第10話 インタビューの裏側
決戦の日の朝。東京の空は、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
午前8時00分。
全国のお茶の間に、あの馴染み深いタイトルコールが響く。
『おはようございます! "愛永のモーニング・カフェ"の時間です!』
画面の中で、松本愛永は春らしいパステルイエローのワンピースに身を包み、完璧な「国民的お姉さん」の笑顔を振りまいていた。
佐藤任三郎は、オフィスの巨大モニターでその放送を見守っていた。手元には、淹れたてのコーヒー。豆はグアテマラ産のブルーレイク。酸味とコクのバランスが完璧だ。
「さて、今日の特集は……少しショッキングな話題です」
愛永の声のトーンが、ふっと下がる。
スタジオの照明が少し暗くなり、パネルが出された。タイトルは『インフルエンサー信仰の落とし穴~その"いいね"は安全ですか?~』。
「最近、SNSで人気のインフルエンサーが紹介する商品を巡って、健康被害や金銭トラブルが急増しているのをご存知でしょうか?」
愛永は深刻な表情でカメラを見据えた。
「"あの人が勧めるから大丈夫"……その盲目的な信頼が、あなたの人生を壊すかもしれません」
画面には、モザイクのかかった被害者の証言映像が流れる。
もちろん、これは吉田彩が手配し、渡辺千尋が演技指導をした「仕込み」の映像だ。だが、視聴者の不安を煽るには十分すぎるリアリティがあった。
「実は、某人気インフルエンサーの背後に、反社会的な組織が見え隠れするという噂も……」
愛永は決して「MIIKA」の名前は出さない。だが、背景に映るシルエットや、話題にするサプリの特徴は、明らかにMIIKAを指していた。
SNSのタイムラインがざわつき始める。
『これってMIIKAのことじゃね?』
『そういえば最近、MIIKAのサプリで具合悪いって投稿見たかも』
『愛永ちゃんが言うなら本当かも……』
疑念の種は蒔かれた。
佐藤は満足げに頷き、コーヒーを一口啜った。
「完璧な仕事だ。これで空気は変わる」
彼はインカムのスイッチを入れた。
「フェーズ1、完了。……これよりフェーズ2へ移行します。現場の千尋さん、聞こえますか?」
『ええ、聞こえてるわよ。……うるさいハエがブンブン飛んでるけどね』
渡辺千尋は、港区にあるMIIKAの所属事務所の応接室にいた。
彼女は今日、「美容雑誌のライター」という肩書きで、MIIKAへの独占インタビューを取り付けていた。
目の前には、不機嫌そうにスマホをいじっているMIIKAがいる。
MIIKAの周囲には、黒スーツの護衛が二人。さらに部屋の外にも気配がある。
「……で? 取材って何分かかんの? 私、この後エステなんだけど」
MIIKAは千尋を見ようともせず、ガムを噛みながら言った。今朝の愛永の番組を見たのか、あるいは週刊誌の直撃取材を受けたのか、明らかにピリピリしている。
「30分ほどですわ、MIIKAさん」
千尋は営業用の笑みを浮かべ、ボイスレコーダーをテーブルに置いた。
「今朝のニュース、拝見しました。……大変ですね、あることないこと書かれて」
MIIKAの手が止まる。
「は? 何それ。私が悪いって言いたいの?」
「まさか! むしろ逆です」
千尋は身を乗り出した。その瞳が、妖しく光る。
「成功者は常に足を引っ張られるものです。……私は今日、あなたの"潔白"と、あの美貌の裏にある"真実の努力"を記事にしたいんです。アンチを黙らせるような、決定的な記事を」
承認欲求の塊であるMIIKAにとって、"自分を肯定してくれるメディア"は麻薬だ。
MIIKAの表情が少し和らぐ。
「……まあ、わかってんじゃん。そうよ、みんな私のこと妬んでるだけなの」
「ええ、ええ。特にその肌! 近くで見ると本当に陶器のよう。……一体どんなケアを?」
千尋はMIIKAを持ち上げ、話題を美容へと誘導する。
その隙に、彼女はテーブルの下で、ハイヒールの爪先で床をコツコツと叩いた。
モールス信号だ。
『侵入開始』
その頃。事務所ビルの裏口。
清掃業者のワゴン車が停まっていた。
運転席には、作業着を着たグレタ・ヴァイス。そして荷台から降りてきたのは、同じく作業着姿の田中襟華だ。
「行ってくる。……3分で終わらせる」
襟華はマスクを深く被り、IDカードをかざした。佐々木紘子が用意した、精巧な偽造カードだ。
ピッ。
緑色のランプが点灯し、電子ロックが解除される。
「クリア。……侵入成功」
襟華は廊下を音もなく進む。
目指すは、MIIKAが普段使っている「第2控え室」。そこに、彼女が裏取引に使っている専用のタブレット端末があるはずだ。
今日のミッションは、その端末に佐藤特製のバックドア・プログラムを仕込むこと。
『右よ、襟華』
インカムから紘子の声が響く。
紘子はビルの上空に飛ばしたドローンから、赤外線センサーと窓越しの映像を使って内部を透視していた。
『角を曲がった先に警備員が一人。……今、スマホでゲームしてるわ。死角は左側の観葉植物の裏』
「了解」
襟華は息を殺し、忍者のように床を滑った。
警備員の男は、スマホ画面に夢中で、背後を通り抜ける小柄な影に気づかない。
第2控え室の前。
襟華はポケットから特殊なデバイスを取り出し、鍵穴に差し込んだ。小林弥生が開発した、電子ロックを一時的に麻痺させる高電圧パルス発生装置だ。
ジジッ……。
微かな音と共に、ロックが開く。
襟華は室内に滑り込み、タブレットを探した。
あった。メイク台の上に、無造作に置かれている。
「セキュリティ甘すぎ。……これなら1分でいける」
襟華はケーブルを繋ぎ、ハッキングを開始した。
だが、その時。
『襟華! MIIKAが動いたわ!』
千尋の焦った声がインカムに飛び込んできた。
応接室。
MIIKAが突然立ち上がっていた。
「あー、ちょっとトイレ行ってくる。メイク直したいし」
「あ、MIIKAさん! まだお話が……」
千尋が引き止めようとするが、MIIKAは聞く耳を持たない。
「うるさいな。すぐ戻るってば」
MIIKAは護衛一人を連れて、部屋を出てしまった。向かう先はトイレ――ではなく、第2控え室の方向だ。
『やばい、そっち行くよ!』
『タッチの差で鉢合わせるわ』
千尋と紘子の警告が重なる。
控え室の中、襟華は冷や汗を流した。
データの転送ゲージはまだ60%。今ケーブルを抜けば、プログラムが破損して全てが水の泡になる。
足音が近づいてくる。ヒールの音だ。
カツ、カツ、カツ……。
ドアノブに手がかけられる音がする。
(終わった……!?)
襟華が絶望しかけた、その瞬間。
ドォォォォン!!
凄まじい轟音が響き、ビル全体が揺れた。
「キャアッ!?」
廊下でMIIKAの悲鳴が聞こえる。
『な、何事!?』佐藤の声。
『すまない、手が滑った』
インカムからグレタの無機質な声が聞こえた。
『駐車場のゴミ箱に、弥生の作った発煙筒を投げ込んだ。……少し火薬量が多かったかもしれない』
窓の外を見ると、裏口付近から猛烈な黒煙が上がっている。
火災報知器がジリジリと鳴り響き、スプリンクラーが作動した。
「火事だ! 避難しろ!」
廊下がパニックになる。
MIIKAは護衛に抱えられるようにして、出口へと走っていった。
「……ナイス、サイボーグ姉ちゃん」
襟華は震える手でタブレットからケーブルを抜いた。
転送完了。100%。
彼女は窓を開け、配管を伝って地上へと脱出した。
下では、平然とした顔で「火事ですか? 大変ですね」と野次馬に混ざっているグレタが待っていた。
作戦成功。
チームは一度解散し、夜のライブ配信ジャックに向けてそれぞれの配置につくことになった。
佐藤は一人、オフィスへの帰路についていた。
雨が降り始めていた。
このチームが集まるときは、なぜかいつも雨だ。
彼は傘を差し、濡れたアスファルトを歩く。靴に泥が跳ねないよう、慎重に。
オフィスの入るビルの裏手。
ゴミ捨て場の横を通った時、微かな音が聞こえた。
「……ミャア」
ノイズだ。
佐藤は足を止めた。
彼の世界において、予測不可能な音はすべてノイズであり、排除すべき対象だ。
だが、その音はあまりにも弱々しく、消え入りそうだった。
彼はため息をつき、音の元へと近づいた。
ダンボール箱の中に、それはいた。
泥にまみれた、小さな毛玉。
黒猫の子猫だ。
雨に打たれ、体温を奪われ、震えている。
母猫の姿はない。カラスにでも狙われれば、一巻の終わりだろう。
「……非合理的ですね」
佐藤は独り言ちた。
ここでこの生物を拾うメリットは何もない。
手間がかかる。金がかかる。部屋が汚れる。アレルギーのリスクがある。そして何より、いつか死ぬ時に精神的ダメージが発生する。
リスク管理の観点から言えば、見捨てるのが正解だ。
佐藤は背を向け、歩き出した。
一歩、二歩。
「……ミャ……」
背後で、必死に命を繋ぎ止めようとする声がした。
その声が、10年前の記憶と重なる。
――お兄ちゃん、助けて。
ネットの悪意という冷たい雨に打たれ、誰にも助けてもらえずに震えていた妹の声と。
「……チッ」
佐藤は舌打ちをし、踵を返した。
彼はダンボールの前にしゃがみ込むと、愛用の高級ハンカチを取り出した。
躊躇なく泥だらけの子猫を包み込み、抱き上げる。
白いシルクが泥で汚れていく。
「……今回だけですよ。特別案件です」
子猫は佐藤の体温を感じ、彼の胸元に頭を擦り付けた。
オフィスに戻った佐藤は、戦場のような忙しさに追われることになった。
MIIKAへのサイバー攻撃の準備ではない。
子猫のケアだ。
「……温度38度。成分調整、完了」
キッチンで、佐藤は真剣な眼差しで哺乳瓶を振っていた。
小林弥生に電話して聞き出した、子猫用ミルクの完璧なレシピだ。
彼はバスルームで子猫の泥を洗い流し、段ボールとタオルで即席のベッドを作った。
綺麗になった子猫は、驚くほど美しい黒い毛並みをしていた。
金色の瞳が、じっと佐藤を見つめている。
「……君も、世界から損切りされかけた側ですか」
佐藤は哺乳瓶をくわえさせた。子猫は必死に吸い付く。
その生命力の塊のような温かさが、佐藤の冷え切った指先に伝わってくる。
ピロン。
スマホが鳴った。
グループチャットに、メンバーからの報告が入る。
『MIIKAのタブレット、完全掌握。いつでもいけるよ(襟華)』
『会場の空気、仕込み完了。信者たちも動揺し始めてるわ(千尋)』
『退路確保済み。エンジンは暖めてある(グレタ)』
『法的な手続き、準備完了(彩)』
佐藤は子猫をベッドに寝かしつけると、パソコンの前に座った。
モニターのブルーライトが、彼の顔を照らす。
その膝の上には、満腹になって眠る黒猫がいる。
カオスだ。
完璧主義者の彼のデスクに、予測不可能な生物がいる。
だが不思議と、不快ではなかった。
「……名前が必要ですね」
佐藤は眠る子猫の頭を指先で撫でた。
拾った命。計算外の変数。
だが、この変数が、もしかしたらこの殺伐とした復讐劇における、唯一の救いになるかもしれない。
「『黒』……いえ、厨二病すぎますね。……『収益』? 即物的すぎる」
彼は悩み、そしてふと、キッチンの出汁巻き卵を見た。
黄色い卵。金色の瞳。
「……『出汁』」
子猫の耳がピクリと動いた。
「採用です。君の名前は今日から『ダシ』です」
ネーミングセンスは壊滅的だったが、佐藤は満足げに頷いた。
彼はキーボードに手を置いた。
膝の上の温もりを感じながら、冷徹な処刑人の顔に戻る。
「さて、ダシ君。……害虫駆除の時間です。見ていてください」
佐藤はEnterキーを叩いた。
MIIKAのライブ配信開始まで、あと1時間。
フォロワー100万人の虚構が崩れ去る、カウントダウンが始まった。




