(一)失業
焦燥、嫌悪、悲嘆といった思慮に駆られながら、健児は赤坂の狭い路地をひたすら歩いて目的地に向かって行った。最近は不眠症にも悩まされていた。別に失恋したのではない、仕事に失敗したのでもない。一ヶ月前、健児は大手の通信会社を退職してしまった。
会社に不満があって辞めたのではなかった。何か目的があって辞めたのではなかった。転勤して来た直属の課長から人事の嫌がらせを受け、精神的に追い込まれた健児は衝動的に会社に辞表を提出してしまったのである。
―椎野、あいつさえ来なければ―
健児は自分を退職に追いやった、卑劣な課長のことを思い出していた。
会社を退職した後、健児は転職を試みたが、バブル経済崩壊後の大不況で就職先を見つけることはできなかった。一流大学の新卒でさえ就職先がないという時勢、専門的な実務経験や知識があるわけでもない三十路にかかろうとする者など、採用してくれる会社はなかったのである。そこで健児は不況の間、時間的制約のない派遣の仕事をしながら資格の勉強をして、景気が上向いた頃に転職することを思いついた。今日は、その派遣先の会社の面接日である。
派遣の仕事については、健児はなんとなく理解していた。姉が派遣の仕事をしていたし、勤めていた会社の職場でも女性の派遣社員を雇っていたからである。しかし、まさか健児自身が派遣をやることになるとは想像もしていないことだった。
赤坂駅前の通りから細く曲がりくねった迂路を通り、高級住宅街を抜けると首都高に出る。首都高の反対側のコーヒーショップを左に曲がり、桜坂を登ったところに目的地のビルがあった。派遣先の会社は、そのビルの二階に事業を構えている外資系の会社である。日本に進出したばかりのその会社は、音楽CDを販売するだけのまだ名の知れない小規模な会社だった。健児はビルの地下から薄暗い階段を上った。
二階の正面の壁には、色とりどりの蛍光灯で象られた社名が宙に浮かんでいるように煌めいている。蛍光灯の前に受付カウンターが設置されていて、あどけない若い女性が不愛想に立っている。歩み寄る健児に気づいても微笑さえ浮かべない。たぶんこの子も派遣社員なのだろうと健児は思った。
「派遣の仕事で面接に参りました坂本健児と申します」
健児は謙虚に尋ねた。すると受付の女性は急に笑顔になって、
「はい、お待ちしておりました。いま担当者に連絡します」
と愛想よく話し始めた。
すぐに経理担当者がやって来た。経理担当者は野村という派遣会社に取次ぎをしている者のようだった。健児は面接を受けるため応接室に通された。
応接室は机とソファが置いてあるだけで、装飾品らしきものはなにもない殺風景な狭い部屋だった。配線コードが床にむき出しになっていて、いかにも設立したばかりの仮の事務所という佇まいである。
野村はソファに座ると、派遣会社から送られてきた書類に目を通して健児に話しかけた。面接と言っても形式だけの顔見せであって、健児の詳細な履歴や経歴は、すでに派遣会社から担当者に伝えられて説明されていたのである。
「坂本健児さんですね、経理担当の野村です。いま公認会計士試験の勉強をしているそうで」
「はい、まだ基礎期なので仕事をしながら勉強しようと思っています」
「では早速職場を案内するので一緒に来てください」
健児は野村さんとともに経理の職場に向かった。
職場でまず、仕入担当の責任者である佐々《ささ》という女性を紹介された。責任者と言ってもまだ二十代後半で、佐々の部下も専門学校を卒業したばかりの若い女性だった。
職場はひとフロアに全ての組織が集約されている。入口が受付、受付を通ると真中が派遣社員の仕事場になっている。その右側に三つの役員室とそれぞれの秘書席。左側にはパーテーションでしきられた経理課と総務課があった。経理課と総務課の奥は個室になっていて、そこが社長室のようだった。社長室のドアにホワイトボードがかけられている。
『社長不在……Swimming』
大手の通信会社に勤めていた健児には信じられない光景だった。
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