第50話 新しいログ
数ヶ月後。秋の乾いた風が、東京の空を高く、澄んだ青色に染め上げていた。
都心の一等地、東京湾とビル群をパノラマで見渡せるタワーマンションの最上階。
そこが、彼ら『オメガ・リスクマネジメント』の新しいオフィス兼アジトだった。
氷室レイという巨大なシステムを崩壊させた後、彼らは氷室の残党から「正当な精神的慰謝料およびコンサルティング費用」として莫大な裏金を合法的に回収し、かつて以上の設備と資金力を取り戻していたのだ。
広大なアイランドキッチンの大理石カウンターで、佐藤任三郎は、まるで儀式を行う修行僧のような真剣な面持ちで、クロックヒンと向き合っていた。
ゴツッ、ゴツッ、ゴツッ。
石の乳棒が、石臼の底に沈んだスパイスを粉砕する、重くリズミカルな音がリビングに響き渡る。
今日彼が作っているのは、『マッサマンカレー』。
かつてアメリカの情報メディアで「世界で最も美味な料理」の第一位に選ばれたこともある、タイ南部の至宝とも呼べるカレーだ。
「……スパイスの命は、揮発性の香りにあります」
佐藤は誰にともなく呟きながら、カルダモン、シナモン、クローブ、八角、クミンシード、コリアンダーシードといったドライスパイスを、フライパンで軽く乾煎りしてから石臼に放り込んだ。
続いて、生のハーブ類。強烈な辛味を持つプリッキーヌ、爽やかなレモングラス、ガランガル、エシャロット、ニンニク、そしてカピ。
これらを石臼で執拗なまでに叩き潰し、水分と油分を乳化させ、究極にフレッシュな自家製のカレーペーストを練り上げる。
市販のペーストでは絶対に到達できない、香りの爆弾だ。
コンロの上では、別の鍋でココナッツミルクが弱火にかけられている。
水分が徐々に蒸発し、ココナッツの濃厚な油分が分離して表面に浮き上がってくる。この「油が割れる」状態を作り出すことこそが、本物のタイカレーの極意である。
佐藤はその割れた油の中に自家製ペーストを投入し、スパイスの香りを油にじっくりと移していく。
ピピッ、と玄関のスマートロックが開く音がした。
「社長、頼まれていたブツ、取ってきたわよ」
佐々木紘子が、大きなクーラーボックスを抱えて入ってきた。
「……鹿児島県産の最高級『さつま地鶏』の丸鳥。わざわざ産地から空輸させたわ。骨付き肉じゃないと、マッサマンの本当の深い出汁は出ないんでしょ?」
「完璧な調達です、紘子さん。ありがとうございます」
佐藤は手際よく丸鶏を捌き、骨ごとペーストの鍋に放り込んだ。
そこに、大ぶりに切ったメークインと、香ばしくローストしたピーナッツを加える。
味の決め手は、タマリンドのフルーティーな酸味、パームシュガーのコクのある甘み、そしてナンプラーの鋭い塩気だ。
甘・酸・塩の三つの味が、鍋の中で完璧な均衡を構築していく。
キッチンから漂う暴力的なまでに食欲をそそる香りに、リビングでくつろいでいた面々が反応し始めた。
巨大な有機ELモニターの前では、田中襟華が高性能なヘッドセットを装着し、FPSゲームに没頭していた。
「右! 裏取り来てる! あーもう、カバー遅いってば! 使えない野郎どもね!」
口汚くボイスチャットで味方を罵倒する彼女の二の腕を、アルコール綿で手際よく消毒している白衣の女性がいる。小林弥生だ。
「はい、襟華ちゃん、ちょっと動かないでねー。私の特製『徹夜ゲーマー用・高濃度ビタミン&アミノ酸カクテル』だよ。ちょっとチクッとするから」
「いっ! 弥生さん、ゲーム中に注射打たないでっていつも……あああっ、撃たれた!」
「はいはい、すぐ終わるから我慢する。……あ、ダシちゃんにも後でノミダニの予防接種するからねー」
弥生が振り返ると、キャットタワーの最上段で丸くなっていた黒猫のダシが、自分の名前と「注射」という不穏な単語を察知し、スッと気配を消してソファの裏へと隠れた。
その大きなソファでは、渡辺千尋が海外のハイブランドのファッション誌を優雅にめくっていた。
「ねえ、来月のミラノ・コレクション、このドレス買っていいかしら。次の潜入任務に必要だと思うの。経費で落としてね」
「却下よ。1ミリも必要性を感じないわ」
ダイニングテーブルで、分厚いファイルの山と格闘している吉田彩が、冷たく言い放った。
「氷室の残党から巻き上げた和解金があるとはいえ、私たちの活動資金は無限に湧き出てくるわけじゃないの。……今、その氷室の『お友達』だった悪徳議員どもに、口止め料という名の正当なコンサルティング料の請求書を書きまくっているところなんだから、静かにしてちょうだい」
彩の持つ高級な万年筆が、恐ろしい桁数のゼロを容赦なく書類に刻んでいく。
リビングとガラス一枚で仕切られたガレージスペースでは、作業着姿のグレタ・ヴァイスが、新しく調達したマットブラックの軍用規格SUVのエンジンルームを覗き込み、トルクレンチを握っていた。彼女の手は黒いオイルにまみれ、その表情は誰よりも活き活きとしている。
「……完成です」
佐藤が火を止め、ダイニングテーブルに大皿を運んできた。
深い琥珀色のルー。表面には、分離したチリオイルが美しく浮かんでいる。ホロホロに崩れる寸前まで煮込まれた鶏肉と、スパイスの香りをたっぷりと吸い込んだジャガイモ。
「いただきます!」
襟華がコントローラーを放り投げ、一番にスプーンを口に運んだ。
「……うまっ!! 何これ、最初はココナッツの甘さが来るのに、後から信じられないくらい複雑なスパイスの香りが爆発する!」
「本当に美味しいわ……。タマリンドの酸味が絶妙に効いていて、鶏肉の脂の重さを全く感じさせない」
千尋も、メイクを崩さないように上品に食べながら、感嘆のため息をついた。
「合わせる飲み物は、これです」
佐藤がそれぞれのグラスに注いだのは、ワインでもシャンパンでもなく――ただの透明な「水」だった。
「……水? 社長にしては珍しく手抜きね」
紘子が怪訝な顔をする。
「ただの水ではありません。屋久島の地下深くから汲み上げられた、硬度10の超軟水です。温度は、常温よりも少し冷たい15度に完璧に調整してあります」
佐藤は自分のグラスを軽く掲げた。
「マッサマンカレーのスパイスとハーブの調和は、あまりにも繊細で完成された芸術品です。アルコールや茶の渋み、炭酸の刺激すら、この方程式を崩す『ノイズ』になりかねない。……究極のスパイス料理の味を一切邪魔せず、かつ口の中の油分を優しくリセットする、究極のニュートラル。それがこの水なのです」
メンバーたちは半信半疑で水を飲んだ。
「……本当だ。水がものすごく甘く感じる。そして口の中がスッキリして、カレーの味がもう一回新鮮に味わえるわ」
彩が感心したように頷く。
食事の最中、不意にリビングのテレビモニターが自動で切り替わった。
正午のニュース番組だ。
『続いてのニュースです』
凛とした、しかしどこか親しみのある、聞き慣れた声。
松本愛永だ。
彼女は、新興のネット専門放送局のメインキャスターとして、見事な復活を遂げていた。
かつての清純派という偽りの仮面と、テレビ局のしがらみを全て捨て去った彼女の番組は、忖度のない鋭い報道で、今や既存の地上波を凌ぐ絶大な影響力を持っている。
『与党の〇〇幹事長を巡る、大規模な汚職疑惑。……昨日、匿名の告発者から、決定的な証拠となる音声データと、海外の裏帳簿が当番組に送られてきました』
愛永の背後のスクリーンに、先ほどまで彩がまとめていたデータの一部が、モザイク処理をされて映し出される。
愛永は手元の原稿から目を上げ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。
『権力の陰に隠れ、国民を欺き、私腹を肥やす行為は決して許されません。……私たちは、この闇の全貌を、最後まで徹底的に「晒し」続けます』
そして、番組がCMに切り替わる直前の、ほんの一瞬。
愛永はカメラに向かって、悪戯っぽく、そして最高に魅力的なウィンクを放った。
「……相変わらず、食えない女ね」
千尋がワイングラスに見立てた水のグラスを回しながら笑う。
「でも、あいつの煽り報道のおかげで、また新しい『顧客』が釣れたわよ。……請求書の送り先が、また増えたわ」
彩が嬉々として万年筆を走らせる。
佐藤は食事を終え、純白のナプキンで口元を丁寧に拭った。
そして、リモコンでテレビの電源を消す。
部屋の中に、再び日常の音が戻る。
襟華の叩くコントローラーの音、グレタが金属を叩く音、弥生がアンプルを割る音、千尋の香水の甘い匂い。
かつて、極度の潔癖症であり、完璧な秩序と孤独を愛していた佐藤任三郎が、最も忌み嫌っていたはずの、どうしようもなく人間らしい『ノイズ』たち。
だが、今の佐藤にとって、この騒がしいノイズに満ちた空間こそが、世界で最も心地よく、そして守るべき「完璧な城」となっていた。
佐藤はゆっくりと立ち上がり、ハンガーにかけられていた黒いジャケットを羽織った。
彼の手元のタブレットには、氷室レイの残したパノプティコンの残骸から抽出した、新たな犯罪者たち――次なるターゲットのリストが表示されている。
世界にはまだ、嘘と欺瞞、承認欲求に狂った悪意が満ち溢れている。
インフルエンサーという虚像が存在する限り、彼ら処刑人の仕事に終わりはない。
「……さて」
佐藤任三郎の、静かだがよく通る声が響いた。
「仕事の時間です」
その声に呼応するように、最強の8人チームのメンバーたちが、それぞれの武器を手に一斉に振り向いた。
新たな炎上の火種。新たな断罪。
処刑ログの新しいページが、今、開かれる。




