キプロスの森
なるべく陰りのある道を歩いていた。
でなければ干涸らびてしまう。
蝉は真夏のシラベを奏で、額から流れる小粒の汗が土に染み込んでいく。
清々しいまでの青空に熱を帯びた白銀の閃光。
夏の香りは春のように甘くない。塩辛い海のようだ。
スニーカーが地面に触れるたびに襲い来る疲労感がたまらなく憎い。
青空を見ていると余計に疲れてくる。僕は地面だけを見ることにした。
乾いた大地の上で瀕死の蝉に何匹ものアリが群がっているのが見える。
随分と暑苦しい光景に僕はげんなりする。
同時に幼い諧謔心が汗と共に僕の中からわきあがってくる
足を折り曲げ、瀕死の蝉を蹴り飛ばす。
刹那に聞こえてくる断末魔と飛散するアリの哀れな姿。
突然のことに右往左往する小粒のアリたちはとても滑稽だった。
なんと酷い。心ある人間のすることではない。
でも仕方ない。僕はそういう人間だ。
馬鹿馬鹿しい自虐に酔うのが好きでたまらない。
死んだ父は他人を顧みない僕に対しよく言っていた。
「そんなに悪さばかりしているとキプロスの森に置いていくぞ!」
年寄りが好きなくだらない迷信だ。
街から南西にずっと進んでいくと名のとおりキプロス一色の森が見えてくる。生い茂った木々は決して太陽の光を受けつけない。
其処は悪魔たちの巣窟で鋭利な爪を研ぎながら常闇の中を蠢き、悪臭漂う口臭を振り撒く。人を捕食し、骨まで残さない暴食の悪魔たちが今日も森に迷い来る者を狙っている。
そんな馬鹿げたお伽噺。
だが、実際に気味の悪い森であるし、光も届かないため一人では誰も近づこうとはしない。
僕はその胡散臭い汚らしい緑の森に向かっている。
特に意味はない。
ただ、父が死んだ時の言葉を思い出したからだ。
「私はあそこに捨ててきたんだ……」
熱にうなされて朦朧とした意識の中で吐き出した小さな声だった。
その声は僕にしか聞こえなかったらしい。
病室で横たわる父の言葉に誰も耳をかさず、ただただ涙と嗚咽を漏らしていた。
あの時はあの言葉など特に気にならなかった。
むしろ、この長い年月の間に記憶の片隅へと消えてしまっていただろう。
けれど、七回忌目の今日、久々に故郷の街に帰ってきた時に、まるで耳元で囁かれたかのように霞んでいた言葉が鮮明になったのだ。
気がつけば居てもたっていられず家を飛び出していた。
父は一体、あの薄汚れた緑の中に何を捨ててきたのだろうか。
どれほどの時間さ迷っても風景は変わらない。
キプロス一色。
森は想像以上におどろおどろしい。
漆黒に近かいキプロスの色あいがよりその雰囲気をかきたてる。
お伽噺の悪魔などいない。
鋭利な爪も口から這い出でる悪臭も蹂躙された血肉の断片もそこにはない。
まして先程まで騒がしく鳴いていた蝉も小煩い鳥もいない。
何もない。
誰もいない孤独はきっとこの森の姿をしているのだろう。
今の僕は宇宙の片隅でいつまでも浮遊し続ける小粒の隕石のようだ。
何という静寂。何という恐怖。
まだ悪魔たちの巣窟であった方がマシだ。
此処には何もない。
何もないではないか。
「あんたは何を置いてきたんだよ……」
声は出ているのだろうか、よく分からない。
キプロスに全て飲み込まれてしまうようだ。
光のささない緑は何よりも恐ろしく孤独を煽る。
音が聞こえてくる。
誰もいない。
僕の吐息、僕の鼓動だ。
それもキプロスに飲まれていく。
僕の体も蝕まれていく気がした。
僕は走った。森を駆け抜けた。
否、ここは森じゃない。
キプロスの中を駆け回ったのだ。
甘ったるい溶けたチョコレートの沼を泳ぐように。
はたまた、油をひいたフライパンを踊るように。
激しく、溶ける。
僕は何処に行ってしまうのだろうか。
キプロスは何も答えてはくれなかった。
気がつくと森の入り口で倒れていた。
何も思い出せない。
僕は何をしに此処まで来たのだろうか。
心はすっかり空虚だった。
ただ呆然と森を見つめる。
答えなど帰ってくるはずもなく、僕はふらつく足取りで帰路についた。
陰りのある道を歩いていると、道端に蝉の死骸が転がっており、それにアリたちが群がっていた。
それを見て僕は何も感じなかった。
触れようとも思わなかった。
僕はそのまま道を歩き続けた。