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U.N.オーエンの正体は彼女なのか  作者: 貞晴
【第一章】 人妖の鬩ぎ
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八意医院(2)




「幸が薄い女を絵に描いたようだったけど、なかなかの美人さんだったな」

 鹿爪らしい表情で、長椅子で足を組む俊太郎(しゅんたろう)が低く唸った。

「捺美っていうのよ」その隣に腰かけた五十絡みの女が、噂話でもするように声を潜める。「たしか、東場のひとだったかしら」

「はあん。じゃあ、この辺に住んでるんだ。それは是非とも、お近づき願いたいもんだねえ」

「子持ちだったじゃないの。旦那さんもいるわよ、きっと」

「だからこそじゃねえですか」俊太郎は口許を綻ばせる。「おたくも、あと二十若ければ考えたんですがねえ」


 まあ、と女は呆れたと言わんばかりに目を丸くした。俊太郎は悪びれた様子もなく、足を左右入れ替えて組み直す。そんな前列での応酬を聞くともなく聞きながら、タエは、待合室の座席でちょこんと小さくなっていた。


 還暦を過ぎ、足取りのおぼつかなくなった年寄は、得てして常に身体のどこかを故障しているもので、タエもそのうちのひとりだった。横になると、枝が撓るように肩の骨と筋肉が悲鳴をあげる。酷いときには夜中でも痛みに叩き起こされた。痛み止めがなければおちおち眠ることさえできやしない。年も年で、完全に回復させるのは無理だと院長に明言されてからは、こうして定期的に診療所を頼り、足を運んだ折々で適切と診断された薬を頂戴していた。


 七日に一編は顔を出すようにと言われている。また、金銭面の心配は一切するなとも言われていた。というのも、ある高齢に達した患者や、身体的に周囲より不利な要素を抱えている患者、貯えの乏しい患者に限り、八意医院は、薬を安価で譲るシステムを採用しているためだった。夫に先立たれてから、話し相手を喪い、膨大な時間を持て余し、寝てるくらいならと開業した駄菓子屋「タツヤ」の収入は知れたもので、タエにとって、病院側のそれは嬉しい配慮である。妖怪に身体を調べられるくらいなら、と病院を敬遠する輩も多いが、それは損でしかないとタエは思う。


 診療室のドアが内側に開き、看護師が出てきた。頭には、どう見ても兎の耳としか思えない面妖なそれが二本生えている。胸元に刺したネームプレートには「鈴仙」とあり、診療所の院長からは「うどんげ」と呼ばれている少女姿の妖怪である。


 八意医院のスタッフはローテーションで持ち場を切り回ししており、院長を補佐する鈴仙がほぼ毎日固定で、窓口で治療前の申しこみ兼会計を受けつける事務員が、日によって入れ替わった。ホワイトボードには、本日窓口担当、因幡(いなば)とある。児童並みの背丈しかない、ちんまりとした女の子の妖怪だった。因幡の頭にも兎耳が生えている。そういう種族の妖怪なのだと割り切っているせいか、あるいは幾度となく病院に掛かっているためか、その程度のことでタエは動じなかった。まだ若い俊太郎や、妖怪を見慣れていないらしい患者がそれとなく奇特がった視線を送ったが、別段気に障った様子もなく、鈴仙はカルテに目を落とした。


玉恵(たまえ)さん、お入りください」


 俊太郎の隣りに座った女が反応し、腰を浮かせた。そのときだった。出入り口の扉が荒っぽく開き、外から、大柄な男が待合室に踏み入ってきたのは。


 鼻を突く激臭に、タエは顔を顰めた。清白な空間が安酒の不愉快な香りに犯される。


 男の頬は、焼けたような朱色に染まっており、潤んだ目は血走っていた。タエにはそれが、酒の力を借りているのもあるが、なにより何かに対して激しい憤りを感じているように見受けられた。何に対して怒っているのかまでは判然としなかったが、暗雲のなかで一筋の稲光が瞬いたときのような、正体の掴めない胸騒ぎがする。


 露骨に顔を歪めた鈴仙に構わず、男は窓口の机を倒れるような勢いでひっ叩き、急患だ、と喚いた。会計士の因幡は、それに返答をしない。急なことに固まっているのだった。そんな彼女の呆然としたさまを無視と誤解したのか、男は玉のような汗を噴かせながら口早に、薬を渡せ、さっさとしろ、と野太い声を荒げる。いまにも躍りかからんばかりな様態だ。


「あの、ちょっと――」見かねた鈴仙が止めにはいる。「吉蔵さん、少し落ち着いてください。急患って……患者はどこにいるんですか」


 自分の鼻面を指さして、目の前にいるだろう、と怒鳴った。


 ハッと短く息を吐いてから、鈴仙はわざとらしく溜め息をつき、辟易とした心地の見え隠れする、ぎこちない笑みを吉蔵に向けた。


「吉蔵さんはどこも悪くないですよ。健康そのものです」

「適当いいやがって。怪我したんだよ、昨日の晩に、殴られたんだ」威嚇するように、顔をずいと近づける。痰の絡まった調子で、「さっさと薬をだせ!」鈴仙の耳元で怒鳴った。


 耳を手で庇い、鈴仙は迷惑そうに眉を折った。


「わかりました、わかりましたから診療所内ではお静かに」


 名前を書いてお待ちください、順番で診察します、と彼女が精一杯の態で続けると、吉蔵は、待合室のタエ達を煩わしそうに見渡し、俺を先にまわせ、とまた怒鳴った。


「聞こえなかったか、俺は怪我人だ! それをなんだ、後回しにするだと。ふん、まったく、あんたは常識ってもんが足りてねえみたいだな」

「そんな、だってそれは」

 鈴仙の言葉を遮って、

「言い訳するくれえだったら、とっとと薬を売れ。それとも、俺には薬を売れねえってか、生きてて都合の悪い人間に薬はやれねえってか。死んじまえって思ってんだろう」


(……生きてて都合の悪い?)

(死んじまえ……?)


 吉蔵の発言に違和感を覚えたが、タエはとりたてて尋ねようとはせず、黙っていた。みずから猛る渦中に飛びこむことはない。口は禍の門ともいう。必要を迫られたときにしか、タエは口を開かないようにしている。そんな彼女を寡黙と評する村民がいれば、薄気味悪いと陰口を叩く村民もいたが、当の本人は、自分のこの生き方を淡白で味気ないものだと考えていた。


「なにを言うんですか」


 鈴仙が食らいついた。


「私はただ、順番でお呼びしますと言っただけで、誓ってそのようなことはありません」

「遠回しにそう聞こえんだよ。それに、なにもいまに始まったことじゃねえや。こないだも、せっかく気分が悪いっつって駆けこんだ俺を、犬を追っ払うみてえに追い返したじゃねえか」

「そんなことしてません。それに、薬もちゃんとお渡ししました」


 ふん、と吉蔵が鼻を鳴らした。


「またいけしゃあしゃあと、でまかせを」

「でまかせもなにも、真実を申しあげているだけです。まさか、もうお忘れになられたわけではないでしょう」

「心当たりがねえな」

「それこそご冗談ですよね。私は憶えていますよ、生ものにあたって、腹痛を訴えられたんです。ですから、お腹の調子を整える薬をお渡ししました」

「ああ……そうだったかもしれねえな」


 けど、と吉蔵は苦虫を噛むように続けた。


「効かなかったぜ。腹は治らなかった。おおかた、小麦粉かなんかを着色して、薬っぽくでっちあげただけだったんだろう」

「ば――」馬鹿馬鹿しい、と口走りかけたのを、瀬戸際で堪えたように見えた。「妄言でしかありません」

「どうだかな。まあ、百歩譲って、例の粉薬が正銘だったとしてもだ、実際問題、効果がなかったんだから、それは紛いもん掴まされたのと同義だろう。違うか」

「治らなかったんですか?」

「ふん、そうだよ。むしろ悪化さえしたんじゃねえかな」


 鈴仙は驚いて吉蔵を見あげた。返す言葉に窮して、握った拳をわなわなと震わせる。患者が病院側の治療ミスを告発した場合、病院側は指摘された疑惑の真偽を証明する義務が発生する。しかし、吉蔵が意固地になって、あることないこと言い触らしたぶん、それだけ診療所に求められる潔白の証明は難易度を増すのだった。


 なんて暴論、とタエは、げんなりせずにいられなかった。吉蔵の嘘は明らかだった。病状が悪くなったと主張する男が、酒を食らい、こうして威勢よく騒げるはずがない。吉蔵は、なにを狙って見え透いた嘘を突き通そうとしているのだろう。その場凌ぎのハッタリだろうか。


「でしたら、記録を見てもらえば納得するんじゃないっすか」

 因幡である。受けつけの小窓から帳簿をひらつかせ、

「お渡しした薬剤の、名称と効能が記してあります」

 

 そうですね、と鈴仙は頷いた。


「それで白黒つけましょう」

「そんなもん、どうでにも書き換えられんだろ」吉蔵は馬鹿にしたように笑う。「それで茶を濁そうとしたって無駄だぜ。悪知恵を働かせるのが得意だそうだが、俺には通用しねえ」


 鈴仙の瞳に苛立ちが宿った。


「改竄なんてするわけないじゃないですか」

「はん、あんたじゃ埒が明きそうにねえや」


 突き放すように言って、吉蔵は獲物を探るような目つきで待合室の患者を見回した。おい、と恫喝するような調子で声をかけられたのは、俊太郎だった。


「な、なんですかね」


 姿勢を正して吉蔵に向く。その顔は笑っていたが、どこか強張っていた。


「話に聞いてるぜ、お前さん、病院の先生に随分とご熱心なんだってな。でもまあ、口説きたいんだけどきっかけがねえもんだから、ありもしねえ気疲れを理由に足しげく通って、つけ入る隙を探してるのがやっとらしいじゃねえか」


 図星だったのか、俊太郎は首をすくめて曖昧に笑った。


「今日だって、どうせ仮病なんだろう、ええぇ? だったら、俺に先を譲ってくれねえか」

「ま、まあ、僕としては大いに結構なんですけど」

「なんだ、文句あるのか」


 俊太郎は慌ててかぶりを振った。


「いやいや、そうじゃなくて。ただ、僕がここに来たのもついさっきのことで、だから、僕なんかを抜かしたところで、それじゃあ最後尾に着くのと大差ないっていうか、意味ないと思うんですよ」


 嘘だ、とタエは思った。タエが診療所に辿り着いたときすでに、彼の姿はあった。玉恵の次か、その次くらいには順番が回ってくるはずだ。


「やめてください」


 鈴仙が、幾分上擦った声をあげた。


「迷惑ですから、患者にちょっかいださないでください」

「うるせえ。あんたじゃ話になんねえっつってんだよ。――俊太郎」


 俊太郎の肩が跳ねあがった。


「まだ……なにか御用で」

「つぎに控えてるのが誰か教えろ。そいつと差しで話し合ってやる」

「吉蔵さん!」


 吉蔵の服に鈴仙がしがみつく。それを払いのけて、吉蔵は俊太郎の名を叫んだ。俊太郎はおろおろと視線を泳がせる。極度の重圧と、理不尽な命令に従いたくないという、男としての見栄の狭間に立っているようだった。


 タエはうんざりして、内心舌打ちをした。あの大男の横暴振りには反吐がでる。わざと仰々しく騒ぎたてているのかと思えるぐらいに自分勝手だ。これで自警団の副団長ときたものだから、笑わせてくれる。こんな暴士、ひとのうえに立つ器ではない。かなり酔いが回っているようで、なおさら手がつけられなくなっているのかもしれなかった。しかし、それを差し引いても、仕様もない男だ。


「どこのどいつだ、名乗り出ろ」


 吉蔵が、目を剥いて患者のひとりを睨んだ。年配の男性だった。


「あんたか!」


 男はぎくしゃくと首を横に振る。隣りに坐った中年女が、あたしじゃないよ、と詰問される前に断わった。さらに二、三人、吉蔵が問いただしたとき、玉恵が恐る恐る手を挙げた。


「急患でしたら、さき、お譲りしますけど……」


 ふん、と満足そうに吉蔵は鼻を鳴らした。


「だ、そうだぜ、看護師さん」勝ち誇ったような笑みを鈴仙に向ける。「人間の里では、人間様の言い分が優先されるんだよ、これで分かったか」


 タエは心の中で毒づいた(――なにが人間様だい)。吉蔵はただの、器の小さい男に他ならない。見たところ、怪我は大したことなさそうだった。右の頬がちょっと腫れているぐらいだ。


 それにしても情けない、誰も吉蔵の暴走に割って入ろうとしない。自分みたいな死にかけや、非力な女ならまだしも、大の男が揃いも揃って彼を見て見ぬふりなのだから嘆かわしい。たったひとこと、誰かが「おまえは間違っている」と物申せば、吉蔵に傾ぎつつあった趨勢を正すことができるだろうに。しかし、恐怖で竦んでいるのか、火種となる人物はついぞ現れなかった。みんな、叱られた子供のように俯いている。


(どいつもこいつも、腑抜けばかりだ)タエが胸にむかつきを覚えた矢先、診療室から、白衣をひっかけた永琳が出てきた。タエはてっきり、永琳は、吉蔵の恫喝に恐れをなし、診療室から出ようにも出られないで困り果てているのだとばかり考えていたため、この登場には些か意表を突かれた。


 永琳の右手には、茶色の紙袋が携えられている。客が、薬を持ち帰るときに渡される袋である。


「あ、てめえ――」

「うるさい」


 吉蔵がなにか言おうとしたのを、有無をいわせぬ口調で制した。


「声が大きすぎるんですよ、吉蔵さん。雷神が落ちてきたみたいだったわ。それから、あまりうちの可愛いスタッフを虐めないでくれませんか。ただただ非常識です」


 つかつかと歩み寄り、どうぞ、と彼の胸元に紙袋を押しつけた。永琳はいたって涼しげな顔つきだ。対して、吉蔵は茹でダコのような蒸気を発している。永琳の余裕な物腰が癪に障ったのだろう。待合室の一同は固唾を呑んで、永琳と吉蔵の挙動を見守っていた。


「なんだ、これは」


 吉蔵の問いに、永琳は長い睫毛を瞬かせた。


「殴られたのでしょう? 腫れものに効く塗り薬です。それを患部に塗って、空気と接触しないようにしてれば、半日で腫れは治まります」


(ああ……)


 診療室に彼女が籠っていたのは、そういうことだったのか、と合点がいった。待合室で怒鳴り散らす吉蔵の声が、すぐ横の部屋にいた永琳の耳にも届かなかったはずがない。口上では解決できないと即座に見切りをつけるや、吉蔵の要求に応えるため、黙々と薬を煎じていたと、そういうことだったのだろう。タエは、永琳の機転に舌を巻く思いだった。


「そ、そうか」


 吉蔵は低く呻いた。


「だいぶ物わかりが良いじゃねえか」


 どこか、奥歯にものが挟まったように歯切れの悪い吉蔵を見て、タエはおや、と首を傾げた。身勝手な難題が受容されたのだから、吉蔵は気分を良くして然るべきなのに、むしろ納得していないふうに見受けられる。何故か……。


 まもなく閃いた。もしかすると――。


 もしかすると、いち早く薬を入手するのとは別個に、真の目的とも呼ぶべき企みが、彼の胸中で呼吸を潜めていたのではなかろうか。薬を購入するのは建前で、もっと別の目的があって、吉蔵は診療所に乗りこんできた。


 だとすれば、その企みとはなにか。タエは思案する。解答はすぐに割りだされた。そんなの、分かりきってることだった。


 吉蔵は、診療所の妖怪が不快に感じるような言動を、意図的に繰りだしているようだった。鈴仙に向けた態度を思い出してみる。神経を逆撫でするような台詞が目立った。仰々しく騒いでいたのは、本心から苛立っているのもあっただろうが、その大部分、いや半分は演技であったに違いない。単に迷惑をかけたくて、診療所の妖怪が嫌がることを働きたくて、あたかも怒り心頭のような芝居を打ち、神経を逆撫でするような醜態を尽くしていたのだろう。


 さて、ではその真意とはなにか……。


 タエは少し考えてみたが、途中で投げた。胸の内を推し測るには、吉蔵という人物をあまりに知らなすぎた。里での地位と、無類の酒好き、乱暴者であるという風評以外、彼のイメージ像を構築する素材が見当たらない。しかし、きっと他愛もないというか、頭の悪い理由だろうなとは予想できた。たとえば、大の妖怪嫌いとか……。


「なんとなくきな臭ぇな」


 紙袋の口からなかを覗きこみ、吉蔵は永琳をねめつけた。


「これ、本物の薬なんだろうなあ」

「と、言うと?」

「この中身、実は薬は薬でも、毒物の類じゃねえのかって聞いてんだ」


 ふう、と永琳は息を吐く。

 呆れた。これにはタエのみならず、場の全員が呆れかえったと思う。この期に及んで喧嘩を売るとは、自分は難癖をつけていますと、克明に宣言しているようなものだった。これによって、吉蔵の真意――怒りの演技――を察した者はいないのかと周囲を盗み見てみたが、緊張で、それどころではないという顔色の者がほとんどだった。唯一、会計士の因幡だけが胡散臭そうに目を眇めていた。


「いやねえ、想像力を逞しくするのは勝手だけど」吉蔵の手元を顎でしゃくる。「それは塗り薬なのよ、吉蔵さん。患部に塗りつける薬。固形か粉末状の薬ならまだしも、それに毒を仕込んだところで、結果は、肌がちょっと炎症をおこすだけ。ね? 毒とすり替える意義がないと思わない?」


「はん、どうだか。所詮は妖怪がつくった代物だ。人間の理知をものともしない新種の毒、それこそ皮膚を殺してから対象を死に至らしめる残虐な毒薬だって、その気になれば造りだせるかもわからねえ」


「そうね、否定しないわ」


 冷淡な永琳の言い方に、吉蔵は思わず一歩退いた。


「私がその気になれば、どれだけ奇異な薬剤だってつくることができる。ウイルス兵器と喩えても過言ではない猛毒から、どんな病でもたちどころに回復させる奇跡の薬まで、言葉通りなんでもよ」


 待合室の患者がざわざわ波打った。頭の切れに自信のあるタエですら、永琳の言わんとしていることをとりあぐねる。吉蔵が底意地汚い笑みを浮かべた。


「ほらみたことか! これが毒だってことを認めたな」

「いいえ。私はあくまで、その気になれば毒だって良薬だって用意できると言っただけで、今回のことにはまったく触れていないわ。そこを混同しちゃうなんて、あなた、生粋の阿呆ね」


 吉蔵の眉がぴくりと跳ねた。


「この野郎! 言うに事欠いて人間様を阿呆呼ばわりたあ、ふてえ妖怪だ。だったら、この薬の正体がなんなのか、証明してみやがれってんだ」気分が昂り、呂律の怪しくなった口ぶりで喚く。「俺をこれだけ馬鹿にしやがったんだ。そんぐらいできなきゃ、ゲンコツじゃ済まねえぞ」


 永琳はまた、大きく息を吐いた。


「もう、証明したも同然じゃない」


 タエは、はっとして永琳を見た。成程、先刻の暴露はそういうことだったのか。ようやっと永琳の発言の意味を悟った。


「吉蔵さん、いいですか?」

 

 子供に語り聞かせるような声音で、永琳はゆっくりと説明を始めた。


「私はいましがた、自分の力量をもってすれば、どんな毒薬だろうと、なんでも生みだせると公言しました。ここにいる患者、全員の前で、薬剤師兼院長として、持ちうる危険性を打ち明けたわけです。その直後に、毒殺された仏が一体ぽんと出てきてみなさい。まっさきに疑われるのは誰ですか? そう、当然、毒薬をつくれると公表してる私ですよね。しかもその死人は、前日かそこらに、診療所から正体不明の薬を受けとっていたらしいぞと、そういう事実が持ちあがればもはや、一考の余地もない。疑惑は確信に転じ、私は吊し上げです。そんな目に見えた未来があるというのに、私みたいな切れ者が、いくら吉蔵さんが目障りだからと言って、素人目にも軽率だと判断できる安易な手段に乗りだすとは、とても考えにくいんじゃないかしら。ええ、そう、私は頭の回転が速いと自負するわ。すなわち、もし本気で、あなたをこの世から消そうと、殺害計画を立てるのであれば――」


 どうせなら、もっと賢明な道を模索するでしょうね。たとえば、愉快犯の犯行に見せかけて、夜道を襲うとか……。


 そのときの永琳の冷たさといったらなかった。吉蔵は鬼に出逢ったかのように青ざめ、氷柱を脳天から縦に突き刺されたように全身を強張らせた。


「お代は結構です」


 お引き取り下さい、と出口に促したその瞬間、吉蔵の太い腕が永琳の襟首を狙った。誰かが、アッと叫んだ。


「嘗めやがって!」


 鈴仙が短い悲鳴をあげる。吉蔵は論破されるや、暴力によって、永琳を組み敷こうとした。しかし、指が襟元を掴む前に、彼の巨体はふわりと宙に浮き、一回転して背中から床に落ちた。(……いや、床に落とされた?)タエは思わず身体を乗りだして目を見張った。もんどりうった吉蔵と、それを平然と見下す永琳。永琳が吉蔵を投げたのだ! いともたやすく、あの体格差で!


「なんで……」

 

 俊太郎が呟いた。信じられない、とでも言いたげな声だった。

 狐につままれた心地でいるのは、吉蔵も同じだった。しきりに瞬いて永琳を見あげたかと思うと、あたふたと体勢を立て直し、一目散に逃げだした。診療所の扉を蹴り開けたとき、畜生、と悔しがる声が確かに聞こえた。


 恐怖に打ちひしがれるのも頷けた。あんな細い体のどこに、大男を投げ飛ばすほどの腕力が眠っていたというのか。同じ体重の女でも、いまと同じように彼を投げることは到底できまい。撃退できたのは、永琳が人間じゃなかったからに他ならない。――妖怪だったから、吉蔵を力で捻じ伏せることができた。


 吉蔵の影が見えなくなるのを確認して、永琳はおもむろに患者たちへお辞儀をした。


 誰からともなく拍手が起こった。


 白髪の老婆が、身体を震わせて、ぶつぶつ唱えながら永琳に合掌する。中年男がへこへこと頭を下げる。また、べつの夫婦は互いの手をとり合って、何事かを囁き合っている。タエは内心、拍手喝采だった。先生さすがです、と調子よく歓声を飛ばしたのは、俊太郎である。


「常々賢いひとだとは思ってましたが、吉蔵の旦那を真正面から撃退するとは、いやはや、おみそれしました」


 いえいえ、と手をひらつかせ、永琳は生真面目な顔で看護師に向き直ると、棒立ちになる彼女の肩を、指で突いて指示した。


「思わぬ邪魔が入ったけど、ぼうっとしてる暇はないわ。つぎの患者さんをお通ししなさい」

「は、はい」


 鈴仙は嬉しそうに返事をして、いつのまにか落としていたカルテを拾いあげた。


「大変お待たせしました。玉恵さん、診察室にお入りください」


(……生きてて都合の悪い人間に薬はやれねえってか)

(死んじまえって思ってんだろう……)


 タエは内心、惜しみない拍手を送るよこで、ふと気に懸かることがあった。吉蔵の、あのときの、あの言葉。演技にしては違和感のある言い回しだった気がする。――あの言葉だけ、演技ではなかった? 地でこぼしたと思しき言葉から、彼に被害妄想に似た兆しを感じたのは、自分だけだろうか。


 それとはべつに、とタエは永琳を見遣った。永琳は、玉恵と鈴仙を連れ立って、診療室に戻ろうとしているところだった。


 吉蔵はうまく言い包められたようだったが、永琳の提示した証明にはひとつ、不十分な箇所があったように思う。要約すればつまり、吉蔵が毒にあたれば、里民に疑われるのは自分だ、だから自分が吉蔵を毒で殺すわけがない、ということだった。至極単純な論理だが、一見、筋は通っている。しかしながら、ほんの洒落っ気を交えて、タエはこう考えてみるのだった。


 吉蔵に限って一服盛るのではなく、人里が壊滅的な打撃を被る毒を、風にでも運ばせて散布したものなら、里民に疑われることもなくなるだろう。なぜなら、疑おうにも、永琳を疑わしいという思える感情を孕んだ人間が死に絶えるのだから、永琳が疑われることは絶対にない、と。


 タエは苦笑した。我ながら、実に突拍子もない。当然、口に出すこともなく、すぐに打ち消した。


 つぎ診察にくるときは、吉蔵が東場から離れているときにしよう。しんからそう思う。面倒事に巻き込まれるのは、もうしばらくごめんだった。駄菓子屋「タツヤ」に遊びにくる子供たちにお願いすれば、父親なりを媒介して、吉蔵が働きにでている時間帯を調べてきてくれるだろう。子供の情報網というのはわりと当てになるもので、タエは基本的に、村の噂はそこから仕入れいてた。


 ついでに、と薄く笑う。吉蔵自体についても、情報をかき集めといたほうが良さそうだ。放っていても、ろくなことがないだろうから。

 タエの仄暗い含み笑いに、気付く者はいなかった。







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