(八)対決
健児は機会を伺っていた。そしてある金曜日の昼食時、木暮は健児を孤立させるため、また英子と美子を引き連れて昼ご飯を食べに行った。健児は木暮が出て行ったのを見計らうと、そっとメモを木暮のデスクの上に置いた。
木暮へ
次の日曜日の三時にアークガーデンに来い。
坂本健児
アークガーデンは、会社のビルから六本木方面に歩いて徒歩三分くらいのところにある、アークヒルズの丘である。カラヤン広場のサントリーホールとテレビ局放送センターの間の、扇形に広がった階段を上って行くと、閑静で緑豊かな広場がいくつか散在している。都会のなかのオアシスといった雰囲気で、OLやサラリーマンの憩いの場所になっている。
健児がアークガーデンを選んだ理由は、この場所が隔絶された場所だったからである。休日になると、アークヒルズを訪れるひと達は、噴水の清らかな音が流れるカラヤン広場には行くものの、アークガーデンまで登って来ることは稀であった。この場所であれば、対決するのにうってつけの場所だと健児は思ったのである。折しも、その日の午後は天候が悪く、アークガーデンに生えている珍しい植物を薙ぎ倒さんばかりの、疾風が吹き荒れていた。
木暮と仲たがいをする前は、岩脇や鈴本らと一緒にコンビニで弁当を買ってアークガーデンに行き、四人で馬鹿話しをしながらよく昼食を食べたものだった。あの頃の健児は、まさかこの場所が木暮との対決の場所になるとは夢にも思っていなかった。
健児は二時半にアークガーデンに着いて、レンガが敷き詰められている広場のベンチに座りながら、一年前の情景を思い出していた。ふと、右の手のひらを見てみると微かに震えている。
―怖いのか。だが、この日のために十分訓練を積んできた。勝負は一瞬で決まる。大丈夫だ、イメージ通りにやればきっと上手くいくはずだ―
健児は大きく深呼吸をした。そして、震えている手をもう片方の手で包むように固く握りしめた。
午後三時を少し過ぎた頃、木暮が肩を怒らせながらやって来た。左右の目の大きさが異なり、頭が歪で芋のような顔貌をしている。いかにも間の抜けたなりをしながら、木暮は健児に向ってのそのそと近づいて来る。健児の五メートル前のところで、木暮は仁王立ちになって言葉を発した。
「こんな所に俺を呼び出してなんだ」
「お前を黙らせてやろうとしているんだ」
「お前馬鹿か、俺に勝てるわけないだろ」
「うるせえよ」
「死ぬぞお前」
「かかってこいよ、ビビってんのかお前」
「じゃあ、やってやるよ」
木暮は右手を振り上げてカウンターを健児の顔にめがけて打ってきた。
健児はカウンターを右手の内側で受け流した。木暮の拳圧が健児の頬に伝播する。
木暮の上半身が前のめりにバランスを崩した。と同時に健児は裏に返した左拳を木暮の顎にめがけて突き上げた。健児の右後足に地面からの圧がかかり、左前足のかかとが地面すれすれに前方へ進んで行く。バンという音がする。猛進した健児の体の体重を支えるため、杭を打つように前足が震脚を起こしたのだ。
健児の左拳が木暮の顎をくじいた(鑚拳)。木暮の顔が蒼空を仰ぐ。
すかさず健児は右拳を木暮の腹部にめがけ中段突きをはなった。右拳と同時に左前足が木暮の方に半歩踏み出す。またバンという音がする。今度は右後足に震脚が起こった。
健児の右拳が木暮の腹部を貫いた(崩拳)。
木暮は顎をくじいているため言葉を発することができない。さらに腹部に強打を受けたため腹をおさえ「ウ~、ウ~」という喚き声を発しながら、前のめりに地面に崩れ落ちた。
健児は少しの間、崩れ落ちた木暮の姿を見つめていたが、しばらく動けないことを確認すると、木暮を背にゆっくりとアークガーデンの狭い階段を降りて行った。
翌日、会社に出勤した健児は木暮が居ないことに気がついた。木暮のことを佐々に聞いてみると、怪我をしたのでしばらく休みたいという連絡があったらしい。
健児はその後、公認会計士講座が応用期に入ったため派遣の仕事を辞めた。
木暮が業務怠慢で派遣を解雇されたことを岩脇から聞いたのは、健児が会社を去ってから半年後のことである。
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