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醜美千秋  作者: 遍駆羽御
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第四章 本当の美しさ

 第四章 本当の美しさ


            <一>


 どうしてと言われた瞬間、胸中に私の宿命の歴史が電光石火の如く、去来した。

 実の母に捨てられ、売春宿に売られた記憶。消し去りたい。なんて、汚らわしい。

 売春婦の霜澤秋さんに助けられて貰った記憶。本来ならば、李という源氏名で五歳の頃から幼い身体を売る未来しかなかった私を秋さんは助けてくれた。千秋という名前さえくれて、本当のママになってくれた。この歴史だけは美しい。でも、私の身体に付着している実の母親の分厚い唇が私に何も残さずに消えていく記憶が汚している。

 だが、後の歴史は美しかった。私が八歳の時、秋さんは引退して私立の幼稚園の経営を始めた。それからはいつも、子どもの笑い声が絶えない毎日だった。本当に川の流れのように淀みない時が流れた。

 その流れも急になる日がやってきた。

「ママ、死んじゃやだよ」

 肌が凸凹の爛れた皮膚が特徴的な秋さんは一週間前までは元気だった。延命療法で培養された秋さん自身の細胞達も活発に秋さんの身体を支えていた。だが、その細胞は通常よりも短命だった。劇的な変化に身体が耐えられず、秋さんは高熱を出して倒れた。手を握る私の他には秋さんの売春婦時代の同僚であり、親友であるアリアさんが私の肩にそっと、手を置いているだけだった。

「おかしなものだね。私は両親を殺した罪を償うべく、愛する人 葉楼の元を飛び出して身体を売って生活してきた。自分を苦しめるために延命療法を何度も受けてきた果てに天使に出逢うなんてね。貴女を拾って良かったわ、千秋」

「過去の新聞で読んだよ。でも、それは子どもが調理したのが原因で……許されていい範疇だ。親だって酷いじゃないか」

 そう、親は所詮、自分とは別の個体に過ぎないのだ。自分の方が大事なんだ。だが、私は自分の親と目が合ってしまった。今にも眠ってしまいそうなくらい瞬きを繰り返す瞳に何度、救われたことか。微笑んだ。秋さんはか細い息で用済みの空気を外へと出して、同時に暗い気持ちも外へと出した。私はそれが嬉しくて堪らない。

「それでも二人の人間が死んだのよ。私の愛する葉ちゃんも当然の報いだって言っていたけどね。ねぇ、ほら、私は醜いでしょう。これも私の心の色に染めたままにしたのよ」

「そうは見えないよ」

 茶色、歪な不器用な色の肌が温かいと知っているから、私は必死に否定した。秋さんは私の手を離すと、私の腰に手を添えた。

「本当に大きくなって、あの泥だらけのおてんば娘め。貴女の事はアリアさんに頼んでおいたから、ね」

 アリアさんは親友の言葉に静かに頷いていた。私はこの人らしいなと思った。誰にでも優しく、怒った事が私の知る限りでは一度もないアリアさんは秋さんの親友にぴったりだった。どうして、こういう心根の優しい人たちが身体を売らなければ生活できない運命を潜り抜けなければ今日に辿り着けなかったのだろう。理不尽だ。

 けれども、私は知っている。それでも……

「本当に美しいのは……ママの心だよ。私を育っててくれた秋さんの慈悲。でも、秋さんは産まれてきて幸せだっていう時を過ごせたの」

 それを言い終わった後、秋さんの顔色を窺おうとしたら、秋さんはもう、息をしていなかった。私の腰に手を添えたまま、瞳を見開いていたので、両眼を閉じてあげた。それを見届けるかのように秋さんの両手は私の腰から独りでに離れていった。

 今、思えばそれは秋さんがもう、親離れしなさい十五歳なんだからねと言っていたと理解できる。だが、その時の私はこの世の理不尽さに震えていた。

 だから、私は当時、高校の科学部で研究していた時空を裂く裁ち切り鋏を研究し続けて、二十五歳で時空を越え、神様の悪戯によって当初とは予定外れの思湖達の時代へとやってくる事になり、二つの裁縫道具のうち、予備の方を何処かへと落としてしまった。何年間も探し続けながら、たった一つの目的の為にここまで辿り着いたというのに秋さんは秋さんでも今、目の前にいるちびはなんて、醜いだろうか。

 ツインテールの髪型はよく、アリアさんが好んで私にしてくれた髪型だ。正直、秋さんがその髪型をしてくれた時は内心、嬉しかった。セーラー服に似たワンピースとその髪型はとても、似合っていた。残念ながら愛らしい顔の底に隠されている傲慢なまでの虚栄心がそれを台無しにしている。

 もう、覚悟はできていた。私の過ちでこうなったとはいえ、こんな秋さんを見たくない。

 すっと深呼吸して私は世界で尤も重い母殺しの為の狼煙を挙げる。

「気が付きませんでしたか? 私は貴女をつけてここまでやってきたんですよ。自分のしでかした後始末をつけるためにね。やはり、未来は変えるべきではなかったんです」

「どういう風につけるの?」

 躊躇して、言葉が詰まる。地にしっかりと足をつけた仁王立ちが昔、自宅の二階のベランダからふざけた末に下へと落下してしまった私を叱りつけた秋さんそのものだ。あの絶対に譲りそうのない瞳もそっくりだ。

「裁縫道具を回収するだけです。さぁ、渡しなさい」

 その言葉に反発するように黒い血の固まったスティックを両手で構えた。

「やだもん、これは秋に必要な道具よ。これさえあれば、秋はずっと、綺麗なままでいられる。葉ちゃんに可愛がってもらえる」

「本当の美しさはそんなところにはありません」

 その声は悲痛の色合いを見せていたが、子どもの秋には通用しない。

「無駄のようですね、殺します」

 そういう静かに宣言して、拳銃を構える。これが本物でないなんて真っ赤な嘘だ。ずっしりと重みがある。愚かな秋はその拳銃を向けられても、私にスティックを振りかぶるが貧困街で生きてきた私に温室育ちの秋の攻撃は温かった。余裕で避ける。引き金に掛かった指を動かせば、秋の額にいつでも風穴を開けられる。私は人を殺すのに躊躇したことがない。人口が爆発的に増え、食料問題が叫ばれる未来において人を殺してでも秋さんに助けられる前は食料を奪い生きてきた。目の前にいるのは緩慢な鼠だ。殺せ、自分。

 何度も、スティックを避けては撃とうとした。撃てずに肘鉄を食らわしてやろうとしたが、それを試みる度に秋さんが私を千秋と呼ぶ声が聞こえる。

 十数分の迷いの末に私は拳銃を胸元に閉まった。

「猶予期間を与えます。選択肢は二つです。欲望の為に人を殺し続けるか? それとも、自首して葉楼さんに支えられながら罪を償う日々を送るか? です。考えなさい」

 私は威厳たっぷりに小さな秋さんの振り回すスティックを抑えた。

 もう、抵抗できないと悟って、青い顔になった秋はその場にゆっくりと倒れそうになる。私は咄嗟に秋さんのセーラー服の襟を掴んだ。

 お姫様抱っこしてみると、秋さんの身体が意外に小さいのが解る。いや、私が大きくなったんだ。それなのにいつの時代も私は秋さんに固執している子どもだ。

 秋さんを負ぶって、荻須家に戻る道すがら、腕時計で何気なしに時刻を見やると午後五時三十分を差していた。

 軒先の白い階段に葉楼が座っていた。凄く落ち着きが無く、膝の上を指先が踊っていた。私はその愛しい人を待ちこがれる様を愛らしく思い、普段の道化の表情を忘れて実に久しぶりに心からの笑みを零した。そうしてすぐに秋さんを葉楼の両膝に乗せた。

 葉楼の両親に挨拶をしてから、すぐに自室として宛がわれた本棚が左右の壁にずらりと立ち並んだ部屋へと引き返した。ベッドに腰掛けて、項垂れた。

 自分はここへ来るべきではなかった。秋さんをあんなにも苦しめている原因となった裁縫道具を未来からもたらしたのは何も隠そう私だ。間接的に恩を仇で返したのだ。それは苛立たしい事で、私は自分の髪を毟り取った。毟り取った髪を見つめると白髪が交じっていた。ああ、また誰かを殺して髪の毛を奪い取らなければ……と無意識に考えた。おでこを叩いて違うと否定する。それは人間の考え方ではなく、化け物の考え方だ。犬畜生にも劣る化け物の考え方だ。

「あれが誰であれ、秋はあの模倣犯に全てを押しつけて葉ちゃんに愛して貰うんだ。初めて、愛して貰えるんだ。嘘つきの愛なんかじゃない」

 そう言っていた可愛らしい化け物候補生の言葉が脳裏に蘇った。今の私にできる最期の親孝行は彼女の更生のみなのだ。気が付くと私は卑怯な涙を零していた。それを肯定も否定もせず、落ち葉のように無惨に死んだ黒い髪を眺めた。

 しばらくすると自分にできる親孝行をもう一つ発見した。五十年振りくらいに(とっていてもこの時代に私は影も形もないのだから不思議だ)、私の手料理を食べて貰うとしよう。

 材料は未来とは違い、クローンの挽肉はなくその代わりに安い挽肉が手に入るのでこれを使おうと私は早速、近くのスーパーに駆け込んで篭に詰め込んだ。その他にもレタス、ネギ等を篭に入れた。レジに向かう途中にスポンジケーキが安い価格で置いてあるのを発見して私は思わず、得意顔になった。秋さんは体調を崩す前は一日に一切れ、ケーキを食べていたなぁ。

 料理完了しても、秋は階下に降りてこない。どうやら、まだ寝ているようだ。葉楼が起こしにいく意志をみせているのを無視して、私はそっと、階段を上り、ノックをせずに秋の部屋に侵入した。

 秋の姿はなく、掛け布団がこんもりと盛り上がっていた。笑いを必死に抑えながら、奇っ怪な顔をしているであろう自分の顔を元に戻そうと努めた。だが、不可能だった。掛け布団を捲ると秋は豚さんの鼻のようにひくひくと鼻を動かしていた。

「秋ちゃん、惰眠を貪るのも良いけど、王子様のキスが無くても目覚めて下さい。罪人にはそんな甘い展開はありません」

 そう声を掛けた。

 のっそりと秋の腕が動いて再び、掛け布団という外郭を得ようと手を伸ばした。だが、彼女の手は空を掴むだけだった。

 仕方なしに目を開けてと丸分かりなほっそりとした目つきで私の姿を見る。

「反抗的な目……。せっかく、私があなたの為にハンバーグを用意しただからちゃんと降りてきな」

「秋ちゃん、お肉食べられないもん」

 ぶっすとふて腐れる。

「いつから?」

 私はあれ? とびっくりした。記憶の中ではいつも、秋さんが肉類を美味しく頂いていた光景が上映されている。

「ママとパパが火事で死んじゃってから」

「そう、ですか。克服したんですね、秋さん」

「え? 意地悪。秋、まだ食べられないもん。そんなの食べたら吐いちゃう」

「ケーキも作りましたから、秋はそれを獣のようにがつ、がつ食べて下さい」

「あんたってどうして、そんなに私に構うの? 関係ないよね」

 秋さんは寝癖のついた髪を撫でて直そうとしたが、どうやっても元に戻ってしまう。不機嫌な言葉を吐くのに一々、可愛い仕草をする。私の知る秋さんは自分でこの後、対処するのだが、目の前にいる秋ちゃんは嬉しそうにブラシを握り締めた。多分、そのブラシを渡して葉楼になんとかしてもらうのだろう。それに違和感を覚えた。

「いいえ、関係ありますよ。でも、詳細を貴女に語ることはないでしょう」

 冷たく捨て台詞を吐き、扉を閉めた。

「この、意地悪!」

 その耳障りな遠慮のない声と共に扉に何かがぶつかる音が聞こえた。

「残念。ドアシールド。追いかけてきて、一撃喰らわそうなんてしたら、葉ちゃんに言いつけるので悪しからず」

 葉ちゃんの名前を出された秋は大袈裟に溜息を吐くと静かになった。小さなレディは大好きな男にとことん、良いところのみを魅せたいらしい。だが、何処がいいのだろうか? あの葉楼は日がな一日、餓鬼(秋ちゃん八歳)の子守とスケッチで過ごしているだけの洒落っ気もない男なのに……。

「恋とは未知数だね、秋さん、アリアさん」


             <二>


 暇な休日はスケッチに出掛けたくなる。秋は朝から友達に……確か、紀久さんとかいう眼鏡を掛けた可愛らしい子に誘われてその子の家に遊びに行った。久しぶりに一人でスケッチに行ける。葉楼は直ぐさま、スケッチブックを片手に部屋を後にした。

 それとほぼ同時くらいに玄関の呼び鈴を鳴らす音が聞こえる。はい! と大声で応えながら急いで降りていく。扉を開けると頬に大きなほくろのある宅急便業者の男性がでかい箱を抱えて笑顔で佇んでいた。その笑顔が何とも爽やかでこの男性には悩みがないのでは、と葉楼を思わせるほどだった。

「李さんはいらっしゃいますか? 代引きのお荷物が届いております」

「ちょっと、待て下さいね。李さん!」

「李さんなら、庭で秋ちゃんのお布団を干しているんじゃないかな。あの人、秋ちゃん関係のお世話を何でもしたがるから。お蔭で楽ちん」

 二階から暢気なあざみの声が聞こえた。楽ちんと言っているが、あざみは一切、洗濯物をしない。料理はたまに作る。といったもてる女性像から遥かに遠ざかっている。その台詞のおかげで笑ってしまった。口から唾が飛沫した。我ながら下品だ。

 いつも、布団を干している庭の見えるリビングに足を運んでみたが、秋の掛け布団が微風にゆらゆらと動かされているのが印象的に映っただけだった。その風景は子ども達が公園のブランコで遊んだ後のようなもの悲しさを含んでいた。

 引き返すとまだ、ほくろの男性は笑顔のままだった。それは作り物か? と聞きたくなるくらい辛抱強い。今日は温かいにも程がある二十六度という気温にも関わらず。

「ああ、いないですね」と葉楼は少し、低く唸ってから、「んじゃ、代わりに僕が支払っておきます。お幾らですか?」

 財布を片手に葉楼は聞いた。ほくろの男性は申し訳なさそうに爽やかな笑顔から、困ったなと唇の両端を広げた。

「ちょっと、値段が高いんですが、大丈夫ですか?」

「気にしないで下さい、多少ならば大丈夫ですから」

「ええ、と五万円です」

「無理ですね、社会人の姉を呼びます」

 と即答して、あざみを呼びに急いで二階へと駆け上がる。あざみは二階の廊下でゲートボールの振りの強化に努めていた。彼女の握るスティックからぶん! と風が唸る。

 五万円、払えと言ったら軽く、スティックで殴られた。そんな鬼の所業を弟にやってのけたあざみは廊下を音もなく下っていった。廊下に転がったスティックを見つめ、え? と思った。普段ならば、階段を壊さんばかりの快音を響かせるのに。

 あざみの後に続いて階下に降りる。途中、あざみの気持ち悪い女の子のきゃっきゃっした声に嗚咽しそうになった。

「こんな暑い中、ご苦労様です」

「いいえ、仕事ですからたいしたことないっすよ。では、ありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ」

 外行きの笑顔が扉を閉めた途端に怠けた表情に変わった。笑う為に使った筋肉が数秒で解れる術を会得しているあざみは葉楼の横腹を何気なしに突いた。

「それよりも葉ちゃん、あんた太ったんじゃない。幸せ太り」

「また、そのネタですか。あまり、やる前からバレバレの振りは止めた方が無難ですよ。芸人を目指すのでしたら……」

「アドバイスありがとう。けど、これは真剣なの。人の真剣さに水を差したあんたには付き合って貰うわ」

「お姉様、残念ですが漫画・アニメ・ラノベみたく我々は血の繋がらない姉弟ではないので、恋仲には」

 その言葉を言った瞬間、空気が澄んで見えない猛吹雪になったのを今でも覚えている。だが、それをゆっくり分析している気力は無かった。

 汗の垂れる嫌な感触、軋む音のする車輪、前方からは姉の悩ましげな吐息、姉の生命の脈動を称える足音……ああ、全てが悪夢となって蘇りそうだ。まだ、現在進行形なのにそう思えるほどきつかった山道……。ほら、小学校の卒業式の在校生達による卒業生を贈る言葉口調に思考が変化している。

「葉楼、遅い。あんた、自転車なんだから」

 現実逃避さえ、させてはくれないあざみの声は途切れ途切れだ。健康な高校男子諸君ならば、これを今夜のおかずに取っておくのだが……姉では萎える。

「わざとでしょう。わざと自転車乗っても良いよ、その方が楽だからって」

「姉の愛を疑うなんて、そんな弟に育てた覚えはない」

「育てられた覚えもないです」

 姉の揺れるお乳は推定デー。もはや、やけくそだった。ペダルを懸命に漕いであざみを追い越した。それを阻止するべく、強風が酸素を遮断する。咄嗟に顔を背けて酸素を体内に補給した。あざみの鬼気迫る顔を心の準備無しに見てしまった。動揺してペダルを踏み外し、自転車が傾きそうになる。体勢を整えているうちにあざみの背を前方に見る形になった。

 自転車に乗った人間と自分の力のみで走る人間、意味もない姉弟対決が繰り広げられている最中に思い掛けない人物を見かけた。

 メイド服ではないが、大樹のようにすらりと伸びたスーツを着込んだ背は李の特徴でもあった。何処か、気取った足取りで森の中へと消えて行った。

「あれ。あれは、李。あっちの方向は……。葉楼」

「時々、野犬が徘徊してますから危ないですね。声を掛けましょう」

 最近、森の奥で遊んでいた子どもや、散歩しているお年寄りが腹を空かせた野犬に襲われているから気を付けるようにと一週間前に町内の回覧板で回ってきたのを思い出した。

 足取りが自然と速くなる。怪我をしたら大変だ。

「あんたって本当に良い奴ね」

 意味深にあざみが葉楼の背に言葉を発したが今は、無視した。ここで姉弟喧嘩を勃発させたって仕方がない。

 森の中は想像通り、整備なんかされていない。道ができていると思ったら、背の高い雑草に進路を奪われる。その雑草の存在を気にせずに、李はそのまま、歩く。顔面に葉が触れてもここから見る限りでは平気そうだ。葉楼とあざみは李の姿を視界で追うのがやっとで、当然李との距離は縮まらない。

 それどころか、見る見るうちに距離が開いて、ついには李の姿を見失ってしまった。

「とりあえず、この死体達には退場してもらいましょう。秋さんが警察のお世話になるとこは見たくありません。まっ、裁縫道具の効能を現在の猿が理解できるとは疑問ですが」

 そう言っている李の声が微かだが、洞窟内から聞こえる。その口調には不気味なほどのおどろおどろしさが含まれていた。葉楼はどうしようか? とあざみの姿を見たが、あざみはよしよし、怖いんでちゅねと言って葉楼の頭を軽々しく撫でて先へと進んだ。

 洞窟内は夏だというのに寒々としていた。自然と両手を組んで肌をさする。真っ暗闇の奥の方に黄色い灯りが煌々とついている。その影響が葉楼の足元を明快にさせていた。おかげで転ぶ事もなく、李の姿を捉える事のできる絶好の岩陰へと隠れられた。首だけを岩陰から外へと出す。

 普通に部屋にありそうな家具の奥に見慣れない汚れた布が壁に立て掛けられていた。よく、目を凝らすとそれは布ではなく、かつて、人間であったものだ。絶句した。死体は二体ある。一体は頭が取れていて、地面に散らかった玩具のように無造作に転がっていた。恐ろしい事にこちらを二つの空洞が捉えている。その空洞に見られて、笑ってしまった。

咄嗟にあざみが葉楼の口を塞いだが、笑いは骨太となって洩れ続ける。もはや、止まらなかった。

 李はくるりと向き直り、洞窟の入り口を眺めた。あんな腐乱死体が二体もあるのに彼女は慣れていた。その表情は街中で待ち合わせをしている女の子にも似ている。

「素人は見ない方が良いですよ。風が吹けば、何処かへと飛んでしまうくらいミンチにする予定ですから」

 黒いスーツは死者に対するせめてもの敬意を表するつもりなのだろう。だが、それとは対照的に李の手には裁ち切り鋏が握り締められていた。裁縫でも始めるのか? 一体、何が始まるんだ? と思考は二転三転する。

 やっと口から出た言葉は実に間抜けだった。

「バレてたんですね」

「あんた、それ」

 あざみは実にゆっくりとご飯粒を何度も咀嚼するようにその言葉を言った。

「こちらの方ですか。私は秋ちゃんママよ。趣味はケーキの食べ歩き多分」

 李は細い白い手の甲を動かして、左右に乱暴に振った。薬指には茶色く焦げた安物の銀の指輪が収まっていた。その指輪は死者の哀れな死に様を物語っているようで今にも叫び声が聞こえそうだ。

「俺は秋ちゃんパパ。仕事は腐るだけの死体」

 そうリズムよく、李は歌って、足元にあった頭を蹴り飛ばした。

「宜しく」

 と付け加えた時には葉楼とあざみの側へと転がってきた。

「笑わないですね。場を折角、盛り上げたのに。この二人は恐らく、重度の火傷を負った秋ちゃんが必死になってここまで運んできたのでしょう」

「重度の火傷? あの子は火傷なんて」

 何度、秋の姿を思い出してみても、金髪のふさふさした髪に白く透き通った柏餅みたいな弾力のある肌、目は真ん丸として可愛い。

「してない。あなただけの常識でみればそうでしょう。でも、葉楼さん、常識なんて所詮、世界のほんの一部の決まり事に過ぎないですよ。国が違えば、常識が異なるように。そして、時代が違えば常識が異なるように。凡人と天才の常識が違うように。その常識が崩れる瞬間をお見せしましょう」

 握っていた裁ち切り鋏で死体を挟んで、縦横無尽に刃を走らせた。そのスピードは熟練の職人のようだ。休まずに切り続ける。葉楼が吐き気を我慢しているうちに二体の死体は折り紙の大きさになり、最期はペーパーナイフで粉々に切り刻まれた。この二体の死体は紙でできているのでは……と疑ったがどう見ても目の前にある頭は重さを持っている。

「な、何、気持ち悪い。死体がミンチ、葉楼」

 そんなの僕も見ているよと言いたかったが、口は閉じたままだった。口を開いたら、死体特有の生臭さを含んだ酸素を大量に吸ってしまう。そうしたら、発狂してしまいそうだ。秋の事もそうだが、この李はモンスターだ。想像を越えている。理解できないものにあった時、思考が止まるのは恐怖と絶望が思考に含まれているからだ。

 ゆっくりと、近づいてくる……。鋏の両刃を擦りつけながら耳障りな音をあげている。

 ゆっくりと、近づいてくる……。ペーパーナイフを振って肉片を撒き散らしている。

 もう、駄目だ、殺される。あの死体の頭も僕達の運命を知っていてよく見るとざまぁ、ねぇなって笑っている。その頭に違うと叫ぼうとした時、頭は真っ二つに割れて地へと伏す前に塵となって吹き飛んだ。その塵は他の塵と一緒に黒いゴミ袋に吸い込まれていく。

「安心して下さい。ゴミは他の時代に飛んでいきました」

 平然と武器を裁縫道具箱に仕舞い込んだ李は葉楼達に気さくに説明した。

「あんた、何者?」

「すっかりお話ししますよ。事の成り行きと今、起こっている連続殺人事件の真相についてね」

 葉楼達に席に着くのを進めた。座ったことを確認してから、李も座る。

 それは……御伽噺のような雲を掴む話だった。時折、李は葉楼達に色んな表情をしてみせた。五歳で身体を売る運命にあった自分が秋に救われ、貧困層の集まる学校へと進学できたことを話した時の李は少女だった。爛々と輝いた目でその光景を思い出しているのだろう。だがふと、全てを話し終わると花火の火がしゅっと消えてしまったように詰まらない顔をする。

 自分にもそれは経験があった。自分だって秋とあんなに楽しく過ごした記憶がある。ランドセル、あわあわ、スケッチ、窓硝子の漢字、本当の母親……。その全ての出来事には等身大の小学生 霜澤秋がいた、それを見守る自分がいた。愛が花火の火のように消えて、今は解らない悲しみに包まれている。その正体を知ることさえ、億劫だ。

「秋さんを葉楼さんと一緒にさせてあげて、楽しい人生を、それが私の親孝行。そんな事だけを考えていました。きっと、未来が変われば、消えるでしょう私は。それでも良い。何十年も生きてきましたからね。でも、私が予備の裁縫道具を落としたせいで秋さんは人を殺した。あの両親の為に秋さんだから行動したんでしょう。事実は秋さんしか知り得ない。でも、私はそう今でも信じている。アリアさん、厘を殺害したのは別問題として許せない。私の罪でもある」

 予感がした。次に目の前で眉根を歪ませて苦痛に耐えている側面と不器用な笑顔を必死に浮かべようとする側面を混ぜ合わせた葛藤に身体を震わせた少女は、葉楼の経験のない何とも悲劇的な風景画の一部だった。少女の背後には蝋燭によって照らされた土の壁。その壁よりも意志堅く、叫ぶ。

「私は裁縫道具の回収が不可能な場合、秋さんを殺します。醜い秋さんを見たくありませんからこれ以上」

「秋を殺すんですか……。自分を育ててくれた親を殺すんですか」

「葉楼、それは最終的な手段でしょう。ちょっとは冷静に考えなさい」

 いきり立とうとする葉楼の肩を押さえて、あざみはその肩に全体重を掛けて押し戻す。相当に痛かったが、身体中を巡る血液の熱さがそれを掻き消す。やけに熱い。シャツの襟を摘んで扇いだ。生ぬるい風が鎖骨に当たる。効果がない……。苛々する。

「そんなのはどうでも良いことです。秋を殺すって、親を殺すって言った事、それ自体が僕は許せない」

 強くテーブルを叩いた葉楼の行為を鼻で笑った。鼻息で笑った李が非人間に思えた。

「葉楼さんの場合は秋ちゃんを殺すっていう選択肢に頭きているんですね。けど、秋さんは殺人鬼ですよ。同じ事をされても文句の言えない立場の人間です。自分の恋心のみで過保護にするのが本当の愛情ではないはずですよ」

「違いますか? ん?」

 まだ、化け物を愛しているのだろうか? 家族だと思っているのだろうか?

 何かが怖かった。そう、自分と秋とは違う人間だからその何かが怖い。


              <三>


 人の心は移り変わるいつだってそうなんだ。私は彼に恐怖を与えた。私は彼女に絶望を与えた。私の目的は結局、自分のしでかした失敗で死んだアリアや厘の恨みを晴らすよりも、親孝行を選んだのだ。だって、親は無償の愛を授け続けてくれたんですから長い間。それにアリアならば、私がやろうとしている事を許してくれるでしょう。

 ですが、私の心は苦痛に歪んでいるのです。精神的疲労が長い間、蓄積されたせいか、この頃は台所の卓で頭を横たえてそのまま、寝てしまう。そのせいか、首が痛い。今日も首が痛い。今日も首に冷却シートだぜ。

「葉ちゃん! 何で秋ちゃんと遊ばないの」

 秋さんはぶすくれて、唇を振動させて豚の鳴き声みたいな音を出して、葉楼に抗議している。この人の子どもっぽさが死ぬまでこのままだと知る私は場違いながらも腹を抱えて笑ってしまった。二人は仲良く、私を睨む。咳き込んでそっぽを向いた。これ以上、黙秘のポーズだ。

「今日は全国学生絵画コンテストに提出する作品を書かないといけないなんだ。知ってるか? この作品で賞を取ってプロになった人は多い。それくらい権威ある賞なんだぞ」

 そのコンテストは確か、私のストーキングによる調査では九月六日提出だと記憶している。私以上に変態的な素行調査をする(愛しい葉ちゃん限定で、服の匂いを嗅いで女と遊んでいないかや、勝手に鞄、引き出しを調査、さり気なくエッチぃ本チェック。ロリ系のみにし、一番美味しいシーンに秋さんスク水写真貼り付けのおまけつき)秋さんには嘘はばればれで白い肌を真っ赤にして怒っている。ほら、やり場のない怒りに開いていた計算ドリルに葉ちゃんなんて嫌い、ピーマンになればいいんだ! と書き殴っている。

「秋ちゃんの絵画があるよね、あれ、出せば良いよ。ねぇ、ねぇ! 今、持ってきてあげる」

 計算ドリルを閉じて秋は葉楼の返事も聞かずに騒々しく二階へと上がった。きっと、今日までに画かれた秋ちゃん画、およそ三十枚の中から一番、可愛い秋ちゃんを持ってくるのだろう。時間が掛かりそうだ。そう推測した私は不本意ながら、ソファに寝そべってニュースを見ている葉楼を揺さぶる事にした。

「葉楼さん、秋ちゃんは可愛いですか?」

 その言葉には耳を貸さず、液晶テレビに微笑ましい笑顔を送っていた。今時の学生のお小遣い特集をしていた。五千円が多いようだ。私もテレビの内容に興味ある振りをして、葉楼の耳元に囁く。

「答えられない。結局、あんたも性欲、たっぷりな男子君だったわけですよ。あの金髪の髪はカツラ、醜い禿げちゃん。あの白い肌は全部奪い取った偽物。本当は焼け爛れたぐちゃぐちゃの肌。そんな醜い子を愛すなんてできませんよね。でも、醜いってなんでしょうか? 美しいってなんでしょうか?」

「知らないですよ。化け物」

 やっと、低い声で答えた。なんて、女々しい声なんだろう。

 どたどたと階段を降りる音がする。

「おや、我らが禿げ秋ちゃんが帰ってきましたよ」

 秋さんは葉楼の背後にしゃがむとうーんむぅと唸り声を上げた。そして、跳び上がってソファの背もたれに腹を乗せた。逆さまの状態のまま、葉楼の表情を窺う。目と目が合うと葉楼の方がソファの右端に寄った。可哀相に秋さんはそれが一緒に座ろうよの合図だと勘違いした。パンツがまる見えなのを気にせずに、頭からソファへと突っ込んだ。スカートを直してあげようと葉楼の手が一瞬、伸びたがそうしなかった。

「ほら、秋ちゃんだよ。可愛いく画けているよ。これなら」

 ここからでは見えないが多分、可愛い秋ちゃんが映っているんだろう。私も見たくなって見せてと頼もうとした。純粋に興味からだ。一番、最初に見た私の記憶にある秋ちゃん画は秋さんの寝室に額縁に入れられて飾ってあった絵だ。あれは今でも私の心に燦々と太陽のように輝いている。事実、その絵は太陽の光を一杯に浴びていた。顔の火傷は酷くなく、右頬が茶色く変色して凸凹になっているのみで全身に包帯を巻いた秋さんは野兎を抱っこしていた。その微笑みは絵を描いている葉楼を優しく見つめている。

 美しいと子どもながらに思ったものだ。

 びりっ、びりっ。不吉な音に気が付いて陶酔は数秒で終わった。その音は画を粉々に引き裂く音だった。ひらひらと舞う中に、私は秋さんの恥じらう唇の動きを一瞬、見た。それは本物に近い。

「秋ちゃんが……」

 それだけ言って秋は言葉を紡げないくらい落ち込む。

「うるさいよ。本当は僕らを欺いている癖に君が殺したんだろう、厘を! その白い肌を手に入れるために。その金髪の髪はアリアちゃんの髪だ。君と同じ年代の子なのに何とも思わないのか!」

「何言ってるの、秋は非力な小学生だよ、そんな事できるわけ」

 もう駄目だ。母の醜態に私は顔を両手で隠した。どう見たって秋さんの笑顔はぎこちない。目がきょろきょろして、真っ直ぐ葉楼の厳つい表情を見ようとしない。

「これが証拠だ」

 伸びた手を秋さんは払いのけようとしなかった。そんな言葉を聞いても信じていたのだろう。無理矢理、秋さんは髪の毛を引っ張られ、目を閉じてしゃがんだ。葉楼の掌に乗っていたのは秋さんの金髪のカツラだった。頭部には微かな火傷の跡が残っていた。

 放心して金髪のかつらをじっと見ていた秋さんは葉楼に何かを言おうとしたが言えずに家を飛び出していった。

「追いかけなくて良いのですか?」

 爪先に何か、珍しいものでもあるかのようにじっと、眺めているその男を見ると腹が立って仕方がなかったが、自分の母の思い人を殴れなかった。お昼のお茶の時間にいつも、その人がどれだけいい人か、語ってくれた。

 コーヒーを一口、含むとちろっと下唇を舐めた。そのお茶目な愛すべき母が言っていた。

 あの人は物欲がなくて、その代わり、それが全て愛情に回っているような人。

 今、私の目の前に立っている格好良くも、格好悪くもないややくたびれたTシャツを着て、まだ下を向いている男が憧れの人だって……信じられない。

 でも、私は母の憧れだけは信じていた。震える指先の怒りを私の望む形へと終わらせる為に必要な起爆剤へと変換していく。少しずつ、少しずつ。全てはここまで自分を生かしてくれた母の為に。

「それとも、今までの善人ぷりは秋ちゃんの正体を知って消えてしまうようなものだったんですか? 秋ちゃんが何故、葉楼さん達に嘘を吐いたか、考えてみて下さい」

 しんとした空間に扇風機のプロペラ音だけが響く。葉楼の髪の毛が非情な機械風に呷られ、彼の惨めな顔を滑稽にした。髪の毛が七三分けになった彼の唇は乾燥していた。

「でも、あなたには解らない、愛されることが当たり前だって思っているから。ついてきなさい」

 私は強く思い浮かべる。両手で胸の前に抱きしめている裁ち切り鋏は人の脳の微弱な思考エネルギーを受けて、青々と輝く。私はその光に一種の恐怖感、畏怖感を抱いている。もう一度、時に触れるのを何十年も躊躇っていた。少し後退りして、気持ちに勢いを付けてから、その鋏で空気を裂いた。

 裂いた部分は白い靄に包まれていた。一切、その先にあるものは解らない。

「この中に飛び込めって言うじゃないだろうね」

 その驚くべき現象をじっと、傍観していた葉楼が怖ず怖ず、言った。そして、ゆっくりとその奇妙な穴の側へと近づいた。目を凝らして遠くを見ようとするが、見えるはずはない。葉楼が無駄な努力をしている間、私はそっと彼の背後へと回った。彼の背中に触れるか、触れない位置に蹴る体勢寸前の右足をセット。

 発射カウント! 十、九、八、七……。

 ごめん、意味ないね! そう、全て(遍く生死の歴史)には意味がない。けど、最期までハッピーエンドが欲しい、私の望む……。

「さぁ、明日に喧嘩売りに行こう! とぉ、李ちゃんキック」

 私は蹴ってやった。いずれ、私の母と一緒になる幸福な憎いあいつの背中を蹴った。その勢いで彼も、私もその白い靄の中に消えていった。

 靄が消えて、私が三歳の頃、捨てられた場所へと私達は立っていた。振り返ると、私達が来た道は自動的に塞がれていた。まるで、そんな穴など、存在しなかったように。時間の自然治癒現象だ。

 目頭が熱くなるのを感じた。今でも覚えている売春宿 竜宮の裏手のゴミ捨て場で私は泣いていた。郵便ポストを支える柱に私の腕は鎖によって繋がれていた。それをしたのが実の母だと誰が信じるのだろう。思湖と同じ時代を過ごした三十代の霜澤千秋ならばそう胸を痛めるだろう。だが、この時代のスラム街に生きる人々は明日を生きる金を手に入れるべく自分の子どもをこうやって売春宿に売るのが当たり前になってしまっている。

 鎖を外そうと半べそを掻きながら、鎖を引っ張っている私だって多分、知っているはずだ。母親はお前を見捨てた、お前は一人だってこと。多分っていうのはもう、古い記憶過ぎて細部の感情まで覚えていないからだ。

「あれは親に捨てられた私です。名前はありません。いいえ、覚えていない」

 その言葉を聞かずに近くにあった鉄パイプを手に持つと幼い私の元へと急ごうとする。私はすぐに彼の肩を自分の方へと引き寄せた。

「可哀相でしょう、助けてあげなきゃ」

「あなたがあの子の面倒を一生、見るんですか。あなたはあれが哀れだと思いますか?」

 葉楼は痛い処を突かれて、鉄パイプを店の壁に投げつけた。壁にそれがぶつかる音は大きかったが、例の少女は気が付かずに自分の現実と闘っていた。

「とんだお人好しだ。この時代では半数の子ども達が食料難の為にああいう運命にあるんですよ。実に汚い、醜い」

 私はまた、裁ち切り鋏で空気を切り裂くと、葉楼の腕を掴んで無理矢理、白い靄の中へ投げ飛ばした。

 葉楼が文句言って、私が六歳の時代の人々にばれるのは厄介だ。腰を押さえている葉楼の口を手で押さえた。そこで思い出したのだが数分前におトイレに行った時、手を洗うのを忘れていた。目を細めて私の掌の匂いを存分に嗅いでいるではないかと勝手に解釈した。

 襖を少し開けて、聞き耳を立てる。お座敷には布団が敷いてあった。その布団に横たわる六歳の少女を卑しい笑みを浮かべて中年の男性が値踏みしていた。

「旦那様、今夜も理里をお抱き下さい」

「そうか、そうか、可愛いな。お前は。お前、金が好きだっていていたなぁ。これをやろう、前金じゃ」

 少女の着物の帯に十万円の束を差し入れた。

 思い出した。この男性はスラム街にある小学校教育委員会の幹部だ。気前が良いのも納得だ。

「懐かしいですね。お金大好きの私の親友、理里ちゃんです。まぁ、お客を取られた売春婦に頼まれて三日後に毒薬を飲み物に混ぜて殺しましたけど。あんな事がなければ、親友でしたのに。でも、大半の子がエイズに掛かって死んでしまうので長くなかったかもしれません」

 私の言葉を理解できないのだろう。非難がましく、葉楼は私の肩を揺らす。

「なんで、そうするって。親に捨てられたから、身体を売って儲ける。汚いって思いますか? 醜く生きるなぁって思うでしょう」

 甘チョロい世界に生きていた葉楼は私のいた時代に衝撃を受けて固まっていたが、私にはそれ程のことではないと認識していた。喰うために何をすればいいか、生きるために何をすればいいかっていう思考は過去、未来も人間が生きている限り続くのだから。

 私は嬉しそうにお金を握り締めている理里に手を振った。だが、彼女は気が付いていない。

 次に私達が来たのはスラム街で尤も汚い地区だった。フェンスに周囲は囲まれていて、その中には生ゴミや死体が無造作に山積みにされていた。人間が増えすぎた世界の人間の価値は暴落していた事を今更になって再認識した。どうやら、私も甘チョロい世界に身体が慣れてしまったらしい。

 とりあえず、鼻を摘んで今にも吐きそうな顔をしている葉楼にここの説明をしよう。

「ゴミの山って呼ばれている人間を捨てに来る場所です。宇宙進出に失敗した人類は地球上だけで繁栄する事を余儀なくされました。ですから、増えすぎてしまった人間なんて他者にとってまさにこのゴミのようですね。あ、このマスクどうぞ」

 私はとても、親切なので秋さんの部屋から秋さんが私が来てすぐの頃、熱を出した際に愛用していたマスクを洗わずに盗んでおいた。いずれ、葉楼をおちょくってやろうとしていた悪戯心など少しもなく、誕生日を知らないがいずれ、葉楼の誕生日にプレゼントしてやろうという親切心があった。葉楼の生きる時代の男子はどうやら、好きな子のリコーダーを舐める、吹いてみる変態行為に興奮する子が多いらしい(私の個人的見解)。

「どうも……ミルクティーの香りがしますね」

 そう真剣に言う葉楼の言葉に私は吹き笑いそうになったが、耐えた。

 淀んだ雲の合間を稲妻の光がぴかっと移動している。それは虎視眈々と地上の誰に稲妻を落とそうか、思慮している不気味さがあった。昼とは思えない暗闇の中で一人の少女がゴミを漁っている。泥だらけの手を無心に動かしている。何故? 無心だと解るかってあの少女は七歳の頃の私だ。いつも、お腹を空かせていた私はああやって、ゴミの中から食べられそうなものを発見して口に含んでみる。それが食べられないと解ると慌てて吐き出した。よく生きていたものだ。

 自分を遠巻きに見る。哀れな子どもだったのだなと冷静な感慨が浮かんだ。

 サンダルは汚水にびしょ濡れに濡れている。それを構わないのは野生に近い子ども時代だからこそだろう。伸び放題の髪の毛はお世辞にも綺麗とはいえず、汚らしい。砂に汚れたワンピースを平気で着ていた。

 厳しい表情に明かりが灯った。少女の手にしたのはまだ、封の切られていないポテトチップだ。

「あの子、そんなの食べちゃ駄目だよ。ちょっと、注意してくるよ。腹を壊しちゃいますよ」

「レディの食事の邪魔をしてはいけません。ほほう、今日のあの子の食事は賞味期限不明のポテトチップですか」

「食べるんですか」

「あれ、食べたら腹を壊すね。醜い奴ですか」

 私にとってはあのポテトチップは幸運の神様だった。ポテトチップを全部平らげてサボっていた給仕の仕事に戻ろうと歩道を歩いていた時、急にお腹が痛くなり、その場に蹲っている私を見て、介抱してくれたのが秋さんだった。初めは包帯を全身に巻いた醜い人だと嫌っていたが、秋さんが回復した私に出してくれたのは温かいココアだった。その煙を見た瞬間、自分の魂が常に悲鳴を上げていたのに気が付いた。一口、一口飲む度に嬉しいのに涙が零れた。

 ああ、美味しかった。だからこそ、恩返しをしたい。あの時々、愛しい人を求める寂しい横顔を見るといつも、胸が締め付けられた。

 私はその記憶を胸に抱き、白い霧の中で、

「母さん……。秋母さん」

 と呟いた。

 葉楼はその呟きに何か、気が付いたようだった。その横顔は母と同じ優しさに満ちていた。ココアの温かさの原点がこの人にあると私は確信した。

「さて、今まであった子達は愛を感じたことがあるのでしょうか? それと似た子が君の近くにいなかった?」

「君の母さん、僕のお姫様、秋ちゃん」

 嬉しそうにはっきり、そう答えて葉楼は私などもう、目に入らないようだ。すぐに、扉を開けて玄関で靴を履く慌ただしい音が私の耳に届いている。

 私の心臓の鼓動はまだ、時を刻んでいる。私はすっーと呼吸してみた。まだ、息を吸える。

「やっと、行きましたか……。おや、消え始めている。なんでだろう、自分が消滅するのにこんなに心が穏やかだ」

 指先が透明に透き通っていく。指先の下にあるはずの床が確認できた。だが、恐怖はなかった。こうなる事も裁縫道具を開発してから、予測していた。何千夜の中で自分が消える悪夢を見て、慣れてきた。たった一つの願いを叶えるべく、慣れてきた。

「貴女、身体が透けて……」

 開いていた扉からあざみが入ってきて、私を心配してくれた。それが私には可笑しくて仕方がなかった。実の母に捨てられた女の人生がこうも、穏やかな最期を迎えようとしているなんて随分、神様は気前が良い。

「まだ、平気です。さぁ、裁縫道具を回収に行きましょう」

 そう淡々と言葉を口にして、私は神様に最初で、最期の御願いをする。

 どうか、私の我が儘を最期まで見届けて下さい。その上で世界の法則を打ち破った罪人である私を地獄に落として下さい。うんと、辛い地獄に。


             <四>


 思えばあの子が行きそうな場所なんて限られていた。だって、あの子は篭の中の鳥だったのだから。

 自分でそう思っては自分の心を傷つけていく。そうしなければいけない気がした。会う資格がない気がした。

 葉楼の吐く息は弾んでいた。自分が吐いた息ではないように感じられるくらい、距離が近い。だが、まだ学校までは距離が遠かった。紀久がもし、学校にいれば秋は留まっているかもしれない。よく、紀久は学校の図書館で御本を読んでいるよと自分には必要のない情報を無駄に、嬉々として話す秋は化け物じゃない。醜くない。美しい、真っ白な子なんだ。例えるならば、まだ白紙の状態なんだ。これから描かれていく秋の世界が。

 葉楼は迷うことなく、小学校へと無断で立ち入った。休日の学校の階段はひっそりとしている。図書館だけは生徒に開放されているはずだが、あまりに人の気配がしない。最近では本を読む子は少なくなったと聞く。その影響が田舎であるこの街にも出ているのだろうか。

 だが、その推測は外れていた。扉の向こうでは一心不乱に子ども達が本を読み漁っている。ページを捲る音が外まで響いてきた。葉楼は邪魔しないように扉をゆっくりと開いた。

 紀久を探そうとしたが、探すまでもなく、向こうからこちらへと走ってきた。

「秋、来てますか?」

「来ていないです」

 短く、示し合わせたように囁き声だ。ありがとうと手を上げて葉楼はその場を後にした。階段を下ろうとした時だった。紀久の声が聞こえた。

「待って下さい。これを秋ちゃんに渡して下さい。あ、これ、私の本なんです。秋ちゃんが本を前は毎日、沢山読んでいたと言うので本のタイトルしりとりをしたら、秋ちゃんの知らないタイトルの本が出てきて、それがこの本なんです。秋ちゃん、読みたいなって言っていたから」

「君も渋い本を読むんですね」

 葉楼はタイトルを覗き込んでそう感心した。ジャン・コクトー『恐るべき子どもたち』。これを子どもが読むのか……。大人でもきつい結末なのに。

「解った、渡しておこう」

「あ、それと秋ちゃんにその本の感想を教えてねって」

「うん、ありがとうって秋に代わって言っておきますよ」

「秋ちゃんとは友達だから、そんなのなくても心と心で分かり合ってます」

 冗談半分ではない爽やかな笑顔が葉楼にとっては羨ましかった。純粋に人を信じていた時代が自分にも確かにあったのだと微笑ましくもあった。二度と帰れない時間だ。

 次に行く場所の当てもなく、走っていると重要な事に気が付いた。秋は今、カツラを装着していないんだ。普通の女の子ならば、髪がないのは恥ずかしいはずだ。とすると、人気のない場所……。秋が前に住んでいた屋敷の辺りに潜んでいるのだろうか、可哀相に一人、寂しく。そう思えば、思うほど、自分を殴ってやりたくなった。なんて、人の気持ちを解ってやれない男なのだろう、こいつは。

 自然と足に力が籠もる。平坦な道は案外、自分の息をぼんやりと聞いているだけで足はすんなり動く。だが、人間の体力には限界があり、特に日頃をから運動をしない葉楼は坂道に入って少しした場所でもう、膝に手を突いていた。唾を吐き、足を止めた。見上げてみるとまだ、坂道は続いていた。唾をもう一度吐いてから歩き始めた。

 屋敷のあったはずの場所へと着いたのはそれから三十分経ってからだった。

 以前、来た時とは違い、そこは既に人の手の入っていない土地になっていた。以前、屋敷があった場所には雑草がもう、生え始めていた。

 草がざわざわと示し合わせたように騒ぎ立てて、頬を涼しげな風が撫でる。風が来た方向を目で追う。秋と出逢った森が目に入った。

 一歩、一歩、懐かしさから歩を進めていく。何をしているんだろうと自分でも不思議に思った。もう、大分、奥の方まで歩いていた。秋を探さねばならないのに自分は……と溜息を吐いた。

 その溜息の情けない濁音に混じって、甲高い泣き声が微かに聞こえる気がした。注意深く、聞いてみる。やはり、泣き声だ、それも少女の声。何処かで聞いた事がある。

「秋だ」

 思わず、呟いた。まるで長年探し求めていた思い人と再会したような素直な笑みが両頬を丸く誇張させる。平静に装おうとしても無駄だった。形状記憶合金のようにすぐにそんな情けない表情に戻る。

 足は軽やかだ。気持ちは秋の声がはっきりと徐々に聞こえてくる度に穏やかに……むしろ、沈んだ状態に変化していく。

 秋はやはり、そこにいた。自然にできた洞窟の壁に背をもたれて座っていた。その両手には恐らく、李が落とした予備の裁縫道具の手提げ部分をぎゅっと、握り締めていた。まだ、秋は葉楼に気が付いていないらしく、下を向いて時折、咳き込んだ。それ以外の動作といえば、ただ泣いているだけだった。その泣き声は幼女が母親や父親に助けを求めるような壮絶さが色濃くあった。

「それを捨てるんだ、秋。もう、そんなのいらないよ」

 その言葉を聞いてびっくりした秋は目を開いて葉楼を確認した。確認した後にいつも、みたく駆け寄ろうとしたが足を急に止めた。

「だって、これがないと葉ちゃんに取られたカツラの代わりを探せない。肌も新鮮にできない。葉ちゃんに、家族に嫌われる!」

 滑らかにとはいかないがその発せられた言葉に対して自分でも解らないくらいに必死に頷いた。秋のように不幸な体験をした訳では決してない。それが今更になって悔しかった。秋と同じ場所、同じ時を過ごして来られたら……きっと秋を不幸の中にありながらも、その中での最大級の幸福へと誘う努力ができたはずだ。

 睫毛がきらきらと輝いている。悲痛が生んだ輝きさえも美しい。そう思えるのはこの子を幸福にしたいからだ。逃げようとする秋の身体を強引に捕まえて強く抱いた。

「そんな事ない。あたしも、葉楼も、親も、秋ちゃんの外見を見ていたじゃない。秋ちゃんの性格……心を見ていた。その穢れない心が私達は大好きだよ」

 秋の唇のおかげで口が塞がれている葉楼の代わりにいつの間にか、背後から現れたあざみが代弁した。もう一つのうん、と小さく頷いたのは李だ。李は秋が落とした裁縫道具を回収する。目の錯覚だろうか? 李の身体が透き通っているように見える。太陽の悪戯だろうとしか考えなかった。

「僕は本当の秋に否定されるのが怖かった。真実を知ってから怖かった。僕は君じゃない。君も僕じゃない。だから、僕から先に君を肯定する。罪を償おう、一緒に手伝うから。帰っておいで僕のお姫様。愛している」

「葉ちゃん。けど、秋ちゃんは書物でしか、愛を知らない」

 知っているだろうと答える代わりにもう一度、唇を優しく塞ぐ。今度は舌を口内に侵入させた。すぐに暖かい感触とぶつかった。舌を舐め合った。

 唇を一端、離す。

 秋の唇がすぐに吸い付いてきた。何処で覚えたのかは知らないが、葉楼の歯茎をこそばゆく舌先で触れていく。柔らかなタッチだ。

 お返しに同じように秋の歯茎を舌先で触れる。それはもっと、深く、もっと、壁のない他者と触れる為の儀式のようだった。

 もう、目の前には秋の潤んだ瞳しかなかった。中腰になって、身長が自分よりも低い秋に目線を合わせた。互いに微笑み合った。

「あのお姉ちゃんがいるんだけどなぁ。ちぇ、これだから独身は寂しいんだ」

 外野の声は気にしないで、秋との対話を楽しむ。言葉ではない、魂の対話を。

 少し膨らしたお腹を撫で回す。そうすると、くつぐったいのか、声を出して笑った。もう、その明るい顔には涙は似合わない。未だに溢れる涙をわざと音を立てて吸い取る。

「これから時間がある。沢山、沢山。償う時間の合間にちょっとだけ、愛に溢れた日々があっても僕は良いと思う。それくらい、良いじゃないか」

「いっぱい、愛も知って。いっぱい、御免なさいする」

 そうお互いに自分達の意志を確認し合う。これからはずっと、共にありたいと願うから。きっと、そこに本当の美しさがあるから。

 唇と唇をくっつけて、互いに目を瞑って風の音を聴く。

 風という名詞で現している僕達はなんて、幼いんだろう。風も、人間と同じなんだ。ほら、他の風に微笑みかけている。その微笑みに対して何がそんなに嬉しいの? って返事を返している。君と一緒に過ごせて嬉しいんだよって返した。なんて、羨ましい会話だろう。僕はそう、想像したんだけど、僕の小さなお姫様はどう想像したのかな? きっと、僕とは違うだろう。だけど、可愛らしい甘えんぼ気質の少女はきっと、優しい命と命の交流を小さなキャンバスに描いているのだろう。

 そうだよ、秋。命はそこにただ、在るだけで美しい。それを汚すのは他者の命を侵害した一瞬だけにあるんだ。

 少なくとも、今自分は風に教えてもらった。

 と思っているだけだけどね。


            <五>

 

 終わったね。私の人生。あ、まだか、まだ時間がある。せめて、自分がしでかした改編の行方でも眺めて行こう。そう、素直に私は思った。

 肩の荷が降りた。それはこういう時に使うのだろう。

 私は誰にも別れを告げずに、葉楼が秋に口づけし始めたのを凝視するあざみという光景にチャンスを見出し、そっとその場を離れた。

 何の後腐れもなくゆっくりと地面を踏みしめていた。だが、後から悲しみがやってきた。きっと、母と対話をする事はないだろう。寂しかった。悔しかった。

 せめて、残りの時間、影から母の幸福を見守る事にした。

 駆け足で木々の合間を縫うように走りながら、裁ち切り鋏で空間を裂いた。そのまま、できた穴の中へ駆け抜けた。

 育ててくれてありがとう、私の母さん。幸福を、あなたが一番、望んでいた幸福をプレゼントできたでしょうか? 結局、私は母さんではないので、母さんの幸福が解りません。





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