第33話 東京ドームへの道
東京に戻ったのは、あの山奥の地獄から脱出して三日後のことだった。
佐藤任三郎のオフィス兼自宅は、久しぶりの静寂ではなく、微かな緊張感と、そして奇妙な「籠城戦」の空気に包まれていた。
「……食べませんね」
佐藤は困り果てた顔で、フローリングに置いた皿を見下ろした。
そこにあるのは、ドイツ製の高級陶磁器の浅皿。中には、鶏のササミを極限まで滑らかにペースト状にし、ヤギミルクで伸ばした特製の離乳食が盛られている。温度も猫の体温に近い38度に調整済みだ。
しかし、その前でふてくされたように丸まっている黒い毛玉――子猫のダシは、皿に見向きもしない。
「どうしました? いつもの『ピュリナワン』よりも上質な、比内地鶏のムースですよ」
佐藤が皿を鼻先に近づける。
ダシは「フンッ」と鼻を鳴らすように顔を背け、さらに佐藤にお尻を向けてしまった。
その体つきは、保護当初の儚げな毛玉から一回り大きくなり、手足もしっかりとしてきている。瞳の色も、幼少期の青から、鮮やかな金色へと定着しつつあった。
「……拗ねてんのよ、それ」
ソファから、呆れた声が飛んだ。
田中襟華だ。彼女はまだ顔色こそ白いものの、点滴のおかげで、憎まれ口を叩ける程度には回復していた。
その腕には点滴のラインが繋がっており、隣では白衣姿の小林弥生が輸液パックの調整をしている。
「社長が黙っていなくなって、寂しかったんでしょ。猫だって根に持つんだから」
「まさか。……私は彼に、留守番という任務を与えただけです」
「それが通じるなら苦労しないわよ」
襟華の隣では、渡辺千尋がふかふかのクッションに身を沈め、高級な美容液マスクを顔に貼り付けたまま、タブレットを操作している。
「あら、可愛いじゃない。……『もう二度と離さないで』って言ってるのよ、その子は。男の人がこういう風に甘えてくれば、私ならイチコロなんだけど」
「千尋さん、パックがズレてます。……それに、ダシ君は男の子です。甘えているのではなく、抗議活動です」
佐藤はため息をつき、膝をついた。
そして、人差し指の先にムースを少しだけすくい取り、強引にダシの口元へ持っていく。
「いいですか、ダシ君。食事は任務です。食べなければ、次の戦いには連れて行けませんよ」
ダシは嫌そうに身をよじったが、鼻先に漂う比内地鶏の抗いがたい香りに負け、ピンク色の舌をチョロリと出した。
ペロリ。
指先のムースが消える。
ダシの金色の瞳が見開かれた。
(……美味い!)
そう言わんばかりに、ダシは佐藤の指を両前足でホールドし、夢中で舐め始めた。そのまま誘導されるように皿へと顔を突っ込み、ガツガツと猛烈な勢いで食べ始める。
「……チョロいな」
襟華がボソリと呟く。
「単純なのではありません。信頼関係の再構築と、品質による説得です」
佐藤が満足げにハンカチで指を拭いたその時、壁面の大型モニターに「臨時ニュース」のテロップが流れた。
『速報です。実業家の西園寺レオ氏が、緊急記者会見を開いています』
オフィスの空気が一変した。
弥生が点滴の調整を止め、真剣な表情でモニターを見上げる。
佐藤がリモコンで音量を上げる。
画面の中には、無数のフラッシュを浴びる西園寺レオの姿があった。
山奥の施設で見た狂気じみた表情は消え失せ、そこには「若者のカリスマ」としての、自信に満ちた爽やかな笑顔だけがあった。白いスーツが、照明を浴びて神々しく輝いている。
『……先日の私のセミナー施設でのボヤ騒ぎについて、一部で悪質なデマが流れているようです』
西園寺はマイクを握り、悲しげに眉を下げた。
『監禁だの、洗脳だの……。これらは全て、私の成功を妬む者たちによる捏造です。あの火災は、施設の厨房での不幸な事故でした。私はむしろ、参加者の安全を第一に考え、全員を速やかに避難させました』
完璧な嘘だ。
襟華が悔しそうに拳を握りしめる。血管に刺さった針がズレそうになり、弥生が慌てて押さえる。
「……よくもまあ、あんな顔で! あそこで何人が薬漬けにされたと思ってるの!?」
「落ち着いて、襟華ちゃん。血圧上がるよ」弥生が諭す。
『ですが、私はこんな妨害には屈しません。むしろ、これを機に、より大きなビジョンを皆さんと共有したい』
西園寺が両手を広げた。背後のスクリーンに、巨大な白いドーム状の建造物の画像が映し出される。
『来月15日。私は、東京ドームにて史上最大規模のフェスティバルを開催します。その名も――『ミライ・フェス 2026』!』
東京ドーム。
収容人数、5万5千人。
『当日は、私と親交のある著名なアーティストやインフルエンサーも多数出演します。そして、フィナーレでは……私が構想する「新世界」の全貌を発表します。参加費は無料。未来を変えたい若者たちよ、ドームに集結せよ!』
会場の記者たちから、どよめきが上がる。
無料。5万人規模。
それは単なるセミナーではない。宗教的な熱狂を生み出すための、巨大な「儀式」だ。
プツン。
佐藤がモニターの電源を切った。
「……無料、ですか」
佐藤はダシの皿が空になったのを確認し、冷ややかに呟いた。
「タダより高いものはない。……集まった5万人の個人データを吸い上げ、さらに会場の空気を支配して、一気に信者化するつもりでしょう」
「5万人を一気に洗脳? そんなことできるの?」
襟華が尋ねる。
「できますよ」
答えたのは千尋だった。彼女は顔からパックを剥がし、艶やかな素顔を晒して佐藤を見た。
「集団心理よ。ドームのような閉鎖空間で、光と音、そして熱狂的な演出に包まれれば、個人の理性なんて簡単に吹き飛ぶわ。……ナチスの党大会と同じ手口ね」
「それに、科学的なアプローチも懸念されます」
小林弥生が、タブレットで西園寺の過去のイベント映像を解析しながら言った。
「このスモークの量、異常だよ。もしここに、私が分析した『あの薬』――気化しやすい向精神薬や、興奮剤が混ぜられていたら……」
「5万人のオーバードーズ患者による、大規模な暴動が起きるわね」
千尋が冷たく言い放つ。
「最悪のシナリオですね。……今回の『火事』の噂を消すためにも、ドームという圧倒的な実績が必要なのでしょう」
佐藤は立ち上がり、ホワイトボードの前に移動した。
そこには既に、東京ドームの構造図と、イベント概要が貼られている。
「敵は起死回生の一手として、最大級の舞台を用意しました。……ならば、我々もそれに乗りましょう」
佐藤が鋭い視線でメンバーを見渡す。
「敵が一箇所に集まるこのイベントこそ、最高の処刑台です。……5万人の観衆の前で、彼の化けの皮を剥ぎ取り、その『王国』を崩壊させます」
「いいねえ、派手で」
キッチンのカウンターでリンゴを剥いていた佐々木紘子が、ナイフを置いて笑った。
「東京ドームのセキュリティは厳しいわよ? 機材の持ち込みなんて、空港並みにチェックされる」
「だからこそ、準備が必要です。……紘子さん、あなたの出番です」
佐藤は手元のタブレットをスワイプし、データをモニターに飛ばした。
表示されたのは、イベントの運営会社リストだ。
「音響、照明、舞台設営。……この規模のイベントなら、数十社の下請け業者が入ります。その中に、我々の『トロイの木馬』を紛れ込ませてください」
「なるほどね」
紘子はリストを眺め、ニヤリと笑った。
「音響機材の搬入業者に、ひとつ借金で首が回らなくなってる会社があるわ。……社長ごと買収して、スタッフとして潜り込む手はずを整える。機材の中に『特製のおもちゃ』を仕込んでね」
「お願いします。……次に、彩さん」
ソファの端で、六法全書ではなく週刊誌を読んでいた吉田彩が顔を上げた。
「法的準備ね?」
「はい。西園寺を潰した後、即座に身柄を拘束できるよう、警察と検察への根回しを。……それと、被害者の会を組織してください」
「もう動いてるわ」
彩は眼鏡の位置を直しながら、涼しい顔で言った。
「『ミライ・アカデミー』の被害者家族を中心に、既に50名以上の委任状を集めた。……イベント当日に集団訴訟を提起するプレスリリースを出すわ。名目は『未成年者略取誘拐』および『詐欺』。ドームが歓声に包まれている裏で、私は裁判所に仮差止命令を申し立てる」
「完璧です。……弥生さんは、医療班の準備を」
佐藤が視線を向けると、弥生は白衣のポケットから小さなアンプルを取り出して振ってみせた。
「わかってる。ドームの空調システムに割り込めるなら、この『中和剤』を散布できるようにセットしておく。……もし西園寺が変なガスを使ったら、即座に無力化してあげる」
「頼みます。……そして、愛永さん」
窓際で、自身の番組の台本をチェックしていた松本愛永が振り返った。
彼女は不敵な笑みを浮かべている。
「わかってるわよ。……『風』を起こせばいいんでしょ?」
「ええ。このイベントへの注目度を、極限まで高めてください。……逃げ場をなくすために」
「任せて。明日の放送から、じわじわと煽っていくわ。『謎のカリスマ、西園寺レオとは何者か?』『東京ドームで何が起きるのか?』……期待値を上げれば上げるほど、落ちた時の落差は大きくなる」
愛永はスマホを取り出し、プロデューサーへの連絡を始めた。
「もしもし? 愛永ですぅ~。今度の特番のネタなんですけどぉ……」
その声色は、甘ったるい「国民的お姉さん」のものに切り替わっていた。
佐藤は頷き、最後に自分のデスクに戻った。
キーボードに手を置く。
「私は、当日の演出を書き換える準備をします。……西園寺レオが用意した『新世界の発表』を、我々の『告発映像』にすり替える」
カチャリ、とエンターキーを叩く音が響く。
「襟華君、千尋さん。あなたたちは当日の『主演女優』です。体調を万全に戻してください」
「……了解。あのクソ詐欺師の泣きっ面を見るまでは、死んでも死にきれないしね」
襟華がベッドから起き上がり、拳をポキリと鳴らした。
「ええ。……私の『夫』を騙した落とし前、きっちりつけさせてもらうわ」
千尋も妖艶に微笑む。
「グレタは?」
キッチンから、グレタ・ヴァイスが顔を出した。手にはプロテインシェイカーを持っている。
「あなたは当日の『退路』の確保と、万が一の際の武力介入です。……5万人がパニックになれば、将棋倒しが起きる。我々が安全に撤収するためのルートが必要です」
「了解した。……ドームの地下駐車場から、首都高への最短ルートをシミュレーションしておく」
全員の役割が決まった。
巨大な歯車が、軋みを上げて回り始める。
佐藤はふと、足元の皿の前で、満腹になって丸まっているダシに目をやった。
無防備に腹を出して眠るその姿は、この部屋で唯一の「平和」の象徴だった。
「……行きますよ」
佐藤は誰にともなく呟いた。
「東京ドームへの道は、彼らにとっての『花道』ではありません。……処刑台へと続く、階段なのですから」
窓の外、東京の夜景の中に、白く輝く東京ドームの屋根が遠くに見えた。
それは巨大な白い卵のようであり、あるいは――巨大な墓標のようにも見えた。




