16ゲス
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体操服のまま特別教室棟の2階へ駆け上る。物理室の出入り口前で1度深く息をして戸を開いた。以前の様に牧原と目が合う事は無かったが、以前の様にほぼ無人だった。
ただ、キーボードを打つ音だけがしている。
「斉藤大地君か。部活中なんだ、ノックくらいしたまえよ。びっくりするだろ」
平然とキーボードを叩く手を止めずに、松永が言った。
「あ、あの先輩。牧原は?」
「彼女なら屋上の鍵を拝借しに行っているよ。それが直ったから改めてテストするのだそうだ」
それ、と言った時に顎で指し示したのはあの電光掲示板だ。松永の右手にある。
「じゃあ待ってれば戻ってきますね?」
俺がそう確かめると無言で、君は馬鹿か、とばかりに睨まれた。まあ当然だ。
何だか――気が抜けた。
取り敢えず、待つ事にした。正直、プールからここまでほぼノンストップで全力疾走したものだから、息が上がっているし脚も痛い。松永の右側、2つ席を空けたところに座った。
――確か直ったのだっけ。
そんな事を思いながら、電光掲示板を手繰り寄せる。松永がまたちら見した。
初めて触れてみたが結構な重量感がある。アクリル板のケースに基板がぎっちり詰まっているのだからかも知れないが、それは牧原の思いの分もある様に感じた。
重たいと思われるだろうけど――。
そんな風に牧原も電話口で言っていた。そう、重い奴だ。黙ってこんな物を作り上げてしまうくらいだし、罰ゲームだとか嫌いだとか言われても、涙1つも見せず寧ろありがとうなんて言う様な女だ。
随分と重たい。
「これ。文化祭で使うんですか?」
何と無し――でもなく、たぶん罪悪感からそう尋ねた。
すると松永は、いいや、と素っ気無く答えた。
「今年は出展しないからな。幽霊部員ばかりでね。見ての通り、部として存続していくのも怪しい状態だ。準備室に置ける在庫も限りがあるし、過去の先輩方の遺産もデキが良いのは軒並み持ち出されてしまっているよ。実蹟としてね」
そんな訳だから出展は無い、と無表情で繰り返した。
なら。この電光掲示板は、純粋に俺の為だけに作っていたのか。
重いよ。牧原。
重いと言えば――こいつをダサく掲げ上げる牧原を思い出した。
「直ってるんですよね。これ」
「直ったと言ったんだから……直ってるんだろう」
言葉の間のちょっとで、また馬鹿呼ばわりされた気がする。
試しに横の電源スイッチを入れてみた。すると。
《がんばれ! 斉藤大地くん》
充電池で稼動したのだろう。思わず、おお、と声が出た。別にここまでは2度も見せられているのだから、今更感心する事も無いのだけれど。今までとは感じ方が違った。
で――確か切り替えスイッチは背面だったはずだ。と、片側を持ち上げてみると小さなスライドスイッチが1つ、申し訳無さそうに付いていた。成る程、こいつは今左端に行ってるから、右に動かせば2つ目3つ目の表示になる訳だ。
《フレフレ! 斉藤大地くん》
思った通り、真ん中に動かしたら表示が変わった。相変わらず馬鹿っぽい文字列だ。チアリーディングじゃあるまいし。競泳にチアリーディングもあるまいし。
さて。問題は3つ目に切り替えた時だ。前回はそこでぶっ壊れたのである。
直った、とは言うものの真偽の程は解らない。作業時間は1日分しか無かった訳で、ただ回避策が解ったという意味なのかも知れない。
恐る恐る――スイッチを右端へ動かす。
赤い光点が変化した。文字列が変わった。
そこに表示されたのは。
《大好きです!斉藤大地くん》
俺は思わず息を呑んだ。そして、理解した。
あの時――昨日、屋上で試運転に失敗した時、牧原があれ程落ち込んだ理由だ。
俺にこれを見せたかったのだ。改めて自分の気持ちを伝えようと、強く意思表示しようとして、しくじってしまったから、あんな泣きそうな顔をしたのだ。
大好きです――。
あの場で俺にそう言いたかったのだ。しかしその矢先、たった1日経った後で、俺に――俺が酷い裏切りをしたのだ。
松永が、わお、と抑揚無く言った。
「ぼくの目を盗んで入れたな。斉藤大地君。君、随分思われてるじゃないか」
明朗に、はっはっは、と笑う。俺は笑えない。
重い。重たい。重たすぎる。重苦しいけれど。
突然、脳裏に牧原の言葉が走り抜けた。
重たいと思われるだろうけど――。
ずっと、死にたかった――。
こんな不細工で暗い女、死んじゃえば良いって――。
そして。
ありがとうございました――。
俺は跳び上がった。木製の椅子が、背後でがたんと倒れた。松永がネズミの様に仰け反った。
「屋上に行ったんですよね?」
「い、いや鍵を借りに行っただけだよ。それのテストなんだから取りに戻るだろ」
「戻らない!」
俺は走り出した。
そうだ。物理室に牧原は戻って来ない。
いや、もう戻らないつもりなのだ。行ったきり、どこにも戻らない。