エピローグ 幸福と日々の経過
エピローグ 幸福と日々の経過
<一>
私はまだ、消えていないようだ。
だが、身体を確かめようとしても身体は何処にもなかった。鏡を眺めてみても、そこには私は映っていなかった。
人によってはそれだけで不幸なのだろうけど、私はちっとも不幸ではない。何故なら、ずっと、母と一緒に時をまた、過ごせているのだから。尤も、秋さんからは私の姿は観なくて、いないも同然だ。
あれから秋さんは葉楼と一緒に翼町から離れた。これからの事を考えようという葉楼の提案を受けて、学校を転校して、この街から離れた。それは必要なことだった。秋さんは警察に話したが、笑い話として受け止められ、
「お嬢ちゃん、馬鹿な事言わないで。しっかり勉強して良い大人になるんだよ」
と馬鹿にされた。
それに憤怒した秋さんだったが、反論できなかった。裁縫道具はこの時代では理解し得ないものだからだ。
秋さんの精神的な疲労、この頃、おねしょ、発熱をほぼ毎日繰り返していた。だが、二人暮らしというわけでその失態も数秒ですっかり吹っ飛んでいた。
「葉ちゃん、厘の両親にお手紙を書いたんだ。けど、またふざけるのは止めなさいって怒られちゃった。真剣なのに。真剣に謝っているのに」
この日も秋さんはちゃぶ台に向かっていた。厘の両親への謝罪のお手紙を新たに書いていた。もう、手慣れていたが、秋さんの表情は以前にも増して曇っていた。私はその表情を見ると反射的に溜息を吐いてしまう。
「仕方がないよ、あの裁縫道具は常識では考えられない魔法みたいなものだったんだから。全く、李さんは何処に消えたんだろうね。あの人の事だからひょっこり、出てきそうだけど」
人を化け物扱いしたお礼に葉楼の頭に蹴りを入れてやろうとしたが、蹴る為に必要な足がない事に気が付き、笑うしかなかった。なんて、間抜けなのだろう。
「仕方ないから今回だけは許してあげるわ」
そう言ってみても、葉楼の顔には何の反応も見られなかった。
少し寂しいな。
「不吹さん……。貴女の言葉の意味、解りましたよ。逃げない僕も、秋も」
この言葉を聞いた瞬間、なんだか、瞼が重くなってきた。だんだん、重くなって……。
あれ? 今の私に瞼はあったのだろうか?
実際、こう視界がぼやけて、揺らいでいく。不思議と恐怖はなく、安らかだった。私は最後まで母の側にいたくて、秋さんの背中を抱きしめてゆっくり、と消えていった。
母の背中の熱は伝わってこなかったが、それでも私の記憶が母の背中の熱を擬似的にここに蘇らせてくれた。
質問、これから私という存在は何処にいくのだろうか?
答え、……。
沈黙。
さようなら。
<二>
世界は二十年の月日を歩いた。その月日は人間にとっては大変な時間だが、彼にとっては一瞬だった。
世界は様々な人の想いを乗せて動いていく。
だというのならば、幸福も、不幸も、美しさも、醜さも、やり方次第ではコントロールできるのではと思った。まず、どうすればそこに辿り着けばを思考し、それを実行すればいい。葉楼はいつも、そう考えていた。だが、世の中はそう単純にはできていないようだ。
葉楼の妻、秋は子どもを産める身体ではなかった。恐らくは、幼少時の生育過程に問題があり、ちゃんとした身体成長に必要なステップを踏めなかった。それが医者の見解だ。
落ち込み、御免ねと困ったように微笑した秋に葉楼はこう言った。
「秋と僕のお母さんの関係のように血が繋がっていなくても家族にはなれただろう?」
「うん」
おずおずと秋は頷いた。どうやら、葉楼の意図には気が付いていないようだ。
「子どもを育ってないか? 秋」
びっくりしていたが、秋はやっと、意図に気が付いた。
「うんと良い子に育ってようね。葉ちゃん。この秋ちゃんみたいに」
「反面教師にしかならないです、君は。よく、お布団に潜ってきては添い寝するし、ケーキが食べたいって言って勝手に家からいなくなるし、勉強は適当にやって虫取りに出掛けるし、子兎を何処からか、連れてくるし」
「葉ちゃんの意地悪」
翌日から葉楼の養子探しが始まった。なるべく、秋に似た好奇心旺盛な女の子が良いと自動車を走らせながら、漠然と葉楼は思った。
今の時代、養子を取る事は珍しくない。スラム街には養子として良心的な家へともらい受けるべく、順番を待つ子ども達がおよそ、七万人いる。そこに入れなかった子ども達は嘆かわしいことながら、路頭に迷うしかなかった。また、子ども達にとっての最後の砦はチャイルドセンターだった。
葉楼はそのチャイルドセンターを目指して走っていた。高速道路の丁度、真向かいに五十階立てのビル、チャイルドセンターが眺望できた。
三十分後、葉楼はチャイルドセンターが所有している地下駐車場に自動車を止めた。エンジンを切り、扉を開くと、そのすぐ近くに一人の女児が指を咥えていた。その子のさらさらの金髪は昔の秋を思い起こさせた。だから、だろうか。放っておけなかった。
「君は何階の子ですか?」
「三階の犬組。子犬の絵が画いてあって可愛いんだよ」
利発そうな顔を左右に揺らして不思議なリズムを取る女児は実に落ち着かない。だが、その行動一つ、一つが葉楼の何処かにあった不安を取り除かせた。自分達には子育ては無理なのではないかと思う不安もあるが、あの秋が子どもをあやす姿は想像できなかった。思わず、笑った。その笑いに女児は困惑した表情を見せる。
「そう、可愛いんだ。君の名前は?」
そう言われて、葉楼の顔にじっと熱い視線を巡らせた。自分に害がないって解るとまた、不思議なリズムを取り始めた。よく耳をすませてみると、きゃん、きゃん、なぁ、なぁんと妙な呪文を唱えている。
「ん、ないよ。管理番号っていうのがある。けど、忘れた。長いだもん」
一瞬、女児の言う管理番号の意味が解らなかった。パンフレットに確かそれらしきフレーズがあったなと思索して、実際に確認した。管理番号とは保護している子どもの個別番号のことだ。そのパンフレットに記載されている通り、この子も腕ペンを右腕に付けていた。番号は一一八七だ。
その子が葉楼の駐車してある自動車をじっと、耳の穴を指で穿りながら詰まらなそうに見ている。何やら、面白い遊びを思いついたようでにやっと笑った。
きっと、この子は自動車に対して無邪気な虐待行為を働くに違いない。その前にこの子の手を引いてこの場を離れるのが一番、懸命だ。
「ほら、行こう。三階へ」
暗い階段を上がりながら、葉楼は精神安定剤入りのガムを噛みたくなった。ポケットをまさぐった。だが、いつもあるべき、それはなかった。ふと、思い出した。昨日の夜、うちの小さな百三十センチの嫁さんに身体に悪いんだから控えなさいと言われたばかりだ。眼をうるうるさせて、そう言ったものだから彼女に惚れた弱みがあり、葉楼はその場でもうしませんと宣言してしまった。後はガム達は燃えるゴミ箱行きだ。
「煙草の時も確か、そんなパターンが。秋ちゃん、やりますね」
「ねぇ、ねぇ、煙草って何?」
「十年前に世界中で禁止された嗜好物。今ではみんなから吸っちゃ駄目って言われているものなんだよ」
「嗜好物?」
ああ、そうか、このくらいの年頃だとまだ、そういう難しい言葉が理解できないのか。秋があまりにもこの子と同じくらいの年で自分とさほど、変わらない知識を持っていたことに今更ながら驚いた。あの時は今では解るが、秋の可愛さに夢中だったからその異常さにも気が付かなかった。本だけが友達の少女か、懐かしい。
ズボンの生地が引っ張られている感触に気が付き、その感触の先を辿っていくと小さな掌に黄色いあめ玉が二つ、乗っかっていた。
「あめ玉、いる? よく解らないけど、欲しいもの我慢するのって大変だから。これで我慢しなさい」
「うん、欲しい」
急にお姉ちゃん口調になった女児の掌からあめ玉を一つ、貰った。それが嬉しいだろうか、しばらく眺めた後、
「美味しいか?」
「うん」
そんな気遣いのできる七歳児にしては希有な子が施設の見学後にも頭から離れなくて、今度はあの子の様子を窺う為に施設に行くことにした。そう素直に言ったら秋は頬を膨らませてこう言った。
「浮気。浮気は許さないよ。一回でもしたら、指を切り落とすよ」
また、よくできた妻だと葉楼は思いだし笑いをした。だが、ここは公共の場である。それを意識すると急に恥ずかしくなった。幸いにも自分の前を歩いて案内してくれている二十代の若い男性職員には悟られていない。
「あの子ですか、あの子は気むずかしい子ですよ。滅多に人に懐きませんし」
前触れもなく、男性職員は飴をくれた女児の個人データを眺めながら言った。前を向いていないので、他の人間が彼を避けつつ、通り過ぎていく。一度、注意してあげたのだが、効果は二分程度ですぐに元に戻るので諦めた。壁に激突したら自業自得だ。
「あれ? でも、僕とはすぐにお友達になりましたよ」
あれでお友達になったのかは? 振り返ると疑問だから、だといいなぁという願望入りの発言だ。
「そうですか、羨ましいですね」
だが、その声は全然、羨ましくなさそうだ。
全体が白に統一された廊下を歩いている。他には何もないので、同じ場所をぐるぐる回っているような感覚に陥る。
職員が足を止めてプレートを見上げた。そのプレートには犬組と書かれていて、その横には犬のぬいぐるみがへばりついていた。各部屋は同じ作りになっていて子ども達の監視がしやすいように透明な硝子張りになっていた。まるで監獄だ。その檻の中で小学一年生に相当する子ども達が仲良くボール遊びに興じていた。一つのボールをみんなで追いかけているのにあの飴をくれた女児だけはそれに参加しようともせず、冷ややかな目つきでただ、それを見つめていた。まるで魂の抜けた後、身体だけがそこに残っているようだった。
職員が眠そうに欠伸するのをもう、五回ほど聞いたが、彼女が他の仲間達と遊ぶ姿を見たいと思い、その場に留まり続けた。
彼女が不幸ではないんだ。そんな事実は結局、何処にもなかった。彼女は変わらなかった。周囲も彼女を空気のように扱っていた。
世界は万華鏡のようで面一つ、一つが個性的なのはこの年になってやっと理解できた。理解はしたくなかった。みんなが幸福色に染まって欲しい。そう、秋の成長を見守る度に思っていた少年だった自分はそんな刺激のない世界が好きだった。だが、その少年である自分はもう、ずっと前に死んだ。いや、違う。扉の取っ手を握り締めた。
「駄目ですよ、扉を勝手に開けては」
背後から葉楼を非難する声が飛んだ。とても、怠そうな声だ。この行為を別段、特別視していない。
「契約成立なら、文句はないだろう?」
わざとらしく、声を張り上げたが相手はそれを意に介さなかった。これだから真面目な公務員は嫌いなんだ。
「ええ、引き取っていただけるんですか」
「今すぐにね」
扉を開ける許可は取らなかったがまぁ、大丈夫だろう。その証拠に葉楼のすぐ後に続いて入ってきた彼は注目する子ども達を一人、一人、見下ろしてから声を張り上げた。
「一一八七! 喜べ、君の居場所が見つかったよ」
そう言った瞬間、安堵の声と落胆の溜息が辺りを支配した。その両者の感情は日頃、ニュースを見ていれば簡単に推測できる。大金持ちの家に引き取られた男の子が有名な映画俳優になった心温まる話があったり、その反対に、売春宿の亭主に引き取られて夜の街に消えていった少女の話もよく聞く。確率からすれば、後者の方が多い。戦争によって、軍事衛星が大量に打ち上げられた。そこまではよくある話でこれとは結びつかないと思うだろう。だが、軍事衛星を各国が地上から長距離射撃した為に宇宙には宇宙船を上げられない程のゴミが発生した。それは地球の自転に巻き込まれて、地球の周囲をもの凄いスピードで回っている。戦争は終わり、人間は地球に取り残された。されど、人間は増え続けた。その結果、人の命が軽くなった。だから、自分みたいな一介の画家でも簡単に手続きが三十分ほどで済んでしまう。
事実、突然起きた出来事にぼっーと、している女児と一緒に一階の喫茶店でチョコレートパフェを食べて時間を潰す程度で手続きは完了してしまった。実に呆気ない。
葉楼の名前を喧しく、社内放送で叫んでいる。全く、頭の痛くなりそうなガミガミ声だ。自分が人事の人間だったら、この声の主には倉庫整理でもやってもらおう。
チョコレートパフェの塔はもう、跡形もなく、小さなお口の中に入ったというのに女児はまだ、スプーンを動かして皿にへばり付いたチョコを一生懸命、削り取ろうとしていた。だが、スプーンの銀縁がチョコレート色に変わるくらいだった。それでも女児はスプーンを吸って甘さを感じようとしていた。微笑ましい。
「ほら、行くよ。君の新しい家に行くよ」
そう声を掛けるとぴたりと女児は動きを止めて、スプーンをテーブルの上に置いた。
「この色以外の世界が見えるの?」
この色というのはどうやら、今自分達がいる喫茶店ではないようだ。ここには木々の豊かな色合いが満ちている。とても、都会にある喫茶店とは思えない安らぎ空間だ。おまけに背後で響く音楽は癒される曲調に自然にある音が含まれている。例えば、カエルの不細工な泣き声や、木が風でしなる音なんかだ。すると、先程の白一色の共同部屋の事だろう? そういえば、彼女が行ける区画は全て、色が白だった。
鼻を掻いてしばらく、考えた。自分は画家なんだから捻くれてやろう。
「お嬢様。残念ながら世界は万華鏡なんですよ」
「それってなぁに?」
案の定、彼女の年ではその比喩は解らないようだ。万華鏡を必死に思い浮かべたのだろう、難しい顔、楽しそうな顔、泣きそうな顔……百面相をしている。
「帰りに買ってあげるから、自分の眼と耳と手触りで確かめるんですよ」
タダで貰えるのは大好きらしく、自分から葉楼の手を握り締めてロビーへと引っ張ろうとしている。びくともしない事に気が付くと情けない声をあげた。
「速く、行こうよ、ねぇ、行こう」
「はいはい」
<三>
想像した通り、書類に署名をするだけの簡単な手続きだった。後は長たらしい説明をなんとなく、聞いている振りをした。自動車で二時間、飛ばした。途中、トイレ休憩しかしなかった事を考えるともっと、遅くても良かった。外の世界をよく知らないこの子の為に都会見物でも行けば良かった。どうやら、その心配はないようだが、それでも何故か、物足りない気がする。
女児は助手席で何が面白いのか、ずっとトイレ休憩に寄ったサービスエリアで購入した万華鏡を眺めていた。座席のお尻が置かれるはずの場所に彼女の頭があった。足はまだ、伸ばせるくらい下にスペースがあるらしい。急ブレーキを掛けないように慎重に走った。
そうして、辿り着いたのは翼町の山奥にある一軒屋だった。画家らしく、キャンバスがそこら辺に幾つもあった。それと同じくらいパイプ椅子がある。色んな場所で書くことによって、気分が違うのだ。これは創作活動をしている人間にしか解らない心境だろう。
「ほら、ここが君の新しい家だよ」
「木の香りがしそうなおうち」
そう言って女児は鼻をひくひくさせて、匂いを嗅いだ。そのまま、歩き出した。時折、葉楼に西瓜の匂いがする、雨のじめじめした匂いがするだの逐一、報告しながら玄関の扉を開けた。
その直ぐ先に秋が待ち構えていたのに驚き、葉楼の服の袖にしがみついた。笑うのは失礼だと堪えていたがどうにもできなかった。
すっーと秋は立ち上がった。そして、迷う事なく、傘立てに差してあったオレンジ色の傘で葉楼の爪先をぐりぐりと押した。痛いくらいの愛情表現だ。痛いよ。
葉楼の時とは打って変わって、ほぼ同じ目線に合わせて、
「貴女のお母さんですよ」
と微笑んだ。よそ行きの微笑みではなく、本音の笑顔だ。どうやら、秋もこの子を気に入ってくれたらしい。
だが、女児は違うようだ。少し戸惑い気味に言葉を紡ぐ。
「お姉ちゃんだよね? えーと」
葉楼の方をじっと、見て何かを伝えようとする意志が伝わってくる。
「僕の事はお父様って呼んでみて? えーと」
「そうか、私……名前、覚えていない」
肩を落として本当に残念そうに靴と靴を鳴らす。その音は小さな悲鳴にも似ていた。
「だったら、ね」秋が女児の靴の紐を解いてあげて、女児を抱っこした。それは百二十センチと百三十センチの抱っこの光景なのだから不格好だった。だけども、その中に子と母の情景を、絵画を思い浮かべていた自分がいる。「千秋っていう名前はどうかな?」
と瞬きをしきりに繰り返している女児に提案した。
「ちあき?」
「貴女のお母さんからのプレゼント。どうしてもそう、付けなくてはって気がするんだ」
そう言って秋は廊下を歩き始めた。抱っこしている為、速度が遅いので葉楼はその後をゆっくりとした足取りでついて行った。
ぺたっ、ぺたっと廊下を歩む小さな音はこれから来る楽しい未来を想像させてくれた。
台所に入ると、卓上には西瓜が用意されてあった。西瓜は瑞瑞しく、雫が小皿に何粒もこぼれ落ちる。そう言えば、帰宅を急いでいて昼ご飯を食べていなかった。今更ながらに気が付いた。
それを予測していたのだろう。チャーハンが西瓜の横に置いてあった。あんなに我が儘だった秋がそんな気配りをできるようになったのかと並んで歩く背が同じくらいの妻と娘を懐かしげに眺めた。
「うわぁ、西瓜だ。さっきの香りはこれだったんだ。ねぇ、お父様?」娘はさっそく、椅子に飛び乗った。「ねぇ、お母様。食べても良い?」
「いいわよ。でも、チャーハンを先に食べちゃいなさいね」
千秋は頷いて、スプーンで細かな玉子を掬う。
それを眺めていると、急に千秋という名前のもう一人の人物を思い出してしまう。メイド服を着て、突然現れた女性。母を幸福にする為だけに世界を変えた女性。その愛情と同じ以上……。いや、愛情を比較してはいけないのだろう。だが、見習おう。その愛情を誰も横取りはしないのに皿を抱えて、黙々と食べる愛しい娘に。
「運命って感じですか、秋」
運命という言葉は高校生だった頃の自分が口にしたとしたら滑稽なものになってしまっただろう。今はどうだろう、隣にいる秋は笑うだろうか?
「うん、そうだね。ねぇっ」
秋はその言葉を娘に渡した。娘は解らないと困惑した表情を浮かべて母親の睫毛を見つめる。その睫毛が大丈夫だよ、怖くないよ、と告げている気がした。
「はい、お母様」
だから、そう娘は返事を返せた。
リン♪ と楽しげに夏の鈴ははしゃぐ。そうやって、はしゃいでいるうちに季節は過ぎ去っていつか、陽の当たる場所から姿を消していく。
僕は秋に、娘に葉楼として一体、何を贈れるだろうか? その引退の日が来るまでに。
そう考えたら急に涙が溢れてきた。おかしいな、こんなに死ぬ事が。この子よりも先に死ぬ事が怖いなんて。まだ、会って一週間しか経っていないのに。
「どうしたの、お父様」
「怖いくらい幸せなんだよ。いつか、いつか、終わるんだって知っているからね」
「だったら、それまでに笑顔、千秋の笑顔で終わっても心がぽかぽかになるようにしてあげるよ」
娘は父親の髭だらけの顎にそっと、くちづけした。
「髭がちくちくする」
「全く、葉ちゃんは髭がない方が格好いいのに。この前、秋ちゃんが借りてきたスパイものの影響で急に髭を生やして、普段飲まなかったはずのコーヒー飲み出して。秋ちゃんが飲めないから二人でオレンジジュース飲んでたのに」
「はいはい、元に戻しますよ、僕の女王様」
「そうしてね、絶対だよ」
そう言って秋は唇にキスをした。何度目のキスだろうか、それでも色褪せない約束がそこにはある。
― これから時間がある。沢山、沢山。償う時間の合間にちょっとだけ、愛に溢れた日々があっても僕は良いと思う。それくらい、良いじゃないか。
いっぱい、愛も知って。いっぱい、御免なさいする。 ―
それらは何処まで守れて、そして、何処まで達成されるのだろうか。それはきっと、死んだ時に解るのだろう。
<fin>
暗い暗い、空間。私は今、何処を彷徨っているのだろう? 自分は裁縫道具として人々の願いを叶えるという存在意義があった。それを全うしていたはずだ。なのに、どうしてこのいつまで続く暗黒の牢獄に置いてきぼりにされている。千秋とか、いう私の創造主も一緒だったはずだが、彼女の姿はもう、何処にもない。どうしたというのだろう。
ずっと、ずっと、見つめていても変わらぬ風景を見ていた。以前はこんな行動が日常だった。しかし、今は溜まらなく怖い。
自分を使ってくれる人はいるのだろうか? そして、その心優しき人はいつか、ここへと足を運んでくれるだろうか?
いや、来るはずがない。ここはもう、用済みの事象が投獄される時の地獄なのだ。ああ、思い出した。それが現実だ。だが、使う人間さえ現れれば、私は脚光をまた、浴びる栄誉を天から授かるだろう。
さぁ、来てくれよ、人間。
私の特技は縫う事と、裂く事。特に人の皮をどうにか、する事に関しては経験豊富だ。ほら、使ってみたくなってきただろう? ほら、ほら、ここまでおいで欲深き人間。美しき人間、醜き人間。
どう呼んだって私は裁縫道具。君は人間。
待ってるよ、人間諸君。
「幾ら、待ってもあなたが望む陽の当たる場所へはもう、戻れないよ。久しぶりだね、裁縫道具君」
「千秋。霜澤千秋か。もう一人の私はどうした?」
「ああ、あれね。記念にあの洞窟に置いてきた。秋が大人になった頃に、確か地盤沈下が起きてそこは埋もれちゃったけどね。天才がいましたよっていう痕跡くらい残して置きたいからね」
「それがどういう危険を孕むか、知ってのことだろうね、天才」
それがむず痒いのだろう、久しぶりに現れたメイド服の女性は煙草に火をつけて、吸った。彼女の吐く白い煙が数秒も留まる事なく、暗闇に潰されていく。
「ねぇ、私の行動に意味があったのかしらね」
「何故、私にそれを聞く」
「あんたしかいないからかね」
「意味? あの世界と君はケーブルで繋がっているような関係にあっただろう。その世界から君が消えたんだ。当然、ケーブルも切断される。ケーブルで君と世界が繋がっていたからこそ、意味があったんだよ、全てには」
「どうかしてる、物とお喋りしているなんて。これじゃあ、何処かの大学で研究動物扱いされるわ」
「どうやら、ここは時間にも見捨てられた空間らしい。差し詰め、燃えるゴミにもならない事象を閉じこめて置く牢屋だろう」
「世界からすれば、私は希代の犯罪者って訳か!」
そう叫びながら、痙攣したように身体を揺らした女性の瞳には何処か、誇らしげな光が宿っていた。
「そうだろうね。でも、その代わりに私達の願いは叶ったのだろう?」
「私達?」
眉を潜めた女性はやはり、私達の感情を全て、理解していなかったらしい。私に人並みの身体があれば、侮蔑の笑みを浮かべる処だ。残念ながら無いし、それは無意味だ。これからは黒しかない景色に生きるのだから。
「君の願いから生じたのだから、私の全てがそこに完結するのは至極当然ではないかね、天才ちゃん」
「だったら、何故、あの事態を止めなかった?」
「私達にボイス機能はついていないだろう。この空間だからこそ、私は君とこうやって会話を交わす栄誉に有り付いているがね」
「その耳の裏が痒くなるような喋り方は止めてもらいたい」
「道化だった頃の君の真似」
「あ、そう。でも、他でやってほしい。殴るわよ」
「他か? 何処でやれと言うんだ?」
「止めた。ねぇ、なんか、ここは寂しくない」
「寂しいっていうのはあの世界で大勢の人間とコミュニケーションしたからこそ、導き出される経験による情報の集合体だろう。だが、ここはその世界ではない。慣れることだ」
「道具にお説教されるなんて、私も落ちぶれたものだ」
「人間はそうやって道具を自分達よりも上に置こうとするが、それは果たして正しい事なのか? どうも私にはそうは思えない。本当に上位の立場にあるならば、どうして人は道具に振り回される?」
「それもそうね。欲望っていうのが人間の中にあるからじゃない?」
「欲望か。それは確かに誰にでもある。けども、人間だけがあの世界の覇権を握れるほどに進化する事ができたほどの上位にある。その理由で人間が道具に振り回されるとは思えんね」
「人間を高く買っているのね、裁縫道具君?」
「当たり前だろう。人間が存在しなければ私は存在しなかった。だが、全ての私の意志は人間のものではない」
「道具らしからぬ台詞ね」
「私にとって両親は人間だった。でもね、両親の意志が全て、子どもに伝わるわけではない。どんなに両親から受け継いだDNA<似ている要素>があったとしても、最終的に自分の意味を自分自身に見出すのは自分だけだろう。それは一番、君がよく知っている事だ。だって、君がした事は私でも解るくらい完璧な誤りなのだからね。秋さんが君の喪失と引き替えに葉楼君との幸福を願っていたとはどうも私には思えない」
「そう。でも、私は道化」
そう短く言ってから、女性は瞼を閉じた。一体、何を考えているのだろう。だが、何を考えようと無意味な事は承知しているはずだ。
陽の当たる場所はもう、遥か彼方にあるのだからね。