第2話 無添加の嘘
翌日、午後1時。
佐藤任三郎のオフィス「オメガ・リスクマネジメント」は、深い静寂に包まれていた。
空調の微かな稼働音だけが響く、生活感が一切排除された徹底的な管理空間で、佐藤はデスクの天板を磨いていた。特殊なマイクロファイバークロスを使い、指紋1つ、埃1つ残さないよう執拗に拭き上げる。
その静寂が、唐突に破られた。
電子ロックが解除される低い駆動音が響き、重厚なドアが開け放たれる。
「よぉ、ボス。頼まれてたブツ、持ってきたぜ」
土足で踏み込んできたのは、場違いな少女だった。
田中襟華、17歳。名門私立高校の制服を着ているが、スカートは限界まで短くされ、その上から無骨な革ジャンを羽織っている。足元は指定のローファーではなく、紐を緩めたエンジニアブーツだ。
白人の血を引く透き通るような肌に、意志の強さを象徴する太めの眉。あどけなさと反抗心が同居する整った顔立ちの彼女は、片手に持っていたコンビニ袋を、佐藤が磨き上げたばかりのデスクに無造作に放り投げた。
佐藤の手が止まる。彼は表情を変えることなく、少女を静かに見据えた。
「……田中君。入室の際はノックをするようにと、何度言えば理解するのですか」
「いちいち細かいんだよ。それよりほら、例のサプリ。入手するのに苦労したんだから」
襟華は悪びれもせず、ゲスト用チェアに座り込み、ブーツのまま足を組んだ。
彼女が顎でしゃくった袋の中には、ピンク色のパッケージが入っている。
『MIIKAプロデュース 完全天然由来・奇跡のダイエットサプリ』。
「ご苦労様です」
佐藤は引き出しからニトリル手袋を取り出して両手にはめると、ピンセットを使って袋をつまみ上げた。
「入手ルートは?」
「MIIKAの信者が集まるフリマアプリで高値落札。出品者の女子高生に接触して、現物取引で回収してきた。……あ、ちゃんと金は払ったよ? 経費で落としといて」
襟華はデスクに置かれていた佐藤専用のミネラルウォーターを勝手に開け、飲み干す。
佐藤はオフィスの奥にある隠し扉を開けた。壁面の書棚が音もなくスライドし、その奥に現れたのは、最新鋭の機材が揃ったラボだった。
彼は白衣を羽織り、サプリの錠剤を乳鉢で粉砕してガスクロマトグラフ質量分析計にかけた。
「パッケージの成分表示には、『植物発酵エキス』『コラーゲン』『ビタミンC』としか記載がありませんね」
「舐めた商売だよね。ラムネ菓子でも売ってんのかっての。で、肝機能障害になるようなヤバい成分が入ってんの?」
「ええ。だからこそ、混ぜ物があるのです」
数分後。
モニターに分析結果の波形が表示された。なだらかなベースラインの中に、特定の化学物質を示す高いピークが突出している。
佐藤はデータをプリントアウトし、淡々とした声で告げた。
「シブトラミン、そしてフェノールフタレインが検出されました」
「何それ?」
「前者は心血管系への重篤な副作用が認められ、現在は製造および販売が禁止されている医薬品成分です。後者は発がん性の疑いがある強力な下剤です」
「うわ、最悪じゃん」
襟華が顔をしかめ、腕組みをした。
「つまり、心臓に負担かけて食欲落として、発がん性のある下剤で無理やり中身を出させてたってこと?」
「ええ。確かに一時的に体重は減少するでしょう。しかし、その代償は内臓の不可逆的な破壊です。これを『完全天然由来』と謳って未成年に販売するのは、明白な薬機法違反および傷害に該当します」
佐藤は手袋を外し、専用の医療廃棄物ボックスに捨てた。
「物証は固まりました。あとは、告発のための手順を整えるだけです」
その時、襟華のスマートフォンが短い通知音を鳴らした。
彼女は画面を確認し、鼻で笑う。
「噂をすればなんとやら。ターゲットがライブ配信を始めたよ。『緊急! アンチの捏造について物申す!』だってさ」
「……状況を確認します」
佐藤はメインモニターに襟華の端末の画面をミラーリングした。
50インチの大画面に、MIIKAの顔が映し出される。強力なリアルタイムフィルターがかけられているのか、肌は不自然なほど白く滑らかで、目は顔の面積に対して異常に大きい。
『みんな~! MIIKAだよぉ~! 心配かけてごめんねぇ~』
画面右側を流れるコメント欄は、熱狂的な信者たちの擁護で埋め尽くされていた。
MIIKAは画面に向かって、演技がかった仕草で涙を拭うふりをした。
『なんかね、私のサプリのせいで病気になったとか言ってる人がいるんだけどぉ……正直、めっちゃ傷ついてます。私、みんなに綺麗になってほしくて一生懸命プロデュースしたのにぃ……』
彼女は一呼吸置き、カメラに向かって少し声を低くした。
『大体さぁ、その被害者ぶってる人? 私見たんだけど、アイコンがもうヤバいの。加工アプリ使ってるのに全然盛れてなくて、正直、努力不足っていうか……嫉妬深い人って、心まで醜くなっちゃうのかなぁ?』
その言葉が放たれた瞬間、オフィスの空気が張り詰めた。
襟華が、持っていた空のペットボトルを強く握りしめる。プラスチックがひしゃげる鈍い音が響く。
「……言いやがったな、この女」
襟華の声は低く震えていた。
「被害者の女の子、まだ高校生だろ? 入院して苦しんでる子に向かって、全世界に向けて努力不足だの何だのって……」
画面の中のMIIKAは、信者からの同調コメントを見てさらに口角を上げる。
『みんなも気をつけてね! ネガティブは伝染るから! 私のフォロワーのみんなは、心も顔も綺麗な勝ち組でいようね! あ、今なら概要欄のリンクからクーポンコード入力でサプリが20%オフだよ! 急げ~!』
画面に、高額な投げ銭のエフェクトが次々と弾ける。
誰かの健康を破壊し、その被害者を嘲笑い、それをエンターテインメントとして消費させることで、彼女は利益を得ている。
佐藤がマウスをクリックし、ウィンドウを閉じた。
MIIKAの不快な声と極彩色の画面が消え、モニターにはオフィスの静謐な景色が反射する。
「……十分です」
佐藤は手元のタブレットを操作し、スケジュールの確認を始めた。
「田中君。MIIKAの次のイベントスケジュールは?」
「明後日。新作コスメの発表記念で、大規模なインスタライブをやるって告知してた。場所は港区の会員制スタジオ」
「……結構。その配信のタイミングに合わせて、告発の最終フェーズを実行します」
「どうやるの?」
襟華が身を乗り出す。
佐藤はモニターに、複雑なネットワークの構成図を表示させた。
「MIIKAの裏の顔を完全に暴くには、彼女自身のデバイスから直接、業者との共謀を示すメッセージ履歴や裏帳簿のデータを抽出する必要があります。しかし、対象の端末は強固に保護されており、外部からの遠隔侵入は不可能です」
「じゃあ、どうすんの?」
「君が物理的に接触し、彼女のスマートフォンに私の作成したバックドアプログラムをインストールしてください」
「明後日のスタジオで?」
「いえ、ライブ当日は警戒が厳重すぎます。仕込みは今夜行います」
佐藤は引き出しから、厚手の上質な紙でできた1枚の招待状を取り出した。
「今夜、彼女は六本木のクラブで選ばれたインフルエンサー限定の非公開パーティーを開きます。そこに君を送り込みます」
「は? 私、フォロワーなんてリアルな友達の数十人しかいないんだけど」
「君の入場パスは用意してあります」
佐藤がキーボードを叩くと、モニターに1人の少女のプロフィールが表示された。
『ERI』。海外在住の帰国子女モデルという触れ込みで、フォロワー数は15万人を超えている。
「私が過去の運用テストで作成し、ボットネットワークを用いてフォロワーを水増ししていたダミーアカウントです。すでにMIIKAの運営するブランドアカウントと相互フォローの状態を構築してあります。君にはこの『ERI』として今夜のパーティーに潜入してもらいます」
襟華は画面を見つめ、フンと鼻を鳴らした。
そして立ち上がり、革ジャンを肩からずらして不敵に微笑む。
「了解。あの女のスマホ、中身全部抜き出してやるよ」
「時間厳守でお願いします。パーティーの開始は午後8時です。それまでに、指定したサロンでヘアメイクを完了させてください」
佐藤はそれ以上何も言わず、再びメインモニターに向き直り、無音のタイピングを再開した。
窓の外では、東京のアスファルトを叩くように、冷たい雨が降り続いていた。




