第17話 炎上する処刑人
その日、佐藤任三郎のオフィスは「孤城」と化していた。
「……おい、出てこいよ『炎上屋』!」
「ここが噂の『オメガ・リスクマネジメント』のアジトか~? 凸してみた~!」
「佐藤さーん! 説明責任果たしてくださいよー!」
窓の外、ビルを取り囲む路上から、拡声器の怒号と、下卑た笑い声が絶え間なく響いてくる。
カーテンの隙間から覗くと、スマホを掲げた数百人の群衆がひしめいていた。
迷惑系YouTuber、ネット探偵気取りの野次馬、そしてジャッジマン・タナカに扇動された「正義の暴徒」たちだ。
「……うっざ。マジでうざい」
田中襟華が、防音カーテンを乱暴に閉めた。
「あいつら、朝からずっとあそこにいるよ。ピザの配達も頼めないじゃん」
「警察は何をしているの?」
ソファで爪を噛んでいる松本愛永が苛立ちを露わにする。
「民事不介入よ」
デスクで六法全書を広げていた吉田彩が、氷のような声で答えた。
「敷地内に入ってくれば不法侵入で追い払えるけど、公道にいる限りは『表現の自由』の範囲内。……所轄の警察も、数が多すぎて手出しできないみたいね」
事態が急変したのは、昨夜のことだった。
ジャッジマン・タナカが新たな動画を公開したのだ。
タイトルは『【告発】正義のコンサルタントの正体は、自作自演の放火魔だった』。
動画の中でタナカは、佐藤の会社「オメガ・リスクマネジメント」の過去の案件――食品会社の異物混入や、芸能人の不祥事対応――を挙げ、それらがすべて「佐藤が裏で仕組んだ炎上」だと主張した。
『彼らは自分で火をつけて、それを消すことで報酬を得ている。……MIIKAの件もそうだ。彼女を罠に嵌め、社会的に抹殺することで、自分たちの名声を高めようとしたのだ』
もちろん、全てデタラメだ。
だが、タナカの巧みな語り口と、捏造された「内部告発メール」は、ネット民を信じ込ませるのに十分な説得力を持っていた。
結果、佐藤たちは「悪を裁くダークヒーロー」から一転、「金のために他人を破滅させる悪徳業者」として特定され、住所を晒され、こうして包囲されるに至ったのだ。
「……法的措置は?」
佐藤がコーヒーを飲みながら尋ねる。彼の表情だけは、変わらず平穏そのものだ。
「無理ね」
彩がパソコンの画面を指差した。
「プロバイダ責任制限法に基づく発信者情報開示請求をかけたわ。でも、タナカのサーバーはパナマとセーシェル諸島を経由してる。日本の裁判所の命令なんて、鼻紙にもならない」
「国際司法共助は?」
「手続きに半年はかかるわ。その頃には、私たちは社会的に消滅してる」
ピロン。
彩のPCに、挑発的なメールが届く。
差出人はタナカだ。
『弁護士先生、お疲れ様。日本の法律は遅れているねぇw もっと勉強したら?』
バンッ!
彩が拳でデスクを叩いた。
「……ナメやがって。この私が、法で手も足も出ないなんて……」
彼女のプライドはズタズタだ。
法という「最強の盾」が、国境という壁の前では無力化されている。
室内に、重苦しい沈黙が流れる。
閉塞感。
このままでは、精神的に摩耗し、チームが内側から崩壊しかねない。
「……ふむ」
佐藤はカップを置き、立ち上がった。
「状況は理解しました。……少し、空気を入れ替えましょう」
「空気って言っても、外はあの騒ぎだよ?」
襟華が窓を指差す。
「ええ。ですが、必要な物資の調達があります。……それに、煮詰まった頭では良いアイデアも浮かびません」
佐藤は視線を、部屋の隅に向けた。
そこには、白衣を着て顕微鏡を覗き込んでいた小林弥生がいた。
「……小林先生。出番ですよ」
「え? 私?」
弥生が顔を上げ、きょとんとする。
「デートの時間です。……付き合ってください」
午後2時。
佐藤と弥生は、オフィスの裏口から忍び出ていた。
二人とも変装済みだ。
佐藤は作業着にヘルメットを被り、配管工を装っている。
弥生は白衣を脱ぎ、パーカーのフードを目深に被り、黒縁メガネをかけている。
グレタ・ヴァイスが囮となって正面玄関でエンジンを吹かし、野次馬の注意を引きつけている隙に、二人は裏路地へと消えた。
タクシーを乗り継ぎ、辿り着いたのは文京区にある「小石川植物園」だった。
都心とは思えないほど豊かな緑が広がる、広大な植物園だ。
平日の昼間ということもあり、人の姿はまばらだ。
遠くから聞こえていた怒号の代わりに、鳥のさえずりと風の音が耳を撫でる。
「わあ……! 空気が美味しい!」
弥生がフードを取り、大きく伸びをした。
久しぶりに見る太陽の光に、白磁のような肌が輝く。
「社長、ここって薬草園ありますよね?」
「ええ。それが目的の一つですから」
佐藤は自動販売機で買った冷たいお茶を弥生に手渡した。
「タナカへの反撃には、科学の力が必要です。……強力な鎮静剤や、幻覚作用のあるガスの原料となる植物の種子やサンプルを、合法的に入手できる場所を確認しておきたかった」
「もう、仕事熱心なんだから」
弥生は苦笑しつつも、お茶を受け取った。
「でも、嬉しいです。……最近、ラボに缶詰だったから」
二人は並んで、木漏れ日の並木道を歩き始めた。
弥生は小柄だ。佐藤の肩ほどの高さしかない。
彼女は時折、道端の植物に駆け寄り、愛おしそうに観察する。
「あ、見てください社長! トリカブトの芽が出てますよ。……可愛いなぁ。この根っこに含まれるアコニチン、致死量はわずか数ミリグラムなんですよ」
「……君の『可愛い』の基準は独特ですね」
「そうですか? 毒も薬も、生きるための知恵じゃないですか。植物が自分を守るために作った成分を、私たちが少しだけ借りるんです」
弥生はトリカブトの葉を指先で優しく撫でた。
その横顔は、無邪気な少女のようでありながら、命のやり取りを知り尽くした専門家の冷徹さを秘めていた。
「ねえ、社長」
ふと、弥生が真面目な顔で尋ねた。
「私たち、勝てますか?」
「……弱気ですね」
「だって、相手は姿が見えないし、法律も通じない。……愛永さんがあんなに追い詰められてるの見てると、胸が痛くて」
彼女は胸元をギュッと握りしめた。
「私にできるのは、怪我を治すことと、薬を作ることだけ。……ネットの悪口を消す薬なんて、作れないもん」
佐藤は歩みを止めた。
風が吹き抜け、木々の葉がざわめく。
彼はしゃがみ込み、弥生と視線の高さを合わせた。
「……毒には、必ず解毒剤があります」
佐藤は静かに言った。
「タナカという毒が撒き散らされたなら、我々が解毒剤になればいい。……物理的に排除し、社会的に浄化するのです」
彼は弥生の頭に手を置いた。
「あなたの科学力は、我々の切り札です。自信を持ってください」
弥生は瞬きをし、そしてパッと花が咲くように笑った。
「……はい! 任せてください!」
彼女は握りこぶしを作った。
「タナカが泣いて謝るくらいの、特製ブレンド調合しちゃいますから!」
園内のベンチで一休みすることになった。
佐藤は近くの売店で買ってきた、ソフトクリームを二つ持っていた。
「……報酬の前払いです」
「やった! バニラだ!」
弥生はソフトクリームを受け取ると、ペロリと舐めた。
「ん~、冷たくて甘い! ……社長も食べてくださいよ。溶けちゃいますよ」
「ええ」
佐藤も一口食べた。
甘すぎる。だが、疲れた脳には悪くない。
二人は並んで座り、ぼんやりと池を眺めた。
水面にはアメンボが波紋を作り、亀が甲羅干しをしている。
オフィスを取り囲む暴徒たちの喧騒が、嘘のような静寂。
これが「日常」というものだ。
佐藤たちが命がけで守ろうとしている、ありふれた、しかし尊い時間。
「……ねえ、社長」
弥生がソフトクリームを食べながら言った。
「これが終わったら、みんなでまたご飯作りましょうね」
「もちろんです」
「今度は私がメニュー決めますからね。……栄養満点の薬膳フルコース!」
「……味の保証は?」
「良薬口に苦し、ですよ」
弥生が悪戯っぽく笑う。
その笑顔を見て、佐藤は確信した。
守らなければならない。
愛永の名誉も、チームの居場所も、そしてこの小さな主治医の笑顔も。
タナカごときに、これ以上好き勝手はさせない。
佐藤は立ち上がり、食べ終わったコーンの包み紙をゴミ箱に捨てた。
その動作は、汚物を処理するように冷徹で、無駄がなかった。
「……帰りましょう、小林先生」
彼はジャケットを羽織り直した。
「休息は終わりです。……反撃の準備を始めますよ」
「了解!」
弥生も立ち上がり、白衣を翻した。
その瞳には、もう迷いはない。
マッドサイエンティストの輝きが戻っていた。
二人は植物園を後にし、再び喧騒と悪意が渦巻く戦場へと戻っていく。
だが、その足取りは軽い。
見えない敵を引きずり出し、白日の下に晒すための「武器」と「覚悟」を、手に入れたのだから。




