11ゲス
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変に噂されたくないから――。
付き合ってる事、みんなには内緒だよ――。
前田由樹はそう言った。僕は肯いた。それはそうだろうと思った。僕みたいな、地味でどうしようもない奴と付き合ってるなんて噂になったら、困らせてしまう。
それでも、嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。
放課後や休日に、いくつかメールのやり取りをする。たったそれだけで、毎日が充実して思えた。
ある時、隣のクラスから男子が訪ねて来た。前にも見た、キツネ面の奴だ。
「お前、由樹と付き合ってるんだろ?」
男子トイレまで連れ出して、肩に腕を掛けて、出し抜けにそう言った。
僕は首を横に振った。でもそいつは、ヒヒヒ、と悪そうに笑った。
「別に隠す必要無いぜ。オレは知ってるってだけでさ。誰かに話したりしねェよ」
そいつは高津明彦と名乗り、由樹とはまあ友達だ、と自己紹介した。
「友達の彼氏ってのは、イコール友達みてェなもんだ。友達の友達じゃねェもん。ま、仲良くしようや斉藤くんよ」
不良の様な態度と口振りが嫌だった。
だけど高津はそれからも気軽に声を掛けてきて、段々嫌な印象は薄れていった。
中学3年生になって、初めて恋人と友人を得た。
「何考えてるんですか、先輩」
ぼんやりしていたところを、横合いから園崎に突つかれて、俺は跳び上がった。
選手名のアナウンス、わあわあという声援。応援席に日除けは無く、秋分間近だというのに日差しは肌を焼くくらいだ。
「い、いや別に」
「どうしたんですか。元気無いですよ」
「元気いっぱいの俺ってのは変でしょ」
冗談で返すと、それもそうですね、と園崎は屈託無く笑う。
屈託無いという表現がこれ程似合う人物は、園崎の他に知らない。こうして他の部員の目がある中でさえ、平気で話し掛けてくれる。それでいて嫌に馴れ馴れしい感じもしない。明るく活発な、誰もが彼女にしたいタイプの女の子だ。
それだけに、何とも居たたまれない気分にさせられてしまう。
今日は高津が居なくて良かった。応援に来る義務は無いが、まあサボっている。高津が居たら、今の俺や園崎や、2人の距離感をからかってくるに違い無いのだ。
「で、何を考えてたんですか?」
「まだ訊く?」
押しの強さに苦笑する。屈託無い明け透けな性格というのも、困るものがある。
「まあ、昔の事とか、今の事とか。色々だよ」
色々ですか――園崎は俺の言葉を繰り返して、困り顔をする。
「先輩。あんまり悩んでると、幸せが逃げちゃいますよ。何か古いですけど、これ本当です」
そうだね、と俺は応えたが、内心はちょっと微妙だ。
幸せ。そんなものが今の俺にあって良いとは思えない。
アナウンスが我が部の1年の名を告げた。あっ、と園崎は立ち上がる。
「もしその気になったら、今度、先輩の悩み聞かせてくださいね」
そう言い残して、応援席の最前列まで駆けて行った。
話せる悩みならいくらでも話したい。
園崎はフェンスから身を乗り出して、頑張れ、と声を張り上げる。
――俺も、頑張らなくちゃな。
――何を頑張るんだか、知らないが。
24日目。
階段を駆け上がっている。ここ最近は部活でも泳ぐ機会を減らしているせいで、息が切れた。そもそも水中とはまるで違って、地上は体の重みを痛感する。
教室棟屋上への扉は既に開け放たれていた。
足を踏み出すと砂埃だらけで、上履き越しにじゃりっとした嫌な感触が伝わる。秋分の日を明けた途端に秋めいた様で、吹き抜ける風は涼しい。そして放課後すぐに傾き始めた太陽も、何も遮るものが無いこの場所では肌が焼ける程眩しかった。
「屋上に出たの、初めてだ」
「わたしも」
待ち構えていた牧原は、例の電光掲示板を抱えて楽しげに笑った。
《ちょっと屋上まで来てくれませんか?》
なんてメールをよこすものだから一時は何事かと思わされた。蓋を開けてみれば何の事はない、自作電光掲示板にソーラーパネルを取り付けたから、その試運転に立ち会ってくれないか、というだけの話だった。
しかし清々しいものだ。空は青く程良く乾いているし、出入り口の塔屋を除けば360度の全展望である。遠くに薄くナントカ山が見える。もう少し冬に近付けば富士山が見えただろう。それから手前へ目線を下ろしていくと、牧原の住む団地が見える。普段は意識していなかったが、学校の方が少し台地になっているらしい。そしてグラウンド、プール。もう部活が始まっている。
「ごめんなさい。斉藤君も部活あるのに」
「いや大丈夫。大会も終わったし暇なもんだ。滅多に来れるところじゃねえし」
良い眺めなのだが、緑色の高いフェンスに囲われているのが惜しい。昼休みだけでも解放してくれれば良いのに。絶対に毎年誰かが同じ要望を出しているだろう。しかして誰かが毎年却下している訳だ。そんなに危険とは思えないが。
自殺にでも使われたら堪ったものではない、という事なんだろうけれど。
なら、生徒が自殺などを考えない環境作りにこそ力を注ぐべきだと思うけれど。
それは兎も角――。
「で。どうなったの、それ」
牧原の持つ箱は以前に比べて歪に変形、いやグレードアップしていた。
「大きめのソーラーパネルを取り付けるついでにね、ひさしを付けたの。おかげで視認性が上がったと思う。それとメモリを入れて文字列を3つ記憶しておける様にして、スイッチで切り替えられるようにしたの」
俺にも解る言語で説明してくれたが、やはりどうすごい事なのかよく解らない。けれども、第1弾を見せられてから土日と秋分の日を除くとたった3日しか無く、かつ文化部の活動時間が1日約2時間とすれば、実作業時間は6時間だけになる。月が変わればすぐ文化祭というこの時期、つまり文化部にとってはかき入れ時にも関わらず、また目下必要とされているでもないのにそれだけの改造をやってのけるのだから、どれだけ情熱を傾けているか知れようというものだ。
まあ文化祭の看板にでも利用するつもりだとは思うが。
しかし、やっぱりメカについて語らせると、牧原の口振りは活き活きする。人が変わった様と言うか水を得た魚の様と言うか。単に得意分野というだけではなく、本当に好きなのだろう。好きな事をやって目を輝かせられるのは良い事だ。俺には無いもので、尊敬に値する。
それじゃあ――うきうきした様子で牧原は体を揺する。
「わたしがあっちで点けるから、斉藤君はそこで見ててくれる?」
「良いよ」
肯くと、牧原は一番向こう側のフェンス際まで走って行った。不格好な小走りだ。距離は精々25メートルくらいだろうに、到達まで結構待たされた。
「点けるよ」
牧原が軽く肩で息をしながら叫んだ。
《がんばれ! 斉藤大地くん》
この前と同じ文字列が牧原の頭上に掲げ上げられる。そのポーズはまるでダサいラウンドガール。どんなアマチュアの試合でも牧原は雇わないだろう。可笑しい。
「どうして笑ってるの?」
目は良い様だ。
「いや何でも。全然バッチリ良く見える」
実際、これだけ離れても判読出来るのだから大したものだ。ひさしのおかげか。駅の電光掲示板と遜色無い、とまでは言えないが、まあ結構良い勝負だろう。
「じゃあ表示変えてみるね」
切り替えスイッチは裏に付いているのだろう。一旦下ろしてから、また掲げる。
《フレフレ! 斉藤大地くん》
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと見えてる」
前半は何と無く古臭いし、後半はそれしか表示出来ないのかと疑ってしまうが。兎も角応援したい熱意は解った。メモリとやらも上手く動作している様だし。
じゃあ次ね、と牧原は再び手元で掲示板を操作する。
しかし――掲げない。何度か表と裏を見て首を傾げ、とぼとぼと歩いてくる。
「どうした?」
こっちからも駆け寄ってみると、掲示板のLEDは全く消灯してしまっていた。
「判んない。電源不足か回路の故障か……」
スイッチ類をオンオフしてみるが、やはり点かない様だ。外装の隙間から臭いを嗅いで、ショートはしてないみたい、と酷く悲しげな顔をした。
「それなら直せば良いじゃねえか」
「うん」
とは言うものの、今にも泣き出しそうだ。それ程にショックな出来事だろうか。物作りをしない俺には解らない事ではある。しかし。
「そんなに落ち込む事無えだろ。お前なら直せるって、絶対」
な、と肩を叩く。初めて触れた牧原の肩は、見た目より小さかった。
我ながら無責任な物言いだとは思う。けれど、信用だか信頼だか形容し難いが、無根拠ながら牧原にならきっと雑作も無い事だと思うのだ。
牧原は潤んだ目で虚を見詰めながら、こくりと肯いた。