第45話 最後の関門
決戦の夜。午後9時。
多摩丘陵の深い森の中。指定の座標に停車したランドクルーザー70の車内で、佐藤任三郎は息を潜めていた。
昨夜、彼らが都内に撒いた「カオスの種」は見事に発芽し、東京中を狂乱の渦に巻き込んでいる。傍受した警察無線によれば、渋谷、六本木、主要幹線道路など各地で暴動や事故が同時多発し、機動隊が総動員されているという。
このデータセンターの警備兵も、大半が暴動鎮圧と氷室レイの関連施設防衛のために駆り出されていた。
佐藤の右手の親指には、小さな黒い毛玉がしがみついていた。
子猫のダシだ。
佐藤の指を小さな両手でギュッと抱き込み、静かな寝息を立てている。時折、「にゃむ……」と口を動かし、佐藤の指先にザラリとした舌を這わせる姿は、これから始まる修羅場とは対極にある、無垢で愛らしいものだった。
「……可愛いですね。ですが、そろそろ時間です」
佐藤はダシの頭を優しく撫で、毛布を敷いた車内の安全なケージの中にそっと移した。ダシは小さく丸くなり、再び深い眠りに落ちていく。
「いい子で待っていてください。……必ず戻りますから」
「行くぞ。……外の警備は2名。完全に油断している」
運転席のグレタ・ヴァイスが、サプレッサー付きのハンドガンを装填して言った。
「突入部隊、降車します」
佐藤、襟華、千尋、グレタ、そして今回は大きなジュラルミンケースを抱えた小林弥生も車を降りた。
夜の森の冷たい空気が、肺を刺す。
外周のフェンス。グレタが音もなく忍び寄り、タバコを吸って談笑していた警備兵2名の首を、正確かつ無慈悲なチョークスリーパーで刈り取る。
「クリア」
佐藤がゲートのカードリーダーに、九条から託されたマスターキーのデータを複製した端末を接続する。
緑色のランプが点灯し、重厚な鉄扉が音もなく開いた。
内部への侵入。
彼らは迷路のような地下通路を進む。監視カメラはマスターキーの権限でループ映像に切り替えられている。
「……静かすぎるわね」
千尋がヒールの音を殺しながら囁く。
「氷室は、我々がここに来ることを想定しているはずです。……罠だと分かっていても、進むしかありません」
地下5階。
彼らの前に立ちはだかったのは、通路の先を完全に塞ぐ巨大な金属の壁だった。
軍事施設レベルのチタン合金製・防護扉。表面には一切の継ぎ目がなく、電子ロックのパネルだけが冷たい光を放っている。
『……ご苦労だったな、ネズミ共』
不意に、天井のスピーカーからノイズ混じりのくぐもった声が響いた。
感情の起伏がない、機械のような男の声。
「誰?」
襟華が警戒する。
「氷室の右腕……セキュリティ責任者の『霧島』です。元サイバーテロリストで、過去に某国の国防総省をダウンさせたこともある男」
佐藤がパネルに端末を繋ごうとするが、全く反応がない。
『無駄だ、佐藤任三郎。……お前のハッキング手法は既にパノプティコンが学習済みだ。この扉の制御システムは、外部ネットワークから完全に物理切断されている。マスターキーすら受け付けない手動の独立回線だ。お前たちはここで終わりだ。……やがて増援が到着し、お前たちはミンチになる』
スピーカーの向こうで、霧島が冷ややかに笑う気配がした。
「……物理切断。完全に線を抜かれている状態では、どんな天才ハッカーでも手出しできません」
佐藤が顔をしかめる。
「じゃあ、ここまで来て引き返すの!?」
襟華が叫ぶ。
その時、渡辺千尋が一歩前へ出た。
彼女はスピーカーの横にある、旧式のアナログインターホン(音声のみの通話口)に顔を近づけた。
「ねえ、霧島クンだっけ?」
千尋の声は、夜の蝶のように甘く、そして刃のように冷酷だった。
『……なんだ、女。命乞いか?』
「ふふっ、笑わせないで。……私、あなたのこと知ってるわ。昔は『天才ハッカー』なんて呼ばれて、裏社会でブイブイ言わせてたんでしょ? でも、今はどう? 氷室レイっていう主人の靴を舐める、ただの哀れな番犬じゃない」
『……口を慎め。俺は氷室社長のビジョンに共鳴しているだけだ』
声のトーンが、わずかに低くなる。
「共鳴? ただのビビりでしょ」
千尋はインターホン越しに、容赦なく言葉のナイフを突き立てる。
「本当は、自分の実力が通用しなくなったのが怖いのよ。パノプティコンっていうAIに全部おんぶにだっこで、自分じゃ何も判断できない。だからこんな分厚い扉の後ろに引きこもって、線を引っこ抜いて震えてる。……滑稽ね。昔の仲間が見たら、なんて言うかしら? 『あいつはもう、牙を抜かれた負け犬だ』って」
『……黙れッ!』
スピーカーから、怒りに満ちた怒号が響いた。
「ほら、図星でしょ? 天才が聞いて呆れるわ。自分のシステムに自信があるなら、堂々とオンラインで勝負してみなさいよ。……あ、ごめんなさい。今のあなたじゃ、うちの17歳の女の子にも勝てないもんね?」
『舐めるなァァァッ!!』
その瞬間。
霧島が怒りに我を忘れ、インターホンのシステムを通じて反論のコマンドを打ち込もうと、コンソールを叩いた。
手動で閉鎖されていたネットワークのポートが、彼の端末と「一瞬」だけ繋がった。
わずか0.5秒のオンライン状態。
「今です、襟華!」
「いっけぇぇぇぇッ!!」
佐藤と襟華は、すでに準備していた攻撃パケットを、その0.5秒の隙間にねじ込んだ。
二人のキーボードを叩く音がシンクロし、防護扉の制御システムに致命的なバグを発生させる。
ピーーッ! ガコンッ!!
電子ロックのパネルが赤から緑へと変わり、ロック解除の電子音が鳴り響いた。
「よし、電子ロックは死んだ!」襟華がガッツポーズをする。
「……ですが、物理的なカンヌキがまだ三箇所残っています。扉自体はびくともしません」
佐藤が扉を押すが、数トンのチタン合金は動かない。
「ふふん。ここからが私の出番ね」
小林弥生が、重たいジュラルミンケースを床に置き、白衣を翻して進み出た。
「私がわざわざこんな物騒な現場に同行した理由、見せてあげるわ」
彼女はケースを開け、特殊な耐酸性の手袋をはめた。
取り出したのは、ガラス瓶に入ったドロドロの緑色の液体。
「特製『溶解ちゃん1号』よ。……金属結合を分子レベルで破壊する、超強力な酸のブレンド」
弥生は注射器のような巨大なスポイトで液体を吸い上げ、扉の巨大なヒンジと、カンヌキが刺さっている隙間に正確に流し込んでいく。
ジュゥゥゥゥゥッ!!
強烈な白煙が上がり、鼻を刺すような異臭が立ち込める。
無敵を誇るチタン合金が、まるで熱いお湯をかけられた氷のように、ブクブクと泡を立てて脆く崩れていく。
「……信じられない。軍用装甲を溶かすなんて」
グレタが目を見張る。
「化学の力は、物理を超えるのよ」
弥生が誇らしげに胸を張る。
「ヒンジとカンヌキの強度が限界です。……グレタ!」
佐藤が叫ぶ。
「任せろ!」
グレタが数歩下がり、助走をつけて扉に飛び蹴りを放った。
ドガァァァァンッ!!
溶けかかっていたヒンジがへし折れ、数トンの防護扉が内側へと吹き飛んだ。
もうもうと立ち込める煙と埃。
「突破しました。……進みます!」
佐藤を先頭に、チームは防護扉の奥へと足を踏み入れた。
だが、その先は彼らの想像とは違っていた。
メインサーバー室だと思っていた空間は、コンクリート剥き出しの一本道の長い通路だった。
照明がチカチカと点滅し、不気味な静けさが漂っている。
「……何よ、ここ。サーバーは?」
千尋が周囲を見回す。
その時。
ガシャアァァァン!!
彼らが今通ってきた、吹き飛んだはずの防護扉のさらに手前から、分厚い隔壁が上から落下し、退路を完全に塞いだ。
「罠だッ!」
グレタが声を上げる。
通路の前方。
暗闇の中から、重々しい足音が複数近づいてくる。
赤いレーザーサイトの光が、暗闇の中で無数に交錯した。
現れたのは、全身を最新鋭のタクティカルギアで包み、アサルトライフルを構えた傭兵部隊だった。
単なる警備員ではない。死線を知り尽くした、プロの殺し屋たちの動きだ。バズ・インキュベーションが裏で飼っている「本当の私兵」。
その先頭に立つ巨漢の男が、ヘルメットのバイザーを上げ、ニヤリと笑った。
「……久しぶりだな、グレタ。まさかこんな日本で、お前を殺すことになるとは思わなかったぜ」
グレタの顔が、驚愕と憎悪に歪んだ。
「……シュナイダー。貴様、なぜここに」
「金がいいからに決まってるだろう? お前が抜けた後の部隊は、俺が引き継いだってわけだ」
前方からは、完全武装の傭兵部隊。
後方は、閉じられた分厚い隔壁。
退路は断たれた。まさに、前門の虎、後門の狼。
「……社長。どうするの」
襟華が震える声で尋ねる。
佐藤は懐から、一粒のサイコロを取り出した。
「どうやら、彼らのAIは『罠』の使い方が上手いようですね。……ならば、こちらは最後まで運で勝負するしかありません」
絶体絶命の閉鎖空間。
最強の敵を前に、アウトローたちの最後の死闘が始まろうとしていた。




