第24話 黒幕の影
午前5時30分。
東の空が白み始め、港区白金台の高級住宅街は、朝靄とパトカーの赤色灯に包まれていた。
ジャッジマン・タナカこと田中一郎は、マルサと警察の車両に乗せられ、連行されていった。
その光景を遠巻きに見つめる野次馬や、遅れて駆けつけた他のメディアのカメラクルーたち。
現場は祭りの後のような、熱気と虚脱感が入り混じった空気に支配されていた。
佐藤任三郎は、グレタ・ヴァイスのBMWの傍らで、静かにその様子を見守っていた。
隣には、独占スクープを撮り終え、満足げにカメラクルーに指示を出す松本愛永がいる。
吉田彩は、警察関係者と何やら立ち話をし、法的な後処理の根回しをしているようだ。
「……終わったな」
グレタが革手袋を外し、短く息を吐いた。
「ああ。小物は片付いた」
佐藤は頷き、視線を群衆のさらに奥、路地の暗がりへと向けた。
そこには、不自然なほど窓ガラスを黒く塗りつぶしたワンボックスカーが数台、エンジンをかけたまま停車していた。
周囲には、黒いスーツを着た男たちが立っている。
彼らは警察やマスコミには目もくれず、ただ一点、佐藤たちの方をじっと凝視していた。
その視線には、明確な殺意と、任務を遂行できなかった苛立ちが込められている。
「……気づいているか、サトウ」
グレタが声を潜める。彼女の筋肉が、再び戦闘態勢へと硬直する。
「ああ。ハイエナたちですね」
佐藤は表情を変えずに答えた。
「『バズ・インキュベーション』の掃除屋でしょう。タナカを回収し、口封じをするつもりだったのが、警察の到着が早すぎて手出しできなかった」
男の一人が、耳元のインカムに手を当て、何かを話している。
そして、悔しげに車体を一度叩くと、仲間たちに合図を送った。
ワンボックスカーは静かに発進し、パトカーとは逆の方向へと去っていった。
これ以上の騒ぎはリスクが高いと判断したのだろう。
「……賢明な判断だ」
グレタが呟く。
「だが、奴らの顔は覚えた。次はあんな簡単には帰さない」
「ええ。ですが今は、我々も引き上げ時です」
佐藤はメンバーを集めた。
「長居は無用です。警察の事情聴取が本格化する前に、姿を消しましょう」
帰りの車中。
グレタのBMW M5 CSは、早朝の都心を滑るように走っていた。
後部座席には佐藤と、仕事を終えてメイクを少し落とした愛永が座っている。
他のメンバーは、紘子の用意したバンに分乗して帰路についていた。
プシュッ。
軽快な音がして、車内に柑橘系の香りが広がった。
愛永が、近くのコンビニで買った缶チューハイを開けたのだ。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁーっ!」
愛永は豪快に半分ほど飲み干し、シートに深く沈み込んだ。
「生き返るぅ~! やっぱ仕事の後の酒は最高ね!」
「車内でアルコール臭を撒き散らすのはやめてください」
佐藤が眉をひそめる。
「いいじゃない、固いこと言わないでよ。大勝利よ? 完全勝利!」
愛永は缶を掲げて上機嫌だ。
「タナカのあの無様な顔! 全国のお茶の間に流れるわよ。私の番組の視聴率、また更新しちゃうかも。スポンサーも手のひら返して土下座してくるわね、きっと」
彼女の高笑いが響く。
無理もない。彼女はこの数日間、理不尽な誹謗中傷と捏造スキャンダルに晒され、精神的に追い詰められていたのだ。そのストレスから解放された反動は大きい。
「……ありがとう、任三郎」
ふと、愛永が真面目なトーンで言った。
「アンタたちの協力がなきゃ、私、潰れてたかも」
「ビジネスパートナーとしての義務を果たしたまでです」
佐藤は素っ気なく答えたが、その手元には、タナカが逃走時に持ち出そうとしていたハードディスクがあった。
これを解析すれば、タナカの悪行の全てと、その背後関係が明らかになるはずだ。
佐藤はノートPCを開き、ハードディスクを接続した。
田中襟華が事前に解除コードを解析していたおかげで、中身はすぐに閲覧できた。
フォルダには、膨大な量の顧客リスト、恐喝の録音データ、そして『権藤』というフォルダがあった。
「……やはり、権藤がパトロンでしたか」
佐藤はファイルを開いていく。
そこには、権藤からタナカへの資金提供の記録や、配信内容の指示書(台本)が残されていた。
だが、佐藤の指が止まったのは、さらに奥階層にあった隠しフォルダだ。
フォルダ名は『PROJECT: PANOPTICON』。
「パノプティコン……?」
運転席のグレタがバックミラー越しに反応する。
「全展望監視システムか。刑務所の監視塔の概念だな」
「ええ。……これを見てください」
佐藤の声が低くなる。
画面に表示されたのは、複雑なネットワーク図と、数式のようなアルゴリズムだった。
『SNSトレンド操作アルゴリズム』
『個人情報収集・プロファイリングAI』
『感情誘導プロトコル Ver.4.0』
「タナカやMIIKAは、ただの実験台に過ぎません」
佐藤の瞳が、氷のように冷たく光る。
「この『パノプティコン』という計画……。ネット上のあらゆる言論を監視し、AIを使って特定の方向に世論を誘導するシステムのようです。権藤、いや、そのさらに上にいる黒幕は、この国そのものを『洗脳』しようとしている」
愛永の手から、缶チューハイが滑り落ちそうになる。
「な、なによそれ……。SF映画の話?」
「いいえ、現実に進行しているプロジェクトです」
佐藤はデータをスクロールさせた。
出資者リストの中に、見覚えのある企業名があった。
『バズ・インキュベーション』。
MIIKAが所属していた事務所の親会社であり、IT業界の寵児として急成長している巨大企業だ。
そして、そのCEOの名前は――『氷室 レイ』。
「……氷室レイ」
佐藤はその名を噛み締めるように呟いた。
若き天才起業家。メディアでは「日本のザッカーバーグ」ともてはやされている男だ。
だが、このデータが示す彼の本性は、デジタルの独裁者だ。
「……これは、終わりではありません」
佐藤はPCを閉じた。
バタン、という音が重く響く。
「始まりに過ぎません。我々が潰したのは、巨大な怪物の足の小指の先ほどにも満たない」
車内に沈黙が流れる。
勝利の余韻は消え去り、底知れぬ闇を覗き込んだような寒気が漂う。
グレタがハンドルを強く握り直した。
「……上等だ。相手がデカければデカいほど、狩り甲斐がある」
「そうね。……ここまで来たら、地獄の底まで付き合ってあげるわよ」
愛永も震える手で缶を握りしめ、残りを飲み干した。
佐藤は窓の外、白み始めた東京の空を見上げた。
この美しい朝焼けの下で、見えない監視網が張り巡らされようとしている。
それを断ち切れるのは、法でも警察でもない。
毒を以て毒を制す、彼らのような「処刑人」だけなのかもしれない。
午前6時30分。
佐藤はオフィスに帰還した。
長い、長い一日だった。
佐藤は玄関の鍵を開け、静かに中に入った。
リビングは静寂に包まれている。
空調の音だけが響く中、彼はソファの横に置かれた「保育器」代わりの保温箱を覗き込んだ。
「……起きていますか、ダシ君」
箱の中には、フリースに包まれた小さな黒い塊があった。
黒猫の子猫、ダシだ。
まだ生後数日。目は開いているが、まだ焦点が定まっていないような、ぼんやりとした青い膜がかかっている。
ダシは佐藤の気配を感じたのか、小さな口を開けて鳴いた。
「……ミー……」
蚊の鳴くような、か細い声。
自力では体温調整もできず、排泄もできない、絶対的な庇護を必要とする存在。
「お腹が空きましたか。……今、準備します」
佐藤はジャケットを脱ぎ、キッチンで手際よくミルクの準備を始めた。
粉ミルクを適温の湯で溶き、人肌まで冷ます。温度計で0.1度の誤差もなく調整する。
哺乳瓶を持って戻ると、ダシは短い手足をバタつかせ、這いずって箱の縁に向かおうとしていた。
「はい、どうぞ」
佐藤はダシをそっと抱き上げ、哺乳瓶を口元へ運んだ。
ダシは必死に吸い付く。
チュパ、チュパ、と生命力の音がする。
小さな耳が、飲むリズムに合わせてピクピクと動く。
佐藤はその振動を掌に感じながら、冷え切っていた心が少しずつ温まるのを感じた。
授乳を終え、背中をさすってゲップをさせ、濡らしたガーゼでお尻を刺激して排泄を促す。
すべてが手のかかる作業だ。
だが、佐藤は一切の嫌な顔をせず、完璧な手順でケアを行った。
「……さて。寝ましょうか」
世話を終えた佐藤は、ソファに深く座り込んだ。
徹夜の疲れが、今になって押し寄せてくる。
ダシを保温箱に戻そうとした、その時だった。
「ミャウ」
ダシが、佐藤の指に前足をかけた。
爪などまだ柔らかく、何の力もない。だが、その意志は明確だった。
『離れるな』と。
佐藤が動きを止めると、ダシは佐藤のYシャツのボタンの隙間に頭を突っ込んできた。
モゾモゾと、温かい場所を探すように。
そして、佐藤の鎖骨のあたり、ちょうど心臓の鼓動が聞こえる場所で、丸くなってしまった。
「……そこはベッドじゃありませんよ」
佐藤は困ったように呟く。
だが、ダシはゴロゴロと喉を鳴らし、完全にリラックスモードに入っている。
佐藤の体温と鼓動が、母猫の代わりなのだ。
その信頼しきった重み。わずか数百グラムの命の重みが、佐藤の胸を圧迫する。
「……参りましたね」
佐藤は苦笑した。
無理に引き剥がせば、泣き叫ぶだろう。
彼は観念して、ダシの背中にそっと手を添えたまま、身体の力を抜いた。
「今回だけですよ。……特別案件です」
朝日が差し込むリビング。
巨大な悪と戦う冷徹な処刑人は今、一匹の乳飲み子に占拠され、身動きが取れなくなっていた。
だが、その不自由さは、決して不快なものではなかった。
佐藤は目を閉じ、小さな寝息と共に、束の間の休息へと落ちていった。




