悪いだろ。だから」
罰ゲームなのだ。
息を大きく吸い込んだ。乾き始めた秋の空気が肺に満たされていく。
そして。
「大好きだ!」
叫んだ。
「俺、斉藤大地は! 斉藤改めサイテー大地は、牧原恭子が大好きだ!」
あらん限りの声を振り絞った。
「誰よりも大好きなんだ! 高津、園崎さん、ごめえん!」
それから、それでは何だか締まりが悪いので、バカヤロー、と最後に叫んだ。
空気の抜けた風船になった気分で、フェンスにもたれて、ずり落ちた。
隣の恭子は阿呆みたいにきょとんとしている。涙でぬるぬるした感じも相まってナマズみたいだ。ああいや、サンショウウオだったか。言い得て妙である。
「え? えええ?」
「いや、ごめん。大好きってのは、うん。嘘だ」
未だに俺の手を掴む恭子の手は、熱くて、そして柔らかかった。
その手を握り返して、呆然としている恭子に言った。
「嘘だけどさ。まあ、こんだけ宣伝しちゃったし。もういっぺん付き合わねえ?」
俺は恭子が嫌いだ。僕に似ているから。
けれど昔の自分を受け入れようと決めたのだ。だからたぶん、きっと、恐らく、恭子の事も段々好きになれる気がする。そう思う。
恭子は暫く鯉のぼりに似た顔をしていたが、やがて目を伏せてから。
よろしくお願いします――と言った。