慧音先生
※オリキャラメインの話。
【5】
「いってきます」
梓は茶碗を洗い、母親に声をかけてから表通りにでた。道幅を制限するように並立する藁葺き屋根の平屋、多数あるそれらのうち一戸が梓の家である。家は梓の亡き祖父が建てたもので、漆塗りの壁には亀裂が走り、寒いときには隙間風が堪えるという按配。とはいえ連日この暑さで風邪をひく心配はないが、虫の侵入には頭を抱えさせられる。梓も母も虫が大の苦手だった。
家の裏手では、家内を養えるだけの収穫が見込める畑を開墾している。食糧に困窮しないよう、最低限、毎朝の水遣りは梓が受け持っていた。いざとなれば梓の家に限らず、隣近所の村人は助け合いの精神から惜しみなく食料を分けてくれるものだが、梓はそれをみっともないことだとし、他人の手を煩わせないを信条にしている。梓は自尊心が強いのだ。職場の同僚からもよく言われる。
道すがら交換する挨拶は、あらかじめ打ち合わせをしたかのように暑くなりますねの一択。言葉通りの陽光が降り注ぐ村道を、梓は大股で歩み行く。こうして気丈に振舞っていなければ、じりじりと照りつける太陽に屈してしまう気がした。
「おはよう、梓ちゃん」
手拭いを額に巻いた自警団の男に会釈し、男が番をする関所を通過すると、ちょっとした林道に抜けた。燦々と照りつける日光が幾らか和らぎ、肌に優しい風が吹く。坂の反対から賑やかにやってきた若者の集団、牛車を引く初老の男とも挨拶を交わし、梓は明るい笑顔で仕事場へ向かった。
幻想郷における人里とは、地理的にも距離的にも分離した、複数の村の集合体のことを指し示す。
俗に「西場」と呼称される里の西端にある村で、母親との二人暮らしを営んでいる梓は、隣村の寺子屋で一途に働く日々を送っていた。上白沢慧音が采配を振るう、学問所の教員としてである。生徒は十五歳未満の、成人の儀式が済んでいない子供が八十人ばかり。少年少女を年齢に沿って組分けし、各教員が責任をもって正しい知識を与える。それが指導方法だ。
そんな慧音は梓の恩師にあたり、なにを隠そう梓は、慧音の人柄に憧れて教員になった。学校の先生になることが、小さい頃、自分に学を与えてくれた慧音に触発された梓の夢だったのだ。
それでも慧音は人間の外見を有するが、その正体はひとにあらず、人智を凌駕したなにかであることを、古馴染みであり、職場の同僚でもある朋子の口から初めて教えられたときには驚愕を禁じ得なかった。性質の悪い冗談だと思い、当時、その話に聞く耳をもたなかったのが懐かしい。
その事実を受け入れ、心の整理をするだけの時が流れたいま、梓にとって慧音は足を向けて寝られないほどの偉大な恩師に他ならない。慧音先生は慧音先生、私の恩人だ、そう考えられるようになった。
人間じゃないからと区別する必要はない。職場の雰囲気は良好だった。梓は念願だった教職に就き、尊敬できる御仁体と肩を並べて働いているいまを幸せだと感じている。なにより子供を教育することに厳重な責務を課せられるうら、教師という仕事により一層やりがいを見出していた。
形だけの関所から「中集落」に足を踏み入れる。西場もそうなのだが、村ごとに立地する関所とは名ばかりで、逐一村人の荷物を検めたり、身分証明を要求してくることはない。村と村のあいだを行き来して良い門限だけが、定時に取り決めされているきりだった。しかしそれも雑業で帰りが遅くなった、夜から親戚との御座敷があるなど、それらしい理由をひっ提げていけば許諾される程度の厳格とは程遠い取り決めである。
それもこれも人里は、山や森と一線を画す安全性によって守られた、人間にとってこのうえない安全圏たり得る土地であるためだった。人口は二千を超え、森には若衆によって編成された自警団が交替でいつも目を光らせており、悪い妖怪の接近には敏感だ。そして自警団の団長は、悪さを企む妖怪が大挙しようとも、一匹残らず返り討ちにしてやると常日頃から息巻いている。
その発言がいかに心強く、里にとって頼もしいことか。ゆえに里民は厳しい規則に縛られることもなく、梓のように妖怪を畏れることもなく、各々、村の発展に繋がる仕事に精を出していられるのだった。
恵まれた土地に生まれてきた感謝を忘れるんじゃないよというのが、母の口癖だった。いわく、我々人間が里という名の確固たる地盤を築いてから、おおよそ五百年も経っていないのだという。
それ以前の人類の歴史は文書に残っておらず不明瞭だ。
母は祖父母の代から語り継がれる、書物に残っていない歴史を訓戒めかしてこう語る。
遥か昔、非力な人間は凶悪な妖怪に情け容赦なく蹂躙されていた。そこで人々は知恵と力を貸し合い、死に物狂いでひとつの砦を築きあげる。それが人里の始まりだった。里が誕生するまでに幾度も妖怪の襲撃を受け、多くの血が流れた。それでも先人はめげず土を耕し、家畜を育て、里を築いた。今日という平和が当たり前みたいに訪れるのも、たくさんの犠牲を払ったからこそなのだ。だからご先祖様に感謝する心を忘れてはいけない。
これを聞くたび真偽のほどは計り兼ねるが、梓は成程と思う。母の言うことはもっともだし、誰だって先祖には相応の敬意を示すものだろう。自警団はこういった母の代の教えを色濃く継いた若者達で、主に結成されていた。
とはいえ梓も団員も、妖怪を絶対悪と見做しているわけではなかった。慧音や、村医者の永琳のような例外がいることを身に沁みて知っているからだ。里に住んでいるからには、教養の面でも治療の面でも一度は慧音か永琳の世話になっている。これを悪の仕業だと認めるには重い抵抗があった。
世代の差が巻き起こす価値観の断絶とでもいうのか、祖父母の代は、妖怪を一考の余地もない悪と断じ、梓と同年齢の若衆は、それを過去のしがらみに囚われた考え方だと主張する。その行き違いが原因で、親子間に亀裂が走っている家庭も少なくない。梓の家もそうだった。娘に味方してくれていた父が死去してからは、風当たりがいっそう酷くなった。
どちらの見解が真実かは分からない。ただ梓は、自分が正しいと思うことを後世に伝えるため、それに見合った努力を教育につぎ込んでいる。すなわち母の前では口が裂けても言えない、人間と妖怪は共存できるという思想を教え子に植えつけているのだ。
ただし慧音直々の要請で、子供達には慧音が人外であることを隠している。訊ねれば、幼心には刺激が強すぎると慧音自身が判断したらしく、心身共に成熟してから話すのが好ましいと返された。
それを聞きながら、梓は成人した翌日に、朋子から慧音の正体を暴露されたのを思い出して納得した。あの年頃でさえ大きなショックを受けたのだ。なんとか立ち直したものの、慧音が子供たちの心の傷を懸念するのは無理からぬことだと思った。
きっと辛かっただろうなと思う。秘密を胸のうちにしまっておくことの息苦しさを梓は知っていた。それの比ではなかったに違いない。正体を隠していたことに同情こそすれ、恨む気持ちは毛頭なかった。むしろ教え子を大切にするがゆえの隠し事だったのだから、慧音に対する尊敬の度合が更に跳ね上がったのは言うまでもない。
川のほとりに来た梓は、橋のうえに朋子の大きな後姿があるのを見つけて忍び足で駆けつけた。「わっ」と言って後ろから朋子の肩を叩く。朋子は小さく飛びあがって梓に振り返った。
「なんだ、梓か。もう、急にびっくりしたじゃない」
「いつものお返し」
梓が悪戯っぽく笑うと、朋子はやられたというふうに自分の額を小突いて笑い返した。朋子は梓と同い年で二十六になる。ふくよかな朋子と華奢な梓が並ぶと、ふたりは年の近い親子のようだった。
「まったく。心臓が一瞬止まったわよ」
朋子は唇を尖らせる。
「例の、紫色の傘をもった娘っ子より驚かされたわ」
朋子はここ最近、里の周辺に出没する妖怪のことを言っているらしかった。なんでも樹の影から突然飛び出し、道行く村人を驚かすだけの妖怪なのだとか。それも無駄に仰々しい傘を携帯しているため、潜んでいるのが通行人にバレバレで、驚かそうにも驚かされないことに歯痒い顔をして帰っていくらしい。
梓は朋子と並んで歩きながら尋ねた。
「ちらって聞いたんだけど、またあの、傘の子が出たって?」
「らしいわよ。でもやっぱり、驚かされたほうがつーんとすまし顔なもんだから、悔しそうに地団駄踏んでいなくなったって」
朋子はからからと笑った。
「きっと良い子なのね」
「うん、悪さできないタイプ、みたいな」
「違いない違いない。で、そのくせ背伸びして悪ぶろうとするもんだから、こっぱずかしい目に逢っちゃうのさ」
「ワンサイズしたの服に挑戦する朋子みたいなものね」
わざとらしく、梓は朋子の腹に視線を送った。
「結果、こんなふうに不釣り合いなことになる」
「あらやだ、それどういう意味」
ふたりは顔を見合わせ、どっと笑う。なんでもないわ、と手を振っていると、だしぬけに朋子が「あ、そうそう」と話題を変えた。
「梓、もう聞いてる? なんでも、稗田でド派手な喧嘩があったんだって」
「喧嘩?」
「うん。私も知り合いから聞いたことだから、詳しいことはよく分かんないんだけど。酔っ払った吉蔵が客に殴りかかったとかで、昨夜は大騒ぎだったらしいわ」
稗田とは、西場、中集落のように、里中に散在する村のひとつである。そこには村の名の由来である明主稗田阿求の屋敷があり、村長、自警団の団長など、里の要となる主要人物の家がある。吉蔵というのは自警団の副団長のひとりで、酒癖が悪いだけでなく、素面でも怒りっぽいことで梓は認知していた。
「ぞっとしない騒ぎだこと。吉蔵さん、腕っ節が相当立つらしいじゃない。大丈夫だったの、その、殴られたひとは」
「さいわい、怪我は軽くて済んだんですって。すぐに他の客が、暴れる彼を取り押さえたから」
「大手柄ね」
「ええ。それでも、酔いがまわってるわ泣き叫ぶわで、駄々捏ねた赤ン坊をあやすより手間がかかったらしいけど。くわばらくわばら」
朋子は寒気を暖めるように両腕を揉んだ。
「自警団つってもね、妖怪が襲ってこないうちは、元気のあり余ってる連中が暇を募らせてるだけなんだから。吉蔵も鬱憤を発散する場がなくって、ストレスが溜まってたんだろうって話よ」
「平和に越したことはないのにね」
梓がねえ、と朋子を覗きこむと、朋子も梓に合わせて肩を竦めてみせた。
日毎夜毎、関所や物見櫓に詰め、襲来の兆しもない妖怪に警戒している団員の裏事情に触れた心地だった。神経をすり減らして森に目を配るなか、傘をもって大声をあげるだけの妖怪しか現れないとなれば、見張りが厭になる気持ちも分かる気がする。それでも持ち場を放棄するわけにはいかず、案山子のように屹立していなければならないのだから、吉蔵の不満は爆発するべくして爆発したのだろう。
わびさびの美意識がぴたりとはまる古風な建物が見えてきた。慧音は廃れた寺院をまるごと改築し、それを寺子屋として再利用している。故に村民のなかには慧音を住職と呼ぶ者もいた。
壁の内側から、早く登校してきた子供たちの黄色い声が響いてきた。背の高い壁は途中で直角に折れ曲がっていて、そこを伝って進めば開け放した寺門の前にでる。門では慧音が数人の子供に囲まれ、膝を畳んで地面に変てこな動物の絵を描いていた。
「梓先生、朋子先生、おはようございます」
立ちあがって頭を下げる慧音に続いて、周りの子供たちも元気な声で慧音の真似をする。
「はい、おはようございます」
教師らしく毅然とした態度で挨拶を返した梓と朋子に、
「せんせい、これ見て。これ、慧音せんせいが描いたの、豚さんなんだって」
ひとりの男児が地面の落書きを指さし、両手で口を押えてプププッと笑った。
「これ、すっげえ下手クソー」
「下手じゃありません」慧音が片頬を膨らませる。「とても整ったラインをしています。もはや画伯の境地です。――そうですよね、先生方」
「すみません、私、豚って言われるまで、これ、なんて化け物なんだろうって考えていました」
朋子が半笑いで言うのに子供たちは爆笑する。そんなあと悩ましげに慧音が頭を振るのに笑いの熱は更に高まった。
変わらないなと梓は思う。子供の機嫌のとりかたも、見た目も。慧音は梓が教えられる側だった時合から、微塵も変化していない。
はしゃぐ子供たちに悟られないよう、鞄を置いてきてしまおうと朋子に目配せし、梓たちは寺子屋の一室に向かった。おはようございますと声をかけながら襖を開いたが、部屋は無人だった。荷物を戸棚に預け、再びふたりは外に出向く。すると子供は全員庭に移動し、慧音は男となにやら立ち話に興じていた。
「圭介くんのお父さんだわ」
小声で朋子が教えてくれた。
「お休みの連絡かしら。まだ来てないみたいだし、きっとそうね」
朋子の推理は的を射ていた。男が引き返してから慧音に尋ねると、まんま朋子の台詞が慧音の口からも述べられた。
「夏バテですかね」
梓が問うのに慧音が答えた。
「だろうとご父兄は。しかし念には念を入れて、母親が診療所に連れていったそうです。まあ、大事ないでしょう」
「これが時期外れの夏風邪だと怖いんですよね」
朋子が言った。
「圭介くん、あまり身体が強くないから。生まれつき心臓が弱いとかで、軽い運動でも負担がかかるって、外遊びは自重させるよういわれてるんです」
圭介は十歳の男の子で、朋子が担任を務める教室に割り振られている。梓も圭介が病弱だとは把握していたが、心臓に欠陥を患っていることを知ったのはこれが初めてだった。
「そうなの?」
「うん。外で遊ぶときにはもっぱら見学。病弱な子なの。母親も、圭介くんの健康には一段と気を遣ってるみたいで。でも、それが功を奏してるのか、寺子屋を休むってことはなかったんだけど」
「暑さで、力尽きちゃったのかな」
「たぶん……心配ねえ」
「なんにせよ、診療所に向かったのなら大事ないでしょう」
慧音が優しい口調で言った。
「あそこの医者は手腕家です。信頼できます」
それから梓と朋子の顔を見回して微笑む。
「私たちは、私たちにしかできない仕事に専念します。今日も、先生方にはきびきび働いてもらいますからね」
はい、と声を揃え、危うく「せんせい」と続けそうになるのを梓は呑みこんだ。慧音になにかを言い渡されたとき、生徒のように幼稚っぽい返答が口を衝いて出てしまいかけることがある。かつて慧音を先生と呼んで慕っていたころの、いまだ抜けきらない梓の困った癖だった。