第三章 罪悪感と、選んだ道
第三章 罪悪感と、選んだ道
<一>
あの空の青さを僕は憎んでいる。
そう、口に出したくて葉楼は口を開けようとした。だが、唇が喋るのを拒絶している。
僕は彼女に偽りの愛情を持たせたまま、天国へと旅立たせてしまった。
そう、口に出すべきだった。だが、彼女との最後の挨拶の時、葉楼は嘘を吐いた。愛していた、と嘘を吐いた。
「あんなに白い煙が青を脅かしていたのに今じゃあ、青過ぎる」
空には青だけが広がっていた。手を伸ばしてみた。だが、その青さには届かなかった。ただ、葉楼よりも空に近い位置を鴉の群れがカァ、カァと五月蝿い声を上げていた。そして、電線へと彼らは足を着けた。その黒い姿がどす黒い感情を呼び起こさせた。何であんな鴉が生きていて、厘が死んでいるんだ。お前が死ねば良かったんだ葉楼と自分に無言で言い聞かせた。
徐に火葬場の階段から立ち上がると葉楼は黒いネクタイを外し、水溜まりに叩きつけた。それだけでは飽きたらず、所在なさげに浮いている黒いネクタイを踏んづけた。茶色い泥が黒いズボンの膝部分にまで飛び火した。それでも、また踏んづけた。黒靴に茶色い泥が点々と付着した。
その点を見つめていると、
「ほら、花火。葉ちゃん。絶対、この方がウケ良いよ。葉ちゃんは全体的に堅いな」
その点々とした泥は一ヶ月前に葉楼の夏を題材にした作品を同じ美術部員……だった厘が変な気を利かせて歯ブラシと金属網を使用して花火を咲かせた。見事な花火と暗闇で掌に乗った蛍の淡い輝きとが明と暗、天と地を別つ作品になっていた。
あのブラシを持って得意げにはにかんだ笑顔は忘れられない。学校に本当の友達が一人もいなかった厘のそんな笑顔を誰が知っている! あの窮屈な箱に乗っている人間の何割が厘の優しさを知っている。
葉楼はそんな感慨をぶつけるように広い駐車場に駐車されている車を見回した。駐車場は車が五十台くらい駐車できる程には広いというのに車は火葬場正面の一箇所に固まっているだけのみだった。十台だ。
厘にもっと、もっと、世界の広さを教えてあげたかった。そうすれば、君を知る人間も増えたというのに。
「ねぇ、葉楼。魂には重さがあるって思う?」
突然、後ろから声が掛かった。その声が姉のあざみだと解っていたからそのまま、葉楼は俯いて泥だらけの黒靴をただ、眺めていた。
「僕は魂なんて信じない輩なんですよ。ただ、生きていた記憶さえも消えて何もかも消えて! やがて、いなかったも同然になる」
「何、悩んでいるの? 今は厘ちゃんを送ってあげたんだっていう気持ちになりなさい」
「送る? それこそ、変じゃないか。式が終わってみんな、厘を忘れてしまったように日常に戻るんだ。ある人間はこれから仕事に必要な資料を作るだろう。違う人間は趣味のゲートボールでもするんだろう。送るってその場でただ、神妙にしていることですか。畜生、意味ないよ」
こんな乱暴な口の利き方をしたというのにあざみは黙ったまま、何も言わなかった。ただ、啜り泣く声が聞こえる。そして、葉楼の両肩に手を置いて、おでこを背にくっつけた。
「愛していたんだね、厘ちゃんを」
「僕が厘を愛していた。あ……」
あざみが葉楼の頬を拭った。その掌の湿りを葉楼に見せる。
だけども、僕は知っている。愛は愛でも僕の愛は同情だった。窓辺で一人俯きながらスケッチブックにせっせとデッサンしている厘に気が付いて、人数がこんな大勢なんだから人物画を練習しては如何ですか? さしあたり、僕なんかはどうでしょうと声を掛けたのが最初の同情だった。その同情が積み重なり、告白されて、僕は何となく良いですよと返事した。何時からか、本当の愛ではなく、同情が愛にすり替わっていた。
その事実をどうしても厘にも、家族にも言えなかった。今でも葉楼は自分の保身を第一に何処か考えて、あざみに言えなかった。それが悔しい……。
「その人が死んでも魂はその身体から抜け出してずっと、大切な人の人生を見守っているって思った方が得よ。そして、きっとね、魂は大切な人の人生に触れて成長していく。まだ、厘と一緒にあんたは生きる! シャキッとしな」
だとしたら、厘はようやく、同情に気が付いたのだろうか。それでも厘はいつか、本当の愛に成長すると心底から言ってくれる気がした。
やはり、葉楼も他の人間と同じようにこれからの日常へと一歩き出した。家では一昨日から熱を出して寝込んでいる秋が一人で留守番している。その事が心配になり、いつの間にか駆け足から本格的に走っていた。
<二>
「ねぇ、いい加減にドアを開けてくれないですか?」
そんな葉楼の問いかけの声で秋は目覚めた。目を覚ますと辺りは真っ暗闇でびっくりしたが、掛け布団を被って寝ていたのだから当たり前だった。妙な事に小便臭い温かな空気が充満している。
「嫌だもん。葉ちゃんなんてあっち、行け!」
湿っている両股を擦り合わせた。焦りを感じた。乾布摩擦をした時みたく、摺り合わせた部分が温かくなったが、依然として湿り気はある。
「じゃあ、少しお話しようか」
扉に何かがぶつかる音がした。きっと、葉楼が扉を背もたれとして利用しているのだろう。幾ばくかは時間が稼げそうだ。
掛け布団から頭を出して、ほっと溜息を吐いた。部屋は布団の中とは違い、燦々と輝く太陽の力によって蛍光灯以上の明るさの恩恵を受けていた。
「それ、なら良い。でも、少しだけだよ」
「鮭御握り、美味しかった?」
「あれ、形が変だったよ」
緊張感が一気に吹き飛んだ。自然と頬の筋肉が解れていく。御握りの凸凹した形が目に浮かんだ。
「御免。僕、あまり器用な方ではないみたいです。この前なんて、シマウマを描いていたつもりだったんですが、通りがかった案総先生にそれ、変わったキリンねって言われました」
カーペットに転がっているお皿に置いてあるメモを秋はゆっくりと時間を掛けて掬い上げた。メモの内容確認はもう、十本の指では数え切れない回数くらいしていた。それでも、頬を赤く染めて魅入ってしまう……。そこには両親が教えてくれなかった愛情があったのだから。
秋ちゃん、早く元気になって一緒にお外で遊ぼう。その言葉の下には大きな狐が小さい狐と一緒に野原を駆けずり回るイラストが添えられていた。それは秋の望む関係―恋人というよりも、きっと葉楼が望む関係―兄妹のようだ。
秋はそれでもそばに居られるのなら秋はそれで良いんだもん……どうして気が付かなかったと掠れた声で呟いた後、
「じゃあ、前、スケッチブックに画いた秋ちゃんもヘンテコになるの?」
と努めて元気に葉楼に質問した。
「いいえ。何故か、可愛らしく画けているんですよ。きっと、モデルが良いんでしょう」
「ところでそんな可愛いモデルさんがお風呂に入らなくてもいいのかな? 一緒に入りませんか、お姫様」
「嫌」
涙を流して、髪が乱れている自分を秋は茫然と鏡で眺めていた。
「何で?」
「秋、臭いもん」
違う。そうじゃない。今の自分は何よりも醜いんだ。本当に美しいのは自分が殺した厘だって事は解っていた。
唇にそっと、小指で触れた。この唇で罪のない人間を罵倒した。小さな唇から放たれた甘い言葉に吐き気を催した。何て、芝居上手の醜い悪魔なのだろう……。
掌で鏡に触れると、それは意志の持たない物特有の冷たさを保っていた。掌をそっと離すと薄い手形が鏡にくっきりと残った。まだ、自分は人間なのに、厘はもう、人間ではない。いや、自分も人間ではない。子どもの姿をした悪魔だ。
しばらくして、葉楼が無垢な、善人な子どもに諭す。
「この世界に在るもの、全てには臭いがあるんですよ。臭いがあって当然なんですよ。秋ちゃんくらいの年齢なら嫌な臭いしませんよ」
「じゃあ、嗅いでみる?」
葉楼の為だけに、やっと手に入れた愛情の為だけに、秋は芝居した。自分でも上出来だった。小さい頃からやっていた妄想をお友達にして一人会話をする技術がここで役に立つとは思わなかった。勿論、妄想のお友達―同い年の南部御酒加ちゃんは喋れないから秋が通訳してやるのだ。
「嗅ぎません。変態さんではないですから」
「秋、自分で自分の臭いを嗅ぐ時、あるよ?」
声が震えそうになるのを喋るという動作に真剣を集中させて乗り切った。
「それは変態とは言えません。それにその小動物的な仕草、可愛らしいですね。本当のところ、何処の臭いを嗅いだんですか?」
「お布団。なんか湿っているんだもん。きっと、誰かがジュースを零したんだ」
「パンツとズボン、濡れてない?」
「濡れてる。きっと、誰かが秋をプールに招待したんだ。そんな記憶ないけど」
「じゃあ、お風呂に招待しましょうか、お姫様」
秋はその陽気な葉楼の言葉に三分、待ってと応えてから慌てて身支度を調えた。乱れた髪をブラシで梳かした。タオルで充血した瞼を擦った。それから、顔中を拭いた。脇の匂いを嗅いでみるとやはり、臭かった。自分の汗の臭いで咳き込んだ。
目に入った消臭スプレーを掴んで必死にその臭いを撲滅し、ついでにズボンとパンツの臭いも撲滅する。小便の臭い子とは思われたくなかった。せめて、柑橘系小便の香りのする子と思われたい。
そんな乙女心全開の秋を戒めたのは葉楼の黒いスーツとお線香の匂いだった。泣きそうになった。だが、泣く行為は心配させる結果に繋がると秋は荻須家の一員として暮らす事で学んでいた。葉楼の大きな手をぎゅっと握り締めた。
風呂上がりにはジュースだと思い、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫にはいつも、秋用にアップルジュースが用意されていた。普段、葉楼や葉パパ、葉ママはお茶を飲むし、体育教師なのにペットボトルをガブ飲みせずにあざみはお紅茶をご愛飲している。
秋はじっと、アップルジュースのパックに描かれている林檎ちゃんを眺めた。そして、勢いよく封を開けて、唇をパックの右端にくっつけようとした。だが、それは実行には移されなかった。
「秋ちゃん、お行儀良くしないとお尻ペンペンよ」
後ろを振り返ると、フライパンを手に持った葉ママこと、思湖が立っていた。そのフライパンでお尻を叩かれるのだろうかと想像するとお尻の穴がぎゅっと引き締まった。
「今まではそんなことされてないもん」
一回も母親にお行儀の事で注意されなかった。
「この家では紙パックに入った一リットルのジュースはコップで入れて飲むのよ。それに何ですか、その恰好は?」
無地のパンツを思湖が指さしたので、秋は元気よく、パンツと応えた。湯気が立っている秋の両肩にバスタオルが引っ掛かった。それを引っ掛けてくれた葉楼が秋の髪をアイロンで乾かそうとコンセントにプラグを差し込んでいた。
床には光る水溜まりが何カ所も点々とできていた。それを苦笑した顔をしながら、葉パパこと梅之助がタオルでごしごしと床を拭いていた。秋はそれを見ると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。すぐに駆け寄り、梅之助の着物をぎゅっと引っ張った。梅之助がシワシワの顔を上げると、秋は人の老いを感じた。それは厘の死に触れたからだろう。本当は梅之助のように肌に皺が出来たり、頭の毛が白くなったりする外的衰えを通過した先に死があるんだ。
「ごめんなさい」
ぺこりと腰を曲げた。
「良いんだよ、マイ チャイルド。子どもは元気なもんさ」
そう戯けた声は深みのある低い声だ。その深みは年から来ているのだろうと考えながら、葉楼を眺めた。葉楼は秋の髪を一房、捕まえるとアイロンの熱風に晒した。
「ねぇ、葉ちゃん」
「動いちゃだめ」
「葉ちゃんは葉パパみたく、年をとったら、渋い声になるの」
「そうだね……な、」
「なるわけ無いでしょう。そんなの想像できない、あのほ乳瓶しゃぶっていた葉ちゃまがダンディーになる、笑わせるなよ」
葉楼の言葉を遮ってあざみがそう罵った。だが、その罵りさえも優しい愛に包まれていた。良いな、と秋は思った。きっと、頭の上から降り注ぐアイロンの熱風がそうしてくれているのかもしれない。
あざみが下着だけ着用して、ソファの上で腕立て伏せをしているのを見て秋はこれを利用して会話を続けようと考えた。さっそく、今にもソファの皮にへばり付きそうな胸に指を差し示した。
「あ、あざみちゃん。ずるい。あれ、お行儀悪いよ」
「良いのよ、あれは失敗作だからね」
思湖はフライパンの端で玉子を割って、その玉子をフライパンに投下した。豪雨がアスファルトを叩くような忙しない音が聞こえた。
「ちょっと、失敗作って」
荻須家の人達はまるで日課のように秋の髪を撫でたがる。でも、撫でられるのは好きだった。秋はあざみが自分の側を通過する際に撫でてくれると予想していた。事実、撫でてくれた。
そして、冷蔵庫を開けて一リットルの牛乳を取りだした。それを迷い無く、封を開けてそのまま、口に含んだ。
「私が貴女くらいの年の頃は立派なレディーだったものよ。女子校の教鞭を執っていた頃にね、ラブレターを女子生徒からよく頂いたものよ」
そう語っている思湖が一リットルの牛乳をあざみの手から奪い取るとパックにデカデカとあざみと油性ペンで書いた。あんた、ちゃんと飲みなさいよと言ってからあざみに返した。あざみは無理矢理、鼻に皺を作って秋に見せた。秋も飲んでねと言ってあげた。
「ラブレター。それ、あげると、葉ちゃん嬉しい?」
「まぁ、嬉しいですね」
アイロンのスイッチを切って、秋の髪の両端を黒いゴムで結わえた。わんこの垂れ耳みたいだ。
秋は子犬のようにわん! と一鳴きした。
「秋ちゃん、書いてくる!」
だが、もう階段を駆け上がっていたので葉楼に向けた言葉とは誰も思わないだろう。
「秋ちゃん、ちゃんと新しい寝間着を着るんだよ。後、明日出掛けるからね。熱下がったのを良いことに夜更かしなんて駄目。後で葉楼にお夕飯を持っていかせるからね」
「お出掛け、うわーい!」
思湖が教えてくれたお出掛けイベントに胸が躍った。秋は明日はどんなお洋服を着ていこうか? どんな髪型にしようか? と考えながら扉を開けた。自分の部屋には当然ながら人はいなかった。しんと静まり返っていた。胸がドキドキした。先程、自分が考えていた年をとったらという話題が急に心臓を震わせた。頭にそっと手を添えると血管に流れる血の流れが感じられた。
「アリア……厘、死ぬってどんな気持ちですか?」
<三>
バスの窓から見える景色は憂鬱な心を癒してはくれない。
自転車にふらふらと危なっかしく乗るおっさん、四足歩行で空き地を仲間の幼女と一緒に歩き回る幼女、魚の匂いのする店内で魚を洗う青年、携帯電話を弄りながら学校へと急ぐ高校生達……全ては葉楼にとって景色でしかない。
その景色に映る全てが自分を形成するにあたって必要でない。例え、必要であったのだとしても代用が利くものだ。葉楼は溜息を吐いた。それが期せずして、その景色と葉楼を遮断する白い膜を窓に作った。その白い膜を破る少女がいた。その少女は勿論、荻須家のアイドル秋ちゃんだ。今日の秋ちゃんもラブリー天使ちゃんだ。髪の毛は昨日、きまぐれでやったツインテールが気に入ったらしく、それだ。厘の母親がぜひ、秋ちゃんに着て欲しいとくれた洋服からブラウスと青いスカートを選択した。厘の母親から貰ったとは教えていないので秋は新しいお洋服と喜んでいた。なんでも、女の子は新品の方が嬉しいらしい、これは姉情報。さらに幼稚園児用の帽子を昨日、買ってきたのでそれを秋に被らせた。あざみはあんたねぇ……と絶句していたがよく、似合っている。
そんな可愛い恰好をした秋ちゃんはまだ、自分が何をしに行くのか、知らされていない。
秋にはきっと、嘘情報が教えられているのだろう。口が裂けても、ほら、あれが本当の母親だよなんて言えない……。母から昨日の深夜、教えて貰った葉楼ですら、衝撃を受けているというのに。それを教えるなんて残酷だ。
秋は息を吐いて、窓を白くぼやけさせる。その白いキャンバスに漢字を書いた。
「これ、なんて読む?」
「鮭。熊さんが大好きだよね」
「はい、熊さん」
と言いながら、秋は窓に熊さんを画いた。熊さんは美味しそうに鮭御握りを食べている。どうやら、鮭を画くのは難しいと判断したようだ。
秋と葉楼は二人で楽しく窓にお絵かきしながら、六十分の間もバスに揺られて山道を登った。途中、急なカーブが多い峠に入ったが秋はお絵かきに夢中で全然、怖がらなかった。その二人の姿を隣の席で観察しつつ、思湖は一杯のコーヒーをゆっくり時間を掛けて飲んでいた。
次は火之画丘と運転手がだらけた声でアナウンスすると、思湖は停車ボタンを押した。そのボタンを押した思湖を訝しげに周囲の乗客は一瞥をくれた。なんでだろう? と後で思湖に聞いた話だが、火之画丘には寂れた村と刑務所しかないらしい。その刑務所は主に極悪な犯罪を犯した囚人が収容されているそうだ。
それを知らなかった今の葉楼はただ、おかしな事があるものだと思うだけだった。トイレ、トイレと叫びだした秋の両脇を抱えてトイレを探していると後ろから綺麗な女性の方が声を掛けてきた。
「トイレなら、この先の坂を下るとスーパー すみみが在りますからそこにトイレもあります。がんば」
優しい人らしく、メイド服を着た女性は秋と無理矢理握手して勇気づけてくれた。その女性が言ったとおり、スーパー すみみという駄菓子屋があった。まるで民家だ。スーパーの意味が解らなかった。それでも、民家のトイレを借りられた。秋が用を足している間、店主の八十歳のお婆さんとどうしてだか、戦争の話をした。昔はね、物は貴重だったんだよという話だった。だからってぼっとん便所を未だに使うのはどうかと。秋がウンチが流れないと騒いでいた。葉楼は店主から黄色いバケツを借りて、秋のウンチを流すのに汗を流した。
秋と一緒にバス停まで戻ってくると向日葵の咲く野原で思湖と先程のメイドが立ち話をしていた。
「あんた、変わらないわね。一体、何歳よ?」
「わたくしは人一倍、美肌に気を遣っているんですよ。毎日、十時間睡眠ですよ」
「それでも無理だと思うけど……」
「それよりそちらの美男子とちびは誰?」
メイドの作り物のような整った両眼がこちらへと向けられた。睫毛がもの凄く細やかで長い。気のせいか、秋の金髪に厳しい目を向けている。
「ああ、私の息子の葉楼と千冬の娘の秋」
葉楼はメイドに向かってお辞儀をした。それでも、メイドは横目で秋を見ていた。厳しい目に見えていたのが、哀しい目に見えてきた。何をそんなに悲しんでいるのだろうか。
「これはご丁寧にお辞儀を。礼儀正しい息子さんですね。秋なる女児は随分と千冬に似て」
「その事なんですけども、あちらで」
思湖はメイドの服の袖を掴み、指先で野原の奥の方を指さす。そこには一本の大木が生えていた。そして、財布から二千円を取り出すと葉楼に手渡した。
「葉楼、これで秋ちゃんと一緒にお食事して来なさい」
「やった! ケーキ食べて良い?」
「いっぱいは駄目よ」
「大丈夫ですよ。僕が監視してますから」
「いじわる」
そう言う口とは裏腹に秋は葉楼の腕をがっちりと掴んでいた。さて、とこの寂れた風景の場所の何処にケーキが食べられる店があるのだろう。
周囲を見回しても、坂の下に広がっているのは数軒の民家と田んぼ、森林くらいなものだった。どう見えてもケーキを売っている感じはしない。とりあえず、歩いてみることにした。何か、発見があるかもしれない。歩いているうちに二人で何の示しもなく、それぞれ違う歌を歌い出した。葉楼は明るい歌を、秋は自分の学校の校歌を。
その違いがどうしようもなく、楽しかった。蝉が二人の歌に同調するように生の歌を、神秘の歌を歌っていた。それはなんて、熱々しい夏の一幕だろう。
そんなコンサートが終わりに近づいたのは一軒の民家が視界に入ってからだ。その民家の屋根に定食屋 細波という看板が掛かっていた。
秋があっと低く声を上げて急に走りだした。どうも、秋の全身を揺さぶるような走り方は危なっかしく思える。
案の定、とてっと転けた。急いで秋に近寄って助け起こす。秋の膝から血がそっと、下へと流れていく。転んだ際に付着した石粒を器用に取り除く。葉楼がそうしていると肩を叩かれた。勿論、秋しかいない。
「どうしたんですか? ん? 秋ちゃん」
「葉ちゃんが悪いんだよ。秋が転んだのは」
「え?」
「だって」裏返った声でそう言って、しゃがんでハンカチを秋の膝に巻いている葉楼の肩にしがみついた。「葉ちゃん。あのお店、探すのに十五分くらい掛かったんだよ」
関係ないし、そもそも秋は時計をしてないし、この辺に時計台なんてない。よってそれは何処からやってきた経過時間なのだろうか、なんて考えていると暑苦しい気候がさらに暑苦しさを増してきた。苛々する。それでも、か細い足を眺めているとこんなにも頼りない子に怒る必要はないと割り切れた。大人の余裕ってやつだろう。
「そんな事言うと葉ちゃんは秋ちゃん、嫌いになりますよ?」
表情が硬くなって、肩に秋の爪が食い込む。思わず、痛いと言いそうになった。
「嫌いになんてなったら、秋ちゃん泣いちゃうもん。泣いちゃうよ」
既に号泣しているのにそうぶっきらぼうに言う秋は可愛い。髪を撫でようとした。だが、その手は払われた。
「いつもそうやって子ども扱いするよね」
「子どもだろう?」
「そうだけど、葉ちゃんにはそう思われたくない」
「はい? 訳が分かりませんよ、秋」
「だってさ、秋は小学生で、葉ちゃんは高校生でしょ。葉ちゃんはきっと、卒業したら大学に進学するよね?」
「多分、しますね。今は不況真っ直中ですし、スキルを身に付けておいた方が良いでしょう。教員免許なんていいかもしれませんね」
「あざみお姉ちゃんに怒られるよ。簡単になれるって言ってるようなものだもの」
軽く咳払いをして秋に話を戻すように促す。
「あ、誤魔化した。まぁ、良いよ。でね、そしたら葉ちゃんと別れ別れになっちゃうよ。翼町には大学なんてないから」
「そうなったら寂しいですか。一緒に来ますか、そうなったら」
「え、良いの!」
所在なさげにきょろきょろと辺りを見ていた瞳が葉楼の顔を凝視する。まるで嘘は吐いていないだろうかと確認しているようだ。事実、むっ~って小さな唸り声を上げている。
それが可笑しくて笑ってしまった。
「あ、秋ちゃん百パーセント本気だからね」
そう秋が自分の真剣さをアピールしている。でも、笑いは止まらない。無理矢理、口を噤もうとして、軽く咳き込んだ。
すぐにしゃがみ込んでいる葉楼の背中を小さな掌がゆっくりとさすってくれた。
今度は葉楼の情けない姿に秋はゲラゲラと笑い返した。
「葉ちゃん情けない、情けないよ」
大人げない葉楼はすたすたと秋を置いて、店へと入ろうとした。入り口の扉に手を掛けた。まだ、腹を抱えて道路の真ん中で笑い、転げている秋に視線を戻す。
「そんな事言うと置いていくぞ、秋。一緒に行くんだろう」
「うん」と元気よく、返事をしてまた、身体に似合わない全身を震わせるような走り方でこちらへと駆けてきた。手を繋ごうという意図で差し伸べたのだが、秋には通じなかったようだ。「こうした方が葉ちゃんと近くなれる」
差し出された掌を枕にした。秋の横顔が真剣に葉楼の心を読み取ろうとする。この子にはいつも、こんなところがある。何処か、不安なのだろう。あんな父親や、母親だとしても彼女にとっては彼女を構成する一部だったんだ。
それを補う為に彼女が自分に甘えているのだとしても、幼い信頼に応えない選択肢は自分にはなかった。だって、その愛情の行為は昔、自分が姉、あざみにやっていたのと似ているから。人はどこか、自分以外の誰かに自分の一部を任せたいって思っている。それは経験から言える。あざみと自分の関係から言えるんだ。
だから、こう応える。
「ずっと、近くにいて良いよ、僕は君のお兄さんなんだからね」
「葉ちゃんは女の子心を解っていないよね」
急に秋は話題を変えた。どんな繋がりがあるのだろう?
一瞬、記憶の中に閉じこめたはずの人物が頭に過ぎった。生きていく為にはその人の顔をもう、思い出してはいけないのに。つらすぎるから。きっと、泣いてしまうから。だが、口は自分でないパーツであるかのように好き勝手に動く。
「そうだね、僕はきっと、女の子心なんて解らないよ、秋。だって好きでもない女の子を彼女にしちゃうくらいですからね。我ながら酷い」
「元気出せよ」
そう言って秋は扉を開けると葉楼の背中を押して、店へと入った。その慌ただしい物音に気が付いた人の良さそうな店主が景気よく叫ぶ。
「いらっしゃいませ。兄妹ですか、可愛いですね、妹さん」
「可愛いでしょう、自慢なんですよ」
「いいえ、妹じゃありません。恋人だもん」
「はぁ?」
「恋人だもん」
そう言って秋はテーブルに着いた。運ばれてきた冷水をぐいぐいと飲み干す。その姿は中年の親父のようだ。眼を擦ると、また可愛らしい秋の姿をちゃんとしている。
「全く、僕には女の子心は解らないようですね。せめて秋ちゃん心は解りたいものですね」
「葉ちゃん、それだったら秋ちゃん心を解ればいいんです。女の子心は解らなくてオーケー。ほら、ここに座る。今からお勉強します」
「何の?」
と言いながら葉楼は秋の隣に腰掛けた。
「決まってます。秋ちゃん心のお勉強」
「とほほ」
「頑張りなよ、小さな恋人さんの為にもさ」
威勢良く、店主の笑い声が部屋中を満たした。
せっかくだ、この威勢に相乗りして、秋ちゃん心を学ぼう。さぁ、頭の容量は開けたぞ、ばっちこい!
<四>
人の数だけ、価値観は存在している。人の生き方の例は無限であり、だからこそ、感じ方も無限にある。だが、それらは全て、一つの時間軸に乗っかっている。決して、自分の意志を持って時間軸からぴょんと飛び跳ねることはない。三年前の李もそう、考えていた。この時代よりも後、百年先に生まれた彼女でも時間の流れを飛び越えるのは容易ではなかった。だが、それを為しえた。そして、限りある時間しか見られないからこそ、人には希望も、絶望も与えられるんだと知るに当たる。だからだろう、数日前に在った二十五歳の思湖よりも大分老けた思湖に現実性を感じられなかった。話している内容もまるでゲームの作り話のようだ。自分にすら、生の実感がない。
千冬が火事で死んだ。千冬の娘は助かった。その事実だけが李の脳に記憶される。
「そうですか。そんな結末に至っていたわけですか。ご存じの通り、わたくしは霜澤家が茉河恋の捜査で壊滅に追いやられて以来、身を隠していましたから」
淡々とした冷たい口調で喋る自分を嫌な女だと思った李だったがそれ以外にもう、会話の仕方を忘れてしまった。後は道化のように戯けるくらいしかできない。
「私が高校生の頃の話ですよね。不吹が姿を眩ましたのもその頃でしたね。まさか、十年掛かって茉河恋に復讐を果たすなんて」
李は溜息を吐いて、ガムを口に含んだ。ガムを噛む度に苺の甘い果汁とガムの生地に細かく磨り潰された精神安定剤が口内に染み渡る。この苺ですっきっとという名のガムは百年先の未来のコンビニなんかで普通に普及しているガムだ。社会はさらに混沌と入り組んだシステムを構築しており、そこからはみ出した人間は淘汰される。その社会に生きていく為にはそういう商品が日々の食事と一緒に摂取される。
今は自由なのだから、止められるはずなのに今も歯茎にガムがへばり付いている。忌々しい百二十円のガムのうちの一切れだ。
「人という脆弱な生き物は何で自分の身に余る所業を成すのか……。案外、生は死よりも地獄なのかもしれませんね。限られた時間で叶えられる欲望は微々たるものですから、わたくしには到底、解らない感情ですがね」
限られた時間から解放されたのに李はガムをもう、一切れ口に入れた。前の一切れと混ぜ合わせながら噛んだ。くちゃ、くちゃと唾液とガムがぶつかる音がする。
「まるで本当に人以外の者って口ぶりですね」
「そうね、風の赴くまま、吹かれて不吹の所在を知り、貴女にも会えたのだから手品の仕掛けくらいお見せしましょう」
道化はこう、たまに戯れたくなってしまう。持っていたバッグから裁ち切りばさみを取り出すと自分の皮膚を容赦なく、切った。激しい痛みが走るが、死からはほど遠いと理解しているマッドサイエンティストには痛みは死へとは直結しない。
それを知らない思湖は青ざめた顔をしている。
「あ、血が溢れて。早く手当てしないとどうして馬鹿な事を」
「これはわたくしが作った最高傑作でして、この裁縫道具を使えば、何でも縫う事が可能ですよ。例えば、人の命だって縫う事ができます。死体があればですけどね」
そう解説しながら、傷跡を針に通した魔法の糸で縫っていく。血は草を赤く染めたが、縫い終わるとそれ以上、血が流れることはなかった。
縫い跡が全然、解らないのを誇張するべく、李は思湖の目の前に自分の腕を晒した。それでも青ざめている思湖に李は小馬鹿にした笑いを浮かべた。
「でも、わたくしは自分が怪我した時にしか、これを使いません。世界の秩序を乱してしまう力ですからね。わたくしはわたくしが永遠に生きて、世界の人間どもの欲望の果てを見つめたいだけです」
「変わってるわね。相変わらず。あんたの言ったとおり、日本全国にメイドさん達のコミュニティーが形成されていますね」
恐る恐る言葉を紡ぎ出す思湖の仕草が懐かしかった。昔の李にもそんな時間の流れがあったのをふと、思い出した。アリアさんによく、実験なんてもう、切り上げて寝なさいと叱られたのに未知の知識が生み出す純粋な恐怖に震えていた。もっと、研究すれば世界が自分の近くに引き寄せられる。もっと、だ。もっと、だ。こんな事実があったのか、恐ろしいけど、もっとくれ! と心はいつも、変化していた。
「当たり前です、時間旅行をして見聞した事実ですから」
そう淡々と李は呟いた。
向日葵の枯れた花びらが風に舞い上がって何処かへと飛んでいく。飛んでいったとしても自分の見た自然の摂理を越えた向こう側へはたどり着けない。それは幸せなことだ。
<五>
秋ちゃん心の教育とは秋の好みの髪型はツインテールだとか、ケーキが大好きだから一日一食は用意するようにや、秋ちゃんの大好きなアニメは冒険ものだとか……、要するに秋ちゃんマニアになる為の教育だった。そんな教育で心はぽかぽかになったのだが、刑務所に足を踏み入れれば自然と心は引き締まる。うどんの熱い汁が懐かしい。
案の定、何も知らされていない秋と一緒に付き添うように葉楼は同じ個室の扉がある一つの扉へと刑務官の案内で通された。その部屋は半分、硝子で仕切られていた。パイプ椅子が目の前に二脚置いてある。そのパイプ椅子に葉楼と秋は腰掛けた。硝子で仕切られた向こう側には一脚、パイプ椅子が用意されていた。
「ああ、やっと会えたね、秋」
刑務官に促されて席に着いた老女がそう、低い声で呟いた。老女の白髪は薄暗い照明の光に照らされていっそう惨めに見えた。だが、目だけは強い眼光をこちらへと放っていた。そこにかつての凛々しさや美しさがあるようだ。
「誰?」
紺色の作業服を着た母親をまじまじと見る娘はその人が母親である事を知らず、葉楼に澄んだ瞳を向けて質問した。そんな質問に答えられる訳が無く、無言で葉楼は不吹に助けを求めた。
「可哀相な子。私のことも教えて貰っていないんだね。私は貴女の叔母よ。つまり、貴女の母さんの妹」
母さんと言った時に確かに言い淀んでいた。本当は母親だと言いたいのだろうと考え、葉楼が口を開こうとするとそれを察知したように不吹は今にも泣きそうな面で首を振った。両膝に添えた両手を動かして、隣に座っていた秋を自分の両膝に乗っけた。秋は先程まで、茫然とした雰囲気だったのに葉楼の側に来ると安心したように葉楼の身体にもたれた。
「何でそんなとこに入っているの?」
という大胆な意見さえ飛び出すほどだった。
「人間を殺したんだよ。自分の身勝手な感情でね、殺した。私が殺した中には貴女くらいの年のお嬢さんもいた。でもね、私は自分の罪深さに気付いてこうして、罰を受けている」
「私も」
「ん?」
「私も人を殺したらそこに入るの?」
秋の無邪気な言葉は他者が聞いても心が痛む。親子は他人のようだった。よく作り物でありがちな私がお母さんだよ、会いたかったよといったお涙頂戴の場面はここにはない。あれはそこで終わるから感動がある。でも、現実はハッピーエンドでは終わらない。必ず、続き、そこには不幸も幸福もある。この場合は不幸の方が多そうだ。葉楼はその不幸の一つを想像してみた。母だと解ったところで秋は母とは暮らせずに、その母は罪により国家に殺される運命にあるのだ。誰が母親の死に幸福の未来を見るというのだろう。
長い時間を掛けて、秋をじっと、不吹は見守るように眺める。仕切りに掌を当てて、ゆっくりと撫でる。不吹側からは丁度、秋の頬を撫でたように映るだろう。目は充血してきて、涙が溜まっている。葉楼もいつの間にか、涙が瞼に溜まり頬が熱くなっていた。
「貴女はまだ、入る年ではないから無理ね。それは罰を受けられないって事だから辛いことだ。だから、私みたいになるんじゃないよ」
それは多分、最初の母親からの教えだった。だけど、秋は何で自分がそういう忠告を受けねばならないのかと憤怒しているのが顔にあからさまに出ていた。
秋をぶん殴りたい。秋の母親の言葉なんだぞ。
退屈そうに大きく欠伸をして、葉楼にもう、帰ろうよという視線を向けている。それを横目で確認できたが無視した。感に障る無垢な瞳だ。
「お返事は?」
その声は掠れていた。
「うん、解った」
秋の声は軽々しかった。
秋と不吹の一対一での会話はそれだけだった。その後、葉楼が不吹に秋は野菜好きの子だという話や、ただいまと葉楼に言ってから靴を脱ごうと屈んだ際にランドセルの中身が全て出てしまった話等を不吹に聞かせた。不吹はそれに一々頷くと、秋ちゃんは毎日何時に起きるの? といった日常に関する質問をしたのだがここまでの長旅が小さな秋の身体には応えたのだろう、葉楼のワイシャツの生地を握り締めて生地に顔をくっつけてぐったりとしていた。代わりに全て葉楼が応えた。
葉楼と秋が退室する際に不吹は葉楼に深く頭を下げた。そして、憑き物が取れたような晴れ晴れとした表情を浮かべた。
「秋を宜しく御願いします、葉楼さん。貴女はきっと、うちの秋にとっては王子様みたいな存在なのでしょう。私が何もしてあげられない代わりに秋をお風呂に入れてあげて下さい。きっと、お風呂の中で五十秒数えているのでしょう」
「はい、数えていますよ。秋は暑がりなんですぐ浴槽から脱走しようとするので、手を繋ぎながら」
その後はいつも、熱いって騒いで勝手に廊下へと素っ裸で飛び出す。まだ、そんな幼い秋。
「時間だ。すまんが、これも規則なんですよ」
怠そうに言う刑務官にとってはこの会話はただの会話でしかない。
「後少しだけ、御願い」
「私は見ることができないけど、小学校をやがて、秋は卒業して行くんでしょうね。その時は私のお墓に報告、御願いします。私は喋れないけど、きっとあなたを歓迎します。中学の入学式も卒業式も、高校の入学式も! 卒業式も! 大学を卒業して……」
「時間だ! すまんが、これも規則なんです」
「後少しだけって言ってるでしょう。私の未来はもう、ないに等しいのせめて、御願い」
「あなた達の関係がそのまま、続けば結婚するかもしれない。その時になったらどうか、私の事は忘れて下さい。幸福の森に醜い雑草は生えていては駄目なんですからね」
「いいえ、違います。雑草って名前の草はないんですよ。みんな、必要なんですよ。人の人生にいらないものなんてない」
そう言って葉楼は扉を開けると秋を先に廊下へと退室させた。後から葉楼も退室する。その際にもう一度、不吹を見ようとした。だが、硝子の向こうには姿が無かった。ただ、噎び泣く声だけが聞こえる。
「変な叔母さんだったね。秋、疲れちゃった。だって全部、秋の事ばっかだもん。こういうのをストーカーっていうの?」
「違うよ、絶対に」
真実を語る勇気は無かった。廊下を歩いて日常へと帰ることしか今はできない。
<六>
「面会、どうだった?」
ロビーの椅子に座っていた思湖がそう言って、葉楼に缶コーヒーと果汁百パーセントの苺ジュースを手渡した。ジュースを秋に手渡すと喜んですぐに開けた。
「実に優しい感じの叔母さんだったよね、秋?」
口元に缶を当てたまま、素っ気なく応える。
「うん、だったね」
その不遜な態度があまりにも癪に障ったので、歩を秋の足には合わさずにどんどん先に行った。自動ドアが完全に開くのを待たずに外へ出ると、もう午後四時だというのに陽は高く、相変わらず蒸し暑かった。後ろから秋がやっと、追いついてくる。ズボンの後ろポケットを掴む。
「歩けないですよ」
「なんで機嫌が悪いの?」
「悪くありません」
「嘘」
か細い言葉と今もポケットを掴む手を無視して、バス停へと歩き出す。案の定、秋は引き摺られた。数メートル進んでから、思湖が葉楼に苦言を呈した。だが、今回は許したくなかった。真実を知らないのだから当然だという考えにどうも、追いつかない。
やがて、鈴虫の音色に混じって秋の咽び泣く声が聞こえてきた。だんだんと喧しさを増していき、とうとう、秋は葉楼の足を蹴飛ばし始めた。
「葉ちゃんの意地悪。どうして、いつもみたいに構ってくれないの?」
「葉楼、秋ちゃんの年齢を考えると仕方のないことよ。このくらいの子は自分が一番で、大好きな人には常に甘えていた年頃なのよ。ほら、ご覧なさい可愛いお顔が台無し」
「葉ちゃん。秋、よく解らないけど謝るから許して」
ぼそっと言葉を発した唇は洗い立ての真っ赤な林檎色だった。太ももまで丈のある白い靴下はすっかり砂が付いて汚れている。それを見逃せなくて、葉楼はしゃがみ込んで白い靴下を叩く。その間、チャンスとばかりに秋は葉楼の頭部を抱え込んで自分の胸に押しつけた。そのまま、離そうとしない。
「違うんですよ、僕が大人げなかったんです、許して下さい。一緒に手を繋いで歩こう」
「いや、こうやって恋人? 同士みたいに抱き合っていたもん」
「でも、暑苦しいよ」
「え、秋ちゃんは幸せだもん。なんかね、これしてると胸がわくわくする」
金髪が鼻筋を掻いた。秋の吐く息が旋毛に辺り、春先の微風のようだ。そっと、秋の胴に両手を添えた。想像していた以上に柔らかく、温かい。
「小さな花嫁さんですね、葉ちゃん」
「痛いですね、背中を思い切り叩かないで下さい。それに秋ちゃんは花嫁さんではないですよ」
叩かれた背中を秋が優しくさすってくれた。妙に甲斐甲斐しい。
「秋もいつか、大きくなる……。だから、花嫁候補に入れて下さい、御願いします」
「今のところ、僕に花嫁候補は秋ちゃんだけですね」
内心、この子はいつか、心変わりして自分への愛情を他人へと振り分けるんだろう。そう邪険な意見が出てくるのは自分の心が疲れているのかもしれないと思った。
熱さをものともせず、若さに輝く笑顔を浮かべる秋から元気を分けて貰うべく、秋を肩車した。
「大丈夫だよ、葉ちゃん。秋ちゃんが葉ちゃんの妻だって言いふらすから」
幼い女心を燃やす発言とは裏腹にやはり、幼さがそれを駆逐していた。背が高くなった事を良いことに途中、木の枝にぶら下がって葉楼の肩から離れた。奇声を上げて何が面白いのやら叫ぶ秋の姿を目にして冷や冷やさせられた。
その横で思湖は秋のわんぱく振りを注意しようともせずに眺めていた。
「私もね、こんな時期があったね。よく、夏に行った伊豆の別荘で木登りをして、うんと高いところまで登って富士山を眺めたなぁ。よく晴れた日の富士山はまるでこの世のものとは思えなかったよ」
秋が両足を揺らすのを止めて干物のようにじっと、動かぬまま、葉楼を眺めていた。もう、疲れたから助けに来いらしい。葉楼の肩が真下まで来るとえい! と可愛らしい掛け声と共に両肩に飛び移った。一瞬、落ちそうになったが、葉楼がしっかりと秋の胴体を支えた。
こんな子ども時代が母にもあったなんて信じられなかった。その子ども時代を想像してみるとむず痒い気持ちになった。
自分も夕暮れ時の太陽を眺めてよく帰ったものだ。ふと、その時の情景を思い出した。友人とサッカーをして膝に擦り傷を負いながらも何事もなかったかのように歩いていた。自分が歩く度にそれよりも早く太陽は自分から離れていった。気が付くと夢中で太陽だけを追って走っていた。それでも奴には追いつけなかった。幼かった自分にはその理由が解らなかった。ただ、太陽は僕が嫌いなんだと泣きたくなった。
「ねぇ、葉ちゃん、葉ちゃん」と秋が葉楼の頭を叩いてから、緋色に輝く太陽を指さした。「どうして、太陽さんに追いつけないのかな。もっと、速く走って!」
「無理だよ。太陽さんと秋とでは生きている時間が違うんだ」
僕とも、ねと言おうとしたがそれは寂しい気がした。生は違えども死は同じでいたい。
「わかんない」
そう、それで良いよ。君はそれが解らないだろうけど、僕は違う事が解らない。例えば、そうだな、どうして秋の体温はこんなにも優しいのだろう、とかはどうだろう。ねぇ、お姫様。
帰りにデパートに寄った。花火の大売り出しが催されていたのを発見した秋が勝手に買い物篭に花火を五千円分詰め込んだ。しかも全部、単品の花火だ。全て戻そうとしたが、思湖は今日は許すと言って、今日の晩ご飯である親子丼の材料と一緒に購入した。
家の扉が見える位置までくると、扉の前に不審人物を認めた。
明らかにメイド服と覚しき、ふりふりの軟弱そうな服装に似合わない拳銃を握り締めていた。その人物は板チョコをコンビニのレジ袋から徐に取り出すと、わざとらしく、音を立てて囓った。気持ちの良い甘そうな音だ。
振り向き、キザな笑みをこちらへと挨拶代わりに贈ると扉に向き直った。
「ぴんぽん、秋お嬢さんのお世話をこのスーパーメイド 李さんにお任せです。掃除、洗濯、送迎等の基本オプションは超一流。おまけにマシンガンをぶっ放して秋ちゃんを犯罪からお守りするぜ。だから、泊めて下さい。住所不定なんです」
嫌な押しかけメイドがいたものだと葉楼は苦笑したのだが、アニメのお嬢様みたいだ! と叫んで喜ぶ秋に同調して自分も大歓迎な振りをした。それに住所不定という身に同情していた。
ちなみに拳銃は本人曰く、使い物にならない物らしい。
<七>
「おはようございます、葉楼さん、秋ちゃん」
「うわ、うちにメイドさんがいますね。よく考えると凄い不自然」
葉楼は秋が自分の身体にぴったり寄り添っているのを確認すると、そっと、ベッドの右端へと追いやった。エアコンが静かな音を立てて働いているのに寝苦しいと思ったら、秋の体温のせいだったんだ。
「葉楼さん、もっと重要な不自然な点があります。それは何? 考える時間は三十秒」
「何でそんなのが決まっているんですか?」
「ただ、単にそれ以上、変態の顔を見ていたくないだけです。あれですか? 今から自分好みのプリティーに育てようっていう生もない腐れ根性って奴っすか。すげー、童貞。すげーや。百人斬りの私には解りかねます。女なんて幾らでも世の中にいます」
「育成の件はともかく、後半の発言が限りなく、ブラックですね」
「え、本気にしました。ネタですよ。私、まだ新品ですもの。きっと、みんな、値段が高すぎて買えないんですよ。高級車? これ、専用車」
専用車と指さされた秋はお腹をぽりぽりと掻いてまだ、夢の中だ。乱れた髪の毛が秋の可愛らしい顔を所々、隠していた。独占したいと誰もが思う小動物だ。それでも、葉楼は嫌悪感を李の発言に示した。
「違いますよ、人間でしょう」
「まぁ、それはともかく、気をつけなさい。年頃の女の子は傷つきやすいもの。女ってのはみんな、構ってちゃんなのよ」
そう言っているのに視線は机の側に立て掛けられたイーゼルに目を向けていた。正確にいうと、イーゼルに乗っかっている水彩画だ。その周辺には乱雑に絵の具が散らばっていた。昨日、徹夜で完成したばかりの水彩画は前の秋ちゃんとは違う構図だ。夕陽と追い駆けっこをしている秋ちゃんという構図である。
何故、それを李がじっと、眺めているのかは解らなかった。何処か、寂しげな横顔をしていたので、どうしたんですか? と声を掛けようと思ったが、その前に李は幽霊のように音もなく、部屋を出て行った。
「何、しにきたんだろう。ん」別段、重要ではないと思って秋のふっくらした頬を押して遊んだ。「秋ちゃん、ぽちっ」ともう一度、押すと秋は目をぎゅっと堅く閉じて口をもぐもぐさせる。「ぽちっ」ともう一度、やっても同じ反応だ。可愛らしい少女時代。
ふと、気配に気が付くと、メイドが扉の隙間からじっと、こちらを観察していた。葉楼に見つかると白々しく、誤魔化そうとした。
「それと、朝ご飯できてます。今日はバタジャガとパンですよ。おぅ、良い変態だ、彼には素質がある」
どうやら、途中で無駄だと気付いたようだ。
<八>
初めての実習の時間に秋は内心、浮き浮きしていた。何か、面白いハプニングはないかときょろきょろ周囲を見回しては、その合間にこの時間に提出することになっている漢字ドリルの十三ページをのろのろと進めた。秋は頭の良い子で学校に通う前は本を多読していたので漢字は得意中の得意だった。それもあるのだろうか、二十分経つと既に提出するページを終えてしまった。肘を付いて、溜息を吐いた。自習は静かで退屈だ。
勿論、秋と同じように思っていた子もいるらしく、そういう子達の一人がこの退屈空間に痺れを切らした。悪ガキ特有の含み笑いを唇周辺の皺に託して、教卓の横にある液晶テレビの電源を押した。
画面は一秒とも掛からずにリアルな映像を映し出した。
「昨夜、麻庫美桜ちゃんが遺体で発見されました。遺体はまたもや、皮を剥がされて街中に放置されていました」
スーツを着た若いアナウンサーが秋の知らない場所でそう、ニュースの内容を伝えていた。右下に××県 翼町と中継先が書いてあったのを確認したが、それでも解らなかった。街の方は最近、殺人事件や誘拐事件が横行しているからという理由で葉楼か、梅之助が付き添っていないと秋は行ってはいけない事になっていた。だが、下校はそれぞれ学校や職場があるので一人で帰宅する。その時、役に立つと葉楼から渡された防犯ブザー付きのキーホルダーは一度も役に立っていない。
ともあれ、自分と同じ犯行特徴の殺人が行われた現場には興味があった。シャーペンを囓りながら画面に見入った。
現場はどうやら、山の方角らしい。木陰がアナウンサーの後ろ姿を妙に陰気に映している。山の斜面にある立ち入り禁止のロープまで来るとカメラ目線になった。そのアナウンサーの背後から蝉の暑苦しい声や、鳥の声、野良犬同士が吠え合う声なんかも聞こえる。動物は人間様のいざこざなんて知ったこっちゃない。
「こんな場所で命を落とさなければならなかった、美桜ちゃん。御冥福をお祈りします」
深々と頭を下げてアナウンサーは涙を流した。
秋の後ろで男子の誰かがアナウンサーの癖にこいつ、泣いてるよ。失格だなと野次を飛ばした。何が失格なのだろうか? 生皮を剥がれる恐怖に耐えながら死ななければならなかった被害者を思えば、同情して泣いても咎められはしない。むしろ、人間的だ。淡々と残酷なニュースを伝えるアナウンサーこそ、考えてみれば機械的だ。そんな妙な冷静な反論を心に浮かべる秋は本物の悪魔なのかもしれない。
過去の同一犯行を振り返る映像が流れているのをシャーペンを口に含んで観ていた。まるで他人事のようだと思う自分と、妙にそわそわしている自分がいる。
「どうしたの? 全然、さっきからシャーペン動いていないよ、何処か解らない箇所ある? 言ってくれれば教えるよ」
隣の席に座る紀久が心配そうに秋の顔を覗き込む。彼女も提出するページを既に終えていて、太宰治の『斜陽』を読んでいた。
「大丈夫……ただ、ニュースを見てただけ」
秋はそんな律儀な友人に空返事した。
「怖いよね、生皮を」
友人は秋の視線の先にある液晶テレビを青い顔をして見上げた。それは、そうだ。人ごとではないのだから、この翼町で起きている事件なのだから。秋も今までは感じなかった自分が何者かの捕食者になる恐怖に小さな胸を痛くしていた。
ランドセルの側面に付けられた頼りない防犯ブザー付きのキーホルダーを一撫でした。このブザーを鳴らしたら、葉ちゃんは秋を助けに颯爽と駆けつけてくれるだろうか?
「警察では過去の二件の事件と同じ犯行から犯人は同一犯だろうという見解のようです。美桜ちゃんは午後七時まで市民体育館で友人と一緒に卓球を楽しみ、その後、自転車専門店 ししるの経営者が山の方面へと歩いていくのを目撃したのを最期に行方が途絶えていました」
別の年配のアナウンサーが機械的にそういうと民間の屋根にししるという看板を設置しただけの佇まいの玄関へと進んでいった。そこに手筈通り、ししるの経営者が佇んでいた。
顔には緊張の色が見える。秋達も違った意味で緊張した。もう、クラス全員が子どもの皮を剥ぐ現実のモンスターの情報に飢えていた。
「山の方面へ行くのは別段、おかしな事じゃないよ。何しろ、ここは山に囲まれているような地形だからね。当然、山の方面にだって民家は多数存在する。むしろ、そっちの方に多いくらいだよ。私だってそうじゃなかったら、声くらい掛けていたさ。こんなご時世で小学生に声を掛けるのは私としては避けたいくらいだよ」
紀久の幼なじみである樟田塔が大袈裟に叫ぶ。
「ふざけんなよ、じじい。こんな時だからこそ、俺達を助けてくれよ」
「どうして、避けるの? 秋、いつも近所のおじちゃん、おばあちゃんに挨拶して学校に行くのに」
「新聞くらい読んだ方が良いよ。ここ数年、誘拐事件が多発だって」
読まなくても、近所のおじちゃん、おばあちゃんが秋を見かける度に一人で大丈夫? もし、心細かったら一緒について行ってあげるからいつでも声を掛けるんだよとしきりに言うから今が自分達世代にとってどれほど、住みにくい時代なのかを感じていた。
その一端を担っているのは間違いなく、連続殺人鬼霜澤秋だ。だが、それなのに同じ殺人鬼に動揺して、怒りさえ感じている。
<九>
「どうして、秋はあんなの知らない」
暗い洞窟の中、二体の腐乱死体のうち、一体にランドセルをぶつけた。パチンコ馬鹿と書かれた紙を貼り付けた頭がぽろりと取れた。床に頭が落ちた表紙に目玉があったはずの大きな穴から蛾が三匹も飛びだしてきた。その蛾に驚いてたじろぐ。
三匹の蛾の何気ない行動よりも驚くべき事をやってのけた小さな殺人鬼のあまりの間ぬけっぷりに二体の腐乱死体は大いに笑った。その笑いが洞窟中に恐ろしく、反響する。
「良かったじゃないか、秋。模倣犯がもっと、多くなればお前は犯行を重ねやすくなる」
「秋はもう、パパママの良いなりにならないもん。ただの臭い死体の癖に。ほら、虫が寄って。気持ち悪い」
秋は蝶や団子虫、蠅等の虫たちを遠ざけるように、かつてパパだった死体の頭をサッカーボールのように蹴り飛ばした。別に虫から助けてやったのではないきまぐれだ。
「何、言ってるの秋。私達、血の繋がった家族でしょう。家族は助け合って生きていくべきでしょう」
鼻の潰れた死体が言った。その鼻の潰れは自然が長い時間を掛けて削り取っていったものだった。母の女優のような美貌は結局、自然の前では滓も同然だったのだ。だから、母のおでこには元鬼美人と書いた紙を貼ってある。可哀相に髪すらないなんて。
私はこうはならないと宣言するように叫んだ。
「秋は葉ちゃんと新しい家族、作るから良いもん。葉ちゃん家のあんな笑いに溢れた家庭にするんだ」
「解ってないな。世間知らずだ。世の中には勝ち組と負け組ってのがあってな。産まれる前から……つまりはパパとママが結合する瞬間からそいつは決まっているんだよ。親は選べないってことさ。それでいくと俺達みたいな自己中心馬鹿の親を持ったお前は負け組、両親二人ともインテリ教師のお前の愛しい葉ちゃんは勝ち組。この家庭環境の差だって埋めていくのはしんどいもんだ」
五月蝿い、腐れ頭だ。虫歯の穴から芋虫みたいな訳の分からん幼虫がひょっこり顔を出しているのにまだ、生者みたいに説教をする。スーツにネクタイを着けた真面目なサラリーマンみたいな口調だ。その猿芝居に反吐が出る! お前の服装はいつだって、半袖の肌着にジャージ下のパチンコ野郎だろう。秋はその侮蔑を込めて、大笑いした。椅子に座ろうとしていたのに、その座ろうとした位置に椅子が無くて危うく、転倒しそうになった。
「大丈夫だもん。葉ちゃん優しいもん」
「そう、か。だとしたらこいつはクリアできるだろう。でもな、お前らには年の差がある。葉ちゃんは果たしてちびっこを本気で妻にしたいって思うだろうか? きっと、妹くらいにしか思っていないだろうよ。残念だね、秋」
「貴方、まだあるじゃない。この子は二人も人を殺しているんだよ、家庭なんて築けないよね。そう思うわよね、そこの子も?」
「うん、思うよ。人を殺しておいて幸福になるって随分、身勝手というものでしょう。貴方のおかげで私はもう、学校にも通えないし、お友達にも会えない。恋だってできない」
いつの間にか、白い箪笥の上にアリアと厘が仲良く、腰掛けていた。そのうちのアリアが優しい口調で秋よりも小さな子に諭すように言った。それは馬鹿優しいとも取れるし、馬鹿にしているとも取れた。秋は歯ぎしりをした。それだけで怒りが収まらず、偶然秋の足元付近を通っていた黄色いテントウ虫を踏みつけた。テントウ虫は二枚の羽根が納められている外郭の真ん中を主に潰されて、石ころにへばり付いた。
秋は得意げにどうだとばかりに厘を眺めた。厘は目を細めて、唇の右端を歪めていた。
「秋ちゃん、私は必ず、貴女に呪いを掛けるわ。葉ちゃんは私の彼氏なんだから。泥棒猫しないでよ。あ、泥棒子猫か」
テントウ虫の外郭から飛び出した透き通った羽根を冷ややかに眺めている。まるで秋もいずれ、このテントウ虫みたいに無惨に終わるのだと暗示するように眺めた。
「ねぇ、私の新しい子ども達はどう。みんな良い子なのよ? 秋なんて飽き飽きしてるのよ、私。正直言って昔から貴女を見ると殺したくて仕方がなかった」
「同感だよ、何も知らない大きなお目々を刳り貫きたいくらいだったよ。それでソースを付けて食べるんだ。憎しみを消化する儀式だよ、いわゆるね」
「悔しいな、私に身体があれば、すぐにそうするのに」と厘は口惜しそうだ。
「お前達はもう、死んだんだ。あれが誰であれ、秋はあの模倣犯に全てを押しつけて葉ちゃんに愛して貰うんだ。初めて、愛して貰えるんだ。嘘つきの愛なんかじゃない」
そう洞窟を震わすのではないかと思われる程の叫びが止むと、両親という名詞のみの両親も二人の哀れな幽霊も消え去っていた。
びゅー、びゅゅー、と洞窟の壁面や、岩に、家具に、秋にぶつかった風が悲鳴を上げる。
溜息を吐いた。ほら、秋を止める壁は何もない。やっぱり、セカイは秋の為に動いている。そうとしか、思えない幸運だ。警察もまだ、秋をマークしていない。死者は生者には攻撃できない。骸骨どもはそのまま、朽ちていくと良い。
自分の頬の涙をハンカチで拭った。幸運だ!
鼻水を啜る秋の鼻音に混じって、不気味な靴音が一歩、一歩と聞こえてくる。背中にぞくっと氷を宛がわれたような悪寒がする。手錠を手首に填める音がする……。違う。
「でも、それが殺人鬼に、黒い過去の持ち主に耐えられるんでしょうか」
潔白の白とでも表現しても良いくらいの生地のメイド服、それを着ている女性が秋に見せた事のない鬼気迫る形相を見せている。すぐに理解した。これが本当のこの人の顔だと。
鋭い目は陰鬱と残酷さ、悲しみを混ぜ合わせた漆黒。唇の赤いルージュは生きる為に流してきた己の血。両肩には重々しい空気を背負っている。握り締めた拳は今にも秋を喰い殺しそうだ。
そんな相手に秋はぼそっと震える唇を隠すのを忘れて言葉を発した。
「李、どうして」