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醜美千秋  作者: 遍駆羽御
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第二章 心の在処


 第二章 心の在処


              <一>


 私はまだ、訳あって死者でありながらも生者だけが住む世界に留まっている。私から金髪と肌を奪い、殺した霜澤秋なる少女に殺された当初は深い憎しみを抱いていた。だが、死者になってから同じ死者から聞いた少女の暮らしぶり、その破綻を知り、憎しみは薄れていった。何故だろう? 多分、もう永遠に続く時間を獲得したからなのかもしれない。友人のように詩的な考えをこの何日間で会得していた事に驚きを覚えた。

 それは死んだから知り得た開放感だ。

 私が眺めている秋はまだ、その開放感を知らずに生の苦しみに足掻いている。厘の死体を積んだ台車は私と洞窟内で出逢った時に引いていた台車だ。その台車に青いシートを被せている。

 私はその健気な殺人鬼を応援してしまった。知ってしまったから、少女が自分の両親を死に追いやった原因を生み出したこと。それがお腹が空いてハンバーグを作ろうとして、ハンバーグの包装紙を火に落としてしまった。ただ、それだけの事象なのに。開け放っていた窓からの強風に燃えた包装紙は舞い上がり、秋の届かない箪笥の上に乗ってしまった。

 それさえなければ……

「あなた、焦げてるじゃない? 大丈夫。今、救急車呼びに行ってあげるから」

 と、突然洞窟内に現れた重度の火傷を負った霜澤秋に声を掛けた。

「肌、欲しい。肌、欲しい。まだ、家族と一緒に暮らしたいんだ。頂戴、あなたの肌、あなたの裁縫道具で縫うんだから」

 その意味は当時の私には理解できなかった。ただ、火傷の痛みから錯乱しているんだと考えて、大丈夫と宥めようと近寄った。

「苦しい、止めて」

 それが生者としての私の最後の台詞になった。

「首、折れちゃったよ。でも、大丈夫だよね。ママの教えを守ったから良い子だよね」

 その言葉を死者としての私が聞いてああ、この子は純粋に私から全てを奪ったんだと吐きそうになる程の怒りを感じた。

 でも、今では応援している自分がいる。頑張れ、幸せになれ。早く、自分のしている事が悪い子のする事だって気付いて幸せになれ。

 茶髪の髪の秋は誰もいない夜道を台車を引いて歩き続けて、山間部にある発電所の近くの側溝にバラバラに切り刻んだ厘だったパーツを台車を傾けて一気に流した。それが終わると洞窟に戻ってカツラを金髪に戻して、葉楼から贈られた子供用のドレスに着替えた。

 秋がとことこと歩いていると、野犬が荒い息を弾ませて近寄ってきた。私はその野犬が口から涎を垂らしているのを見て、危険と判断した。

「こら、くそ犬。この子に噛み付こうっていうのなら、この幽霊のアリアさんが容赦しないよ。多分、体力無限で、頑張れば他人を呪い殺せそうな気がする。だから怖いわよ!」

 その犬は私の方をチワワのような弱々しい覇気のない顔で見つめると回れ右をして視界から消えていった。ブルドッグなのに情けない犬だ。

 こうして秋を守ってあげると私はドジだった友人 紗英を思い出すのだ。いつも、転ぶ紗英を助け起こして擦り剥いた膝に赤チンを塗ってあげた光景が昨日のようだ。

 この子にもそんな無償の愛を与えてくれる存在がいてくれれば良い子になれるはずだ。

「秋! 秋! あざみ姉さん。もう、自動車に乗っても良いですから、捜索範囲を広げましょう」

「そうね、車は多分、三台ほどお釈迦になると思われるけど」

 まだ、姿は見えないが微かに男性と女性の声が聞こえる。秋の名を呼んでいる事から秋を今、保護している荻須家の姉弟だろう。

 こんなに必死に探してくれる人間は私には居なかった。周りの子どもも天涯孤独で、誰もが互いに傷跡を引っ掻き合っていた。そんな環境下しか知らなかった私は秋に嫉妬したが、疲れて座り込んでいる秋の髪を撫でてほら、迎えが来たと優しく耳元で囁いた。

 全ては私にとって過ぎ去った出来事に過ぎなかった。それなのに景色がぼやけて、震えていた。

「葉ちゃん、あざみお姉ちゃん!」

 そう叫び、懸命に走る秋の後ろ姿が微睡みの中で見る優しい夢に似ていた。アリア、私の愛しいアリアという女性の優しい声とミルクの匂いが鼻に付いた。それを知ろうとした途端、それらは空を駆け巡る蚊の揺らめきのように儚く去った。

 私の意識をまた、生の世界に戻したのは葉楼が秋の頬を叩いた音だった。秋は叩かれたというのに微笑んでいた。

「なんで叩かれたか、解るか?」

 葉楼は瞬き一つせずに、秋を見つめる。その瞳は血走っていたし、普段よりも見開かれていた。大抵のお子様なら、この目だけで自分のした事を悔いて泣き出すだろう。だが、秋は首を捻って興味深げに葉楼の瞳を見上げる。

「秋が悪い子だから?」

「違う。大切で、失いたくないからだよ」

 そう言われた時、秋の頬が歪み……青い瞳が細くなり、口元が歪んだ。涙がすっと秋の肩に落ちた。その落ちた滴は秋の肩でしょんぼりしているように見える。それを合図に秋はびーびーと夜の深淵を引き裂くように甲高く泣いた。そして、しきりにごめんなさいと叫んだ。

 だから、私は憎めないのか……。この子を守るのは私じゃないこの家族だろう。そろそろ、天国へ行くとしよう。天国行きの最終馬車は今から歩けば間に合うはずだ。

 私は秋を囲む家族の姿を羨ましがりながらも、次の世界では自分もその温もりを得たいと強く願った。

 さよなら、生の世界。また、戻るその日まで……。


            <二>


 秋は楽しい午後の一時を堪能していた。途中、トイレに用を足しに行った際にパンツが肌にガムテープのようにしつこく付着する感触を感じた。だが、パンツを脱ぎ捨てたらそれも感じなくなった。あれ? 不思議だ。そうしたというのにちゃんと可愛らしい灰色猫さんの絵柄パンツがちゃんと履いている。でも、いいやと首を振り、ソファに寝ころんだままの姿勢を保った。

 秋が大人だと解釈している静かな黒い瞳は秋の視線に合わせたり、画板に挟んだ用紙を厳しく睨み付けている。だが、時々、にやりと微笑む。それが気になってそわそわしてきた。

「そろそろ、完成した? 秋ちゃん、可愛くなった?」

「あ、動いちゃ駄目です」

「でも、見たい! 見たい!」と秋はソファの前に座っているあざみの頭部をペンギンの縫いぐるみでぶん殴る。ふと、ペンギンの縫いぐるみを放り投げて唖然とした。「あれ? これ、昨日の夜に葉ちゃんが秋を描いている時にも……あざみお姉ちゃんに同じようにペンギンの縫いぐるみで殴られて、どう痛いでしょう? 人の痛みの解る子になりなさいって。そうだよね、葉ちゃん。葉ちゃん?」

 秋が葉楼から少し目を離しただけで目の前から消えていた。同じく、あざみも。立ち上がって探しに行こうと思った時だった。何処からか、葉楼の声が聞こえてくる。

「朝ですよ、秋ちゃん。ほら、起きなさい。布団なんて取っ払って。今日は……良い天気」

 葉楼の声を認識した時、とんでもない場所移動が起こり、今秋はベッドですやすやと眠っている。下半身がすー、すーするのは気のせいだろう。

「うわ、危」

 秋の足の上に何かが落ちてきた。重かった。当然、秋は足を器用にそこから脱出させてその落下物の上に足を乗っけた。これでまた、美術部で展示する葉楼の作品のモデルになるという甘い夢に浸れる。思わず、出てきた涎をじゅるりと口に戻す。

「葉楼、寝坊姫は起きたかな?」とあざみの爽やかな声と一緒に木製の扉が開く音がする。冷たい風が入ってきたので身体を温めようと足の下にある温い物体の温度を奪うようにお尻をくっつけた。「あんた、それ変態を越えて、変態王よ。常識人間に戻りなさい。貴方は優しいお兄ちゃんのはず」

「ふえぇ」と、とりあえず、いるはずの葉楼に挨拶をする秋。

「動けねぇです、あざみ姉さん」

「おい、おい、早く起きろ、とんでもない事になってるよ。こりゃ、西瓜を小指で穴開けるくらいの確率の出来事ね。おい、なるべく匂い嗅ぐな!」

「昨日の夕食の蜜柑香り」

 目を擦りながら、起きると秋はすぐにその温い物体が何なのか、確認した。自分のお尻の下には葉楼の頭部があり、丁度、葉楼の口の位置に記憶はないが深夜に脱ぎ捨てたと思われる灰色猫さんの絵柄パンツがある。そのパンツを中心にして、孤島のような模様のお寝しょ画が出現していた。

「葉ちゃん、そこ居心地良い?」

 咄嗟に出た言葉は秋の羞恥心にトドメを刺した。秋はあまりの恥ずかしさに掛け布団で自分の顔を覆った。その布団の中で赤面した秋と葉楼の瞳は出逢った。

「どうだろう?」

 葉楼は秋に聞き返した。もう、知らない! とふくれ面になり、怒りが急に押し寄せてきた。その怒りに任せてバタ足で葉楼の腰を激しく蹴りつけた。謝ってほしいのにマイペースなんだから! という叫びは声に出さずに心に閉まって置いた。それを言って嫌われたくなかった。


              <三>


 終始無言の食卓、せっかくの窓から注ぐ太陽の光がこれでは昼間、点灯した場合の蛍光灯の光程にしか役に立ってはいないではないか。溜息を吐くあざみは自分の膝に座っているふくれ面の秋を見下ろした。可愛らしいリボンのように結わえた金髪からは桜の花の香りが漂っている。そんな可愛らしさを自ら、ぶち壊すように天高く、フォークを上げると一気にレタスのど真ん中に刺した。水気が太陽光に照らされてキラキラと辺りに飛び散った。それを何度も無言で繰り返す。

「大丈夫ですよ、秋ちゃん。お寝しょなんて八歳という年齢を鑑みればまだ、許容範囲です」

 相変わらず、仏のような穏やかな表情を浮かべて味噌汁を音もなく啜るその姿はまるでじじぃだ。その言葉の後、もう、身体が穴だらけだというのにレタス氏に秋のフォークが貫通した。秋は涙を溜め込んで、あざみに同情してくれよという目で見つめる。

 勿論、可愛い妹の頼みを無下にするあざみではなかった。秋の両脇を持ち上げて、新聞を読んでいる梅之助に預けようとした。梅之助が真剣に熟読しているほどの記事は何なのか、と同じ教師として気になった。きっと、至極真っ当な教育に関する記事だろうとあたりを付けたが……違った。彼が読んでいたのは十歳の少女の水着グラビアだった。椰子の実を胸に抱き、目線は諸、カメラの方という少女のはにかんだ笑顔、恐るべし。

 秋を梅之助に預けるのは変態さん、さぁ、思う存分視姦するが良いと放り込むようなものだ。変態王を産みし者……変態大王、流石と軽く、血の宿命の凄まじさを心に刻み、紅茶の香りを嗅いでいる思湖の膝にそっと、秋を乗せた。秋は自分の小指をしゃぶるのに夢中だった。目の焦点が解らない秋の涙目を怒りの起爆剤にして、あざみは台所の隅に置いてある幼い頃の姉弟が互いの罵詈雑言の落書きしたのがまだ、残るクロゼットを勢いよく開いた。そこには三本のゲートボール用のスティックがあるはずだった。しかし、一本しかなかった。

「おい、誰か、ここにあったスティック知らない? あんたが一番、怪しいのよ」

「どうして一番、僕が怪しいんですか? 僕は絵を描くだけが取り柄の優男ですよ。とても、じゃないですけど、あざみお姉さんみたいにぶんぶん、スティックを振り回せませんよ」

 苦笑いをしながら、葉楼ははっきりと自分の無実を述べた。どうやら、葉楼で遊ぶ為用のスティックが消失したのを理解しているらしい。あざみは残ったスティックの調子を見るかのように何度か、振り回した。その鋭い音はあざみにとって快感だった。思わず、口にする。

「うん、気持ちいい」

「変態がいる」

 両手をメガホンのように口に添えて、梅之助は鼻に皺を作った。口元は笑っている。

「うん、変態がいますね、父上」

 同調するように葉楼が言った。そして、秋にこっちにおいでと手招きする。きょとんとする秋だったが、すぐにうん! と元気よく返事して葉楼の膝へと鞍替えする。やっぱり、そこが落ち着くらしく、子犬の尻尾のように髪の毛を揺らしている。その髪の毛は葉楼のワイシャツに皺を作り出していた。皺が増えるほど、葉楼は御機嫌に紅茶を啜る。

「うん、変態がいるね、葉ちゃん」

 そう小さな女は自分の大好きな男の胸中で妖艶な笑みを浮かべた。唾液の付いた小指は葉楼の頬で円を描いていた。

 今日、朝っぱらから学んだ事がある女の友情は恋情よりも遙かに格下だという事だ。これを頭にインストールしつつ、殻の食器を台所へと運んだ。勿論、裏切り者の小さな女には罰として冷たく、

「自分で運ぼうね、赤ずきんちゃん」

 と言い放った。

 よくここまで簡単に掌を返すように小さな女と女児の二つの顔を使いこなすと感慨深げに秋の様子を見守っていた。いや、言葉に間違えがある。強制的に見守るはめになったが正しい。葉楼が一緒の登校時には葉楼の手を片時も離さず、癖なのだろうが小指を口に突っ込んでは思案に暮れる。その思案の結果として、どんな些細な事でも大騒ぎする技を閃いたようだ。これが小さな女の意中のお兄たんには萌えとして捉えられたらしい。

「葉ちゃん! 葉ちゃん、温かいがないね。秋ちゃんはお汁粉が大好きだな。けど、お餅嫌い」

「よしよし、冬はお汁粉三昧ですね。可愛いですね、秋ちゃんは」

「好き嫌いはいけないなぁ、よし、冬はお餅三昧だ」

 この調子でことごとく、小さな女の萌え効果を邪魔してあげたあざみだったが、それを察知した秋は葉楼がいなくなる小学校校内ではあざみの母性に訴えかける作戦に出た。

 校舎内に入った瞬間、秋の手はあざみのスカートを掴んだ。幾ら、離そうとしても見上げて、首をちょっこんと傾げたお母さん、この玩具欲しいのポーズ(勝手にあざみが名付けた仕草)の前にあざみの抵抗力はがた落ちした。ブラックマンデーもびっくりの大暴落だ。あざみの心に住む自由の女神は母性の微笑みを宿すにはそう時間は掛からなかった。

 秋は自分の所属する事になる二年三組の教室で小学校デビューを果たすため、始業式の間は職員室で保健の先生と終わるのを待っている手筈なのだが、あざみお姉ちゃんと一緒の方が良いと譲らなかった。この健気なエピソードがあざみの心を秋ちゃんラブに変えた。

「私の机、すべすべすべ、すべ。だよ、お姉ちゃん」

 自己紹介を難なく、終了させた秋は自分の席に着くなり、そう言った。翼小学校では六年間、同じ机を使い続ける。保護者から机代を別途、徴収する為、親は子どもに机を大切にしなさいと言うし、子どももその言葉やこれから共に六年間を過ごすんだこの机と、という感慨もあり、机を大切にする。事実、朝、来たら机を濡れタオルで拭くのを日課にしている子どもさえいる。秋の隣にいる眼鏡を掛けた思乃家紀久を秋には見習ってほしいものだ。だが、それは望めないような光景が目の前にある。

 真新しい机に鰹節削りのごとく、肌を擦りつける秋にそれは望めないだろう……。

「教室では先生と呼ぼう、霜澤さん」

 あざみは思わず、柔らかな口調で秋に注意した。

「教官が甘い声で! やべぇ、こりゃ、今日は雪降っちまうよ。携帯で父さんにチェーンをタイヤに巻いた方が良いよってメールしなきゃ」

 樟田塔はそう騒いで携帯電話を机の引き出しから取り出すと、巧みな指の動きで文字を入力していく。しかも、携帯の画面すら見ずにあざみの方を見ていた。そして、一瞬、固まってから携帯電話を急いで引き出しにしまおうとした。だが、無理だった。あざみの腕が塔の腕を捕らえる。

「おい、樟田塔。その携帯電話は小学校に必要か? 四百文字以内で正確に私を納得できるような言い訳を考えてみせろ。そうしたら、見逃してやる」

 その低くて、よく通る声が生徒達の私語を死滅させた。その声には威圧感があるなんていう事実は当の本人も解りきっている。あざみは意図的に家の時のずぼらな口調と、学校内での凛々しい声と使い分けていた。それは秋みたく、恋の為ではなく、近頃の生意気な餓鬼に嘗められないようにする一種の威嚇だ。

 だが、それには動じず、生徒達は示し合わせたようにニタニタと笑っている。この小さな大人達はよく理解しているのだ。教師が大声を出す以外に術がない事を、体罰なんて与えられない事を……。

「やべぇ、教官が珍しく、人に優しいから油断していたぜ。今日は掃除とクラブだけなんだろう?」

 そう言って、塔はランドセルを背負うと、幼なじみの紀久の頬を抓った。これは彼らの挨拶のようなものだ。初めは理解できなかったが、教師としてこの子達を観察してそれが親愛の証だと知った。

「そうだけど、それがどうしたの? あ、とっさんサボっちゃだめ」

 いつものようにマイペースに鼻水の詰まったような声で話す紀久が話し終わった時には塔は教室から向け出していた。紀久の後ろの席からはああ、俺もサボろうかなと声が聞こえた。

「じゃあね、教官。また、二億年後に会いましょう」

 という声が廊下に響いた。律儀な奴だ。

「あいつ、自分から二年連続無遅刻無欠席賞を逃しやがって」

 生徒を黙らせるべく、あざみは迫力のある声と教卓を蹴り飛ばす策に出る。見事、教室はしんと静まりかえったのだが、秋の声が場違いに響く。

「ねぇ、ねぇ、それって何か意味あるの? えーと」

「私は思乃家紀久。宜しくね、秋ちゃん。これ、お近づきの印。ちなみにその賞を取ると腕時計がもらえるんだよ」

 元来、性格の良い紀久は秋の席の方へと身を乗り出して説明した。秋はそれを嬉しそうに聞きながらも、紀久から貰った青いあめ玉を蛍光灯の光に透かして見つめている。顔には自然と好奇心が芽生えていた。

 この子はきっと、友達ができる感覚を今、知ったんだ。その証拠にあざみに見せびらかすように両手で青いあめ玉を包み込んでいる。

 あざみはそっと、青いあめ玉を手にとって小さな妹の髪を撫でた。

「没収」

「あ、あざ、先生。それ、返して。飴、返して!」

 教卓の天辺にも届かない背の秋がぴょんぴょん、飛び跳ねたところであざみの手には届かない。眉間に皺を寄せて、愛玩動物のようなか弱い瞳であざみを秋は見つめる。そんな麒麟さんみたいな目をしても駄目だ、今のあざみは教師なのだ。教室で飲食なんて以ての外!

「鬼教官」

 とぼそっと秋は言って、見開いた瞳から涙が零れた。慌てて、秋の手に青いあめ玉を握らせた。

「あれ? 泣かないで。この飴返すから。でも、学校内で食べちゃ駄目だよ」

「鬼教官を倒したわ、凄い秋ちゃん」

 紀久の声を皮切りに周りの生徒達が口を開いた。

「快挙だな、これは」と丸刈りの男の子。

「これからは秋ちゃんを通して僕達、学生の人間らしく暮らす権利を主張して行きましょう、なぁ、みんな」と秀才の女学級委員長。

「流石、頭でっかち学級委員長! 言うことが打算的だ」と国語辞書を読んでいた女子。

 もう、教室は動物園化していた。仕方がなく、あざみは数分の間、黙りを決め込んだ。この教室に集まった生徒諸君は基本的には真面目らしく、暫くすると話すのを止めてじっと、あざみを見つめてきた。無言のまま、一斉に目線がこちらへと集中すると心まで見透かされているようで怖かった。その恐怖を咳払いで吹き飛ばし、掃除の分担や、明日はクラスでの役職や、委員会を決めると生徒達に伝えた。

 秋はそれを前日に葉楼に言われたとおり、サンダーソニアが表紙の学習ノートにメモしていた。あざみは必死に拙い文字で書かれているあしたは約食をきめるという文章を見て、頑張って心も体も大きくなるんだぞと無言のエールを贈った。本当は言葉に出したかったが、あざみは平等な教師だ。ここでは秋のお姉ちゃんでは居られない。それがもどかしい。


                <四>


 秋は疲れを感じて、自分の机に顎を乗っけてだらけていた。疲れているのに目は色んな光景を見ようとしきりに動いている。

 誰もが名前の知らない子達ばかりだった。箒を剣に見立てて、雄叫びを上げながら互いの身体を容赦なく、斬り合う男の子の横で女の子数名が眼鏡を掛けた根暗そうな男子生徒の前に集まって、春休みの宿題の答え合わせをしていた。春休みの宿題は明日、提出らしいが新参者の秋には関係なかった。

 それらを目が捉える度にこの疲れは哀しい疲れではなく、嬉しい疲れであると発見した。とても、新鮮だった。そんな意味があるなんて……。

「秋ちゃん、今日はどうするの? クラブ、まだ入っていないよね?」

 教室内で飾っているパンジーに水を与えていたのだから、如雨露を持っているのは不思議ではないが、パンの耳の入った袋を持っているのは不思議だ。

「鬼! 教官からは見学をするように命を受けているんだ。ところでそれ、なに?」

「鬼! 教官殿から教室で飼うペットのハムスターちゃんに餌をあげなさいって命を受けているのだ」

「紀久ちゃん、秋ちゃんもパン、あげていい?」

「勿論、行こう」

 ハムスターはピンク色の指をしきりに動かしてパンを食べていた。秋はヒクヒクした髭を掴みたくて手を何度も伸ばしたが、その度にハムスターは篭の反対側へと逃げた。赤い目で秋を見つめて警戒していた。

「秋ちゃん! 駄目だよ、ゴールデンハムスターちゃんがお食事できないでしょ? 秋ちゃんだってお食事を邪魔されるの、嫌でしょ?」

「うん、パパがパチンコで負けちゃうと秋の作った目玉焼きの乗ったトーストを腹いせにぶん投げちゃうんだ。確かにそんときは哀しい」

 秋はそっと、ハムスターの側に細かく刻んだパンの耳を置いた。まだ、警戒しているのか、パンの耳の匂いをしきりにハムスターは嗅いでいた。その仕草は床に零れたカップラーメンの汁に浸かるトーストの匂いを嗅ぐ秋に似ていた。お腹はぐぅと鳴っていた。久しぶりに秋の部屋にママが運んでくれた材料で調理した料理なだけに諦めがつかなかった。二十分くらい、玉子二つと、カップラーメン、パン一切れの前で腕を組んで考えたんだ。例え、できた料理が玉子の黄身が潰れてパンが黒こげになったものでも嬉しかった。

 そうか、篭に閉じこめられたハムスターにとってのママは秋達なんだと秋はパンの耳を囓り続けるハムスターを観察しながら思った。

 クラブを回るべく、秋達はグラウンドへと急ぐ。もう、既に多くのクラブは始まっている。今日は紀久のクラブを見学する事に二人の話し合いでそうなった。

 しばらく、淡々と廊下を歩いていたが、急に紀久が秋の背中に向かって話しかけた。

「ねぇ、秋ちゃん、ご家族とは上手く居てるの?」

 秋はどきっとした。どうなのだろう? 自分の家族は……。

 白い糸が目立っている黒い手提げ袋を乱暴に振って歩く男の子の指先には血が集まっていた。紀久にどう、応えたら気まずくならずに済むだろうと考えている秋の横を通り過ぎる。手提げ袋が扇のような役割を果たして温かい風が秋の頬を撫でた。その風が秋の心をズタズタに引き裂いた。

 秋ちゃんはママに手提げ袋を作ってもらったことない、ずるい。

「どうして、そんな事聞くの?」

 その腹立たしさを余すところ無く、初めてのお友達にぶつけた。

「いや、ただ、友達の家族だから興味が湧いたんだ、好きな人の事は秋ちゃん、知りたいでしょう?」

 こくんと秋はそれに頷いた。確かに葉楼の全てを知りたいと思っている。その感情を時にはもどかしくも愛おしく想う。今は愛おしい。早く、葉楼の顔を見たい。

「今は離れたとこに暮らして居るんだ。今は葉ちゃん家にいるんだ」

「葉ちゃん? 同い年?」

「ううん、違うよ。高校生の格好いい男。秋をお姫様だって言ってくれたんだ。これ、葉ちゃんがプレゼントしてくれたんだ。かわゆい、ゆい。ゆい!」

 スカート部分を両手で摘んでその場でジャンプした。指から逃れようと蝶がひらひらと黒い空を飛んでいるように見える。

「へぇ、良いな。私、将来の夢がお嫁さんだから羨ましい。どんなに格好いい男なんだろう。クラブの帰りにちょっと、秋ちゃんの今、住んでいる家にお邪魔しても良い?」

「来てくれるの! 良いよ、大歓迎」

 秋は嬉しさのあまり、紀久の肩を叩いた。初めは戸惑っていた紀久も秋のように馬鹿みたいに明るい笑顔を浮かべて、秋の肩を叩いた。通り行く人が二人を一瞥して、くすくす笑って通り過ぎていたが気にならなかった。ただ、世の中は秋ちゃんの為に回っていると本気で思っていた。

 だが、その強気の姿勢も吹き飛ぶ光景が目の前にあった。ほんの数分しか経っていないのに柔なハートだ、ベビーちゃんと秋は弱々しく息を吐いた。

 ジャージのズボンをはいて、白いTシャツの袖を脇まで捲し上げた鬼教官が指示を出していた。

「おい、おい、第一ゲートくらいボールを突破させて見せろ! 強く振りさえすれば良いっていうもんじゃない!」

 その声は必死にボールを追いかけるサッカークラブの連中の雄叫びや、グラウンドまで聞こえてくる軽やかなリズムの合唱クラブの美声や、野球クラブがバットを振るう爽やか青春音を圧迫死させてしまった。毎度の激声なのだろう、言われたゲートボールクラブの連中は揃ってはい! と短く返事をした。

「そこ、チームでやっているんだ。戦術を考えろ」

 そう言われたお提げ髪の女の子はスティックで一と数字の書かれたボールを突いて、ゴールポール近くにある二と数字の書かれたボールにぶつけた。そのボールは第三ゲート近くまで転がっていった。

 それを成し遂げたお提げ髪の女の子は指を鳴らして得意げに坊主頭の男の子を見た。その男の子は芝生にある自分の持ち玉、二と書かれたボールを睨んでいた。

 ゲートボールクラブの連中の顔には汗が滲んでいる。秋はこういう場面を適切に表す言葉を知っていた。一昨日、葉楼の書棚から借りてきたサッカー漫画 どすこい正ちゃん 全百巻の主人公が汗を掻きながら、これがスポ根だぜ! と言って猛特訓の度にドSな笑みを浮かべていた。

 秋の頭にそのスポ根漫画の展開が走馬燈のように蘇る。主人公は七巻でライバルと初めて闘い、敗れる。その悔しさから日本一周をして、世界の広さを知り、新必殺技お腹でシュート(名前の通りの技)を取得。見事、ライバルに打ち勝つのだ(九十五巻での出来事。その間、主人公は何故か、ラーメン店で究極の塩ラーメンを調理したり、女子高生監禁事件をホモな警察官と一緒に究極の塩ラーメン片手に解決したりしていたのだ)。

 そんな苦行は二の腕が贅肉だけで筋肉なんてない、腕立て零回の秋には無茶だった。多分、八巻の野犬戦で全滅するだろう。

「秋、用事思い出しちゃった。葉ちゃんのお食事を用意する素敵な使命が」

 紀久があざみに話をつけに行った瞬間を見計らって忍び足を開始する。幸い、芝生は足音を消してくれる。自分の吐く息が妙に近い。やはり、匍匐前進は基本だ。

「いつから、葉楼の嫁になったのかな? 秋ちゃん」天から声が降ってきたが、諦めては駄目だと一日でどすこい正ちゃん 全百巻を読んだ経験が秋に教えてくれた。「今」と秋は呟く余裕さえある。「逃がさないよ」

 と目の前に大根足が立ちふさがった。脇の下をあざみに抱えられて、ゆっくりと市場に上がった魚のように視界が移り変わっていく。同情の眼差しを向けるゲートボールクラブの連中の隙間から、更衣室の方へと駆けていく紀久の姿が目に入った。秋の顔に白い紙が張り付いた。当然、払いのけた。

「良いのかな? 秋ちゃん。これはね、好きな人のお嫁さんになれる魔法の紙なんだよ」

「本当。葉ちゃんのお嫁さんになれる」

 秋は手を伸ばしたが、結婚届と書かれた紙は秋の手から遠ざかった。

「ほう、うちの葉ちゃんが好みなんだ、秋ちゃん」

「うん! 秋に凄く優しいとこが好きなの。後、膝枕すると安らげる。良いでしょう」

 今度はあざみの腰に右手を巻き付けて、左手で結婚届を掴もうとした。しかし、結婚届は鬼教官の嘲笑と共に遠ざかった。

「この魔法の紙が欲しいならば、条件がある。苦行に与えられるかな?」

「うん! 何でもする。だから約束守ってね。あ、そうか、ママがね、ママがね、約束は守ると見せかけて守らないのが世界の常識だって教えてもらったんだ」

「大丈夫だよ、ママ、間違えたんだよ」

「違う。ママは絶対だもん」

 そう、ママは絶対だ。逆らえば、容赦なく殴られる。たまにもの凄く、秋に優しい時があって殴らない日もあった。そんな日は幸せだった……。

 秋は自分がお嫁さんになったら、そんな幸せな日を永遠に過ごしたいと願った。一枚の白い紙をお国に出せば、それに近づける。

 初めて、約束を守って欲しいと強く思いつつ、秋はゲートボールクラブの連中に混じってスティックを振った。だが、ボールにスティックが全く当たらず、空を切るばかりだった。負けずに秋は何度か、挑戦したが飽きてスティックを投げ出す。そして、お腹を出したまま、仰向けに寝ころんだ。


               <五>


 葉楼は太陽が今日のお勤めを終えて、家に帰る時間にとても安らぎを感じている。それに加えて、秋の姿が離れてからも脳裏にずっと、クリアな映像として映っていた。喜怒哀楽と百面相する秋だったが、長い睫毛が優しい印象を接する人間に与え続けている。にやにやしている葉楼にクラスの男子はこう冷やかした。

「葉、女でもできたんか?」

「違いますよ。思い出していたんですよ。家族です、霜澤秋ちゃんっていう小学二年生の女の子をね」

「それ、何ていうか、知っとるか? 恋って言うんやで」

 そんな些細な出来事が喉に引っ掛かった魚の骨みたく、葉楼の心を捕らえて放さない。現在の法律では恋愛する事は禁止されていない。だが、世間的には後ろ指を指される。いや、そもそも、今抱えるもどかしさが恋心なのだろうか? ただ、自分は自分よりも弱くて脅威のない可愛らしい、無邪気な存在を撫でる事によって気分転換をしようとしているだけなのだろうか。

 無言で坂を上がる。すれ違う秋と同年代の小学生の女児を目で追う。女児達の背にある不釣り合いの大きな赤いランドセルはどう考えても、世界を知らない無防備さが透けて見える。世界を知らないだって? なら、自分はどんな世界を知っている? 

 一軒の赤い屋根が特徴的な民家を通り過ぎた。その民家からは味噌汁の甘い香りがした。その香りに誘われたのか、舌足らずな声で小学生らしい女の子がご飯、まだ、お腹空いちゃったと叫んでいた。すぐに母親が女の子に後、もうちょっとだからお母さんの前で今日の分の音読やっちゃいなぁと言う忙しない声が微かに聞こえた。

 葉楼にはその光景がありありと想像できた。自分と姉もそういう風な体験をした事があるからだ。

 だとするならば、自分は秋の世界を想像できない。体験した事がない、親に虐待されても尚、その存在を求める心理なんて。いや、想像したくない!

 帰宅する道筋に、秋の通う翼小学校があるのだから迎えに行こうと今日の朝、決めていたが、姉からのメールで秋の友達が遊びに来ると知って洋菓子店に寄っていたら随分と遅くなってしまった。

 秋はもう、帰ってしまったのではと危惧していたが、秋はちゃんといた。だが、面妖なことになっている。芝生に寝転がっている秋の両腕には結婚届けが握り締められていてとても幸せそうな寝顔をしている。

「あざみお姉さん、お疲れさんです。これは差し入れです」

 途中で購入した缶コーヒーをあざみに手渡す。

「サンキュー。あんたが気が利くの、珍しい」

「ほら、あざみお姉さんが携帯で秋の友達が遊びに来るって連絡くれたじゃないですか。だから、今日は財布の紐を緩めてみましたよ」

「ところで、秋ちゃん、どうしたですか?」

 その質問には眼鏡を掛けた如何にも真面目そうな女の子が答えてくれた。

「私は秋の友人の思乃家紀久です。秋は将来を賭けた戦争に駆り出されて、この有様です」

 既にゲートボールクラブの連中はいなくて、紀久は普段着のチェック模様の可愛らしいスカートとワイシャツという出で立ちだ。荻須家の秋ちゃんは体操着とスパッツの間からおへそを覗かせているのにまだ、眠っている。ちょっと、膨らしたお腹に掌を当てた。口元を半開きでも可愛らしさは全く変わらない。

「よく解らないけど、頑張ったんだね」

 耳元で囁くと、秋は急に目を開いて目を擦りながら葉楼を確認した。

「葉ちゃん、秋ちゃんと結婚して。これでお国に認められるんだもん」

「そうだね、立派なレディーになったら考えてあげても良いですよ。お姫様、幾ら夏でもこれからの時間帯は冷えますからおへそは隠しましょう」

 そう言って、葉楼は秋の体操着の裾を直した。その間、秋は眠たげに顔を顰めていた。


                <六>


「今日は楽しかった……。こんなに胸がドキドキしてる。楽しい」

 秋は自分の為に用意されたお日様の香りがする掛け布団をくんくん嗅いでは、ベッドの近くにある椅子に座る葉楼に微笑んだ。勿論、葉楼も微笑み返してくれた。

「何が楽しかった? ねぇ、秋ちゃん」

 葉楼の鼻筋に小さなニキビがあると確認できるくらい顔を寄せてくる。恥ずかしくなって秋はまだ、真新しい枕に顔を埋めた。そして、ちらっと葉楼を見てという動作を何度も繰り返した。

「学校に行けて良かった。初めてあんなに秋と同じくらいの背の子どもが沢山、集まってるの見た、びっくりした」秋は右手の親指を曲げた。「あのね、あのね、葉ちゃん。ハムちゃん、とても可愛いよ」右手の人差し指を曲げた。「ゲートボールってボールに当てるの、凄く難しい」右手の中指を曲げた。「紀久ちゃんと動物のDVDで観ながら、動物の声真似をしたのが面白かったし」右手の薬指を曲げた。「葉ちゃんが秋ちゃんと紀久ちゃんにホットケーキを作ってくれたのも」右手の小指を曲げた。「あざみお姉さんがお古のお洋服を持ってきてくれて秋ちゃんと紀久ちゃんにプレゼントしてくれたし」左手の小指を曲げた。「初めて、食べたマドレーヌも美味しかった。あれ、また食べたい」左手の薬指を曲げた。「葉パパが秋ちゃんと紀久ちゃんの宿題を観てくれたのも嬉しかった」左手の中指を曲げた。「葉ママのご飯が美味しかった。朝に食べたサラダ、お昼に食べたジャガ芋の入ったパンお弁当も、夜の野菜カレーも美味しかったよ。葉ちゃん、カレー、口に付いてたんだよ。ずっと、笑っちゃった」左手の人差し指を曲げた。「葉ちゃんが髪の毛、拭いてくれた時、寒くないか? って言われたのが嬉しかった」

 と左手の親指を曲げた。そうして、困ってしまった。

「葉ちゃん、指の数が足りないよ。全然、足りないよ」

「大丈夫だよ。家族の指があるでしょう。差し当たっては僕の指がここに。さぁ、お姫様」

「んじゃあ、後一つだけね。もう、痛いのは嫌だ。葉ちゃんと居る、ずっと居たい。だって優しいんだもん」

 真摯な瞳で秋は自分の為に用意された部屋を見つめた。真新しい勉強机は凹みや汚れすらも無く、光沢を放っている。一昨日、初めて貰ったお小遣いを握り締めて駄菓子屋で買った粉ジュースを今日の朝に一度目が醒めてしまい、作って飲んだものを少し零してしまったのに輝いていたのだ。粉ジュースの残骸が入っているはずのゴミ箱は空っぽになっていた。

「葉ママは何も言わなかった。秋の部屋を掃除してくれたの? ねぇ、どうして」

「当たり前だからですよ。子どもの部屋を親がしょうがないわね、秋はだらしがないんだからってね」

「秋ちゃん、ちゃんと掃除したよ。でも、この部屋は掃除するのが大変そうだもん」

 秋の昔、住んでいた屋敷の部屋には何もなかった。そう、何もなかった。それが当たり前だった。

 これが当たり前の部屋と感慨を持って、次々と視線を巡らせた。まるで初めてそれらを目にしたように。

 ティッシュの収まっている容れ物は青と白のラインが交互に走った可愛らしいデザインだ。ペン立てにあるシャーペンのノックにはコアラの人形がぶら下がっていた。しかも驚いた事にこれは家で使う用のシャーペンなのだ。そのペン立ての中には他にも色鉛筆やらがまるで満員電車のように詰まっている。そんな感想を初めに秋は思ったのだが、満員電車を写真付きの本でしか見たことがない。唯一、秋が入る事を許された部屋にはいっぱいの書物と筆記用具が置いてあるだけだった。

 いらない物だけしか置いてないから秋も入りたきゃ入りなさい。そんな言葉の意味が解った。どうして、その書物だけの部屋にゴミ袋が乱雑に転がっていて、玉子が腐ったような異臭がしていた理由も解った。

「秋? どうしたんですか? 震えて」

 ううん、違う。これは震えじゃない。嬉しいんだ。あいつらは死んで、秋だけが生き残って贅沢な暮らしをしているんだからざまぁねぇよな! って喜びだ。

 心配する葉楼の背後に突っ立て居る哀れな二体の死体を秋は睨んだ。重度の火傷を負った秋の父親と母親は黄ばんだ歯を惜しげもなく覗かせた卑しい笑いを浮かべた。秋を馬鹿にした笑いだった。

 秋はその二人に向かって自分が着ているパジャマを見せびらかすようにLOVE ANGELと刺繍されてあるロゴの真ん中の生地を摘んで誇張させた。

「ほら、秋ちゃんはこんなに愛されているんだもん。もう、従わないよ」

「従う? あんたが勝手にやったんでしょ。勝手に都合の良い方に解釈してまさか、自分が愛されているなんて誇大妄想を広げてたのか? ママの教え? そんなのは初めからないよ、ただ、遊んでいただけ、何でもはい! はい! 言うだもの貴女が」

 秋の呟きに動ずに、秋の母親は愛しい我が子を撫でる。そして、睫毛のない焼けた白目を細めた。

 肉が焼けた異臭が鼻に入り込む。秋はすぐに葉楼の胸に飛び込んで嗚咽した。胸に飛び込んだ瞬間、秋と同じ柚の香りがした。

「具合が悪いんですか。ちょっと、おでこ触りますよ」

「その男、かなり慌てているな。どうせ、お前の男も俺みたいに人生に失敗してろくでもない男になるんだ。今のうちの幸せだぞ、娘。きっと、株に失敗してその借金を返済したら今まで積み上げてきた財産がすっかり無くなり、やる気は零って寸法さ」

 幻でしかない父親の死体が喋る言葉に秋は怒りを覚えた。だが、ぐっと堪えた。指は葉楼のTシャツをぎゅっと、掴んでいた。肌に爪が食い込んでいるのを感じた。

 それはお前の事だろうがぐうたら馬鹿! と罵ろうとする言葉も爪に一緒に食い込ませて葉楼を心配させまいとした。

 だが、秋の懸命な努力は実らずに、秋の額に手を当てている葉楼の顔色は次第に青く変化していった。それにしても、葉楼の手はアイスクリームみたいにひんやりする。

「大変だ。秋、ちょっと、待ててね。今、冷却シートとお薬持ってくるからね」

「あ、葉ちゃん。嫌だもん」

 そう言っても、葉楼は秋をベッドに寝かすとすぐに扉を開いて、出て行った。階段を下る騒々しい音が聞こえる。

「母さん」

「何だ、馬鹿」

「秋はいつになったら私達の肌を持ってきてくれるのかな? 早くしてくれないとパチンコの腕が鈍ってしまう。ここんところ、連戦連勝なんだ」

 パチンコの画面がぴかぴか光る夢を見ている父親を秋は蔑んで、その父親の顔にベッド脇にあった目覚まし時計を投げつける。

 秋の両親はそれを避けるように消えた。目覚まし時計は耳に残る乱暴な響きを立てて、カーペットに落ちた。ケースに罅が入っているのが確認できた。そのケースの罅を一つずつ、拾っていたらカーペットの白さに薄い黒が混じってきた。

 止め処なく、それは雨のように降る。その雨は自分の力では止められない。どうしよう? と思った。もうすぐで葉楼が戻ってくる。悲しませたくない。

 そっと、温かい風が吹いた。俯き、じっと眺めているカーペットに四つの異なった影が映った。それを確認しようとはしなかった。

 秋は悪い子だから……。

「大丈夫? 秋ちゃん。あざみお姉さんが林檎持ってきたよ? とりあえず、美味しいもの食べて気持ちを落ち着かせよう」

 あざみの掌に乗っかった林檎は赤々しい。それは死のイメージと同じだ。目覚まし時計の針はまだ、蟹歩きしている。生きている……。だが、アリアや厘はもう、生きていない。

 白い厘の肌が林檎に触れる前に秋は手を引っ込めた。

「駄目だよ、秋、悪い子なんだよ」

「何、言ってるんだ。秋ちゃんは葉楼お兄さんみたいに良い子じゃないか? ご近所の皆さんに挨拶もできるし、隣近所の岩郷さんがあんな良い子、いないよって感心なさっていたよ」

 骨太の優しい温かみのある梅之助の声が秋に元気をあげようとしてくれた。だが、気合いではどうにかなりそうもない。

「口を開けて秋ちゃん、苦いけどお薬」

 思湖のしわくちゃの掌に乗る小さなオレンジ色の薬は苦そうだ。だが、それさえ飲めば数時間後には心地の良い眠りが約束されるだろう。

 自分だけ、痛みから逃れて良いのだろうか。アリアは今も苦しんでいる。厘も苦しんでいる。そう思うと顔を上げて蛍光灯の眩しい光を茫然と眺めているだけしかできなかった。

「口を開けないと飲めないよ? これ、貼ってあげるから飲もうね」

 顎に手を添えてから、葉楼がおでこに冷却シートを貼ってくれた。ひんやりが頭の痛みに勝っていく。

 今は葉楼に溺れてしまえば良い。腕がそんな願望に反応して勝手に葉楼の両肩に乗っかった。そして、両腕を結んだ。かさかさしている唇は葉楼の首筋に触れていた。

「おい、葉ちゃん。お姫様は口移しを所望してるんじゃないか。教師としてはノーだが、ここは公共の施設、学校ではない。そこで姉としてのあざみがゴーと命令している。さぁ、口に含め! 葉ちゃん!」

 急に甘えたくなって、葉楼の首をちゅっと吸った。

「吸っちゃ嫌ん。ちょっと、本当に勘弁ですよ、秋」

「何、オカマになってんの! 馬鹿」

「叩くのなしですよ、お姉さん。あ、また、吸う、吸われる」

 こんな事をしても、葉楼も、あざみも、梅之助も、思湖も笑顔だと知ると気分が楽になった。そんな秋の表情は眠たげに瞼を細めていた。

 愛されるってこんなにふわふわしているのに不安どころか、安心する。そう秋は知った。


               <七>


 世の中には蛙の子は蛙という摂理が存在する。だとするならば、私が今、看病している千冬の娘はやはり、千冬の性質を持っているのだろうか。あの残虐さと無邪気さを両方とも兼ね備えた。鏡の破片のように人々の心を良くも、悪くも抉っていく様子をも引き継ぐのだろうか。

 私は彼女を変えられなかった。だが、昔に囚われるのは止めにしよう。時は逆さには流れない。

 今、私の息子の葉楼の腕を枕にして、千冬の娘の秋がすやすやと寝息を立てている。掛け布団が盛り上がったり、下がったりする。その緩慢な風景さえ、愛おしい。老い先の短い自分にはそれだけで十分だ。

 だが、それでも……過去は再生される。人間の脳みそなんてきまぐれなものだ。

 出逢って直ぐは千冬、不吹姉妹をただの変わり者姉妹と考えていたが、それは実に浅はかだった。それを思い知らされたのはあの出逢いから一ヶ月後の事だった。その日、私は霜澤姉妹と遠出をする約束をしていた。

 玄関のベルの音がすると、私は暇を弄ばして猫じゃらしで猫の頭を撫でていた手を止めた。何処か、リズミカルに叩くその動作は千冬の奔放さを表しているようだった。

「はい、今開けますからお待ち下さい」

「残念、待たないよ」千冬がドアを開けようとするが生憎、ドアには鍵が掛かっている。鍵っ子の私は首からぶら下げた鍵の扱い方は熟知しているのだ。学校を自主休業的に休む回数は多いが馬鹿ではない。「さて、と不吹! 三十路からマシンガン借りてきてこんなしーたんと私との蜜月を邪魔する不毛な扉なんか、吹き飛ばすんだから!」

「止めなさい。あんたの家と違ってうちは貧乏なの。外務菅なんてちんけな仕事に就くあたしの家と犯罪集団のボスであるあんたの家と比べないでくれる」

 語気を強める私だったがついつい、頬が緩んでしまう。千冬は私の友情を映画館で鑑賞しているかのように解っているんだぞと鍵が開いた扉の隙間から顔を覗かせた。というよりも、扉の隙間と壁の間に顔を挟ませていた。それだけではインパクトがいまいちだと考えたのか、後ろ髪を顔に被せて、右目だけを覗かせた。少々、不気味だ。

「助けて、ドアに殺されるわ」

「後ろへと退けば助かるよ、千冬ちゃん。頑張って」

「後ろには浣腸をしようと構える不吹がいる。妹が裏切ったのよ。いつも、妹のお気に入りのお人形のお洋服を強奪して隠してやったのに。褒められるならばまだしも、こんな仕打ち、理解できないわ」

「いや、いや。千冬ちゃんの方が理解できないわ」

 片手を振って私は否定すると、後ろ髪を定位置へと追いやった千冬と目で合図を交わした。私は千冬の黒髪をむぎゅっと掴んだ。その後に続いて千冬も同様にする。

 路肩には細長い黒塗りの車と、メイド服を着たマシンガンを構えた背の高い女性がいた。私は失礼だとは思ったがその女性を指さした。

 これがアメリカか……、私はアメリカを舐めていたのか!

「いいえ、違いますよ。これはわたくし独自のファッションです。アメリカ関係ない。多分五十年後くらいに日本の秋葉原にメイド達のコミュニティーができるとわたくしの戦場で培った勘がびんびん言ってるんです。わたくしの名刺、はい」

 大人のお店、ビーナスエース♪

 と名刺に記載された店舗名は私にどう、リアクションを返せと要求しているのだろう。

 お喋りとお酒だけならば、五千円ぽっきりで遊べちゃうんだよ。五歳から十二歳までの可愛い女の子が君をご奉仕にゃん!

 と名刺はやたらに長ったらしいキャッチフレーズを記載していた。子どもは欲情の対象にはなりません! と油性ペンで書き殴りたい衝動に駆られた。もし、私に息子がいるとして、八歳児とそんな大人な関係になったら私はきっと、拳で粛正を下すパワフル主婦になるだろう。

「あ、御免。それはうちが経営を任されている売春宿の名刺でした、すませんね」

 今度、渡された名刺はご本人のもののようだ。

 スーパーアキバ系メイド 李(偽名)

 つっこみどころ満載の名刺だった……。右胸にクリップで留められている空っぽの名札に李と書かれた紙が入るのだろうか。奇抜な両端で金髪を結わえた髪型も私には到底、理解できない。私は異文化交流頭痛に襲われた。直ぐにポケットから処方箋を取りだして、薬を口の中に放り投げた。

「大丈夫ですか? きっと、いつも使っていない頭を使った為に知恵熱が出たんですね」

 実に失礼な言葉を私は聞かなかったことにした。これでは胃が痛くなるのも時間の問題だ。

「それではメイドさんは戦場で戦った経験があるんですか。凄いですね、私はお国の為に戦争に参加したいなんて思いませんけどね。命を粗末にするなんて馬鹿らしい」

「戦争? ああ、勘違いしたんですね。わたくしの戦場はカードゲームの試合場です。そこで命の取り合いをするんです。おかげで知恵熱を出して寝込んだ経験がありません。ここ、鍛えてるから熱が出ないわけですね」

 おでこを叩く李=三十路は馬鹿だった。熱=知恵熱の法則が彼女の頭では絶対視されているのだろう。

 メイドはマシンガンを細長い車内に放り投げた。まるで銃が子どものお人形さん扱いだ。霜澤家には他の犯罪集団から身を守る為に銃が三百丁くらい霜澤家の所有する土地の地下に眠っているとさぞ、当たり前のようにクッキーの生地を焼く際に不吹が喋っていたのを思い出した。

 不吹は車のボンネットの上でいつものように意味なく、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。不吹の方は姉とは違って金髪の髪と青い瞳が特徴的な可愛らしい女の子だった。

「ふーちゃん、車が壊れちゃうから駄目だよ」

 私は不吹の手を引いてボンネットから地面へと跳ぶように首を横に振って合図した。

「ぴょん」

 と愛らしい掛け声と一緒に地面へと着地した不吹は日本風のお辞儀で挨拶をした。私もそれに従い、お辞儀した。

「三十路! さぁ、車を出して! 大自然へと繰り出すわよ」

「ああ、その前にお嬢様、給油して良いですか?」

「しょうがないわね、車が動かないとライオンに喰われちゃうわ」

 野生ライオンはニューヨークから数時間で行けるような土地にはいないだろう。そんな事を知らずに千冬は殻のグラスを手に持って威厳に満ちた顔をしていた。

 一方、不吹はもう、寝るべく、シート上の御菓子の滓を払っていた。シートの下にはスナック菓子の殻の袋が落ちていた。私はそれを拾って、備え付けのゴミ箱へと放り投げた。両膝を叩いて不吹を呼んだ。すぐに不吹は姉を乗り越えて私の両膝へと座った。

「ん? 話が食い違っていますね。私の給油です。お嬢様方はわたくしの華麗な運転捌きをご覧になろうともせず、やれ、塩で手がべとべとだから綿飴の封を開けてだの、言ってましたよね。ぷんぷん。優しい李ちゃんは開けてあげましたが、おかげで谷底に落ちるとこでした」

 私は咄嗟に危険を感じて車から脱出しようとしたが時既に遅し、自分はじっとしているのに景色が横へと走っていた。私は祈ろうとしたが、自分は無宗教者の為、祈るべき神がいない事に落胆した。

 私達の給油を途中、立ち寄った美味い肉を焼いてくれる飲食店に立ち寄って済ませてから、北へと車を走らせる。人気がどんどんと無くなっていき、とうとう道路の舗装すら途切れた畦道へと車は入っていく。森が見えてくると車は急停止した。

 今まで込み上げてきた満腹感が外へと一瞬、飛び火しそうになるのを唇に蓋をして押さえ込んだ。そんな危機的状況にあった自分を素に戻して、私は隣に座っていた千冬を見た。

「何、やってんの?」

 プリンのカップにおでこを突っ込ませたまま、俯いている千冬を不吹はげらげら笑っていた。

「見ての通りさ。プリンってこんな危険性も孕んでいるんだね、びっくりだべ」

「私の方がびっくりだべさ」

 私達は自分よりも背の高い草を掻き分けて前へと進んだ。行けども行けども、滴を葉に含ませた草ばかりで何をしにここまで来たのだろうと疑問を感じた。今更ながら遠出をする以外に聞いていない事実に気付いた。

 先頭を歩く李というメイドはマシンガンの他にナイフを握っていた。狩りでもするのだろうか。

 正面のボロイ家屋を見て戦慄が走った。その戦慄がこの先に自分の体験し得なかった何かがあると予知してくれているようだ。私は恐怖で顔を歪めながらも、内心わくわくしていた。それは強がりだったのかもしれない。

 最後尾の私がボロイ家屋に入ると、用心深く李が扉に鍵を掛けた。家屋内は真っ暗だったが無人のようで外の鳥たちが鳴く声や、虫の羽音、水が下流へと滑り落ちる音がした。その音がここはお化け屋敷ではないのだよと教えてくれた。私は恐怖心を払拭して、ひたすら無言のまま、歩く他の三人の背中を追った。

 赤いカーペットが敷かれた廊下を歩きながら、ひたすらそれの途切れる場所を探していると、赤いカーペットの真ん中に白い部分を見つけた。その白が本来の廊下の色らしい。その白の上には取っ手と鍵穴が付いていた。

「ねぇ、人の本質は何処にあると思う?」

「難しい事を聞く、何か千冬らしくないよ」

「そうかな、これは千冬が人生を賭けてでも証明しなければならない課題なんだよ。そうしないと私は不幸のままだからね」

「不幸? 何、それ。不幸なんてものの見方の違いで簡単に変わるんだよ。例えば、チョコレートを不吹に食べられたとするでしょう。でも、そのチョコレートが毒入りだったら、不吹が食べてくれた事で貴女は数十年の未来を手にできる。それは幸福でしょう。でも、妹を思う姉としては不幸な出来事だよね」

「そんな事しないよ。あたし、虫歯の治療してるからママにチョコレート食べるな、ゆわれているもん」

「その割には不吹お嬢様は」鍵穴に銀色に輝く鍵を差し込んで回していた李が千冬に報告した。千冬はゆっくりと頷いた。それを見届けるとまた、話の続きをする。「不吹お嬢様は車内で御菓子を食べまくっていました」

「子どもは我が儘なものなのよ!」

 そう言って不吹は床下のぽっかり空いた空間へと降りた。

 随分と軋むけれども階段だと私は不満げに溜息を吐いた。階段を下った奥の一室に目を見張った。鉄格子の向こうには五歳から十六歳までの女の子がいた。その子達は誰一人として五体満足ではなかった。言葉が出ずに馬鹿のように口を開けていたが、ここでは何か恐ろしいイベントが催されている。そんな考えに至った。後退りをした。

「さっきの質問の続きだけど、人間の本質は何処にあると思う。私はね、血に宿るだって思っているんだ。見てよ、あの不吹の表情」

 不吹は涎を唇から垂らして、まるで食べ物を品定めしているような目を哀れな女の子達に向けていた。格子にしがみつく細い爪は先が尖っていた。そのとんがりがこの小さな悪魔の破壊性を象徴しているように思えた。

 あのボンネットの上に乗っかっていた少女が今や、私の倫理観からは遠いところにいた。

 千冬は私の首筋をゆっくりと丹念に舐めた。

「寒いの? 思湖。大丈夫、貴女は何もしなくても良いの。傍観者で良い。それでも、貴女は私のお遊びを理解するようになるでしょう。さぁ、李、適当に廃棄処分のゴミを持ってきて」

「はい、お嬢様」

 李が千冬にナイフを手渡すと、千冬はその場で何度かナイフを振ってみせた。それなのに檻に入れられた少女達は声を出さなかった。

「人間は恐怖を耐えられる許容量を超えると心を閉ざしてしまうのよ。面白い事に一ヶ月に一匹は檻の中で恐怖に耐えかねて心臓発作を起こして勝手に死んじゃう子もいる」

「何も感じないの?」

「レクリエーション効果ってこと? それだったらストレス解消と支配欲が満たされる」

「違う」

 私はそう言いながらも相手の顔を見なかった。ただ、目の前にある光景だけを眺めていた。必死に無関係者を気取ろうとしていた。自分は硝子越しに虚ろな表情をした女の子が李に手を引っ張られて引き摺られているのを眺めている。女の子の片足は膝から下が切断されていた。明らかに人的なものだ。

 私は少女の表情を目の前で再度、見直した。少女は助けを呼ぶような悲しみに満ちた表情をしてはくれない。少女が息を吸う瞬間を狙うように千冬は少女の首筋にナイフを食い込ませた。少女は金切り声を上げた。肌にナイフが食い込む度に喚声が部屋を包もうとする。だが、その声は突如として止まり、変わりに血が噴き出す静かな音が首筋から聞こえた。

「楽しいって感じるよ。自分の握るナイフが今、生殺与奪を支配したんだよ。凄いでしょ」

 私は何も応えられずにただ、頷いた。

「さすが、私の友達だね」

 そう言った彼女の安堵した表情は忘れられない。五十年経っても尚、忘れられない。

 だって、彼女はうれし泣きしていたのだから、やっと……自分の全てを知る友人ができたと。

 だが、彼女の幸福は全ての幸福ではない。後に残された夥しい肉と、鉄の香りを放つ血の持ち主にとっては不幸でしかない。

 それと成分の同じ血が私にも、千冬にも流れていた。違うのは家系、遺伝子。だから、どうしようもなく、無神論者の私でさえも祈りたくなるのだ。その遺伝子にほんの少しでも慈悲があるならば、今同じ部屋に眠る葉楼と秋の物語の行く末を彼らの望む幸福に導いて欲しい。

 私達の物語は既に終わっている。千冬は死に、不吹は連続殺人犯として死刑を待つ身、私はただの主婦……そう、偶然と選択が入り乱れている時間が定めたのだ。

 階下で電話の着信音がけたたましく、鳴り響いているのに気が付いた。それも随分と前から鳴っていた様子だ。

「耳が遠くなったね。ここまであっという間に辿り着いてしまったよ」

 電話を取ると、受話器からは人の呼吸音だけが伝わってきた。正直、私は気味が悪くなり、すぐにそれを置こうとした。

「実はあなたに話しておきたい事があるんです」

 その声は誰の声だろうと一瞬、考えたが秋の母親 千冬の妹の声だ。すぐに解った。

「どうした? 不吹。改まって」

「霜澤秋は私の娘です。殺人を犯した後に秋は産まれました。ですけど、世間体というものがありますから姉の子としたんです。秋は病院ではなく、潜伏先の廃ビルで産まれたものですから霜澤家の余力でも偽造は容易かったのです」

「母親って名乗るんですか。いまさら」

 衝撃を受けながらも、私は震えた右手を庇うように左手を右手に添えた。それでも、右手は小刻みに震えていた。この震えは何だろうと考えた。

 そうすると、あの幼い頃の無邪気なまでの残忍さが人にはあるのだと私に教えてくれた不吹の笑顔が、時代を越えて秋の笑顔とぴったり重なった。

 首を横に振った。あの子は今時、珍しいくらい良い子ではないか? だが、その良い子と呼ばれる人間が殺人を犯す事だってある。決まって殺人犯の素性を知る人々は、あいつは良い奴でしたと答えるじゃないか。

 いいや、違う。あんな天使みたいな子が悪魔になるはずがない。

「そう、いまさらだから……これは胸に閉まっておいて」

「誰の子?」

「私が殺した一家の父親。名前は忘れた。近づくために女の武器を使ったってわけ」

「あなたは秋を愛しているの?」

「当たり前でしょう。秋は私の娘だもの」

 その言葉は信じられないくらい、冷たい口調で表されていた。

 今、不吹はどのような顔をして、受話器を握り締めているのだろうか?

 残念ながら、私には確認できない。彼女は今、遠い場所にいるのだから。





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