第11話 静かなる排除
決戦の2時間前。午後6時。
佐藤任三郎のオフィス兼アジトには、奇妙な香りが充満していた。
火薬やオイルの匂いではない。焦がしバターと、爽やかなハーブの香りだ。
「……ねえ、社長。これから戦争に行くって時に、なんでキッチンに立ってるの?」
田中襟華が、PCのモニター越しに呆れた声を上げる。彼女はすでに現場近くのワゴン車で待機中だ。
「腹が減っては戦はできぬ、と言います。それに、私の精神統一です」
佐藤はエプロン姿で、手元の食材と向き合っていた。
今夜のメインディッシュは『鰆のムニエル 菜の花のソース』。
春を告げる魚、鰆。脂の乗った身は柔らかく、崩れやすい。扱うには外科医のような繊細さが必要だ。
佐藤は切り身に塩を振り、浮き出てきた水分をペーパーで丁寧に拭き取る。このひと手間が、魚の臭みを消し、旨味を凝縮させる。
薄力粉を薄く、均一に叩く。
フライパンにオリーブオイルと無塩バターを熱する。バターが泡立ち、ナッツのような香ばしい香りが立ち始めた瞬間、皮目を下にして魚を入れる。
ジュワアア……ッ。
小気味よい音が、張り詰めた室内の空気を和らげる。
身はふっくらと、皮はパリッと。焼き上がった鰆を皿に移し、そのフライパンを洗わずにソースを作る。
魚の旨味が残ったバターに、白ワインを注いでフランベ。アルコールを飛ばし、そこに刻んだ菜の花を加える。
菜の花のほろ苦さと、バターのコク。隠し味に粒マスタードとレモン汁を数滴。
鮮やかなグリーンのソースが完成した。
付け合わせは『新じゃがのポテトサラダ』。
皮が薄い新じゃがを、あえて皮付きのまま蒸し、熱いうちに粗く潰す。
マヨネーズは控えめに。代わりに、炒めたベーコンの脂と、ワインビネガー、そしてたっぷりのディルを混ぜ込む。
ねっとりとした食感ではなく、ホクホクとした大人のポテトサラダだ。
そして、琥珀色に澄み渡った『コンソメスープ』。
牛スネ肉と香味野菜を数時間煮込み、卵白でアクを吸着させながら濾した、液体の宝石。
「……完成です」
佐藤は料理をテーブルに並べた。
そこに、オフィス待機組の渡辺千尋、佐々木紘子、そして拾ったばかりの子猫「ダシ」が集まってくる。
ペアリングに選んだのは、ニュージーランド産の『ソーヴィニヨン・ブラン』。
このワイン特有の、芝生やハーブを思わせる青い香りが、菜の花の苦味と完璧に同調するはずだ。
「いただきまーす」
千尋がナイフを入れる。
パリッ。皮が弾け、中からジューシーな白身が現れる。
ソースを絡めて口に運ぶ。
「……んんッ」
千尋が目を閉じて溜息をついた。
「悔しいけど、最高ね。鰆の脂っこさを、菜の花の苦味とワインの酸味が洗い流してくれる。……これなら何人でも殺せそう」
「物騒な食レポはやめてください」
佐藤は苦笑しながら、子猫のダシに温めたミルクを与える。
紘子もワインを揺らしながら、新じゃがを口にした。
「このポテサラ、食感が楽しいわ。皮の香ばしさがアクセントになってる。……ねえ任三郎、これ食べ終わったら、MIIKAの資産もこのじゃがいもみたいに潰していいのよね?」
「ええ。マッシュポテトにしてください」
完璧な料理とワイン。
それは、これから始まる残酷なショーへの、優雅な序曲だった。
午後7時45分。
MIIKAのライブ会場となる港区のイベントホール裏手。
佐藤の料理で英気を養った「現場班」が動いていた。
路地裏の搬入口付近には、MIIKAが雇った私服警備員が2名、配置されていた。
彼らは表向き警備会社所属だが、その正体は半グレ集団の構成員だ。耳にはインカム、懐には特殊警棒を隠し持っている。
「……邪魔ね」
ビルの屋上から双眼鏡で監視していた小林弥生が呟く。
「あの位置だと、MIIKAが逃走する時に車を横付けできない。排除しないと」
「了解」
隣に立つグレタ・ヴァイスが、革の手袋を締め直した。
「私がやる。3秒だ」
「待って。暴れたら騒ぎになる。……私の新作、試させてよ」
弥生は白衣のポケットから、香水瓶のようなスプレーを取り出した。
「『スリーピング・ビューティー Ver.2.0』。即効性のガス麻酔よ。吸い込めば一瞬で夢の中」
弥生とグレタは、暗闇に紛れて地上へ降りた。
弥生は白衣を脱ぎ捨て、派手なドレス姿になる。髪を乱し、千鳥足で歩き始めた。
「う~ん、飲みすぎちゃったぁ……」
酔っ払ったキャバ嬢の演技だ。
警備員たちが気づく。
「おい姉ちゃん、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
「えぇ~? ここドコォ~? タクシー呼んでぇ~」
弥生は男の一人に抱きついた。
「おい、離れろ!」
男が弥生を引き剥がそうとした瞬間。
プシュッ。
弥生の手元のスプレーから、無色の霧が噴射された。
男の顔面に直撃する。
「う、あ……?」
男の瞳孔が開き、白目を剥く。膝から崩れ落ちる――その体を、弥生が支えるふりをして抱きとめた。
「おやすみ、王子様」
「なっ、何をした!」
もう一人の男が警棒を抜こうとする。
だが、遅い。
背後の闇から、漆黒の影――グレタが疾走していた。
音もなく間合いを詰め、男の首筋に手刀を叩き込む。
ドサッ。
男は声も上げずに気絶した。
グレタは倒れた男の襟首を掴み、ゴミ集積場の陰へと引きずる。
「タイム、2.8秒。……悪くない」
「私の薬のおかげでしょ?」
弥生も男を引きずり込み、二人の手足を結束バンドで拘束した。
「バイタル正常。朝まで起きないわ」
午後7時50分。
警備員を排除し、脱出ルートを確保した直後だった。
表通りから、赤色灯の光が近づいてきた。
パトカーだ。それも2台。
サイレンは鳴らしていないが、明らかにこの会場を目指している。
『トラブル発生』
インカムから佐藤の声が響く。
『警察です。MIIKA側がネットの書き込みにビビって、念のために巡回を要請したようです』
「チッ、間の悪い……」
グレタが舌打ちする。
警官が会場の周囲を固めれば、脱出時の障害になるし、何より佐藤たちの「仕事」がやりにくくなる。
パトカーが会場の入り口に停車した。
制服警官が数名降りてくる。
「こちら、通報のあったイベント会場です。不審者がいないか確認を……」
その時。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が響き、警官たちの前に一人の女性が立ちはだかった。
吉田彩だ。
イタリア製のパンツスーツに、冷ややかな眼鏡。その立ち姿だけで、警官たちが気圧されるほどの威圧感を放っている。
「ご苦労様です。……何か事件でも?」
彩が冷静に問いかける。
「あ、いえ。イベント主催者から警備要請がありまして。あなたは?」
若い警官が尋ねる。
彩は名刺を一枚、スッと差し出した。
『ミネルヴァ法律事務所 パートナー弁護士 吉田 彩』
「主催者代理人の吉田です」
嘘ではない。MIIKAのサプリ被害者の会の代理人だが、ここでは曖昧にぼかす。
「現在、会場内では厳正なリハーサルが行われています。制服の警察官が立ち入ると、出演者やスタッフに動揺が走ります。……営業妨害で訴えることになりますが、よろしいですか?」
「えっ、い、いや、我々はただ警備を……」
「警備? 民事不介入の原則をご存知ない?」
彩は眼鏡の位置を直しながら、畳み掛ける。
「現在、具体的な事件は発生していません。単なるネット上の噂レベルで公権力が私有地に立ち入るのは、職権乱用です。所轄の署長にお電話してもよろしいんですよ?」
彼女はスマホを取り出し、あえて画面を見せた。
画面には、本当に警視庁の幹部の名前が表示されている。
警官たちが顔を見合わせ、狼狽する。
弁護士、それも大手事務所のパートナーが出てくるとは想定外だったのだろう。
「……わ、わかりました。では、我々は周辺の巡回に留めます」
「ええ、それが賢明です。……お引き取りを」
彩は優雅に手を振った。
パトカーがすごすごと去っていくのを見届け、彩はインカムに指を当てた。
「ブルー、追い払ったわ。……今のうちに始めなさい」
午後7時55分。
オフィスのアジト。
佐藤は最後の鰆の一切れを口に運び、ワインを飲み干した。
皿は空になった。
彼はナプキンで口を拭い、立ち上がった。
その瞳から、料理人の穏やかさは消え失せ、冷徹な処刑人の光が宿る。
「……ご馳走様でした。さて」
佐藤はメインモニターの前に座り、キーボードに手を置いた。
画面には、MIIKAのライブ配信のカウントダウンが表示されている。
視聴者数、5万人。
コメント欄は、彼女を崇拝する言葉と、愛永が撒いた種による疑念の言葉が入り乱れ、カオスの様相を呈している。
「障害はすべて排除されました」
佐藤はマイクに向かって告げた。
「これより作戦『フォール・ダウン』を開始します。……MIIKAの人生を、損切りします」
Enterキーが叩かれる。
世界が反転する音がした。




