第34話 幻想の終わり
決戦当日の正午。
東京ドームでの開演を6時間後に控え、佐藤任三郎はオフィスのキッチンに立っていた。
彼の手元には、北海道産のジャガイモ「トヨシロ」が山と積まれている。
加工用として開発されたこの品種は、還元糖が少なく、揚げた際に焦げにくい。ポテトチップスにするには最適解の芋だ。
佐藤はドイツ・ベルナー社製のVスライサーを構え、皮を剥いたジャガイモをセットした。
シュッ、シュッ、シュッ。
小気味良い音が響き、0.8ミリという極薄の円盤が次々と生み出されていく。
透き通るようなスライスを、氷水に放つ。
表面のデンプン質を徹底的に洗い流すためだ。この工程を怠れば、揚げた際に同士がくっつき、パリッとした食感は生まれない。
「……今日はジャンクフードですか?」
リビングで身支度を整えていた田中襟華が、呆れたように声をかけた。
彼女は作戦用の衣装――西園寺の信者たちが好む、パステルカラーのパーカーと量産型のメイク――に身を包んでいる。
「市販のポテトチップスではありません。これは『作品』です」
佐藤はキッチンペーパーで執拗なまでに水分を拭き取ったポテトを、170度に熱した揚げ油へと投入した。
油は、酸化に強い米油と、コクを出すパーム油を7対3でブレンドしたものだ。
ジュワァァァァ……。
鍋の中で、無数の黄金色の泡が踊る。
佐藤は長い菜箸を使い、一枚一枚が重ならないように泳がせる。
水分が飛び、泡が小さくなり、音が「ピチピチ」という乾いた高音に変わる瞬間。
その0.1秒を見逃さず、佐藤は網ですくい上げた。
バットの上で油を切り、熱いうちに塩を振る。
使うのは、フランス・ゲランド産の「フルール・ド・セル」。結晶が大きく、マイルドな塩味が、ジャガイモ本来の甘みを極限まで引き立てる。
「どうぞ。……揚げたては3分が命です」
佐藤が差し出した皿に、襟華と渡辺千尋が手を伸ばす。
パリッ。
軽快な破砕音。
「……んっ! 何これ、すごい軽い!」
襟華が目を丸くする。
「市販のやつと全然違うわね。油っぽさが全くない。……いくらでも食べられちゃう危険な味だわ」
千尋も、メイクを崩さないように小さく齧りながら感嘆した。
「合わせる飲み物は、これです」
佐藤が冷蔵庫から取り出したのは、シャンパンでもヴィンテージワインでもなく――数本の『ヤクルト』だった。
それも、最近流行りの機能性表示食品ではなく、昔ながらの小さなプラスチック容器に入った『Newヤクルト』だ。
「……は? ヤクルト?」
「乳酸菌シロタ株です。腸内環境を整え、ストレスを緩和する。……これから我々が対峙するのは、5万人の狂気です。脳腸相関という言葉がある通り、腸のコンディションは精神の安定に直結します」
佐藤はアルミの蓋を丁寧に剥がし、琥珀色の液体を一気に飲み干した。
濃厚な甘みと酸味が、揚げたてのポテトチップスの塩気と奇妙なほどマッチする。
ジャンクなようでいて、計算され尽くした背徳のペアリング。
「……西園寺レオの『王国』も、このポテトチップスと同じです」
佐藤は残った欠片を指先で摘み、粉々に砕いた。
「一見、黄金色に輝き、大衆を魅了する味がある。しかしその実態は、0.8ミリの薄っぺらい虚構に過ぎない。……少し力を加えれば、粉々に砕け散る」
彼はハンカチで指を拭き、冷徹な「処刑人」の顔に戻った。
「行きましょう。……おやつの時間は終わりです」
午後6時00分。東京ドーム。
その巨大な空間は、異様な熱気に支配されていた。
収容人数5万5千人。アリーナ席から3階席の最上段まで、立錐の余地もなく埋め尽くされている。
客層は若い。10代から20代前半が中心だ。
彼らは一様に、西園寺が販売した「ミライ・Tシャツ」を身につけ、手にはサイリウムを持っている。
『レオ! レオ! レオ!』
地響きのようなコールが、ドームの屋根を震わせている。
サクラが先導しているとはいえ、その熱量は本物だった。彼らの瞳には、飢餓感にも似た期待が宿っている。
今の閉塞した人生を変えてくれる何かが、ここにあるはずだという、切実な願い。
「……吐き気がするわね」
アリーナ席の中央付近。
信者に紛れ込んだ千尋が、隣の襟華に耳打ちした。
「これだけの数が、たった一人の詐欺師に人生を預けようとしてるなんて」
「……それだけ、みんな余裕がないんだよ」
襟華はサイリウムを振るふりをしながら、周囲を観察した。
隣にいる大学生風の男は、スマホの画面で借金の返済額を見ながら、祈るようにステージを見つめている。
照明が落ちた。
ドーム内が漆黒の闇に包まれる。
ドォォォォン……!
重低音が響き、メインステージから巨大な火柱が上がった。
レーザー光線が乱舞し、スモークの中から、白いリムジンに乗った男が登場する。
「Ladies and Gentlemen!! お待たせしました! 新世界の創造主、西園寺レオです!!」
ウワーーーッ!!
悲鳴のような歓声。
西園寺はリムジンから降り立ち、両手を広げて大衆の歓呼を浴びた。
白いスーツに、完璧なヘアメイク。その姿は、現代の救世主そのものだった。
「君たちは選ばれた! 今日、この場所に集まった君たちこそが、新しい時代の勝者だ!」
西園寺の声が、最高級の音響システムを通して響き渡る。
「外の世界を見ろ! 古い常識、搾取する老人たち、君たちの可能性を否定する学校や会社! そんなものは捨ててしまえ! 私が、君たちを『富』と『自由』の楽園へ連れて行く!」
巧みだ。
若者たちの不満を肯定し、共通の敵を作り、自分だけが理解者だと錯覚させる。
カルトの手口そのものだが、エンターテインメントとして昇華されているため、誰も疑問を持たない。
その舞台裏。
ドームの最上階にある、メインコントロールルーム。
「……ID確認、よし。どうぞ」
警備員がカードキーをかざし、重厚な扉を開けた。
そこへ入っていったのは、イベントスタッフのジャンパーを着た、目深に帽子を被った二人組の男だった。
「お疲れ様です。音響機材の最終チェックに来ました」
一人の男――佐藤任三郎が、機材担当者に伝票を見せる。
佐々木紘子が買収し、送り込んだ下請け業者の正規のIDパスだ。
「ああ、聞いてますよ。……でも、本番中にチェックなんて聞いてないけど?」
担当者が怪訝な顔をする。
「西園寺社長からの直々のオーダーです。『フィナーレの音圧を上げろ』と。……遅れると社長の機嫌を損ねますが?」
「あ、いや、それなら通してください」
西園寺の名前を出した途端、担当者は萎縮して道を空けた。
この組織における西園寺の絶対性が、逆にセキュリティホールになっていた。
佐藤ともう一人――大柄なスタッフに変装したグレタ・ヴァイスは、部屋の奥へと進む。
そこには、ドーム内の全てのスクリーンと音響を制御するメインコンソールが鎮座していた。
「……動くな」
グレタが低く呟くと同時に、彼女の手刀がオペレーターの首筋に吸い込まれた。
ドサッ。
音もなく男が崩れ落ちる。
周囲のスタッフが異変に気づくよりも速く、グレタは流れるような動きで、残りの3人を次々と制圧した。
関節技で締め落とし、床に寝かせる。所要時間、わずか10秒。
「クリアだ。……サトウ、始めろ」
「ええ。最高のショータイムにしましょう」
佐藤はコンソールの前に座り、持参したラップトップを接続した。
画面に、紘子が仕込んでおいたバックドアのプログラムが走る。
ステージ上では、西園寺の演説が最高潮に達していた。
「さあ、時は来た! 今ここで宣言しよう! 私が作る『ミライ・グループ』による、国家を超えた経済圏の樹立を! 君たちはその最初の国民だ!」
西園寺が天を指差した。
「見よ! これが我々の未来だ!」
背後の巨大スクリーンに、ファンファーレと共に映像が映し出される――はずだった。
プツン。
ドーム内の全照明が、唐突に落ちた。
完全な闇。
音響も止まり、5万人のざわめきだけが残る。
「……なんだ? 演出か?」
「事故?」
西園寺も動揺し、マイクを叩いた。「おい、どうなってる! 照明をつけろ!」
その時。
メインスクリーンに、ノイズ混じりの映像が映し出された。
そこに映っていたのは、美しい未来都市のCGではない。
薄暗い、コンクリート打ちっぱなしの部屋だった。
『……やめて、離して!』
『うるせえ! 西園寺様のありがたい教えを聞け!』
映し出されたのは、山奥の施設での「洗脳」の現場だった。
椅子に縛り付けられ、スタッフに暴力を振るわれる若者たち。
無理やり薬を飲まされ、白目を剥いて痙攣する参加者。
「ヒッ……」
客席の誰かが息を呑んだ。
映像は切り替わる。
今度は、厨房の隠し撮り映像だ。
小林弥生が分析したあの「スープ」に、白い粉末を大量に混入させている料理長の姿。
『これを飲ませりゃ、イチコロよ。……バカなガキどもだ』
そして、トドメの映像。
それは、VIPルームでワインを飲みながら談笑する、西園寺レオ本人の姿だった。
襟華が小型カメラで隠し撮りしたものだ。
『……チョロいもんだねえ、貧乏人は』
画面の中の西園寺は、醜悪に歪んだ顔で笑っていた。
『「君は特別だ」って言ってやるだけで、親の財布から金を盗んでまで貢いでくれる。……あいつらは人間じゃない。俺の養分だ。金を生む家畜だよ』
『ドームのイベント? ああ、あそこが最大の集金場だ。5万人から吸い上げれば、俺は高飛びして海外で遊んで暮らすさ。……あとの抜け殻どもなんて、野垂れ死のうが知ったことか』
静寂。
5万人が息をするのも忘れて、その映像に見入っていた。
ステージ上の西園寺が、顔面蒼白で叫んだ。
「消せ!! 嘘だ!! これはディープフェイクだ!! AIが作った偽物だ!!」
だが、映像は消えない。
それどころか、ドームのスピーカーから、冷徹な声が響き渡った。
『……いいえ。これは紛れもない真実です』
佐藤任三郎の声だ。
ボイスチェンジャーを通していない、地声。
それが逆に、絶対的な審判者のような威厳を持って響く。
『西園寺レオ。……いえ、元・情報商材詐欺師の、権田原レオさん』
本名を晒され、西園寺が硬直する。
『あなたは「世界を変える」と言いましたね。……ええ、変わりますよ。ただし、あなたにとって最悪の形に』
『今、あなたの足元のステージ……その下にある隠し金庫から、佐々木紘子という調達屋が、裏帳簿と架空口座のデータを全て回収しました。……あなたが海外に隠そうとしていた資産は、すべて被害者への賠償金として凍結されました』
「な、なんだと……!?」
『そして』
佐藤の声に合わせ、今度はドーム外の映像がピクチャー・イン・ピクチャーで表示される。
新宿のアルタビジョンをはじめとする、街頭ビジョンだ。
そこには、ニュース速報のテロップと共に、深刻な表情の松本愛永が映っていた。
『速報です。実業家の西園寺レオ氏に対し、先ほど未成年者略取および詐欺、麻薬取締法違反の容疑で逮捕状が請求されました』
愛永は原稿を読み上げる。
『警視庁は、被害者の会からの告発を受け、東京ドームに捜査員を派遣。イベント終了を待たず、身柄を確保する方針です』
「逮捕……?」
西園寺が後ずさる。
ドームの照明が、一斉に点灯した。
ただし、演出用の華やかなライトではない。
無機質な、全点灯。
夢から覚めた現実の光が、会場を白日の下に晒す。
アリーナの扉が開き、制服警官と機動隊が雪崩れ込んできた。
先頭を歩くのは、スーツ姿の吉田彩だ。彼女は捜査令状を高々と掲げ、ステージを指差した。
「確保ォォッ!!」
「う、嘘だ……俺は、俺は王だぞ……!」
西園寺は逃げようとバックステージへ走る。
しかし、そこには既に「彼女」たちが待ち構えていた。
「……往生際が悪いわよ、詐欺師さん」
田中襟華が、仁王立ちで立ちはだかる。
その隣には、冷ややかな視線で見下ろす渡辺千尋。
「ど、どけ! 俺に触るな! 俺は選ばれた人間なんだ!」
西園寺は錯乱し、襟華を突き飛ばそうとした。
襟華は避けなかった。
彼女は一歩踏み込み、西園寺の鳩尾に、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
「ガッ……!」
くの字に折れ曲がり、西園寺が膝をつく。
あの山奥の施設で受けた屈辱、恐怖、そして奪われた若者たちの未来。その全ての怒りを込めた一撃。
「……これでおあいこね」
襟華は拳をさすりながら、冷たく言い放った。
警官隊が殺到し、西園寺を取り押さえる。
「離せ! 離せぇぇぇ!!」
無様に叫ぶその姿は、もはやカリスマの欠片もなかった。
客席の5万人は、まだ状況を飲み込めずにいた。
だが、スクリーンに映し出された西園寺の連行シーンを見て、一人がサイリウムを床に叩きつけた。
「金返せ!」
それが合図だった。
「騙しやがって!」「ふざけんな!」
怒号が渦巻き、サイリウムが雨のようにステージへ投げ込まれる。
洗脳が解けた反動。愛が憎悪に変わる瞬間。
巨大なドームは、阿鼻叫喚の坩堝と化した。
コントロールルーム。
佐藤はモニターに映るその光景を、静かに見下ろしていた。
「……終わりましたね」
「ああ。薄っぺらい幻想の終わりだ」
グレタが帽子を脱ぎ、髪を払った。
佐藤は懐から、先ほど食べたポテトチップスの最後の一欠片を取り出し、口に放り込んだ。
塩味が、少ししょっぱく感じた。
「西園寺レオ。……あなたの『王国』は、今ここで閉園です」
佐藤はマイクのスイッチを切り、静かに部屋を後にした。
彼の背後で、かつての信者たちの絶叫だけが、虚しく響き続けていた。




