第5話 白衣の調合師
グレタ・ヴァイスの運転する黒いセダンは、夜の首都高を滑るように走っていた。
車内は重苦しい沈黙に包まれている。
後部座席で、田中襟華が小さく呻いた。
「……痛ってぇ」
彼女は右腕を押さえている。さきほど路地裏で半グレたちに捕まった際、乱暴に捻り上げられた箇所だ。アドレナリンが切れてきたのか、痛みがぶり返してきたらしい。
助手席に座る佐藤任三郎が、バックミラー越しに冷ややかな視線を送る。
「自業自得です。私の静止を振り切って単独行動をした結果でしょう」
「うるさいな……わかってるよ」
襟華は唇を尖らせるが、反論の勢いはない。
隣に座る渡辺千尋が、珍しくハンカチを差し出した。
「汗くらい拭きなさいよ。……まあ、あそこで捕まってたら、今頃あんたは東京湾の底だったわね。運が良かったと思いなさい」
「……ありがと、オバサン」
「千尋お姉様、と呼びなさい」
ハンドルを握るグレタが、無機質な声で告げる。
「サトウ。積み荷のバイタルサインが不安定だ。呼吸が浅い。これ以上の走行は推奨しない」
「ええ。予定通り、ピットインします」
佐藤はナビを操作した。
「向かう先は新宿、歌舞伎町の外れです。……あそこなら、どんな時間でも『医者』が開いていますから」
車が止まったのは、ネオンの光も届かない雑居ビルの裏手だった。
壁は落書きだらけで、ゴミの腐臭が漂っている。とても医療機関があるようには見えない。
佐藤を先頭に、4人は地下へと続く階段を降りた。
湿ったコンクリートの匂い。
一番奥にある錆びついた鉄扉の前で、佐藤はインターホンを特定のパターンで押した。
カチャリ。
電子ロックが解除される音が響く。
扉を開けた瞬間、襟華は思わず目を細めた。
そこは、外の汚らしさとは対照的な、白一色の空間だった。
磨き上げられた床。整然と並ぶ最新鋭の医療機器。空気清浄機の静かな稼働音。そして、微かに漂う消毒液と……甘いバニラの香り。
「いらっしゃいませー。あら、今日は大所帯ですね?」
奥の診察デスクから、明るい声が飛んできた。
回転椅子をくるりと回して現れたのは、白衣を着た小柄な女性だった。
小林弥生。25歳。
透き通るような白い肌に、クリっとした大きな瞳。童顔で、一見すると医大生かアイドルのように見える。だが、その首からは聴診器を下げ、ポケットには大量の注射器がねじ込まれていた。
「やあ、弥生先生。深夜にすいません」
佐藤が珍しく親しげに挨拶する。
「急患です。……まあ、自業自得の打撲と捻挫ですが」
「ひどっ! 捻挫までしてないし!」
襟華が抗議するが、弥生はニコニコと笑いながら近づいてきた。
「はいはい、患部見せてねー。……うわ、結構腫れてるじゃん」
弥生の手が襟華の腕に触れる。その手つきは、見た目の可愛らしさとは裏腹に、驚くほど手際が良かった。
一瞬で関節の可動域を確認し、冷却スプレーを吹きかけ、包帯を巻いていく。
「靭帯まではいってないね。全治3日ってとこかな。痛み止め出しとくけど、飲む?」
「う……あ、はい。お願いします」
あまりの早業に、襟華は毒気を抜かれたように頷くしかなかった。
「で、そっちの氷の彫刻みたいな美人は?」
弥生がグレタを見る。
「グレタ・ヴァイスだ」
「へえ、強そう。……あ、左肩、古傷痛むでしょ? 歩き方のバランスが少し右に寄ってる」
グレタが眉をひそめた。
「……なぜ分かった」
「私はプロだもん。人間の体の不調なんて、匂いと歩き方で全部わかるよ」
弥生は得意げに鼻を鳴らすと、今度は佐藤に向き直った。
その目が、怪しく光る。
「ところで佐藤社長。……また痩せました? 顔色が最悪ですよ」
「そうですか? 平常運転ですが」
「嘘つき。目の下のクマ、コンシーラーで隠してるけどバレバレです。睡眠不足と、偏食のせいですね。あーあ、可哀想に。血管が悲鳴を上げてる」
弥生は引き出しから、極太の注射器を取り出した。
中には毒々しいほど鮮やかな黄色の液体が入っている。
「特製ニンニク注射入り高濃度ビタミンカクテルです。これ一本で3日は不眠不休で戦えますよ。さあ、腕まくってください」
「結構です! あなたのカクテルは効きすぎて動悸がするんです!」
佐藤が後ずさりする。完璧なポーカーフェイスが崩れる数少ない瞬間だ。
「いいから! 予防医療が大事なの! チクッとするだけですからー!」
「やめなさい! これはパワハラならぬドクハラです!」
逃げ回る佐藤と、注射器を持って追いかける白衣の美女。
先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のような、奇妙な光景だった。
千尋が呆れたように溜息をつき、襟華が「……なんなの、このチーム」と呟く。
「はい、ストップ」
佐藤が観念して手を挙げた。
「注射は後で検討します。先に、仕事の話を」
「ちぇっ。つまんないの」
弥生は注射器を置くと、瞬時に「医師」の顔に戻った。
「で? 今日は怪我の治療だけじゃないんでしょ?」
佐藤はポケットから、小さなジッパー袋を取り出した。
中に入っているのは、襟華が入手したMIIKAのサプリメントだ。
「これを再分析してほしい。私のオフィスの機材では、主要な有害成分までは特定できた。だが、それだけでは『誰が作ったか』までは辿り着けない」
「なるほど。成分の指紋を見つけろってことね」
弥生は袋を受け取ると、愛おしそうに眺めた。
「オッケー。任せて。私の『鼻』と『目』をごまかせる物質なんて、この世に存在しないから」
彼女はサプリを乳鉢ですり潰し、質量分析計よりもさらに精密な、彼女独自の解析デバイスにセットした。
さらに、粉末を少量指に取り、なんと舌の上に乗せた。
「ちょ、汚っ! それ毒入りなんでしょ!?」
襟華が叫ぶ。
「ペッ。……んー、この苦味と収斂味。結合剤に粗悪な澱粉を使ってるね」
弥生は口をゆすぎながら、モニターに表示される波形を見つめる。
カチャカチャとキーボードを叩く指先は、ピアニストのように軽やかだ。
5分後。
「ビンゴ」
弥生が指を鳴らした。
「社長の分析は惜しかったけど、あと一歩足りなかったね。このサプリ、ただの痩せ薬じゃない。極微量の『クロロ・エフェドリン誘導体』が混ざってる」
「……エフェドリン?」
「覚醒剤の原料にもなるやつ。まあ、これくらいの量なら依存性はないけど、飲んだ時に『なんとなく気分が高揚する』効果はあるわね。だからリピーターが増えるのよ」
「悪質ね」
千尋が眉をひそめる。
「麻薬入りの飴玉を配るようなものじゃない」
「で、ここからが本番」
弥生は地図データをモニターに展開した。
「この誘導体の精製プロセスに残る不純物のパターン……これ、東南アジアの特定の地下工場特有のものなの。『ゴールデン・トライアングル』の残党が仕切ってる、ラオスの第3工場」
「……特定できたのですか?」
佐藤が目を見開く。
「うん。去年、厚労省が摘発しようとして逃げられた工場とデータが一致する。つまり、MIIKAのサプリは、個人のプロデュースなんかじゃない。国際的な犯罪シンジケートが、資金洗浄と人体実験のために日本のインフルエンサーを隠れ蓑にしてるってこと」
衝撃的な事実に、全員が沈黙した。
ただの承認欲求モンスターだと思っていたMIIKAの背後に、本物の闇組織がいる。
襟華の顔が青ざめる。
「じゃあ、私が今日囲まれたのって……」
「ああ。地元の半グレなんてレベルじゃない。国際犯罪組織の末端構成員だった可能性が高い」
佐藤の声が重くなる。
「やばいじゃん……。そんな連中相手に、私たちだけで勝てるの?」
襟華が不安そうに呟く。
だが、佐藤は不敵に笑った。
「勝てますよ。なぜなら、我々には『彼女』がいる」
佐藤は弥生を示した。
「工場の場所が割れたなら、そこへの送金ルートや輸入ルートも逆算できる。MIIKAが『知らなかった』と言い逃れできない決定的な証拠を、科学的に証明できるということです」
弥生は白衣のポケットに手を突っ込み、ニカっと笑った。
「そういうこと。私の分析結果は絶対だよ。どんな言い訳も、科学の前では無力だからね」
彼女はデスクから、5人分の小さなカプセルを取り出し、放り投げた。
佐藤、襟華、千尋、グレタがそれぞれ受け取る。
「はい、これお土産。特製のアドレナリン阻害薬入りラムネ。緊張した時に舐めて。手が震えなくなるから」
佐藤は手のひらのカプセルを見つめ、握りしめた。
指揮官。
潜入者。
交渉人。
執行者。
そして、分析官。
五つの星が揃った。
「これより作戦レベルを引き上げます」
佐藤が宣言する。
「相手が国際シンジケートだろうと関係ありません。……私の街で毒を撒く害虫は、一匹残らず駆除します」
「了解!」
弥生が敬礼のポーズをする。
「あ、社長。その前に一本だけ打ちません? お尻なら痛くないですよ?」
「却下します!!」
地下室に、頼もしい笑い声が響いた。
反撃の準備は整った。




