第13話 社会的抹消
午後8時0分。
港区のイベントホールは、熱狂と不安が入り混じった異様な空気に包まれていた。
照明が落ち、スポットライトがステージ中央を照らす。
スモークの中から現れたのは、純白のドレスに身を包んだMIIKAだった。
「……みんな、来てくれてありがとう」
マイクを通した震える声が、会場に響く。
彼女の目は潤み、開演直前に目薬を差して仕込んだ一筋の涙が頬を伝っていた。
「今朝から、ネットで酷いこと書かれてて……正直、怖くて震えてました。でも、信じてくれるみんながいるから、私はここに立てています」
客席のファンたちが、一斉にピンク色のサイリウムを振る。
「MIIKAちゃん泣かないでー!」
「私たちは信じてるよ!」
「文春なんかに負けるな!」
同情と連帯感。
巧みな演出により、会場は「悲劇のヒロインを守ろう」という空気で一体化していた。
MIIKAは涙を拭う仕草を見せ、さらに畳み掛ける。
「記事に書かれてること、全部嘘です。私が反社と付き合ってるなんて……そんなわけないじゃん。私はただ、みんなに可愛くなってほしくて、サプリを作っただけなのに……っ」
完璧に計算されたパフォーマンスだ。
これまでの彼女なら、この涙の芝居で信者を繋ぎ止め、事態を乗り切れただろう。
しかし今夜、その自己保身のシナリオは覆される。
同時刻。佐藤任三郎のオフィス。
モニターの光だけが灯る空間で、佐藤は静かに画面を見つめていた。
彼の脳裏に、昨日の記憶がよぎる。
南青山の裏路地。田中襟華と二人で、カップルを装って会場周辺の下見をした時のことだ。
(……あの子もさ)
オフィスのキッチンで、佐藤が握った特上のマグロを頬張りながら、襟華は言った。
(被害者の、長谷川さんの娘さんも。……本当なら、こんなふうに笑ってたはずなんだよね)
普段は生意気で、口が悪くて、暴走気味な17歳。
だが、その根底にあるのは、他者の痛みへの共感と、義憤だ。
かつて、佐藤の妹が持っていたものと同じもの。
(だから、私、許せないんだ。他人の健康を奪って、自分だけ綺麗な嘘で固めてる奴が)
襟華の瞳に宿っていた怒りの炎。
それは、佐藤自身が心の奥底に封印してきた感情の鏡像でもあった。
佐藤は無表情のまま、キーボードに手を置く。
『ターゲット、弁解を開始しました。……白々しい演技ね』
インカムから、会場のVIP席に潜入している渡辺千尋の声が届く。
『こちらの準備はいつでも完了しているわ。……会場の温度、下げていいかしら?』
「ええ。お願いします」
佐藤は、襟華が仕込んだバックドアを通じて、あらかじめ構築しておいた配信ジャックのプログラムを起動させた。
実行キーを叩く音が、静寂のオフィスに響いた。
会場。
MIIKAが新曲を歌い出そうとした、その瞬間だった。
キィィィィィィィィィン――――!!!
不快なハウリング音が、スピーカーから爆音で鳴り響いた。
観客たちが耳を塞ぐ。
「きゃっ!?」
MIIKAも驚いて歌うのを止めた。
「な、なに? 音響さん!?」
ザザッ……ザザザッ……。
ステージ背後の巨大スクリーン――MIIKAのPVが流れていたはずの画面が、砂嵐のようなノイズに覆われる。
そして次の瞬間、映像が切り替わった。
同時に、ネット上の動画プラットフォームでライブ配信を見守っていた100万人の画面も、同じ映像へと強制的に書き換えられた。
映し出されたのは、どこかの控え室のような場所だ。
ソファに座っているのは、MIIKA本人。
だが、今ステージに立っている彼女とは顔の造形が決定的に違っていた。
肌の質感は荒れ、目の大きさは不自然なほど小さく、顎のラインも緩んでいる。スマートフォンに標準搭載されている加工フィルターが一切かかっていない、ありのままの現実の容貌。襟華がマンションの隠し金庫から奪取したストレージ内に残されていた、クラウドへアップロードされる前の無加工の原本動画だ。
そして、その画面の中の彼女の口から飛び出しているのは、耳を疑うような言葉だった。
『あー、マジだるい。……ねえ、今日のイベントの客、ブスばっかじゃない? 貧乏臭いし、匂いキツいんだけど』
会場の空気が凍りついた。
清純派で売っているはずのスクリーンの中のMIIKAは、電子タバコの煙を画面に向かって吹きかけながら吐き捨てている。
『つーかさ、あいつらホント単純で笑えるよね。「MIIKAちゃんみたいになりたいですぅ」とか言って、私が適当にプロデュースしたサプリ飲んで腹下して文句言ってんの。マジで滑稽』
『いいのよ、あいつらはただの養分なんだから。あいつらが必死に貯めた小遣いが、私の新しいバッグに変わるんだからさ。せいぜい貢がせなきゃね』
――信者は、ただの養分。
その言葉が、会場の巨大スピーカーから、そして全国100万台の端末から、極めてクリアな音質で再生された。
数千人のファンたちが、ペンライトを振る手を止め、呆然としたままステージ上のMIIKAを見上げる。
MIIKAの顔色は、纏っているドレスよりも青ざめていた。
「ち、違う! これ、私じゃない! 最近流行りのAIよ! 巧妙なフェイク動画よ!」
彼女は震える手でマイクを口元に寄せ、悲痛な声で叫んだ。
「信じないで! 誰かが私を陥れようとして、こんな悪質なものを……」
ザザッ。
佐藤の操作により、映像が再び切り替わる。
今度は、薄暗い繁華街の裏路地で、半グレ風の男と密会しているMIIKAの姿だ。
今夕のニュースで報じられたスクープ写真――その元となった、佐々木紘子のドローンが至近距離から記録していた、鮮明な音声付きの隠し撮り映像である。
『で、例のブツの売上は?』
男の低い声。
『はい、これ。……今月分の売上の一部と、資金洗浄の証明書です』
MIIKAが札束の詰まった封筒と、USBメモリを男に手渡している。
『へへっ、いい子だ。……しかし、お前のところの信者は本当にチョロいな。あんな違法な薬品が混ざった毒入りサプリを、有り難がって毎日飲むんだからな』
『ふふっ。馬鹿な子ほど可愛いですからね。適当に泣く絵文字でも投稿しておけば、いくらでも財布の紐を緩めますよ』
決定的な証拠の提示だった。
これまでの疑惑――サプリメントの危険性への認識、反社会的な繋がり、そして自身を盲信するファンへの蔑視――が、他ならぬ彼女本人の口から、偽造がないと証明されたデータとして白日の下に晒されたのだ。
「……あ、あ……」
MIIKAはヒールをよろめかせ、後ずさりした。
どれほど頭を回転させても、論理的な弁明が成立する余地は1ミリも残されていない。
その頃、電脳空間でも、計算され尽くした爆発が起きていた。
松本愛永がオフィスの別室から、複数台のモニターを前にSNSの世論を誘導していた。
「今よ。ハッシュタグ、一斉投下」
愛永の指示と同時に、あらかじめ準備されていたダミーアカウント群が、一斉に定義された投稿を開始した。
#MIIKAの真実
#ライブ配信で本性暴露
#ファンはただの養分
さらに、愛永は自身の公式アカウントでも、極めて巧妙な投稿を行った。
『今、あるライブ会場の配信から、信じられない情報が入ってきました。……やはり、夕方の私の番組で懸念していた通りだったようです。皆さん、どうか真実から目を逸らさないで。被害者の方々が報われますように』
国民的キャスターからの公式な誘導が、強烈な起爆剤となった。
ライブ配信のコメント欄は、もはや判読不可能な速度で罵詈雑言に塗り替えられていく。
『うわ、これマジか。完全に本人の声だろ』
『養分って言われた……私の全財産返してよ、死にたい』
『サプリ飲んで肝臓壊したの、確信犯じゃん。殺人未遂だろこれ』
直前まで彼女を擁護していた信者たちも、あまりに生々しい裏の顔に言葉を失い、やがてその感情は裏切られたことへの激烈な怒りへと反転していく。
盲信し、彼女のために金と時間を捧げていた分だけ、その反動は凄まじいものとなる。
再び、ライブ会場。
静まり返っていた数千人の客席の空気が、急激に熱を帯び、怒号へと変わっていく。
「ねえ……今の映像、本当なの?」
「私たちが養分って……ふざけないでよ!」
「嘘つき……よくも騙したな!」
その臨界点に達しようとする疑念に、最後の一滴を注ぐ者がいた。
VIP席の中央に座っていた渡辺千尋だ。
彼女は、あえて周囲の観客全員に聞こえるように、そして配信のマイクが拾う絶妙なボリュームで、声を上げた。
「騙されたッ!!」
その声は、絶望の淵に立たされた被害者の、悲痛な叫びとして会場に響き渡った。
千尋は立ち上がり、ステージの上で震えるMIIKAを真っ直ぐに指差した。
「私、あなたのこと信じてたのに! 今朝の記事は全部嘘だって、あなたがそう言ったから、ずっと信じてたのに!」
隙のない、迫真の演技。
「私の妹も、あなたのそのサプリを飲んで、今も病院のベッドで苦しんでるのよ! それなのに、裏で私たちを笑いものにしてたなんて……絶対に許せない!!」
千尋の叫びが、観客たちの心に掛けられていた最後のリミッターを完全に引き抜いた。
「ふざけんな、詐欺師!」
「人殺し!」
「謝れ、この嘘つき女!」
罵声は圧倒的な音量の雪崩となって増幅し、ステージ上のMIIKAへと降り注ぐ。
ピンク色のペンライトが次々と床に叩きつけられ、中には怒りに任せてステージに向かって物を投げつける者まで現れた。
「ひっ……! や、やめて……!」
MIIKAは悲鳴を上げ、無様にステージへへたり込んだ。
数分前までの華やかなステージは、一瞬にして数千人の憎悪が渦巻く危険な空間へと変貌を遂げた。
背後のスクリーンには、未だに彼女の本音がループ再生されている。
オフィスの指令室。
佐藤は手元のタブレットでトラフィックの急激な推移と、会場の騒乱状態をデータとして客観的に処理し、次の手順への移行を準備していた。
ステージ上のMIIKAは、震える手でマイクを握りしめ、血走った目で舞台袖を睨みつけた。
「……うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」
MIIKAが、マイクが割れるほどの音量で絶叫した。
「私が何したっていうのよ! あんたたちが勝手に私を崇めて、勝手に金を出してきたんじゃない! 私は悪くない! 悪いのは……私を妬んでこんなものを作るアンチよ!」
彼女は舞台袖に向かって、命令を下した。
「おい! スタッフ! 何してんのよ! こいつら全員つまみ出して! 暴れてる奴らは、全員ボコボコにして黙らせなさいよ!!」
観客に対する物理的な暴力を公の場で指示したその瞬間、彼女は反社会的な加害者へと不可逆的な転落を遂げた。
舞台袖の暗がりから、彼女の命令に応じるように、黒スーツを着た男たちがのっそりと現れる。
彼らの手には、鈍く光る特殊警棒が握られていた。
客席の最前列から本物の恐怖による悲鳴が上がる。
会場が、真のパニックに陥ろうとしていた。
だが、佐藤はモニター越しにその事態を正確に予測し、一切動じない。
彼はインカムのマイクに向かって、静かに指示を飛ばした。
「フェーズ2、完了。……これよりフェーズ3へ移行します。現場待機中のグレタ、小林先生。対象の物理的な確保を許可します」
会場の暗闇の奥底で、二つの影が音もなく動いた。




