第47話 全人類への配信
(回想――決戦当日の午後、多摩丘陵の森の中)
初夏の湿気を孕んだ生暖かい風が、青々と生い茂る木々の葉をザワザワと揺らしていた。
敵の本丸であるデータセンターへの突入を数時間後に控えた、多摩丘陵の深い森の中。人目を避けるように木立の奥に停められた一台の武骨な四輪駆動車――トヨタ・ランドクルーザー70のボンネットが大きく開かれている。
辺りに漂うのは、むせ返るようなオイルと鉄の匂い、そして初夏の森特有のむっとするような緑の匂いだ。
そのエンジンルームに上半身を突っ込んでいたグレタ・ヴァイスが、顔に付着した煤を手の甲で無造作に拭いながら身を起こした。
「……よし。バルブのクリアランス調整、完了だ。足回りも限界まで強化した。これでコンクリートの壁でもぶち破れる」
「お疲れ様です。……試運転がてら、少し休憩にしましょうか」
背後から声をかけたのは、佐藤任三郎だった。
彼の手には、二つの紙皿と、クーラーボックスでキンキンによく冷やされたノンアルコールのビール瓶が握られている。
皿の上で食欲をそそる湯気を立てているのは、こんがりと焼かれた極太のソーセージ。その上には、鮮やかな特製のケチャップソースと、たっぷりのカレー粉がまぶされている。
「ドイツのソウルフード、『カリーヴルスト』です。……残念ながら、作戦前なのでビールはノンアルコールですが」
「……悪くない」
グレタは工具をツールボックスに投げ入れ、油にまみれた手をウエスで乱暴に拭うと、ランドクルーザーの助手席のドアを開けた。
「乗れ、サトウ。……こいつの仕上がりを確かめに行くぞ」
エンジンキーが回される。
野太いディーゼルの咆哮が、静かな森の空気をビリビリと震わせ、鳥たちが一斉に飛び立った。
二人を乗せたランドクルーザーは、未舗装の林道を猛スピードで駆け上がっていく。
横揺れが激しく、車体が激しく跳ねるが、グレタのステアリング操作は正確無比であり、佐藤は手にした紙皿のソースを一滴もこぼすことはなかった。
やがて車は、木々が開けた見晴らしの良い崖の上のスペースで急停車した。
眼下には、遠く霞む東京のビル群が見える。これから彼らが、その根底からひっくり返そうとしている巨大な都市だ。
「……いい景色だな」
グレタは運転席の窓を全開にし、初夏の生い茂る森の空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
「ええ。……どうぞ、冷めないうちに」
佐藤がカリーヴルストの皿を渡す。
グレタは串で分厚いソーセージを刺し、大きく口を開けて豪快に頬張った。
パリッ、と皮が弾ける心地よい音が鳴り、濃厚な肉汁が溢れ出す。
「……美味いな。ベルリンの屋台で昔よく食った味に似ているが、こっちの方がソースにずっと深みがある」
「市販のケチャップに、バルサミコ酢とすりおろしたリンゴを加えてじっくりと煮込みました。スパイスは私の独自配合です。……ジャンクフードだからこそ、手は抜けません」
「相変わらず、無駄に手が込んでいるな」
グレタはフッと笑い、ノンアルコールビールの瓶を佐藤の持つ瓶に軽くぶつけた。
カチン、とガラスの音が鳴る。
死線を前にした、束の間のデート。戦士たちの休息。
「……なあ、サトウ」
グレタは遠くの東京を見つめたまま、ポツリと言った。
「私がGSG-9を追われた本当の理由、知っているか?」
「いえ。……公式な記録では、上官への暴行と聞いていますが」
「その通りだ。……当時、私の部隊は過激派による人質救出作戦に出た。突入の準備は完全に整っていた。だが、上層部の『論理的な判断』によって、作戦は急遽中止された。テロリストとの政治的な交渉が優先されたんだ。……結果として、見殺しにされた人質は死んだ」
グレタの横顔に、暗く冷たい影が落ちる。
「私は命令を下した上官を、気絶するまで半殺しにして、軍を追われた。……当時の私は、ただの『システムの一部』だと思っていた。感情を殺し、命令に忠実に従うだけの機械だと。だが、あの時だけは、どうしても自分の中の『怒り』を殺し切ることができなかった」
彼女は佐藤の方を向き、その透き通るような灰色の瞳で彼を真っ直ぐに捉えた。
「今のお前たちを見ていると、あの時の自分を思い出す。……理不尽な巨大システムに反逆する、ちっぽけなバグ。だが、最高に人間らしい、愛すべきバグだ」
グレタは残りのノンアルコールビールを一気に飲み干した。
「今夜の作戦。……私は私の意思で戦う。誰かの命令でも、金のためでもない。お前たちという『家族』を、あの狂ったシステムから守るためにな」
「……光栄です」
佐藤も瓶を空にし、静かに微笑んだ。
「あなたはもう、立派なバグですよ。……必ず、全員で生きて帰りましょう」
「当然だ。……私の命は、高くつくぞ」
二人は笑い合い、初夏の空を見上げた。
今夜、あの街の嘘を全て暴く。その決意を胸に。
(現在――多摩データセンター、地下最深部・メインサーバー室)
無数のサーバーラックが墓標のように立ち並び、青白いLEDの光が明滅する巨大な冷房室。
その中央に鎮座するメインコンソールの前で、佐藤任三郎、田中襟華、渡辺千尋の三人は、ついに黒幕である氷室レイと対峙していた。
「……遅かったね、バグ君」
氷室はゆっくりと回転椅子から立ち上がった。
病的なまでに白い肌。一切の感情を排した、ガラス玉のような無機質な瞳。
「パノプティコンの学習は、今まさに完了の時を迎える。……君たちが都内で起こしたあの暴動も、私に対する無意味な抵抗も、全ては私のAIにとっての『良質な学習データ』として取り込ませてもらったよ」
氷室が両手を広げると、背後にある壁面一杯の巨大スクリーンに、東京中の監視カメラ映像と、複雑に蠢く演算グラフがリアルタイムで表示された。
「人間は愚かだ。一時的な感情に流され、非合理な選択を繰り返し、自らを破滅へと導く。……だからこそ、完璧な論理によって徹底的に管理されなければならない。私が、パノプティコンが、この国の未来を正しく導く。君たちのようなイレギュラーは、今日ここで完全に排除される」
「……思い上がりも甚だしいですね」
佐藤が一歩前へ出る。
「人間の感情は、あなたが管理するためのデータではありません。……あなたの演算には、決定的な欠落がある」
佐藤は懐から、九条から託された物理マスターキーを取り出した。
「襟華。……『鍵』を開けますよ」
「了解!」
襟華が背負っていたノートPCを開き、コンソールに向けて接続ケーブルを走らせる。
佐藤はマスターキーをメインコンソールのスロットに力強く突き刺した。
『物理接続を確認。未認証デバイスです』
冷たい機械音声が室内に響く。
「無駄だ」
氷室が冷笑する。
「物理的に接続したところで、パノプティコンの自律防壁は突破できない。君たちの陳腐なハッキング手法など、すでにAIが何万通りもシミュレーションして対策済みだ」
「ええ、知っています。……ですから、我々はシステムを『破壊』はしません」
佐藤の指が、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩き始める。
隣で襟華もまた、信じられない速度でコードを打ち込んでいく。
「我々の目的は、破壊ではなく『解放』です。……パノプティコンのメインサーバーを、全世界のオープンネットワークと直結させます」
「なんだと……?」
氷室の顔色が変わった。
「パノプティコンは、外部から完全に隔離されているからこそ完璧だった。……ならば、その分厚い扉を内側からこじ開け、外の空気を一気に流し込んでやりましょう」
佐藤がエンターキーを強く叩き込む。
カチャッ!
『マスター権限を承認。……外部ネットワークとの完全同期を開始します』
「今です、愛永さん! ……歌ってください!」
佐藤が無線機のマイクに向かって叫ぶ。
都内某所。
喧騒から離れた安全な場所に停められたキャンピングカーの中で、松本愛永はカメラの前に座っていた。
彼女の横では、海外メディアの特派員であるジャック・ミラーがノートPCを操作し、全世界への配信ルートを確保している。
「……回線、繋がったわ。日本のメディアが遮断しても、海外経由で強制的に流れる」
愛永がインカムを押さえる。
彼女は深く息を吸い込んだ。
元・国民的アナウンサー。視聴率の女王。
だが今の彼女は、スポンサーの顔色を窺い、作られた台本を読むだけの綺麗な人形ではない。自分の意思で、自分の言葉を紡ぐ、生身の人間だ。
「……3、2、1。ON AIR」
ジャックが合図を出す。
愛永はカメラのレンズを、世界中の人々を見据えるように真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつてないほどの決意の炎が燃え盛っている。
『世界中の皆さん。……こんばんは。松本愛永です』
彼女の声は、かつてのニュース番組のような流麗さを持ちながらも、その奥底に隠しきれない熱情を帯びていた。
『今、皆さんの見ている画面は、ハッキングによって強制的に配信されているものです。……ですが、どうかチャンネルを変えないでください。これから私がお話しすることは、映画や小説の作り話ではありません。今、私たちの世界で、この日本で起きている、恐ろしい真実です』
彼女の背後のスクリーンに、次々と機密データが表示されていく。
バズ・インキュベーションによる個人情報の違法収集と監視の記録。
政治家や警察上層部への天文学的な贈賄リスト。
そして、ミライ・アカデミーで行われていた非人道的な洗脳と人体実験の残酷な証拠。
『バズ・インキュベーションという企業は、AI「パノプティコン」を使って、私たちのスマートフォンやPCからあらゆるデータを密かに抜き取りました。……私たちが誰と話し、何を買い、何を調べ、何を信じているか。その全てを監視し、彼らにとって都合の良い未来を作り出そうとしています。彼らは私たちを、ただの数字としてしか見ていません』
愛永の声が、少しずつ熱を帯びていく。
それは淡々とした原稿の読み上げではない。魂の底から絞り出される、怒りと悲しみ、そして希望を込めたアジテーションだ。
『私たちはデータではありません。……一部の権力者に管理されるための家畜ではありません!』
彼女はカメラに向かって、身を乗り出した。
『悲しい時は泣き、理不尽には怒り、大切な人のために間違った選択すらしてしまう。……その愚かさこそが、計算できないノイズこそが、私たちが人間であるという何よりの証明です!』
愛永の目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
それは計算された演技ではない。
地位も名誉も全てを失い、泥水に塗れ、それでも立ち上がった彼女自身の、本物の感情だった。
『目を覚ましてください。……彼らの用意した「正解」を疑ってください。私たちの未来は、私たち自身の不器用な手で、痛みと共に選び取るものです!』
多摩データセンター、メインサーバー室。
氷室の背後にある巨大スクリーンに、愛永の配信映像が大写しになっていた。
それだけではない。
パノプティコンが監視している世界中のネットワーク、SNSのタイムライン、掲示板、ニュースサイトのコメント欄が、凄まじい勢いで滝のように流れ始めたのだ。
「……なんだ、これは」
氷室が一歩、後ずさりする。
スクリーンに表示される演算グラフが、異常な波形を描き始めている。
愛永の「魂の籠もった言葉」は、世界中の人々の心を強烈に揺さぶった。
共感、怒り、驚愕、悲しみ。
数億人という人間の、予測不可能な感情の爆発。
パノプティコンのAIは、オープンネットワークから流れ込んでくるその膨大な「ノイズ」を処理しようとフル稼働するが、論理の枠に収まらない人間の心を数式化することは不可能だった。
『エラー。……未定義の感情データを検出。演算限界を突破。……エラー、致命的なエラー』
システムが悲鳴を上げ、無機質な警告音が室内に鳴り響く。
「馬鹿な……! 私の完璧なシステムが、こんな非合理的な感情の波に飲まれるはずがない!」
氷室がコンソールにすがりつき、キーボードを狂ったように叩く。その冷静だった顔は焦燥に歪んでいる。
「……言ったはずです。人間の感情は、管理しきれないと」
佐藤は氷室を冷たく見下ろした。
「パノプティコンは、あなたが恐れた『人間のノイズ』によって、自ら演算の海で溺死するのです」
バチィィィッ!!
メインサーバーのラックから、過負荷による激しい火花が散った。
サーバーの冷却ファンが限界を超えて唸りを上げ、基盤の焦げる強烈な匂いが室内に立ち込める。
AIが、完璧な論理が、人間の感情に敗北した瞬間だった。
「……終わりましたよ、氷室レイ」
佐藤の静かな言葉が、崩壊していくシステム音の中に響き渡った。
世界を欺いていた巨大な虚構は、一人の女性の「声」と、彼らアウトローたちの手によって、今、完全に瓦解したのだ。




