15ゲス
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突っ立っている。ただ呆然と突っ立っている。
体操服姿なんぞでプールサイドに佇んでいるのは、マネージャーか、遅い俺か、サボりの高津くらいなものである。文化祭準備期間に入れば、運動部は活動を停止する事になる。その駆け込み需要とばかりに、他の部員達はせっせと泳いでいる。園崎も例外ではない。彼女は真面目だ。俺なんかはもうタイムを計測する役目さえ失って、ただただ呆けているだけなのに。
ゴーグルを着ける直前の園崎と目が合った。彼女ははにかんだ笑みを浮かべて、俺の方に腰元で小さく手を振った。
「よォ」
右肩にどっと重みがのし掛かってくる。エキノコックスとかいう寄生虫を抱えていそうな顔が間近にあった。
「なァ。さっきのアレ、何だよ」
「アレって何」
アレったらアレだ、と高津は理不尽な物言いをした。
「さっき牧原と話してたろォが。別れ切り出してたろ。まだ……あァ、何日だ?」
「25日」
「そォ! 25日ったらお前まだ10日も早いじゃねェか。何でお前」
そこで言葉を切って、あァん、と気色の悪い声を出した。
「お前ェ、園崎と上手くやったのか」
「まあ……上手くやったよ」
「マジッスか、うひょあ!」
素っ頓狂な奇声を発して、俺の肩をばんばん叩く。
「やるじゃんやるじゃん、やってくれるじゃん斉藤君よォ。まさかそんなドンドン拍子に行くとはよ。そりゃおめでてェよ。まァ約束破りだけどそこは許してやる。オレは公平壮大だからな」
全部間違っている。
「しッかし、とうとう、やっと、お前に本物の彼女が出来る日が来るとはなァ」
嫌味な程しみじみと呟いた。
本物の彼女――か。中3の頃の前田由樹、そして今日までの牧原恭子。2人とも偽物の彼女だった訳だ。
――偽物。
「なあ高津」
呼ぶと、何ざます、と機嫌良く応じる。
「お前、どこまで見てたんだ」
「どこ? どこって言うか、全部見てたし、聞いてたぞ」
やはり抜け目の無い奴だ。それなら。
「さっきの牧原の言ってた事。あれ聞いて、どう思った」
「どう思うって、さァなァ……いや良かったんじゃねェの? 傷が深くなくて」
「深くないか」
「ないない。オレとしちゃ残念でなんねェけどさァ。折角、あんなにチクチクしたのに、結果がアレじゃなァ。ま、お前としちゃ良かった訳だ。めでたしめでたし」
――違うな。
あんなのは、全て強がりだ。
それが解らない程、高津は空気の読めない奴だっただろうか。寧ろそういう事に人一倍長けた奴だったはずだ。だから人を弄べる。
いや――高津の感覚が鈍い訳ではないのか。
俺が過敏だったのだ、牧原という人間について。俺はたぶん誰よりも牧原という奴を知っていて、あいつの感情を理解出来る様になっていたのだと思う。
俺はきっと、牧原に共感していた。加害者でありながら同情していたのだ。俺も過去はあいつと同様、地味で根暗で、同じ目に遭った駄目な奴だから。
駄目じゃないですよ――。
それは先輩の良いところなんだと思います――。
そういう人の方が、いざという時に人の為に真剣になれたりするんです――。
誰よりも痛みや悲しみを解ってあげられると思うんです――。
園崎の言葉をふと思い返した。俺はそのことごとくを裏切った訳だ。
やっぱり今現在も、駄目な奴なのだろう。悪い奴だ。牧原の為に真剣になれず、あいつの痛みや悲しみを解っていながら、痛めつけたのだから。
なァ斉藤――といきなり高津に肩を掴まれた。
「そんなに落ち込むなよ」
「落ち込んでねえよ」
嘘だね、と俺の目を睨む。
「こういう事……罰ゲームなんかやって、落ち込まねェ奴じゃないだろ、お前は。あの頃から何も変わってねェだろ。悪ぶったって、お前はワルじゃねェよ」
何が言いたい。
だからさ、と高津は俺の肩を絞り上げた。
「だから、あんな事させたんじゃねェか。解ってんだろ?」
「……ああ」
解っている。それが俺と高津の、友達として結んだ盟約だ。
いつか前田由樹の様な奴を見返す。ナメられない様にする。いつまでも被害者で居ない様にする。
その為に、高津と連む。高津と悪ふざけをする。悪ぶる。
だから昔の僕は、今の俺になった。
「感謝してるよ」
「そりゃどォも。だからさ、斉藤。だからさ……お前はもう、こっち側なんだぜ。いつまでも地味ィでひ弱な奴じゃねェんだ。そんで忘れちまえ。牧原みたいな奴の事はさ。で、大手振って園崎と付き合っちまえば良いんだよ」
それでもうお前はナメられねェ――と高津は言った。
そう。そうすれば俺はもう誰にもナメられない。馬鹿にされない。
牧原みたいな奴の事はどうでも良いと振る舞って、可愛い彼女を連れて歩けば、俺はもう、僕だった頃の事なんか思い出さなくて良くなる。毎年、文化祭の時期に感傷を覚える事もなければ、前田由樹の事を考えずに済み、高津と楽しくやれる。友達も増えるかも知れない。毎日が充実するかも知れない。
だけど。
だけどそれは。
だけどそれは、間違っている。
被害者にならない為に加害者になるという論理も――。
過去を忘れれば新しい自分になれるという思想も――。
全部が間違っている。
自分が被害者だったからと言って加害者になったところで、何も清算されない。被害者を増やすだけの事で、何も救済されない。傷付ける事では、傷は癒えない。
過去を忘れる事なんて出来ない。今を変えても過去が変わる訳ではないし、今を変える必要性なんか無い。何故なら現在の俺は、過去の僕の上に居るのだから。
自分は自分だ。俺は僕で、僕は俺だ。違いなど無い。
俺は自分に自信を持てない。高津の言う通り顔もまあそれなりの半端だ。性格もあれこれ無駄に考えてしまうくらい陰気だ。勉強も運動も得意じゃない。
俺は牧原を馬鹿になんて出来ない。
俺が牧原を傷付けて良い理由なんてどこにも無い。
俺は――僕は牧原なのだから。
だから。
「間違いだらけなんだよ、お前」
俺は思いきり高津を突き飛ばした。
あァ、と半疑問系の叫びを上げながら、高津は後ろに2歩3歩とよろけ、そして縁に踵を引っ掛け、スタート台の上を転げて――落ちた。
盛大な水しぶきを眺めて、俺は開放感を覚えた。
すぐに更衣室の方へ向かう。笛の音や顧問の怒鳴り声が聞こえたが、構わない。
今すぐ謝りに行かなくてはならないのだ。
しかし、水面から驚いた顔を出した園崎と視線が重なった。
「ごめん」
そう言った声が聞こえたかは解らない。それでも俺は足を早めた。