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醜美千秋  作者: 遍駆羽御
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第一章 無邪気な初恋

 第一章 無邪気な初恋


               <一>


 人はどれだけ、生きた時間を重ねれば、後悔しないようになれるだろうか。六十歳にもなって私はそんな事をいつも、考えていた。むしろ、年を重ねれば重ねるほど、心に泥を被るように後悔は増えていく。ああ、自分の肌はその醜さを示すようにシワシワだ。まだ、美しかった十二歳の頃、私は初めての後悔の元になる出逢いをする。そして、その後悔ももうやり直せない彼方へと消えたのを警察の届けてくれた遺書によって知った。今、私は一人、静かに遺書を握り締めて思い出に耽る。それが千冬の遺書とは信じられず、遺書の入った封筒の形が拳の中で変わっていくのでさえも何処か、現実味が無かった。

 当時、私は父親の仕事の都合でニューヨーク市へと引っ越してきた。まだ、カラーテレビは一般に普及していなく、白黒の映像でしか異国を覗けなかった。そんな私の目の前に堂々と多くのビルが建ち並んでいた。それは十二歳の私にとっては恐怖そのものだった。今にも倒れてきそうな気がした。それだけではない。周囲にいる人々は子どもでも私よりも背が高かった。

 十二歳の私が一人で歩いているのを心配した警察官がゆっくりと近づいてくる。太った白人の警官はまるで赤ちゃんを怖がらせないように無理矢理、笑みを作っているようだ。私はアイスキャンディーを舐めた。ひんやりして美味しい。だが、このアイスキャンディーは二人分くらいありそうだ。

「可愛いお嬢ちゃん。君のベビーシッターは何処だい? こんな場所にいると誘拐されちゃうよ」

 なんてゆっくりした英語の発音。小さな子にはゆっくりと、丁寧に話す文化は世界共通なのだろう。私はせいいっぱいの睨みを利かせて、警官を追い払おうとした。

「私は十二歳。三歳児じゃないの。もう、補助輪付きの自転車だって乗っていないし、後四年経ったら、ドラッグ、酒、煙草、男に溺れる予定よ」

 流暢な日本語で捲し立てた。

「は? 何、言っているの? お嬢ちゃん? 宇宙と交信しているのかい? ピー、ピー」

 気軽に私の鼻を摘んでピーともう一度、言ってから警官は器用に眉毛を動かして見せた。私はそれで見事、渇いた笑いを浮かべた。

 私が宇宙人と話しているのよとうんざりした顔で唾を道端に吐いた。風邪気味で口の中に鼻水が侵入していたのだ。まだ、ぬるぬるする。嫌な気分。

 警官の袖をぎゅっと掴む私よりも背の高い日本の中学校の制服、セーラー服を着た少女が日本人離れした英語で話しかける。

「すいません、ナイスガイなポリス。うちの妹がお世話になっていて」

「駄目じゃないか。こんな小さい子を一人しちゃ。最近、児童売春を目的とした誘拐事件が多発しているんだ。目を離しちゃ駄目だよ」

 そうその少女に注意を促してから警官はパトカーに乗って颯爽と走り去っていった。

 後に残されたのは謎の少女と、その少女の後ろでぴょんぴょん跳ね回る女児、そしてアイスキャンディーを舐めるのに忙しい私だ。

「ねぇ、姉、こいつ知らないよ」

 思い出したように女児は言った。

「うるさいですよ、妹。言葉遣いは丁寧にって言ったでしょ? お馬鹿さん」

「痛い。馬鹿」

 そう二人は言い合って無言のままに睨み合う。少女は女児の頭を撫でる振りをして、殴った。殴られた箇所を押さえながら、もう一方の手で姉のスカートを引っ張る。

 突如、始まった姉妹喧嘩に一瞬、観戦の姿勢を示していたが、周囲の人々が一瞥をくれてるのに気が付いた。

「喧嘩は止めましょう」

 しばらく、姉妹戦争観戦の後、姉の方が霜澤千冬、妹の方が霜澤不吹とそれぞれ自己紹介してくれた。私達は公園へと移動しつつ、途中、スーパーマーケットで大きな板チョコを一枚購入した。それを仲良く、三人で分けていたのだが、不吹が眠いと愚図りだして今は千冬の膝の上で寝ている。

 私も公園にいる子ども達の楽しげな声を子守歌に眠りたくなった。目が重くて、何度も瞼を擦る。

「学校、まだ行っているはずの時間だよね。午後一時って」板チョコを囓って私に手渡した。「私は熱を出して休んでいたんだけど、妹が私もお姉ちゃんと一緒が良いって休んでね。それなら良いんだけど急にお外に行きたいって言い出して」

「私は……。嫌になったのよ。無理矢理、平等っていう檻に入れられて勉強するのがさ」

 教室に入ると親しみ慣れた日本語は聞こえずに世界共通語と世界から注目されている英語が私の耳にばかり入ってきた。単語が飛び交う度に私は苛立った。単語の意味は辛うじて解るが、心がそれを理解するのを拒絶する。単語の意味なんて関係なく、苛々するから、同級生がおはようと挨拶してくれても素直にはなれなかった。ただ、むすっとした顔で席に着く。みんなはまだ、席に着かず、会話に花を咲かせている。私はその世界には登場したくはなかった。私のいるべき世界は日本だ。その想いが募りに募っていつの間にか、ニューヨーク市を彷徨い歩いていた。だが、何処にも私の世界は無かった。

 はぁ、と溜息を一つ吐く。板チョコを囓る。この甘さが全世界共通のように、アメリカも日本も何も変わらなければ住みやすいのに。

「壊せばいいでしょう」乱暴な言葉に私ははっとして、千冬の方へと視線を送る。私が見ているのを確認すると得意げに唇の片端を吊り上げた。「日本と違ってこれが幅を利かせているんだし」

 千冬が服の中から取りだしたのはリボルバー拳銃だった。その銀色のボディーが死に神に見えた。見えない弾丸を脳天に撃ち込まれたように眠気は散っていった。実物を初めて見る。見た感じはとても、人をこれで殺せるとは思えない。玩具のようだ。だから、冷静に私は言えた。

「危ないよ、こんなの」

「護身用よ」

 そう日本語ではっきりと言った千冬と、その千冬の膝でぐっすり眠る不吹との出逢いがアメリカ生活成功を導いてくれた。日本という意識世界を共有する仲間はこの後、人種、宗教の垣根無しに増えていった。それは後悔していない。

 大学を日本の大学にしようと決めた時、霜澤姉妹との連絡方法を密にしなかった自分に後悔している。そうすれば、少なくとも四十年間という時間を彼女たちと共有できたはずだ。

 もう、思い出に浸るのを止めなければ。夫が思湖、子ども達も出掛ける支度が終わったから新しい家族、霜澤秋ちゃんを迎えに行くぞとわざとらしく張り切る声が聞こえる。千冬の残した娘はかつての千冬のように私を受け入れてくれるだろうかと胸がどきどきしていた。


                <二>

 

 少年は母と父の表情を見て、これから行く場所が家族にとって大きなターニングポイントを迎えるだろう事を察した。踵を鳴らしていつものように軽快なリズムを取る。取っている本人は全く、それには意識を注意せず、自分と姉、荻須あざみの真ん中にある特等席をいぶかしげに眺める。特等席はよく、車のCMなんかで赤ちゃんがにこにこ、ぱちりんこ笑顔で座っている席に似ていた。だが、名前が出てこなくて唸る。

 その間を縫うようにあざみの膝の上にあるネットブックパソコンからニュースが聞こえてくる。

「昨夜、行方不明になっていたアリアちゃん 八歳が翼町の側溝に引っ掛かっている所を近所に住む主婦が発見し、通報致しました。警察では遺体の損傷が著しく激しく、悪戯された形跡のない事から殺人快楽者による犯行という方向で捜査を進めています」

「翼町? 大丈夫かしら。うちの生徒さん達は。心配だわ、二学期には全員の顔が拝めるかしら」

「あざみお姉さん。ピンク色のワンピで教師みたいな事言っても恰好がつかないですよ」

「ん、荻須葉楼 十七歳の高校二年生君」仕事(高校教師、しかも葉楼の担任)の用件絡みの電話を取った父、荻須梅之助みたく渋い声でこちらを振り向く。あざみは外跳ねした髪を弄びながら、「日頃のお姉ちゃんの広大な愛に対する感謝の言葉と認めたよ。ならば、それは愛を持って返礼されなければならない。その身を持って」

 あざみが女性とは思えない男性的な思い切った口の開き方で両手を挙げている。口内にある金歯を嫌々ながらも視線に入ってしまい、葉楼はもう、この人、三十なのにこんな獰猛で良いんですかねぇと苦笑いした。

 三十代独身あざみは十歳以上年が離れた弟をどう虐めようか? 虎視眈々と隙を窺うが、舌なめずりして余裕綽々な所をわざと童貞野郎に見せつける。

「止めなさい。ここはサバンナじゃないんだ。確かに車とは思えないくらい、走行音しないけど。さすが、日本製! ってとこだけど。それにどうせ、勝つのはライオンの方に決まっているだろう? ねぇ、母さんや」

 前髪を後ろへと追いやった灰色の髪は微かに開いた窓から入り込んでくる風によって徐々に滅茶苦茶にされていく。それでもすっかり、朝寝坊してしまいました髪になっているのも気にせずにサングラス越しから愛しい荻須思湖を見つめる。

 思湖は車中、ずっと俯き加減で終始、無言だった。

「貴方?」

「何、愛しい思湖ちゃん」

「貴方、煙草臭い。昨夜、あれだけ言いましたよね。私には亡き親友 千冬の愛娘 あったんを良き育児環境ですくすく育てる使命があるんです」

 そう力強く言う思湖の言葉には何やら、決意が漲っている。だが、葉楼の見解ではそれはもう、既に空回りしている。葉楼は特等席のシートに積んであるビニール袋の中身を覗いた。中には姉と母の提案で葉楼が無理矢理、コーディネートした普段着が入っていた。その普段着はノースリーブの子供用ドレスで、サンダーソニアが咲き乱れていて蝶が元気よく羽ばたいていた。これを眺める度につくづく、自分もこの両親の子どもなのだ、遺伝って怖いなと思い知らされる。

「僕も空回りですね、ちょっとないだろう。あ、これ、チャイルドシートか。六十歳夫妻、空回りすぎですよ」

 そう呟く葉楼の頭にライオンの魔手が忍び寄った。

「お前、もう死んだ」

 葉楼は姉ににゃーと猫声で答えてから、家族全員に一枚ずつ配られていた秋ちゃんの写真を覗き込んだ。そこには自分の世界には無かった憂い目の姫君がいた。

 シルクのようにスベスベな肌。それは触ることの許されない無邪気さの楽園だ。だが、その楽園はかつて栄えたであろう陽を失っていた。楽園の象徴であろう青い瞳は枯れ果ててしまい、翳りのある風景と化している。それなのに信じがたい好意の吸引力を持っている。葉楼は吸い寄せられていく……。さらさらなお人形みたいに下へと伸びていく金髪、その黄金の美しさとは対を成すケチャップや、ゲロで汚れた無地のTシャツ。そのシャツが八歳の女の子の境遇を語っていた。両親はただ、葉楼やあざみには両親から虐待を受けた霜澤秋ちゃんは、両親が自殺した為、うちで引き取ることになった。秋ちゃんの母親 千冬の遺書にも娘を宜しく頼む旨が書かれていたそうだ。隠し事無しという家訓を持つ荻須であったのでこれも例外無しに葉楼やあざみにも公開された。だが、葉楼はそれを拒絶した。

「ねぇ、あざみお姉さん。可愛がりましょうね、秋ちゃんの事。馬鹿な死んで当然の両親に愛されなかった分まで」

「童貞。愛っていうものを国宝みたいな完璧で尊いものだと想っているでしょ?」

「いけないですか?」

 葉楼の頭にはその言葉しか浮かんでこなかった。だって、家族の愛は決して壊れないものなのだから。葉楼は仲睦まじい自分の両親の会話に耳を傾ける。

「くそっ、消臭剤スプレーをレザーパンツに散布しなかった。それで今日、煙草を吸っていたのがばれてしまったわけか。君の優秀な頭脳の勝利だ、愛しい思湖」

「まぁ、相変わらず渋い声で素直に自分の非を認める。そういうとこ、好きよ。でも、貴方、秋ちゃんに会う前にスプレー、しゅーしゅーね」

 スプレーをレザーパンツに散布する真似をする思湖はまるで二十代のうら若き乙女のような輝かしき笑顔だった。その笑顔に応えるように梅之助は頷く。そこには見えない信頼関係がある。葉楼はこれこそが愛だと頷いた。その愛は当然、家族を包み込んでいる。家族はそのメンバーにとっては安らげるオアシスだ。例え、社会という砂漠がどんなに過酷であっても、決してオアシスは背を向けはしない。

「だから、童貞なのよ」

 そう耳元で囁くあざみの声は自分の愛に関する知識の土台を揺らがせる。だが、それには追求せず、考えないようにした。それでも、耳元に吹いていた姉の微風は不安にさせる。

 三十分もしないうちに、荻須家一行を乗せた自動車は駐車場へと停車する。

 葉楼が自動車から降りて気付いたのは自宅のある住宅街とは違い、人の声が全く皆無だという事だった。まるで人を寄せ付けないような静けさに眉を潜めた。

「父さん、ここの近くに本当に古びた洋館があるですか?」

「ない」

「じゃあ、なんでこんな寂れた場所なんかに車を止めるんですか?」

 葉楼は駐車場に敷かれていた砂利を踏んづけ弄んだ。

 ライターを大袈裟に取りだし、煙草に火をつけようとした所を思湖に煙草を奪われた梅之助は頭を掻いて葉楼に応える。

「正確にいうとあったが正解だ」

 その言葉のとおり、五分程、歩いた箇所には炭化した物体が無数に転がっていた。何が何だか区別がつかない物体はここであった悲惨な火事を備に物語っていた。荻須家は火の勢いで割れた硝子の破片を踏みしめた。同じ音を奏でながら、向こう側からスーツを着た男性が歩み寄ってくる。

「どうも、荻須さん。刑事課の尾査です」

 梅之助の前まで来ると立ち止まって、深くお辞儀をした。その顔色は何処か、優れない。

「これはご丁寧に尾査さん。秋ちゃんの姿が見えないようですが?」

「それがですね、ちょっと目を離した隙に何処かに消えちゃいまして。しょうがないでしょう。あの子、突然、お腹すいたから何か買ってこいって言うんだから。僕なんて梃子でも動かないあの子のおかげで昨日からずっと徹夜なのに。なんだって言うのさ」

 優男らしい弱々しい口調で駄目な台詞を吐いた。


             <三>


 職務遂行能力が限りなく疑わしい刑事さんの言い訳をそこそこに受け流してから荻須家は秋ちゃんを探すべく、散り散りになった。葉楼は燃え滓と成り果てた屋敷の奥に生える森が視界に入って隠れるならば、森が最適だろうと考えた。

 森の中に入ると無数の木陰ができており、体感温度が一度くらい下がった気がした。鳥や虫の声が穏やかに生命の歌を歌っている。なんて、涼しげなんだろう。

 ある考えが胸に過ぎって葉楼は立ち止まった。自分のように森を良心的に解釈できるだろうか? もし、自分が秋ちゃんだったとしたら、秋ちゃんは遊びにいっていた為、火事から逃れて無傷だ。だが、その心は焼け爛れている。じっと、火災の現場から動かなかったのは両親の無事を信じて待っていたに違いない。いいや、何を考えているだ。あの子は両親に虐待されていたんだ。いわば、木を無造作に伐採する人間みたいな害虫に違いないあの子の両親は。

「秋ちゃん出ておいで! 迎えに来たんだよ」

 同じ言葉をもう、何遍も言った。だが、何遍言おうと諦める気にはなれなかった。不思議とこの先にいるような気がした。自分が秋ちゃんと同じ年頃に姉と大げんかをして姉とは顔を合わせるのが気まずくて、家出したことがあった。一晩中、人気のない森に隠れていた。一人で心細かった。まるで世界が自分一人のものになってしまった孤独感に襲われた。冬だったにも関わらず寒さは平気だった。それよりも別の冷気が自分を震わせていた。

 だから、葉楼は叫ぶ。自分も時には孤独を味わった事がある、と。

「独りでいるのは寂しくないか? おいでよ、甘えて良いんだよ。今日から君は僕の家族の一員なんだから」

「ねぇ、それは本当?」

 そのビクついた声と一緒に毛布を抱え込んだ少女が大木の影からちょこんと現れた。右上と左上に小さなリボンのように結わえられた髪が喉を動かす度に微かに震えた。写真で見た時よりも少女はずっと白く透き通った肌をしている。一筋の光に照らされた埃の粒子までもが少女の美に影響されて一つの少女を守護する言霊のように思える。それは少女の美に対して世界が賞賛する声の集合体なのかもしれない。

 見つめられているのに気が付いた少女、秋は恥ずかしそうに口元を毛布に覆った。その仕草で自分はなんて可哀相な事をしたのだろうと赤面した葉楼はそれを帳消しにすべく何事もなく会話を進める。

「うん、本当だよ」

「ねぇ、ねぇ、秋がパパに無視されちゃうような、ママに悪い子って叩かれちゃうような子でも家族の一員になれるの?」

 毛布に口をくっつけたままの少女の声は聞き取り辛かったが、元の性質なのか、少女の声は何処か高く弾んでいた。

「そい」

 自分が言おうとした事は流石に拙いと思った。パパとママはきっと、君の事を家族なんて思っちゃいない。自分には都合の悪いペットだったに違いない君の存在は。なんて、知らない方が良い。

 ふいにいつも、笑顔で笑っている父や母、あざみの顔を葉楼は心に思い描いた。否定できない、家族を。

「ん? ねぇ、なれるの? 目の下に格好いい傷のあるお兄ちゃん? その傷、どうしたの、秋が縫ってあげようか。秋、ペンギンの縫いぐるみ、直すの得意だよ」

 警戒心を完全に解いた秋は首疲れないのかな? と思うほどに見上げて葉楼の反応を窺おうとする。青い眼は自分を可愛がってくれときらきらと輝いている。

「なれるよ、秋ちゃん」

 秋の目が合うように葉楼はしゃがんだ。それに気を良くしたようで、秋は毛布の中から裁縫道具を取りだして葉楼へと近づけた。

「ねぇ、痛くないの、その傷。秋が直してあげるよ、これで」

 その裁縫道具は何の変哲もない木箱でハートの絵が描かれている。とても、人間の肌を完全に修繕できるようなびっくりアイテムには見えない。少女の思いやりに溢れた自分を心配する言葉なのだろうと理解してお礼に頭を撫でてあげた。

「直せないんですよ。後が残ってしまうのは致し方ありません」

「嘘だよ、そんなの。秋、パパとママを直してあげる予定なんだよ」

「そうか、凄いね、秋ちゃん。そんな事ができるんだ。魔法使いさんもびっくりですね」

 秋の力強い言葉はそれを可能にしてやるとでもいう意欲に富んでいたが、せっかくの初対面に秋の自分への印象を最悪にしたくなかった。できないとは言えない。

 人は縫いぐるみや、衣服や、ハンカチと違う。血の通った生き物だ。


            <四>


 秋と手を繋いで葉楼が家族との集合場所に決めていた駐車場まで行く道中、風に乗ってくる秋の汗臭い体臭に気が付いた。さっそく、帰ってすぐに秋を風呂に入れさせようとした。

 秋の両脇を抱え上げる。そのまま、雨漏りしている洗面所へと移動する。秋はどうして、抱え上げられているのか、解らない様子でしきりに首を傾げる。だが、首を傾げる事自体が面白くなったようで可愛らしい奇声をあげて葉楼に甘える。

「さて、秋ちゃん。綺麗にしようね。君はお姫様なんだから」

「うん、綺麗、綺麗になるよ」

 足をバタバタと揺らして喜びを表現する。目はしきりに葉楼の顎を見つめている。その幼い仕草を目の当たりにして、あざみはしたり顔をする。さっそく、葉楼の服の袖を引っ張って突然な葉楼と秋の信頼関係に口を挟む。

「これから遊園地にでも行くようなはしゃぎよう。アトラクションは何かな? お兄ちゃんとお風呂でいちゃいちゃ? それともお兄ちゃんとお風呂できゃぴきゃぴ?」

「父さんがよく言ってるじゃないですか。常に身の回りを清潔にしておく事が心の安息に繋がるんだって。それを僕は実行するんです。そんな茶化さないで下さいよ」

「至って真面目にその子の反応を見たら、西傘のお嬢さんに申し訳ないって思わないのかな?」

 あざみの言葉を受けて、葉楼は秋の幼い顔を覗き込む。青い眼はこれからの生活に対するわくわく感で輝いている。その秋と西傘厘と何の因果関係があるのだろうか? とあざみの嫌そうに眉根を潜めた顔を一瞥する。

 秋は急にお人形のように身体を動かすのを止めてただ、葉楼の瞳を見つめようとするがその必死さが怖くて葉楼は何度もそれを避けた。

「西傘っていう雌豚はどんな豚なの? あざみお姉ちゃん」

 幼い舌足らずの声は耳を疑うような汚い、どぎつい言葉をさらりと吐いた。

「女の恐ろしさを知らない童貞葉楼様のお彼女でございます、姫」

 恭しい口調で言うあざみに葉楼は声を出さず、盗み聞きしていたんですかと口を開いた。勿論、あざみはそれを華麗にスルーした。

「あざみお姉ちゃん、偉い、偉い」秋はあざみの髪を撫でてあげる。優越感に浮かれた表情さえも無垢な愛らしさに満ちていた。その表情でさらりと嘘を吐く。「葉ちゃんは、秋は葉ちゃんのお姫様なんだって。豚さんよりもランク上だね」

「こら! 秋ちゃん、豚さんって人の事を言っちゃいけないんです」

「なんで? 豚さんのお肉は美味しいよ。ぶーぶーぶひん!」

 けらけらと笑う秋には全く反省の色はなかった。このくらいの幼い女の子は自分優先主義なんだと葉楼は自分に言い聞かせて洗面所の扉を開く。

 ぽつん、ぽつんと洗面台へと落ちていく水の音と、秋の衣服を剥ぐ音が混ざり合って一瞬の緊張感を生む。その緊張感に毒されて、葉楼は秋の黄ばんだパンツを握り締めながら、生唾を飲む。自分に言い聞かせる。この年代くらいの少女が父親とお風呂に入るなんて有り得るシチュエーションだ。

 きめ細やかな白い肌を目で追っていくとそこには現実があった。アニメや漫画では括れがはっきりとした少女が半ば、記号的に出てくる。秋の身体には括れがなく、かといって子どもの体型にありがちなお腹が出ているわけでもない。貧相という言葉も、華奢という言葉も当てはまる体型だ。そっと、その肌に触れると信じられないくらいほっとした温かみを感じる。あ、これが温もりか。

 秋は寂しそうに胸板にしがみつく。しがみつく瞬間に葉楼が目にしていたのは薄黒さと淡いピンクの入り交じった何とも不可思議な色合いの乳首だった。

 触れてみたい! 心からの叫びが生じた。それと同時にその考えに冷たい戦慄を覚えた。「ママと小さい頃にお風呂に入ったきりで、いつもひとりぼっち」

「寂しかった?」

 そう聞きながら、葉楼はお風呂の扉を開けた。タイル張りの部屋は時間さえも息絶えているように思えた。だから、その言葉は口から生じた。もう、触れてみたいという欲望は消えていた。

「うん、お風呂は広いし、声が響くんだもん」

 確かにお風呂場へと歩み寄った秋の声は響いていた。石鹸やシャンプー、リンスは決して秋のママの代わりに愛情を注いでくれはしない。きょろ、きょろと不安げに見慣れない他人の家の風呂場を眺めている。急にタイルにお尻をくっつけるとそのまま、泣き叫んだ。

「ママ! ママ! 逢いたいよ。秋、独りは嫌だよ。秋を置いていかないでよ!」

 解っていたんだこの子は決して、自分ではママやパパを直せないって事を。それでもその存在を欲し続ける。自分にしてあげられる事はないか! ないか! そんな苦悩の言葉の羅列が幼い秋の身体を目の当たりにして卑猥な感情を持っていたはずの心にどっと押し寄せる。

 気が付いたら、葉楼は秋をぎゅっと、抱きしめて頬と頬を擦り寄せていた。秋の頬から涙の熱が葉楼の頬へと伝う。その熱は八歳の霜澤秋の象徴だ。だから、葉楼は自分を責めた。何故、触りたいなんて考えたのだろう。上歯と下歯を強く噛み合わせる。

「涙を拭いて。僕と君は家族だって言ったでしょう。僕のお姫様」

 秋はその言葉を聞くと安心して、葉楼の両肩をいっそう、強く握り締めた。その圧力が秋の良心だった。


             <五>


「あわあわ。あわ光線!」

 秋はお風呂場での泡遊びでは飽きたらず、葉楼の静止を振り切って風呂場からそんな叫びと共に飛び出した。秋に付着した泡達はとても、気の良い奴らだった。少女の胸部や陰部を隠してくれたのだ。それでも葉楼は教育本を出版している母、思湖に見つかったら怒られると考え、秋の後をすぐ追った。

「こら、待ちなさい。すっぽんぽんだと風邪を引くぞ」

 秋の腕を掴んで、持ち上げる。自分の胸部に付着していた泡を葉楼の唇に擦り付けて抵抗するが、指一本さえも力が緩まない。

「うわ、離してよ。まだ、みんなにあわ、あわしてない!」

 半ば、諦め半分に秋が叫んでいた所にあざみが騒ぎを耳にして、呆れた顔で姿を見せた。あざみは舌打ちすると、葉楼に詰め寄った。

「おい、おい、象さん」

「あ、あざみお姉さん。秋を叱って下さい、廊下をこんな泡の足跡だらけにして」

 その言葉を無視して、二人の間をそそくさと通り過ぎる。急いで戻ってきたあざみの手には青色の湯桶が握り締められていた。そっと、情けを掛けるようにあざみが葉楼にその湯桶を差し出す。

 妙な空気を察知して、驚いた表情を浮かべて股間へと注目する。葉楼は我ながら立派だという感想は持てずに恥ずかしそうにあざみを見つめた。

 あざみは葉楼の耳元に囁いた。

「これ、装備しろ。守備力が二もアップするんだぞ」

 素直にうん、と頷き、秋が葉楼の股間に興味を持ちだして触れようとしたのを見事、湯桶で払いのけた。そして、その湯桶を股間へと装着する。

 ふぅと安堵の息を吐いたのを見計らったように、玄関の扉が開いた。涼しい風が外界より侵入してきた。その風に敏感に反応して、秋はくしゃみをする。葉楼はまだ、全裸の秋を気遣って、いっそう秋の身体をぎゅっと、自分の胸板へと押しつけた。羽毛のように手触りの良さそうな金髪が秋の存在を知らしめていたし、脇に当たる息が生暖かい。

 その温もりを帳消しにするように、葉楼の視線の先には一人の少女が勢いよく、玄関へと雪崩れ込んできた。

「こんにちは! 荻須家のみんな。葉ちゃんの婚約者 厘ちゃん登場。なんちゃって、なんちゃって!」

「こんにちは、厘ちゃん」と軽快なあざみの声。葉楼は思った、見捨てましたね! 数ある弟軽視イベントの中でも最悪の部類ですよ、と。「ぶー」と秋は突然の闖入者に豚さんの泣き声で応じる。葉楼は思った、可愛いけどそんな場合ではない。でも、可愛い、と。「やぁ、厘」

 と二人の声に続いて、葉楼が玄関先にいる西傘厘に爽やかな笑顔を見せる。気持ち、白い歯を覗かせてみせる。

 ぽかーんと、秋と葉楼を交互に指さす。誰にでもその仕草の意味は語らずとも解る。男子高校生が年端もいかない子を抱いている図。あれれ?

「ちょっと待って下さい。えーと」と恐ろしく低い声で言い、ジーパンのポケットから携帯電話を取りだした。とんでもなく、正確な指運びで番号を押していく。俯く姿には普段のほんわかした羊さんオーラがなく、獰猛な狼さんオーラが漂っていた。数秒も間もなく、耳に掛かった髪を掻き上げてから、携帯電話を耳に当てた。「もしもし、刑事さんですか。知り合いが金髪の可愛い女児を襲っています。リピート アフター ミー。もしもし、刑事さんですか、知り――」

「通報は勘弁して」

 弱々しい葉楼の声を遮るようにあざみの胸の谷間に居座っている携帯電話から軽快な音楽が流れてきた。それはよく、放課後に放送室から流されるG線上のアリア(作曲者、バッハ)だった。その緩やかな曲調は葉楼の終わった感をいっそう、フォルテした。


             <六>


 あざみが携帯電話で厘に説明すると、葉ちゃんはお馬さんがおひとやかな子なのに落馬して器用にも柵に顔を打ち付けちゃう間抜けだものねと普段と変わらないのんびりした口調で話した。

 葉楼は目の下にある傷跡をなぞった。

 あざみと思湖の二人は秋を歓迎すべく、腕によりを掛けて豪華な料理というよりも子どもの好きそうな料理を調理していく。今はハンバーグの匂いが部屋中に充満している。二人が奮闘しているのを余所に手持ちぶさた葉楼、秋、梅之助は神経衰弱に興じていた。今は梅之助が引く番にあたる。先程から葉楼の腹部に顔を埋めてだらしなく、椅子と椅子をくっつけて自分の椅子に秋は両足を投げ出していた。両手はしっかりと葉楼のTシャツを握っている。それだけならば、慣れない環境下ではしゃいだから疲れたのだろうとしばらく、放っておくのだが、秋は奇妙にも鼻息を荒くしていた。

「どうしたの? 具合悪いんですか?」

「ううん。葉ちゃんの匂い嗅いでるの。お肉の嫌な匂いじゃなくて、お花の香りがするんだもん」

 可愛い顔をこちらへと見せずに秋曰く、素敵な香りを葉楼から摂取し続ける。不思議に思った葉楼はくんくんと空気を嗅いでみた。別段、嫌な匂いはしない。首を傾げようとしたが、一つの答えが閃いた。迂闊としか言いようがない。秋の両親は火事で焼け死んだんだ。そんな境遇にいる子の近くで肉のゆっくりと焼ける音や、上手そうな動物性の油の匂いなんか嫌悪すべきものだろう。

 梅之助は息子が言わんとする事を察して、先に言った。

「今日は肉って気分じゃないな。私は年寄りだから、血をさらさらにしておかないと。腸だって若者と違って元気じゃない。但し、今でも私が外見的に衰えずいるのは何故、だと思う? 秋ちゃん」

「しぶといから?」

「ノン。ノン」今もって同じ体勢である秋には見えないと知っていながらも、梅之助はお茶目に片眼を閉じたまま、人差し指を振る。「私はいつも、朝食にスペシャルな料理を口にしてるからだ。それを秋ちゃんに喰わせてあげよう」

 秋の返事を待たずに逃げるようにして、梅之助は厘と思湖のいる台所へと駆けていった。おそらくは思湖と厘に料理の変更を要求しにいったのだろう。

 それからまもなくして、換気扇の力のおかげでお肉の匂いがしなくなった台所で秋はサラダとヨーグルトを元気よく、頬張っていた。それに気をよくした思湖は秋に自分の分のヨーグルトまで食べさせた。

「今日のご飯はこれでおしまい。美味しかった」

 空気でお腹を膨らませて、秋は嬉しそうに葉楼に耳打ちした。よく食べたなぁと感慨を持って、殻の皿を摘み上げた。サラダのドレッシングすらも残さないのは感心できるが、そのドレッシングを吸い上げる為に舌をしきりに動かしていた姿は感心できなかった。

 秋のお腹に触れながら、葉楼は秋の言葉を訂正する。

「え? 秋ちゃん。これ、昼ご飯だから後、夕ご飯がありますよ」

「そんなの可笑しいよ。一食だよ、普通は」

 何、馬鹿な事を言っているのと言う代わりに秋は嬉々とした大笑いをした。葉楼はその大笑いに賛同できない。ただ、自分の真正面に座る梅之助に意見を乞いたいと強い目線を送る。梅之助は頷くとスプーンを置いて廊下へと出て行った。秋を自分の膝の上ではなく、しっかりと隣の席に座らせる。

 秋がむっとして、葉楼の背中を睨みつける。当然、葉楼には背中に目がある訳ではないので女の子の小さな願いには元来、無頓着である性質も手伝って秋はお行儀良く、座っていられるだろうと判断した。

 葉楼は廊下に出る際に甲斐甲斐しく、小さな姫様を世話をする思湖と厘の声を聞いた。

「ここでは沢山、食べれますから遠慮無く食べなさい、秋」と弾んだ声の思湖。

「秋ちゃん、これも食べて? 私、お腹いっぱいなんだ。それにダイエット中だし」と善良な葉楼の彼女、厘。

 廊下に出て、梅之助の後を追って書斎へと入る。書斎には天井に着くほどの本で連なったタワーが幾つも崩れずに存在感を見せていた。さっそく、葉楼は書斎の椅子に座り、煙草を取ろうとしかけた梅之助に疑問をぶつける。

「どういう事ですか? あの子、家は貧乏ではないですよね。食事がままならない程に貧乏ではないはずです」

「確かにあの洋館を買い取れるほどにはお金があったようだ。だが、あの洋館はいわく付きで値段としては田舎のマンションの一室程度くらいの値が付けられていたんだよ。そのいわくって言うのが、殺人現場だって事。なんでも、不倫を発見した妻が夫と不倫相手を滅多刺しに刺し殺したそうだ。誰も人が殺された怨念渦巻く、場所で暮らしたくはない。けどね、霜澤家の人間は違うんだ」

「そんな憎々しげに。母さんの親友である霜澤千冬さんも否定したことに」

「気に入らなかったんだ千冬が。思湖はきっと、俺達を仲の良い友人だと今でも思っているだろう。葉楼、世の中で健康に生きたいなら、嘘を吐かなきゃならんよ。嫌いだと態度に表した瞬間、敵を一人作る事になる。本音で言えば、霜澤秋は虫が好かない。何処か、欲しいものは全部、手に入れなければならないって姿勢の母親 千冬に似ている気がする」

「秋ちゃんはとても、良い子ですよ、父さん。例え、虐待されたからって人の本質を変えるなんて困難です。人の魂は決して犯されない聖域なんですよ」

「若いよ、葉楼。理想論だ。良いか、人間の本質は教育によって形成されるんだ。あの子には虐待という教育が身体の隅々まで行き渡っている。霜澤秋には何処か、残忍な影を感じるんだ。人間とは思えない強い意志を感じる……化け物じみた。いや、忘れてくれ。おかしな事を言った」

 そう言うと梅之助は笑い飛ばそうとする。だが、笑い飛ばせずにしばらく、沈黙を自分に課した。当然、その沈黙に耐えられなくなり、葉楼は漠然とした不安を感じつつも、台所へと戻った。すぐに駆け寄ってきた秋の青い瞳には冷たい輝きが宿っていた。だが、それも一瞬間の事だった。爽やかな青い色へと変わっていた。

 不安は別の形で的中した一週間ほど、秋は熱を出して寝込んでしまった。葉楼がすぐ近くで本を読んであげたり、手を握り締めてあげたり、汗ですっかり濡れてしまった身体を拭いてあげたり、と介抱した甲斐もあり、身体は健康体になった。同時に葉楼の後をくっついて歩くような甘えん坊になっていた。

 朝起きると、秋がいつの間にか、葉楼の布団に潜り込んでくるなんていうのは序の口だった。


             <七>


 八月が終わりに近づき、蝉の鳴き声は生を紡ぐ逢瀬の時が残り間近だと断末魔の悲鳴を所狭しとあげていた。だが、その悲鳴も熱さで苛立っている秋の感情を逆撫でするだけだった。無理もない、秋は先程から葉楼の姿を探し回っていた。秋は初めて自分のものになるかもしれない存在にご執心なのだった。母からいつも、悪い子だと殴られる度に教訓を幾つか、与えられた。その中の一つが、自分の本当に欲しいものは力づくで奪え。

 普通の八歳児よりも頭の回転が速い秋は自分の愛らしさが最大の武器になると考えていた。

 葉楼が階段から降りてくるのを発見すると、秋は子ども用のドレスの皺を直して、急いでストレートにしていた金髪が可笑しくないか、触って確認した。こっそりと探検した葉楼の部屋のベット下にあったエッチな漫画には今の秋と同じ年代の少女が登場するものばかりだった。その中でも金髪ストレートの少女が登場するエッチな漫画のページは折り目が付くほどに熟読の後が見受けられた。その情報分析の成果が今、明白になる。それだけで秋の心は柳のように嵐に吹かれて撓っていた。

 トイレの扉を開けようとする葉楼の腕を掴んで、秋はできる限りの間抜けな顔で葉楼の黒い瞳を仰ぎ見た。動きを止めた葉楼が自分に興味を示すのはお見通しだった。

「秋ちゃん、今から僕、トイレに行くんだけど」

「嫌。葉ちゃんは秋とソファに一緒に座って、夏休みアニメスペシャルを見る」

 本当は夏休みアニメスペシャルなんて見たくなかった。話の内容が悪い子だからだ。五人で宝物を探すなんて間違っているし、敵を殺さないなんてもっと、間違っている。

 秋は母の言葉を心の中で反芻しながら、葉楼の表情を見た。予想したとおり、骨抜きにされただらしない笑顔だ。しかも、髪まで撫でてくれた。これで確実に今日も葉楼と過ごせると勝利のスキップをしようとした。

 だが、それは思わぬ来訪者の声の為、実行には移されなかった。秋はその来訪者を憎悪の感情で射るように睨む。だが、それも長くは続かなかった。

「勝った……。秋のお肌は新鮮だし」

 と秋は呟く。その呟いた言葉が失敗だと思い、すぐさま弁明するべく、葉楼を見上げた。

 だが、葉楼の目は豚さんの方を向いていた。豚さんは白いワンピースを着ていたが、日に焼けた黒い肌には似合っていなかった。秋は白い生地に包まれた豊満な胸を葉楼の耳に入らないように鼻で静かに笑った。

「やほぉ、葉ちゃん、いる?」

 豚さんは鈍足らしく、床をゆっくりと歩いてくる。

「どうしたの? こんな朝早くから珍しいね」

 葉楼が豚さんへと歩み寄ろうとするのを秋は自分の手を離さないで、その場から動かない戦略で止めた。

「実は葉ちゃんと一緒に映画を見ようと思ってね。これ、胸がきゅんとなるお話なんだ」

 若い男女が楽しげに自転車に跨って、草原を走っているパッケージを葉楼に見える位置の掲げる。当然、秋は背伸びしてそこに書いてあるタイトルを読み取ろうとした。LIVE MOONと書かれているのを漸く、確認できたが読めなかった。溜息を吐こうとした時、爪先がぐらついた。それに気付いた豚さんが既にパッケージは葉楼に渡して空いた手で秋を支えようとした。だが、その手を秋は身体を捻って避けた。

「ふーん、面白いのかな? これ」

 と呟いていた葉楼はさり気なく、秋の身体を自分の方へと寄せた。そのおかげで秋は床に倒れなかった。

「気に入るよ、きっと。さっさ」

 階段をうるさい音を立てて上がって、葉楼を手招きした。

「秋も一緒に見るぶー姉ちゃん」

「駄目。八歳の女の子仕様じゃないんだ、ごめんね」

 泣きそうな表情を浮かべた秋と、そんな子なんておいてこっちへ来なさい視線を送る厘を交互に見た後、葉楼は秋の両脇をいつものように持ち上げた。

「葉ちゃん、彼女が遊びに来ているんだよ。秋ちゃんだってもう、赤ちゃんじゃないんだから。たまには一人で過ごさせないと我が儘な子になっちゃう」

「はい、解りました。秋ちゃんごめんね、しばらくは母さんと一緒にテレビ見ていてね。その前にトイレタイムで良いんですか? 洩れそう」

 そう言うと秋の耳元に御免ねと囁いてから、秋をゆっくりと降ろした。

 葉楼がトイレに行き、厘が葉楼の部屋へと行ったのを確認すると地団駄を踏んだ。

「邪魔すぎるよ、豚さん……」

 唇に小指を突っ込んで舌で舐め回す。それは赤ちゃんのやるような愛らしい行動ではなかった。秋の目には怒りに燃えたぎる感情が宿っていた。そっと、指を離す……。その指にはべっとりと唾液が付着していた。唾液の匂いを嗅ぐと、パンケーキの匂いがした。


             <八>


 八月三十一日、葉楼は朝早くから秋と一緒に海沿いにある商店街に出掛けていた。秋の背には注文したランドセルが背負われていた。ぴかぴかのピンク色のランドセルで葉楼の腰を押しては喜んでいた。

「さて、と次は体操着を取りに行かなければならないのか。えーと、スポーツ専門店 藤巳布屋か」

「秋ちゃん、歩き疲れた」

 唐突に秋はそう言って、商店街の道のど真ん中に座り込んだ。顔は退屈だとばかりに歪んでいる。早くもランドセルに飽きてしまったらしい。葉楼は溜息一つせず、お姫様を抱っこする。ランドセルの重さも加わり、いつもよりもしんどい。

 自然と歩みはゆっくりとしたものになった。それが秋の機嫌を良くした。秋はお馬さん、お馬さんとしきりに言っていたが、いつの間にか、葉楼の頬に自分の頬をくっつけながら小さな寝息を立てている。

「本当に子どもだな」

 そう、本当に子どもなのだ。その子どもに真っ当な教育を施さなかった親がいる。その事実を思い出しただけで葉楼の視線は鋭くなった。その視線の先には地元で一番評判が悪い定布中学校の男子生徒達がいた。ゲームセンターの入り口にあるキャッチャーマシンに寄り掛かって堂々と煙草を吸って仲間達とお喋りをしている。真っ当な教育を受けているのにこんな奴らもいると腹立たしくなった。秋が真っ当な教育を受けていれば、既に心優しい仲間に囲まれていただろう。幾ら、秋という少女の本質が勉強大好きな子だとしても、仲間を作るには他者が必要だった。

 普段ではそんな事しないのに葉楼は彼らを説教しようと歩を進めようとした。その時、急に掌に圧力が加わった。びっくりして、葉楼は振り向いた。

「止めておいた方が良いよ。あれは他人でしょ、葉ちゃん」

 掌を握る細い指先達を辿って行くとその持ち主である西傘厘に辿り着いた。

「随分と冷たいんだね」

「葉ちゃんは説教しようって目していないよ。まるで憎いって顔している。知ってる? 怒りと導きは同じ意味じゃないんだよ。怒りは一番、原始的な感情だから誰にでもすぐに解る」

 厘に言われて葉楼は自分の過ちに気付いた。あの中学生の為じゃない! 自分の感情の中には今朝、葉楼の前で今日は御願いしますと言って頭をぺこりと下げた秋だけが映っていた。その普通の境遇を活かせないなら、秋にまわせ!

 一呼吸、置いて落ち着いた声で言う。

「何でも解るんだね、僕の事」

「まぁ、ねん。つきあい始めて一年! 恋い焦がれて八年! もう、葉ちゃんマニアだよ。私の事、好きでしょう?」

「ああ、好きだよ」

 葉楼は相手の薄く塗ったリップクリームを眺めてそう嘯いた。もう、一年も嘘を吐き続けているので葉楼の心は痛まなかった。それよりも、彼女である事が自然になっていた。

 だが、時折、考えてしまうのだ。それでは本当の恋ってあるのだろうか? 今も考えている。秋の小さな口から涎が垂れて、Tシャツを汚された。だが、嫌な感じはしなかった。不思議な高揚感を感じた。もっと、汚してもいい。

 葉楼の唇を厘の唇が塞いだ。生柔らかい感触が嫌いで避けていたが、不意を突かれた。腕で唇を拭おうと思ったが、秋のお尻を支えていたからそうはできなかった。

「どうしたの?」

「ああ、周りは僕らと同年代のカップルで溢れかえっているなと思いましてね」

 事実、周りには高校生くらいのカップルが手を繋いだり、女の子が男の子の肩に顔をくっつけたりと自分達の世界を築いていた。それを年配の主婦達がひそひそとやぁねぇと囁いていた。天然パーマの主婦の鎖骨から白いブラの紐が顔を出していた。葉楼は思わず、顔を背けた。背けた時、秋の真ん丸と見開いた青い眼をまじまじと見てしまった。小さな唇が頬に一瞬、触れた。

「秋、寝てた?」

「ああ、寝てたよ、ぐっすりと」

「やほぉ、秋ちゃん? これから葉ちゃんと何処に行くのかな」

 葉楼のTシャツをタオル代わりにごしごしと唇を拭っていた秋にそう聞くが、知らんぷりをして今度は乾燥してカサカサになった涎を拭い始めた。口元が微かににやっとしているのを葉楼は横目でちらっと確認した。

「秋、お姉さんが何処に行くんですか? って聞いてるよ」

 秋を降ろして咎めるように見据えた。何故、そんな風に見られているのか、理解できないと嘯いている秋は当然のように小指を口の中に入れて、ぼけっとしている。

「教えない、秘密。今日は葉ちゃんとデートだもん」

 しばらくして、秋は葉楼のジーパンを引っ張りながら答えた。その言葉は不平を余すとこなく、表していた。

「だ、そうだよ」

「残念。塾が早く終わったから、葉ちゃんと一日中、過ごそうって思ったのに」

 そう言うと、葉楼にバイバイと手を振って走りだした。葉楼が同じようにしようとした時にはもう、既に人々の雑踏の中に溶け込んでしまっていた。

 商店街には沢山、店がある。そんな常識も知らなかった秋は一軒の洋食屋のディスプレイを見つめる。そして、海老フライを指さした。

「これ、こんな所に置いておくと腐っちゃうよ?」

「大丈夫ですよ、それは本物、そっくりですけど。食べられない偽物さんですから」

「でも、秋、お腹空いた。食べたいもん」

「焼ける匂いを我慢できる? 食べられないでしょ」

「できない。でも、食べたいたら、食べたい。何か、食べたい」

「困ったな。野菜だけなら、なぁ」

「良いですよ、お客さん。野菜だけのメニュー。特別に作りましょう」

 白髪のおばあさんが後ろから声を掛けてきた。自然と葉楼は深く、頭を下げていた。それを御願いしますという意図だと解釈したおばあさんは秋に愛想笑いして、扉を開いて手招きで中に入るように指示した。

 そんなエピソードやデパートに寄ってチョコレートパフェ(二人前)を食べた事もあってか、四時間後の秋は朝よりも元気いっぱいになっていた。帰り道に野良猫や野良犬を見つけては、突然走りだして彼らににゃー、わんとしきりに挨拶するほど活発な子になっていた。

 二十匹目の猫さんににゃーと挨拶するべく、駆け出す後ろ姿を感慨深く、葉楼は眺めた。出逢って間もないのに両親を失った悲しみや、虐待の記憶を諸ともせずに秋は明日へと走りだしている。そう思うだけで何故か、目頭が熱くなった。もう、午後五時だというのに今日を惜しむように太陽は地上に今日の光を贈っている。葉楼はその贈り主に慰めてもらいたくて見上げた。多分、怖かったんだ……いつか、今日の太陽が沈むように、今日の月が沈むように、人は変わらずには居られない。そして、それは未定……。

「体操着、体操着。葉ちゃん、家に帰ったら着て良い?」

 秋の弾んだ声が葉楼を現実へと引き戻した。その現実は尚も葉楼の望んだとおりだった。秋は自分で持つと言い張っていた紙袋から真新しい体操着を取りだしていた。

「そうだね、実際にサイズを確認した方が良いですね」

「着替えるの、手伝ってくれる?」

「嘘、エッチ」

 二十匹目の猫さんがにゃーとこちらに向かって挨拶しているのに背を向けて、葉楼は秋の手を握り、山間部にある自分の家へと急いだ。


            <九>


 西傘厘は葉楼と秋と別れてから、友人の理枝と勝美を携帯電話でカラオケを楽しんだ。この三人で集まると時間が経つのを忘れてしまう。カラオケをお開きにした時点で携帯電話の液晶画面が示していた時刻は二十時三十五分だった。厘の家は代々、弁護士や医師を輩出している所謂、エリート家系だった。その為、門限も厳しく、午後七時が門限だった。その時点で怒られると決まっていたのだからと自分の中で言い訳しつつ、三十分迷った末に子どもと仲良くなる二十の方法を借りた。借りた時、店員がびっくりしてこれ、入荷以来、誰も借りたことないっすと語っていた。だが、そんなのどうでも良かった。

「ああ、レンタルビデオショップがこんなに遠いなんてなぁ。山間部に一件欲しいよね、全く」

 嘆く割には厘の足取りは軽い。まるで気まぐれな猫のように軽かった。頭の中では猫的な打算計画が演算されていた。

 今、汗ばんだ手に握り締めている子どもと仲良くなる二十の方法で学んで、秋ちゃんを攻略! 次にその秋ちゃんを使って葉ちゃんの心を今以上に鷲掴み! そして、婚約へ。

 思わず、真っ暗な道の色を吹き飛ばしてしまうような明るい声でイエス! と叫んだ。叫んだ瞬間は恥ずかしくないのだが、徐々に羞恥心が芽生えてきた。

 葉楼の家と同じく、厘の家も山間部にあり、徒歩で帰ると三十分も掛かる。だが、歩くのが好きな厘にとっては苦痛ではなく、いつも歩いて海沿いにある商店街や学校に通っていた。特に今日みたいな月が雲に完全に隠れている日に歩くのはとても清々しい。

 ただ、聞こえるのは鈴虫の張りのある合唱だけだ。それを耳にしているといつも、期待してしまうのだ。現実には有り得ない不思議な出逢いに。

 数分後、ついにその時が来たと内心、驚きのあまり、心臓が早鐘を打っていた。だが、車道に仁王立ちしているレインコートの小さな女の子を視界に捉えても冷静で居られた。

 闇を照らす青く光る目は攻撃的で美しかった。その瞳とはちぐはぐなボサボサの茶髪は腰まで伸びていたが、それで美しさが損なわれる事はない。むしろ、野生の花のような美しさとして鑑賞できる。

 女の子は厘に向かって唇を歪めた。まるで厘の存在を確認したと言うように。そして、ゆっくりと黄色い長靴を上げて、一歩踏み出した。それはニュースの映像の国会で見かけた事のある牛歩の歩みだ。

「どうしたの? そっちは森だよ」

 厘が言葉を言い終わったら止まるというのが予定調和であったかのように黄色い長靴は両足を揃えて止まった。明らかに挙動が変だと考えたが、見たところ、秋と同じくらいの年齢の子だ。一体、何ができるっていうんだ?

「駄目。小さな女の子がこんなとこにいたら、誘拐されて殺されちゃうよ。知ってる? 今月もアリアちゃんって女の子が水死体で発見されたんだよ」

 近づいてきた秋に対して、女の子はくっくっくっ、とアニメキャラクターのような現実味の薄い甘い声で不気味に笑った。

「知ってるよ、誰よりもね……」一拍、間を置いて青い瞳は細くなる。「でも、お姉さん。私、この先で裁縫道具を忘れて来ちゃったんだ。取りに行きたいよ」

「明日にしなさい。ほら、お姉さんがお家に送ってあげるから」

 背筋がぞっとしているのを感じたがまだ、この子が普通の子だと自分を騙したかった。

「嫌! 私、行く」

 おかしいじゃないか、この声も作られたアニメキャラクターの声。昔、映画館に数人でアニメ映画を鑑賞しに行った際にその数人の中でアニメに詳しかった女の子が甘い子どもの大袈裟な声をロリ声と表現していた。まさにそれだ。

「しょうがないわね。行くよ」

 何処か、秋ちゃんに似た寂しげな佇まいの女の子を厘は放って置けずに無言の女の子の手をやや、乱暴に引いて森の中へと分け入った。

 遠くの方から救急車のサイレンの音が微かに響いてきた。同情を誘う悲しい音だ。


              <十>


「お姉さん、こっち、こっち! 遅いよ」

 そう言いながら、女の子は縦横無尽に森の木々の間を駆け抜けていく。嬉しかった。だって、後少しで手に入るのだから。そう少女は自分の腕を眺めた。腕の肌が何カ所か、黄土色に染まっていた。その肌が壊死している。だからこそ、狩りが必要だった。

「こら、待ちなさいよ」

 必死のぶーお姉さんの声が聞こえる度に女の子は満面の笑みを浮かべた。どうしても堪えきれない! 想像してごらんよ……。これから、アリアと同じ目に合うと夢にも思わずに殺人鬼の後をわざわざ、息を乱して、足をばたばた動かして、臭い口でぶーぶー呻きながら着いてきている。笑うなと自分に指図する方が酷だ!

「え? 洞窟。こんな場所があったんだ」

 女の子は慎重に頷いた。まだ、アフレコは続いている。ここで手を抜いたら、監督(パパ、ママ)にどやされる。そうしたら、次の現場ではもっと頑張らないと褒めてもらえない。

 女の子は急いで洞窟内へと入り、手作りの白いクローゼットの中に入り込んだ。そのクローゼットの中にはゲートボール用のスティックが一本だけ立て掛けてあった。すぐさま、女の子はそれを構えた。

 クローゼットの作りが乱雑な為、開閉部の隙間から外の様子が少し覗ける。まだ、テーブルの上に乗っている蝋燭の明かりしか見えない。息を飲み込んだ。

 恐る恐る歩を進める足音、途中……クシャミが聞こえた。お大事に……。

 紺色のブレザーが見えた。

 クローゼットの扉をスティックで振り開けて、そのまま、獲物の横腹をフルスイングした。溜まらず、獲物は膝を地に突っ伏して唸っている。その表情は脳に入ってこなかった。それを脳へと情報提供するよりも早く、獲物の背中を踏んづけ押さえたまま、頭を一撃、殴打した。悲鳴もあげずに簡単に獲物は気絶した。

 しまったと女の子は脈を測った。指の付け根の下で飛び跳ねている血管を確認できて、ほっと胸を撫で下ろした。危うく、楽しみが減ってしまう処だったのだ。

 女の子は厘の手首をロープで縛り上げながら、テーブルの上に置いてある針刺しに刺さった針を聞きつけた人間が気の狂うような歓声をあげて見つめた。何度も、しっかりと結ばれているか、確認の為にロープを引っ張った。

 その後、女の子はレインコートを脱ぎ去り、放り投げた。レインコートはペンギンの縫いぐるみの視界を奪った。靴下と長靴以外は身に付けていない姿のまま、女の子は悠然と凸凹した石だらけの道を歩む。ハートの模様が印象的な裁縫道を開けて、裁ちばさみを取り出す。不要となった皮膚を幾分か、それではぎ取った。刃を進めていく度にじんじんとした痛みが女の子を襲った。それに耐え抜く事は自分の夢の最短距離へと繋がっていると自分を信じ込ませていた女の子は口を大きく開いて痛みを逃がそうとした。それでも痛みは白い肌の下から現れた血塗れの爛れた肌と共に真実だった。地面に落ちた白い肌は上から零れてきた滴に無言だった。

 その作業は黙々と遂行され、約十分で完了した。裁縫道具は意志を持ったように女の子の手に馴染んでいた。作業は苦にならない、流れるが如く。

 こちらを睨む視線に気付いた女の子は爛れた顔を歪ませる。女の子にとってはありがとうの意図を含んだ親愛の笑みだったのだが、どうやら、厘には受け入れられなかったようだ。掠れた声で、化け物と呟いた。すっかり戦意喪失した瞳はまるで意志のない人形のようだ。この視線で見られるのには耐えられなかった。

 血を濯いだとしても凸凹で、茶色がかった黄土色の肌! そう考えだけで発狂しそうだ。女の子は茶色い髪のカツラを号泣している厘の頬に投げつけた。泣きたいのはこっちの方なんだ。

 女の子は先程、使った血と肌のこびり付いた裁ちばさみを手に持って、カチカチと音を鳴らした。厘は呻きながらも、腰を浮かせて両肘で地を蹴って悪魔から逃れようとした。それを嘲笑うように衣服を少しずつ、鋏でちょん切っていく。ゆっくりと、ゆっくりと焦らずに。

「さよなら、お姉さん。秋はママから言われてるの、本当に欲しいものは力づくで手に入れなさいって」

 アニメ声で喋るのに疲れて、地の甲高い声を発した。

「どうしてこんな事するの?」

 秋には叶えたい夢が沢山、あった。一つは大好きな家族とまた、一緒に暮らす。もう一つは秋を可愛がってくれる葉楼を手に入れる事。その為に邪魔だった、厘が。

 秋は何も答えずに豊満な胸と胸の間の白い肌に切り込みを入れる。力なんて入れる必要はない。刃は開いただけでそのまま、推し進めれば、白い肌が楽に取れるんだから。

 ほら、豚さんもぷるぷる、寒そうに震えている。

「ぶー、ぶー、ぶー。皮を剥ぐの大変だなぁ。でも、これでまた、肌が新鮮になる」

 さっそく、厘の胸部からはぎ取った肌を自分の醜い肌の上から縫いつける。針が肌へと突き刺さる瞬間、軽い痛みを感じるが、身体に針が潜入している短い時間はわくわくした。ランドセルを初めて背負った高揚感に似ていると秋は思った。そして、再び針が外へと出る時は激しい痛みを感じた。殴られるよりも痛い? と聞かれたら当然と答えてそいつを同じ目に合わせてやりたいと画策するくらいだ。

「嫌、止めて化け物」

 しきりにそう、厘が言ったが、秋はその度にこう歌ってあげた。

「ぶーぶーぶー。豚さんがぶー」

 やがてはそれに飽きてしまい、罵詈雑言を言われても、はいはいとあしらうだけになった。

「そんな落ち込まないで、秋のパパとママも同じだよ、厘ちゃんと」秋は肌を全て剥ぎ取られて落ち込んでいる厘の為に鏡を持ってきてあげた。自分はなんて良い子なんだろう。「ほら」

 鏡を持った全身血塗れの厘は固まった。目を大きく開き、唇を震わせる度に上唇と下唇の間からすっーと流れてきた血が口内へと落ちた。少し可哀相だと秋は肩を震わせる厘を見てそう反省した。片方の肩から赤黒い骨がこんにちはしている。一方の肩と比べるとアンバランスだ。

 強い風が吹いて、バスタオルの仕切りがひらひらと揺らめいた。その隙間から秋の母親と父親が顰め面をして座っていた。

「死体じゃない。ただの死体じゃない! あんた、頭おかしいよ。あれ、もう死んでるよ」

 全てが可笑しいと言うかのようにバスタオルの仕切りを指さした。

 秋は首を捻った。この人は馬鹿なのか、と。

「秋、新鮮な肌はまだ、なのか? これじゃあパチンコにも行けない。あそこはパパの仕事場だって知っているだろう?」

「もう、少し待っていてね、パパ。それでね、必ず、パチンコで勝ってね」

「あれ、喋ってないでしょ。正気になりなさい。今なら許してあげるよ」

 猫なで声で化け物が秋に囁いた。鉄の匂いがぷんぷんとするそれを同じ人間として認めたくなかった。秋はいつもの金髪のカツラを手に取ると被った。それを被った秋は萩須家の加護下にある何処にでもいる小さく、愛嬌のある笑みを浮かべる八歳児だった。ただ、違うのはゲートボールのスティックが握り締められているだけだ。些細な問題だ。

「秋。ママが教えてあげたでしょう、こいつをどうするかって」

「うん、ママが教えてくれた。ママの指輪を秋が盗んだ時にママ、秋をお仕置きしてくれた。腕が変な方向に曲がっちゃったけど、これくらいしないと大切なものは守れない。だから、秋はぶーを殺さないといけないんだね」

「良い子ね。でも、早く肌を持ってこないと秋をお仕置きすることになるよ、早くしなさい」

 秋は人が壊れる時に臭う咽せるような匂いを知っていたから鼻を摘んでから、スティックを振りかざした。一度目の頭への打撃で厘の泣き声は止まった。二度目からは機械的な作業だった。単調で心が震えない、何も感じない。ただ、自分の唯一の罪を思い出していた。

 戻らないかもしれない。恐怖に秋は号泣した。

「ママ、パパ、葉ちゃん。秋ちゃんは悪い子じゃないもん! 秋はただ、お腹が空いてただけだもん」

 その叫びを聞いている者は死者しかいないと秋は知っていた。それでもいやいやと首を振る。





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