プロローグ ある少女の人生の一幕
プロローグ ある少女の人生の一幕
<一>
八歳の少女、志垣アリアは思った。どうして、私達は別れなければならないのだろうか? 最初は目の前にいる遊休沙英の姿を洞窟内で見かけた時、自分の聖域に無断侵入したと怒り、情け無用に近くにあった石を投げつけた。暗闇に溶け込んだ石はアリアでさえも見分けがつかなかった。透明と同等と成り果てた石の様子を見て、アリアの怒りは波が海へと帰るように引いていった。避けてと叫ぼうとするが、それよりも早く石が紗英のおでこに命中して
「あっ」
と声を立てて動かなくなった。しばらくしてから、
「ああ、痛かった」
と呟いた。
それがアリアと紗英の出会いであり、この洞窟が二人の秘密基地になった瞬間だった。
その光景を思い出した瞬間、アリアはお腹を抱えて笑い出した。その笑顔は普段よりも分かり易かった。何せ、辺りは暗く、友達の紗英が失敬してきた花火の時に使う蝋燭の灯りでアリアと紗英の身体と周囲だけを朱色に染め上げていた。紗英には漫画のように、アニメのように、特殊な心を読めちゃう能力はないのでただ、同調するようにゆっくりと笑窪を作り、可愛らしい声をあげる。
その様子を見て、アリアは自分の悩みに再び、対面する。どうして、私達は別れなければならないのだろうか? 児童養護施設の先生が考えている際によく、眉間に皺を寄せているのを思い出して、それをやれば先生と同じ英知が手に入ると眉間に皺を寄せた。けれども、そこで考えているのは八歳の天涯孤独の少女、アリアだった。ただ、目の前のお友達を手放したくなかった。いや、違う。アリアは紗英で、紗英はアリアなんだ。手放せないのに。そう思っているのに。どうして?
「アリアちゃん、泣かないで」
「泣いてないよ。私にはあんた以外にもお友達は沢山いるんだから」
「嘘、お姉ちゃん、知ってるよ。アリアちゃんは児童養護施設の子と遊ばないで、一人で遊ぶのが大好きな紗英お姉ちゃんとしか遊ばないって。前に施設の先生に聞いたよ」
紗英はアリアの濡れた頬をペンギンの縫いぐるみの掌で拭った。毛糸の感触がくつぐったくてアリアは泣きながら笑った。
「ペン様は紗英と違って優しいね。良い子、良い子」
ペン様と呼ばれた縫いぐるみはいつもと同じ誇らしげな寛大な表情で幼い掌に撫でられてやるのを許した。
洞窟内にはコウモリ一匹とていない。この事実に聖域らしさを求めていたアリアは感激した。建築会社の廃材置き場からもう、使えない廃材を持って来ては様々な家財道具を組み立てた。特に白いクローゼットは力作だった。黒一色の洞窟で紗英が間違わないように全て、白一色にした。それを決めた二年前がまるで一分前のように再生できる。白い箪笥には紗英が縫った二人の洋服がぎゅうぎゅうに詰められている。それを思うと、アリアは胸が痛んだ……。終わってしまう!
白いテーブルにアリアはケーキを二人分、置いた。だが、二人分のケーキにしては歪で側面が凸凹していたし、面積が小さかった。本当は一人分のケーキを用意したかった。だが、一歳の頃、公園に捨てられ、親も親戚も不明なアリアには自由にできるお金がなかった。そこで頭を使ってみた。昨日、自分に出されたおやつのケーキをこの日の為に取って置いたのだ。こんなに知恵を絞っても、恥ずかしかった。駅前のケーキ専門店 スザのケーキよりも数倍劣っている。やっぱり無理だ。どうしようもなく、フォークを紗英に渡そうとする手が震えていた。
「クリームが口の中で溶けるね。スザのケーキよりも美味しいよ。ありがとう、アリア」
「本当はね、苺もそのケーキの上に乗っかっていたんだけどね」
その言葉を聞いた紗英はここに? とケーキのクリームが禿げて生地が見えている箇所を指さした。そこは月のクレーターのようだ。もしくは一丁目の鶴田じいさん(アリアの創作上の人物)の禿頭のようだ。
「食いしんぼ アリアちゃん、ここに在りだね。最後に食いしんぼ伝説に追加されたね」
頬をもぐもぐと動かしていたが、途端に止まった。見る見るうちに枯れたはずのアリア湖から水が溢れ出す。
「最後は嫌」
とぼそっとアリアは顰めっ面して言った。
「ほら、ほら、泣かないで。ひょっとしたら、親戚と相性が悪くて私もアリアんとこの施設の仲間入りになるかもしれないよ」
軽い口調でそんなことをさらりと言えてしまう紗英は紗英なんだ。繋がりのある人間がいなくなる痛みをきっと、紗英は知らない。夜、何度も両親の夢を見るのに顔を見ようとしてもぼやけている。いつも、白い霧みたいのが邪魔をする。きっと、それを知らない。急に怒り込み上げてきた。貴女はこっちへ来てはいけない!
「そんな事ないよ! 外人の私を受け入れてくれたのは施設の人間でもなく、先生でもなく、学校も年齢も住む所も違ったただ、偶然自由研究の甲虫観察日記に必要な甲虫を捕りに来て、洞窟に迷い込んだアホな紗英だった」俯いて、紗英を見ないようにしていた。早口で言葉を並べたので息が続かなくなった。胸を大袈裟に上下させて、咳き込んだ。紗英が心身と泣く声が洞窟内に反響しているのを知らんぷりした。「そんな優しい私の親友が新天地で上手くやっていけないなんてことないよ。ほら、泣かない」
紗英の頭を撫でようと爪先だけで立とうとするが、バランスを崩して転びそうになった。何度も試すが、背が届かない。無理すれば、転びそうになる。溜まらず、アリアは地団駄を踏んだ。
そんなアリアの手に半ば、無理矢理木箱の取っ手が握り締められる。その木箱にはハートの絵が描かれていた。それ以外は飾りもなく、質素な木箱だ。それは紛れもなく、いつも紗英が大切にしている裁縫道具だった。
見上げた紗英の顔には陽気な表情が浮かんでいた。黒い目は強い意志の光に満ちていた。今までの紗英とは別人みたいに凛々しかった。周囲の冷たい空気がアリアにそれを教えてくれた。
「私達、いつか再会しましょう。その目印の為にその裁縫箱をずっと、大切に閉まって置いて欲しい。父さんが死んだとき、時間が戻ればいいって思った。でも、時間は戻らないから父さんと過ごした時間も、アリアちゃんと過ごした時間も解れて切れそうになったら、縫い合わせるんだ。いつまでも忘れない絆の為に」
「詩人だね」
アリアは紗英の言葉には完全に同調できた。繋がりのある人間がいて、天涯孤独ではないと知ったから。絆がある限り。
紗英との別れは始まり、新しいアリアと紗英との始まりと言い聞かせながら、力いっぱい知恵いっぱいに遊んだ。紗英に裁縫を教わった。出来上がった縫いぐるみはペン様二世と名付けた。滑り台似の嘴が特徴的だった。アリアは紗英にドッジボールの必勝法を伝授した。その必勝法は取れないボールは見逃せ、取れるボールを確実に拾うという何気ない事だった。
この一幕はきっと、二人の少女を大人へと近づけされたのだろう。同時にそれは時間を知る万物の逃れられない命の火の消耗でもある。それを自覚せずにアリアと紗英は洞窟を抜け出すと互いに無言のまま、アリアは児童養護施設 子猫の子へと歩み、紗英は駅前にあるマンションへと歩む。二人の背中は違う。カールした金色の後ろ髪がワンピースの生地を太陽の陽から守っているアリアの背中、背筋がきっと伸びているのが目視できる汗ばんだ薄い生地のTシャツに包まれている紗英の背中。これから施設のみんなが遊んでいるのをじっと見るアリア、これからマンションの床を磨く紗英。そう、彼女達は背中だけではなく、違うのだ。それをアリアは今日、知った。